秋夜

 死人のように凍えた目だと思った。しかし、死の濁りの中に、生の輝きが垣間見えた。
 襤褸切れをまとい、垢にまみれた黒い顔。貧困と疲労がはりついた小さな顔の中、既に死を悟った老人のような目をした子だった。未成熟なその身体も枯れており、固く乾いた土塊となんら変わらぬように見えた。
 気紛れだったのだ。手を差し伸べたのは。
 無臭の絶望をふりまくその子に、どこか淫靡な関心を抱いたのかもしれなかった。漂わせる絶望の気配は無臭でありながらも、驕りによる苛立ちが芽生えてしまうような、乞食独特のきつい匂いを発するその不可思議さが足を止める原因になったとも言えた。ただ、その子自身は己が宿す絶望に無関心な様子で、ただじっと岩のごとく木陰に座っていた。
 先の通り、善意や義憤からくる大層な理由が己の中にあったわけではない。要するに、温度を感じさせぬ無関心さと他人が抱く嫌悪の落差、そういった矛盾を作り出すいびつな子供に、心の躍動を理解させ希望を与えることができるだろうかと、ふと安易に思いついただけであった。さて、一体どのねじを回せば、笑みを浮かべ、泣き、走り出すのか。
 もし差し伸べた手に反応しなければ、束の間の興味は身勝手な不満へと移り、それ以上の何かに変わることなく終わっていたはずだった。
 だが、薄汚れた物乞いの子は、死人のような目を揺らがせ、不思議そうにこちらの手を見返した。銭や食べ物を差し出したのではないから、物乞いをからかう悪童のようだと失望されてもおかしくはなかったのに、不思議そうな顔をした子供は、次の瞬間、いたたまれぬといった沈痛な面持ちになり俯いた。
 途端にどうしたことか、苛まれるかのような痛みを覚えた。咄嗟にその子の手を握ってしまったのは、己の無神経さや卑劣さに思い至り、羞恥心が芽生えたためであったかもしれなかった。
 この子に対して、恐らく己は何らかの罪悪感をもったのだ。
 厳しい残暑が続き、熱気が陽炎のようにゆらめく、ある午後のことだった。
 
 
 己が目をかけた子が、思い描いたように成長する姿を見るのは、ひどく爽快なものだった。
 勿論、初めから何の苦労もなく順調であったとは言いがたい。
 身元の知れぬ物乞いの子供を連れ帰ったことは、まず両親の猛烈な反発を呼んだ。ろくに労働できぬ子を拾い育てるなど、一体どういうつもりなのかとくどく叱責されたのだ。予想以上の反対を受けて、己は見事にへそを曲げ、意地でも手放すものかと固く誓う結果になった。もしもやんわりと穏やかに意見されていたら、己は我を通さず素直に諦めただろうと思った。
 家族の手助けを期待できないというのには、正直、落胆した。それどころか、こちらが私用で側を離れた時はひどくいびられるといった、その子にとって苦しい状態が続いた。追い出されぬだけよしとせねばならなかったが、どうにも歯がゆい状況であった。その子自身にも、両親から目の敵にされる原因があると思った。盗み食い、無反応。一切の謝罪もない。己は腹立たしさを押し殺しながら、分別のある顔で根気よく接し、作法を覚えさせた。その子のためというよりは、両親にそれみたことかと指摘され宥められるのが嫌だっただけだろう。
 あまりの物覚えの悪さに、この子は生まれ落ちた時、感情のみならず自我さえも落としてしまったのではないかと疑った。嫌気が差すほど実りのない遅滞の時期が続いた。
 けれどもある時、その子はまるで生き返ったかのごとく「意識」を持った。意識が理知を生んだのだ。枯れた小さな身体に水がしみわたり、やがて爛漫と咲き誇って色づくかのように、次々と知識を吸収し、視野を広げた。彼の平坦だった味気ない世界に無数の起伏が生まれ、喜怒哀楽という季節がもたらされるさまを、己はすぐ隣で眺めていた。気がつけば、死人のような目をしていた子は、礼儀を身につけ、喜びを覚え、悲しみを抱き――いつしか安らぎをこちらにもたらす希有な存在へと変貌していたのだ。

 良い名をつけてやろうと思い、高貴と命名した。文字を教え、与えた名の意味を理解させた時、その子は、肩を震わせて全身で泣いた。歓喜を見せるだろうと予想していただけに、慟哭の姿は胸にこたえた。
 その子の――高貴の涙に、己の過ちを知る。ただ、響きのよい、美しい名を与えてやろうという軽はずみな思いであったのに、高貴はもっと魂の隅々までが満ちるような、激しい感情を抱いたのだと知った。己のなんと驕慢なことか。そしてなんと、高貴は無垢であったのか。
 一心にこちらを慕い、見上げる透明な眼差しに、何度後悔しただろう。夜明けの色のように澄んだ、小さな魂だった。父や母のむごい仕打ちにも抵抗せず、ただこちらばかりを気遣う眼差しだった。
 高貴は文字を覚え、他人というもの、自分というものを言葉で表現することを理解した時から、何一つ欲を見せなくなったように思う。欲しいものはないかと訊ねても、どこか恥ずかしげに目を伏せて首を振り、木漏れ日を浴びている時と全く変わらぬ表情で、幸せそうに微笑むのだ。大人びた視線に溢れる純粋な思慕を知り、こちらの罪悪感は際限なく増した。何かを望んでくれた方が、この浅ましい罪悪感は宥められたはずだった。
 彼を引き取ったおよそ二年後、己の屋敷を構えた。高貴はよくこちらの感情を斟酌した。いつの間にか、向けられる眼差しのあたたかさに慣れ、生活の殆どを高貴にまかせていたように思う。夜間に勉強をし、日の昇る前に起床して、炊事、掃除、洗濯、繕い物など、一切合切を文句も言わずにこなした。その間に、こちらの面倒まで見たのだ。どこへ出しても恥ずかしくないような使用人ぶりだっただろう。おそらく、高貴が一日でも休暇をとれば、下着の一枚さえどこにあるか分からず戸惑う有様だったのではないか。
 そんな調子であったから、高貴にはろくに休みを与えられなかった。一度だけ、遠回しにもちかけたことがあったのだが、高貴はこちらの想像通り、遠慮を見せて固辞した。内心で己は安堵していた