ベティの虜
注意書き:一見昔の日本ですが、架空の舞台です。制度等は物語に都合よく変えています。
ダークではないと思いますが、シリアスです。苦手な方はご注意ください。


 
 
 雨が、闇に溶けていく。
 不揃いの、醜い鳥の羽根を連想させる歪な形をした葉が重なり合う枝の下、高貴はぬかるんだ地面に両手をつき、泥の中へ顔を埋めるようにして、胃液が混ざった吐瀉物をそこへぶちまけ、幾度も呻いた。すえた匂いを発する吐瀉物の飛沫が頬にはねたが、木の葉の隙間を狙って落ちてくる雨がすぐさま洗い流す。
 胃の痙攣がおさまるまで、高貴は嘔吐し続けた。木の葉を叩く凄まじい雨の音が遠くなった代わりに、自分が先程、軍から支給された小銃で撃ち殺した敵兵の驚いた顔、その時響いた腹にずんとくる銃声、細い銃口の先から一瞬立ちのぼった白い煙などの記憶が圧倒的な勢いをもってまざまざと蘇った。弾丸が眉間にめり込んた直後、血や肉片を四方へ飛ばして顔を破裂させた敵兵の凄惨な姿が、瞼の裏に色濃く焼き付いている。頭部の一部を失い、ゆっくりと後方へ倒れる敵兵の肉体。その光景を生々しく思い出した瞬間、ようやくおさまったはずの嘔吐感が再び強まってしまい、高貴は吐瀉物と雨水が混ざった泥土に額を押し付けた。
 初めて人を殺したという衝撃。戦争において、部隊の歩兵達は敵を倒すのが第一の使命であり、殺人とは呼ばれない。だが、敵兵も意思を宿す人間であり、殺した自分も同じ五体を持った人間なのだった。大量殺戮に大義の札を掲げたものが戦であると、高貴は上官に銃を手渡された時、血の気が引くような、仄暗い穴の中へ落ちていくかのごとき救われぬ思いを抱いた。敵軍に対する憎しみの有無を問われれば、理屈で感情を武装させる必要があるか悩むより早く肯定するだろう。自国に破壊と貧困、血と涙をもたらす非情な存在を憎悪せぬ者などいるだろうか。――それがたとえ、こちらから仕掛けた侵略戦争の、報復攻撃であっても。
 そもそも、戦争を望んでいたのは国民ではなく、国民の総意なる幻想を、豊穣な未来を築くため犠牲を厭わず苦難に立ち向かう時代が到来したのだと、理論をもって血腥い主張に変貌させた一握りの官僚達だった。けれども実際のところ、破壊を目的とした、平穏とは程遠い戦場に駆り出されるのは争いの本意を知らぬ国民で、その大きなつけを払うのもやはり自分達なのだった。
 高貴は今、国が動かした戦争の代償のために、冷たい雨が間断なく降る敵地の密林をただ一人でさまよっている。豊かさのために戦っているというのならば、自分が今眺めている景色は一体何なのだろう。殺し合うその先に、平安があるというのか。
 ひどい雨だった。そして、ひどい状況だった。暗い闇のみが辺りに満ちていた。
 自分が配属された小隊の者は殆どが立ち往生し、密林に張り巡らされた罠に落ちて、嬲り殺されただろう。別地区に派遣された中隊も、敵軍の包囲を受けて完全に連絡手段を断たれ、退路を見出せぬうちに全滅しただろう。敵軍の戦力を軽視し、現地の情報を重視せず頑迷なまでに昔ながらの戦略に固執した将校の采配は過信が含まれる分、より致命的であった上、集められた隊員の多くは戦闘経験の浅い若者ばかりだったのだ。そしてまた、己自身も兵服を着込むまでは銃の組み立て方すらろくに知らなかった未熟な若造の一人だった。
 この見知らぬ険しい密林地帯で、僅かばかりの仲間とはぐれた自分が生き残る確率は楽観的に考えたとしても低く、絶望の色を消すことなどできなかった。いち兵士にすぎぬ自分を、敵兵が数多く潜伏するこの危険な地から救出するために、自軍が新たな隊を投入するなどといった奇跡は、まずもってありえない。戦員数、武器、食料、全てのものが不足し機能を欠いた自軍は最早巻き返せぬほどの窮地に立たされ、命令系統さえ見直せぬまま混乱を深めて、一切の余裕を失っていた。恐らく、埋めようのない戦力差に、明日にでも全面降伏を告げる放送が流れ、停戦要求についての詳細が敵国にもたらされるだろう。我が国は領土拡大という絵空事の計画に溺れて理性を失い、外の世界に対して怠慢であり傲慢にすぎたのだった。
 ――旦那様。
 泥臭い雨の匂いに咽せながら、高貴は震える手を自分の懐へ入れた。射殺した敵兵の所持品から盗んだジッポを取り出す。今頃気づいたが、ここへ来る途中に小銃を捨ててしまっていたようだった。今、敵兵に発見され攻撃を仕掛けられたら、何の抵抗もできずに殺されるだろう。しかし、高貴だとて既に一人の兵を殺害している。大義のためではなく、己の中から生まれた愚かしい恐怖に駆られて発砲したのだ。
 人殺しであり、盗人。最早自分は国を支える兵士にあらず、ただの薄汚れた気狂いにすぎない。
 あぁ、旦那様、旦那様!
 高貴は瘧のように震えが止まらぬ指先で、ジッポに火をともした。衰えを知らない雨に消されぬよう、片手を掲げて、闇の中に生まれた小さな赤い炎を凝視した。
 幹肌の荒れた大木に背を預け、火を守りながら、身を縮める。なんて卑小な我が身なのだろうと、揺れる炎を見つめてしばし落涙した。兵服の中も、靴の中も雨に濡れ、身体の動きが鈍重になっていた。
 旦那様――千字朗様。
 高貴は、神も仏も信じていない。信仰心を持たぬ自分がただ一途に慕い敬うものは、主である千字朗のみだった。
 千字朗とは十の歳の差があった。そして自分が彼に出会い、拾われたのも十の時。怜悧な表情をした歳若き主人は、白昼夢でも見そうな残暑の午後、木陰に座り込む薄汚いなりの孤児の手を無言で取り、からりころりと小気味よく下駄の音を響かせながら熱気に揺れる道を辿って大層な外観の屋敷に戻ったあと、湯浴みを命じ衣服と食事を与えてくれた。町の路地には、夏の熱におかされた物乞い達の腐った屍が転がっている。高貴は、作物の実りも悪く路頭に迷う者が大勢溢れるほど困窮が蔓延した年、千字朗に命を救われたのだ。握った手の大きさ、温かさに、この時の高貴は息を呑んだ。胸を満たす痺れるような思いの正体が分からず、淡い恐怖まで覚え、その手を振り払い逃げ出そうとしたが、千字朗は屋敷に着くまで決して離そうとしなかった。目にしみる程深い紺の着物をまとった彼の奇麗な、しなやかな手が、垢にまみれた自分の指を掴んでいることに、何か堪え難いものを覚えもしたのだったが、やはり、足の先まで荒んでいたこの時の高貴には、心に芽生えた罪悪感を理解できなかった。
 千字朗が親元を離れ、己の屋敷を構えたのはそれから僅か二年後のことだった。彼の両親は、身元の不確かな、痩せっぽちの高貴をことあるごとに疎んじた。千字朗は新たな居に移ったあと、温和な笑みを見せて、これで楽になったろうと言った。
 彼が、何一つ持たぬ高貴に与えてくれたのは、衣服や食事ばかりではない。
 千字朗は書家だった。父も祖父もまた国宝と認定された著名な書家であった。彼はまず、ひらがなさえ読み解けぬ無知な高貴に、唯一の名を与えてくれた。凛々しく清廉であれと、「高貴」という名を、白い和紙に流麗な文字で描いたのだ。
 彼はまた、言葉を通して、高貴に感情を教えてくれた。愛という字を、志という字を、道という字を、礼という字を、千も万も筆で書かせたのだった。
 初め、意味も分からずにただ書きなぐっただけの文字が、己の中で鮮やかに息づいた時、高貴は涙を流し、愕然と、悲しみを知った。
 悟りの道の通過点である喜怒哀楽を、和紙の上で乾いた黒い文字の中に見出したのだ。
 千字朗は、文机の前で拳を固く握り硬直する高貴が硯の中に落とした涙に筆をつけ、文字を書いた。親。それは恐らく、血族という意味ではなく、親愛の意味があったのだろうと高貴は解釈した。涙で書いた文字はすぐに乾き、見えなくなった。高貴はたまらず、千字朗の痩せた胸にすがり、大声を上げて泣いた。自分がどれほど情に飢えていたのか、心が張り裂けそうになるくらい知った瞬間だったのだ。千字朗は深い眼差しで、泣き伏す高貴の背をさすり続けた。安らかさが滲んだ彼の微笑は、縁側から差し込むあたたかな光を受けて、ひどく尊く美しいものに見えた。
 この時の、涙で文字を綴った和紙は、小さくたたまれ、お守りの中に入れてある。そのお守りは、今も高貴の首にぶら下がっている。
 それまで作法の一つすら身につけられず、全くの役立たずであった高貴は、主のために生を全うすることを誓った。
 彼のために隅々まで家を磨き、飯を用意し、縫い物さえこなして、不自由のないよう昼夜問わず働いた。蜜月と呼べるほど、幸福な日々であった。
 高貴が十八の歳を迎えた頃、千字朗の縁談が決まった。親族が持ち込んだ縁談であったため、断ることは許されなかった。相手は傷一つない華奢な手を持つ、美しい令嬢だった。無垢な箱入り娘は、端正な顔貌をした痩身の千字朗を目にして、恥ずかしそうに頬を染めた。誰もが良縁だと、二人の婚約を手放しで祝福した。
 令嬢が千字朗と外出する際、高貴はいつも彼女のために日傘をさした。令嬢は育ちがよく純粋な人であったため、従者の高貴を目にとめなかった。身分高き者は、幼少の時より従者の存在を意識せぬのだ。令嬢の目はいつだって、若き主の整った横顔に向けられていた。
 二人が晴れて夫婦となったあとも、高貴は以前と同様、従者として忙しく働いた。見ぬ存在であるはずの高貴に、主人が気安く話しかける様子を、奥方は不思議そうに眺めていた。
 幸福な日々は長く続かなかった。二人の結婚から半年後――千字朗に徴兵の知らせが届いたのだ。
 戦争は長引き、激化していた。開戦前、勝利を確信していたはずの自国は、ここへきて想定外の展開に疲弊し、国宝の子息さえも巻き込まねばならぬほど戦局の悪化を迎えていた。なりふり構わず、多くの兵士を募らねばならなかったのだ。
 突然の悲劇に嘆く奥方を説き伏せ、千字朗は潔く離縁を選んだ。子はまだおらず、離縁は奥方のためになると身内の者も苦渋の末、納得した。
 奥方が生家に戻った夜、千字朗は夜空にぽつりと浮かぶ丸い月を見上げながら、高貴を呼んだ。
 彼は下座でかしこまる高貴の顔を上げさせ、柔らかく苦笑した後、絹の包みを差し出した。包みの中には、高貴が言葉をなくすほどの大金が用意されていた。その金を持って生きなさいと千字朗は笑みを絶やさず言った。彼は既に、身辺を整理し、死を受け入れようとしていた。
 本来ならば従者にさえなれるはずのなかった乞食の自分に若き主人が財を渡す、その意味――高貴は激しい、稲妻のような厳かな何かに、胸を貫かれた気がした。
 ひたすらに生きよ、と千字朗は諭すように囁いた。万象の顛末を知る賢者のごとく澄んだ目を向け、焼け野原も屍も乗り越えて、花が揺れるその先まで、振り返らずにただ走り生き延びろと――…
 高貴は、千字朗が自室に戻り床に就いたのを確認したあと、すぐさま屋敷を飛び出して、月のみが見守る静かな夜道を、裸足で走った。彼の言葉通り、ただひたすらに、振り返らずに。
 ひびが入りそうな程に暴れる心の臓を押さえながら見上げた月は、夜を背に皓々と輝き、たとえようもなく美しかった。荒い呼吸は静寂に溶け、全てが、この世の全てが、限りなく愛しいものであるかのように思えた。
 高貴が向かった場所は、千字朗の生家だった。転がるようにして長い道を走り通し、門を叩く汗塗れの高貴を出迎えた召使いは、何事かと仰天しながら千字朗の父を呼びにいった。
 汚れた足を拭かせてもらったあと、高貴は庭に面した離れの廊下に案内された。月の光が斜めにさすその場所から、開け放った障子の奥、薄暗い部屋の中に腰を下ろしている千字朗の父に挨拶をした。
 千字朗の父は、ひどく不機嫌だった。夜の深まる時刻、疎んじていた厄介者の高貴と顔をあわさねばならぬ苛立ちを隠しはしなかった。千字朗についての話だと召使いに前もって伝えていなければ、門前払いされていただろう。
「早う」
 と千字朗の父は低い声で言った。早く用件を話せと、廊下に平伏する高貴に命じたのだった。
 高貴は顔を伏せたまま、必死に言い募った。どうか自分を養子にしてほしいと。
 しばらくの間、千字朗の父は無言を通した。
 空気が動いたと感じた次の瞬間、高貴の身は、怒りを露にした千字朗の父に力一杯蹴り飛ばされ、庭に転がっていた。
 穀潰しめ、乞食めと、千字朗の父は廊下に仁王立ちし、怒気を映した赤い顔で激しく罵倒した。
 貴様のような畜生を養子だと。家名が穢れる、神罰がくだるぞと、唇を怒りで震わせながら呪いの言葉を千字朗の父は吐き捨てた。
 高貴は土下座し、庭の土に額をこすりつけて、一心に叫んだ。どうか千字朗の代わりに戦地へ行かせてほしいと。
 ――徴兵制度の規定では、本来、一子しかおらぬ家では兵役は免除されるはずであったが、見過ごせぬ深刻な兵不足を解消するため、軍部は苦肉の策として緊急に新たな基準を設けたのだった。即ち、満十三歳以上の男子が存在する場合、各家庭、誇り高き自国のため、最低限一人は必ず兵役の義務を負うべきである。一子か否かは問わず。
 この新制度では、一子の場合はその者が、二子であればどちらかが、三人兄弟であれば一人を残して二人が徴兵されるという仕組みだった。つまり、兄弟が多くいる家庭では一人のみが免除され、他は皆兵役にとられるという過酷な決まりだった。
 この新制度の成立により、一子ということでこれまでは免除されていた千字朗までが徴兵される羽目になったのだ。
 千字朗に金を差し出された時、高貴は考えた。二子であれば、どちらかが兵役につけば、もう一人は免除される――この時の高貴は知らなかったが、実際に一子しか持たぬ華族達の間では我が子の身代わりを立てるべく奔走するという事態が多く見られたらしい。
 もともと名無しの乞食であった高貴には、戸籍がない。いうなれば亡霊と変わらぬ存在だった。手当を支払わずにすむという理由で、商家などでは官の目を盗み戸籍のない者を雇うことが珍しくなかった。
 戸籍を持たぬ高貴ならば、煩雑な準備を必要とせずとも容易く千字朗の身代わりになれる。軍部の方でも、できうるならば財を持つ華族の恨みを買いたくはないため、戸籍に不備が見つかり身代わりと知れても黙認するだろう。こういった言葉を、高貴は土下座を続けながら死に物狂いで紡いだ。
 千字朗の父は、どこか気圧された様子で長い間沈黙したあと、顔を上げろと高貴に命じた。恐る恐る視線を巡らせば、いつの間にか千字朗の母親までもが廊下の奥に立ってこちらを凝視していた。
 お国のために潔く死んでこい、と千字朗の父は呟き、背を向けた。
 ――その一言で、高貴は、千字朗の弟となった。
 高貴が身代わりとなって兵営地へ赴く前日のことだった。その日までは、決して千字朗には身代わりの事実を明かすなときつく命じられていたため、普段通りに振る舞っていたのだが、生家の下男あたりからどうも真相が広がってしまったようだった。恐らくは、夜になると屋敷を抜け出して生家へ向かう高貴に気がつき、不審を覚えて下男に僅かばかりの小銭を握らせ、口を割らせたのだろう。
 夜中、生家にて翌日の支度をしていた時、強張った顔の千字朗が飛び込んできたのだった。
 激高した千字朗の姿を見たのは、この時が初めてだった。
 そして、手をあげられたのもまた、初めてのことだった。
「なぜだ!」
 千字朗は憤りを見せながら、うずくまる高貴の胸倉を乱暴に掴み、頬をはった。
「なぜ、お前が!」
 叫びながら、何度も高貴を叩いた。あまりの激しさに、下男や父が慌てて駆けつけ、千字朗の身を後ろから羽交い締めにしたほどだった。
「すみません、すみません」
 高貴は畳に額をこすりつけて、いきり立つ千字朗に謝罪した。家名を汚すつもりではなかった。ただ、千字朗が無事に生き延びてほしかった。
「誰が! 誰が私の代わりに死ねと命じた!」
 千字朗は、高貴が自ら身代わりの役を買って出たとは考えなかったらしく、痛罵の勢いで詰問し、家族を睨んだ。
「千字、誰も強要などしておらぬ。この子が己で志願したのだ」
 千字朗は家族の言葉を頑なに信じようとはしなかった。家族に脅されて高貴が身代わりに仕立てられたのだと、思い込んでいた。
「旦那様、千字朗様、私が志願したのです。私が戦地へ行きたいのです」
 目を見開く千字朗に、高貴は幾度も訴えた。
「行かせてください、旦那様」
「なんて馬鹿な子だろう!」
 馬鹿と罵られても、高貴は壊れたようにがくがくと頷いた。先程、千字朗に叩かれた頬の痛みが、次第に熱へと変わっていった。
「折角拾ってやったのに。むざむざ敵国へ乗り込んで、お前はそれほど人を殺したいか。殺したいのか!」
「はい、旦那様」
「お前など拾わねばよかった、言葉など教えねばよかった!」
「許してください、私は敵を殺してまいります。自国のために、国威のために」
 千字朗から言葉を学ばねば、徴兵制度のからくりに気がつかなかっただろう。そして志願の意味すら分からなかった。
 志を貫くことを、願う。
 高貴の志とは、千字朗の安泰と幸福を守ることだ。他に何を貫く思いがあろうか。
 国威など知らぬ。この志のために、生きて死ぬ。
「愚の子だ、お前は! なんて愚かな子を拾ってしまったのだろう!」
 千字朗はその場に崩れ落ち――泣いた。
 乞食の子の命を惜しんで、泣いたのだ。
 高貴は身を震わせた。胸の軋みは、己の生に確かな喜びを刻んだ証拠だった。
 もうこれ以上に、報われる何かはない。
「あぁ旦那様、泣かないでください、私は嬉しいのです、敵を殺してきます、きっと。お国のためです。殺された国民のためです。だからどうか泣かないでください、千字朗様――」
 ――その夜、朝日が昇るまでの短い時間、千字朗の膝を借りて、高貴は眠った。ぽたりぽたりと、額や頬に、千字朗の涙が落ちた。
 日の出と共に、家名を背負って生家を離れる時、高貴を戦地へ行かせまいとする千字朗の身は、家族によって敷地の奥にある倉に閉じ込められた。千字朗に身代わりの話を伏せていた理由は、彼が猛然と反対するだろうことが予想できたためだった。
 行くな、という千字朗の悲痛な叫び声が聞こえた。高貴はその声に背を向け、歩いた。
 必ず帰っておいで、それが、最後に聞いた千字朗の言葉だった。
 ――……。
 あぁ千字朗様。
 ふと瞬けば、自分はこうして望み通り戦地をさまよい、どしゃぶりの雨の中、殺した敵兵から奪ったジッポの炎を眺めていた。
 小さな傷が無数に走る銀色のジッポの表面に、異国語で『ベティ』と刻まれていた。
 敵兵は己のジッポに、女の名を記すという。恋人であったり、女優の名であったり。炎は過酷な状況の中、まさに命の灯火となる。炎の揺らめきに、恋人や家族の姿を見て、生きる望みを繋ぐという。
 この話を教えてくれたのは、数日前に床を共にした娼婦だった。
 自隊の上官が気前よく部下達を全員娼館へ連れて行ってくれたのだ。誰の胸にも、最後の愉楽という悲壮な覚悟があっただろう。ゆえの大盤振る舞いに相違なかった。
 高貴の相手となったのはさして美しくはないものの、気だての良い女だった。はげかけた赤い口紅を気にせずに、明るく笑っていた。
 女を抱くのは初めてだった――否、最後までは行為に及んでいない。慣れぬ場面に躊躇い怖じ気づく高貴の様子を見ても、女は馬鹿にしなかった。女を抱く事が一人前の証ではないのだから無理をする必要はないと言って、穏やかな愛撫を教えてくれた。かさついている女の唇は、胸に押し当てられると、予想外に柔らかかった。さするように背を辿る指も優しく、小さな乳房も温かかった。女は慈愛深い目をしながら薄い毛布の下で足を絡め、高貴を撫でた。女の手淫によって果てた時、なぜか脳裏に、十の頃の自分と手を繋ぐ千字朗の姿が蘇った。己の欲望が高まり弾けたこの瞬間に、主の顔を思い出すのはひどく罪悪感が湧いた。
 千字朗もこのように奥方を抱いたのだろうかと、ふと思った。幼い自分の指を握った時の、主の優しさを知っている。あの奇麗な手で触れられるのは、何より幸福だっただろう。
 ジッポの炎に見入りながら、高貴は記憶を辿った。どうしてか、自我というものを意識し始めた頃ではなく、意味の掴めぬ言葉を闇雲に学んでいた無知な時代の記憶が圧倒的に蘇った。
 生家の方に連れられたばかりのある夜、空腹に耐え切れなくなり、足を忍ばせて台所へ入ったことがあった。盗人根性が最も色濃くしみ込んでいた頃の自分は、台所の隅に置かれた桶で冷やされている野菜を貪り空腹を満たすこと以外に欲を持っていなかった。かたりと音がして、おどおどと見上げれば、開いた戸口に若き千字朗が静かに立っていた。夜中に台所を荒らす自分の姿は、彼の目にどれほど浅ましく、いやらしく映っただろう。拾ってもらった恩を忘れて、盗みを働く自分の醜さを、その後、何度も思い出しては苦しんだ。だが、当時の自分は、盗みが知られたことで、千字朗の怒りを買い、死ぬ程殴られるのではないかとそればかりを恐れていた。千字朗はゆっくりと視線を巡らせたあと、夕餉の残り物である雑汁を温め、震える高貴に椀を渡してくれた。すると意識はもう湯気を立てる椀の方に向かい、腹を満たすだけが全てになった。椀に口をつけてがっつこうとする高貴に、当時二十歳の千字朗は、しっかりとこちらを見つめて首を横に振った。唖然とする高貴の手に箸を握らせ、慌てず噛んで食べるようにと諭したのだった。
 また別の記憶に、自分が夏風邪をひき、階段下の小部屋に隔離された時のものがある。家人に風邪がうつっては困ると、千字朗の父の手で、清掃道具を収納している小部屋の中に押し込められたのだ。天井が低く、広さもない小部屋で横になり、荒い息を繰り返していると、突然戸が開き、動かぬ身体を持ち上げられた。朦朧とする意識の中、背をさする千字朗の温かさを、特別な贈り物のように感じたものだった。家人に内緒で与えてくれた、瑞々しい夏蜜柑の甘さ。高価な苦い薬の味。汗で額にはりついた前髪を丁寧に払ってくれた指の感触に、死さえ喜びだと高貴は不思議な安らかさを抱いたのだ。
 時には散策の途中で、駄菓子を買ってくれることもあった。口の中に入れられた砂糖塗れの飴の、舌が痺れる程甘い味に、心底驚嘆した。小川に浮かべる葉船の作り方も教えてくれた。木の実を削って作る笛。数字の数え方。童歌。多くの知恵を、千字朗は惜しみなく与えてくれた。
 無償の優しさに怯えて、なぜ拾ったのかと叫んだ時、千字朗はどこか悲しい目をして、兄弟が欲しかったと微笑んだ。
 自分は、一体何を千字朗に返すことができただろう?
 あの深い慈しみ、平穏の時にかなう何かを、僅かでも彼に返したことがあっただろうか。
 高貴はジッポの火を必死に見つめ、答えを探した。木々を叩く雨の勢いは一層激しくなり、獣道の溝に細い川を作っていた。
 必ず帰っておいでと、千字朗が最後に言った言葉を胸の中で繰り返す。
 分かっている、帰ることは許されない。
 自分は死ぬために、養子の許可を千字朗の父にいただいたのだ。確実に死ぬと約束したからこそ、彼の一族として迎え入れられた。死なねばならない。たとえ奇跡が起きて、この死の嘲笑が響く戦地を抜け出せたとしても、生きることは許されない。
 戦地へ旅立つ日、千字朗が倉に閉じ込められた直後に千字朗の父が手配した老年の医者から、高貴は薄い色の液体が入った小瓶を渡された。
 高貴はジッポの火を消さぬよう注意しながら、胸のポケットに入れていたその小瓶を取り出した。
 渡されたのは毒薬だった。敵兵に殺されず、生き延びてしまった場合は、これで己の始末をつけよと指示されたのだった。毒薬を用意した医者は、どこか恥じ入るような、辛い目をして高貴を見据えていた。戦場では何が起きるか分からない、毒を飲む暇などないかもしれないと、父が離れたあと、遠回しに小瓶を捨てるよう、囁いた。
 高貴はジッポの明かりに、小瓶を照らした。
 何も後悔はない。ただただ、千字朗がこの地を知らずにすんでよかったと、安堵のみが大きく広がる。
 あなたでなくてよかった。
 あなたの代わりになれて、こんなにも嬉しいのだ。
 この雨の匂い、銃の匂い、血の匂い、苦痛の、絶望の、ひどく病んだ兵の匂い。それらを千字朗が知らずにすむ。
 短い間でも、彼の家族として生きられた。だとすれば、どんなに惨い状況さえ受け入れられる。
 千字朗が生きていけるならば、もういい。
 彼の優しい手は、人を殺す凶器を握ってはいけない。高貴に愛を教えてくれた言葉、志の尊さを刻んでくれた厳かな言葉を書く指。いつか、自分のような、心を持たぬ子供を道端で見かけた時は、あなたの言葉を与えてほしい。道標となる鮮烈な、生の喜びに満ちた言葉の数々を。
 かけがえのない日々を与えてくれた人。愛しさを刻んでくれた、唯一の人。
 安らかでいてください。あなただけは、誰よりも誰よりも幸福でいてください。
 高貴は微笑んだ。胸を焦がすのは、闇に燃える炎のような祈りだった。
 自分は今、神や仏にも叫べるだろう。誇らしく、毅然と、愛を知っているのだと。悟りはいらぬ、無の境地は見えなくていい。
 高貴は顔を上げた。雨の音に混じって、泥土を蹴りこちらへ近づいてくる気配を感じた。
 ジッポの明かりを、敵兵が発見したのかもしれなかった。高貴はジッポの蓋をしめた。火が消えて濃い闇が戻っても、敵兵らしき者の気配はこちらへ少しずつ接近しているのが分かった。
 殺されたくはないと思った。自分の意思で死を選びたいと強く願った。
 千字朗様、千字朗様!
 あなたは今、幸せでしょうか。
 辛いことが起こっていないでしょうか。
 何かに心を痛めてはいないでしょうか。
 もう二度と、あなたの肩に羽織りをかけることはできません。墨に汚れた指を拭うことも、部屋を暖めることも、濡れた髪を拭うことも。
 自分の代わりに、傘をさしてくれる人は見つかったでしょうか。廊下を磨く者は、着物を繕う者は?
 あなたが一人でいる姿を思うのは、胸がかきむしられるように辛い。
 誰かがあなたを温めてくれているだろうかと、そればかりが気になってしかたないのです。
 頼りなき卑小な我が身でした。支えられるばかりで、嬉しさをいただくばかりで、恩という恩を返せずにおりました。己だけがいつも、満たされていたように思いました。両手では持ちきれぬほど、果報にすぎる時間でした。最早あなたのために働くことはできぬけれども、その代わり、全ての苦痛や嘆きを自分が背負います。
 この魂が風になれるのならば、あなたの肩を濡らす雨を吹き飛ばそう。傷にまみれた痛みの世で、あなたが泣き暮らすことのないよう、必ず災いを遠ざけるから。
 祈りよ、どうか千字朗様を包んでください。
 雨がやめばいい、花が咲いて、木々の葉が優しく揺れて、光が満ち溢れればいい。世界よ、どうか彼を傷つけないでほしい。
 あなたがどこまでも走れるように、全ての棘を取り除こう。
 千字朗様、どうか、きっと幸せでいてください。
 そうすれば、自分もまた誰より幸せです。
 
 ――必ず帰っておいで。
 
 帰ります。あなたを陰らす悲しみの一切を吹き消すために、風となって帰るから。
 千字朗様、自分は幸せでした。こんなに幸せな生は、あの日、あなたが手を握ってくれなければ、得られなかった。
 
 こちらへ近づく足音が、不意に別の音と重なる。
 高貴は小瓶の蓋を開け、一息に毒薬を飲み込んだ。
 
 あぁそうか。この音。
 からりころりと下駄の音。乾いた命を拾い上げる奇麗な手。
 瞼の裏に夢を見る。
 優しい人が、迎えに来てくれる。
 日差しの匂い、甘い飴の味、あたたかな指。流麗な文字の数々。
 千字朗様。
 
 ――帰ります。
 
 笑っていてください、一瞬の時間も永遠の時間も、全て幸せでいてください。
 ずっとずっと誰よりも。
 
 からりころり。
 
 ――雨がやみました、千字朗様。

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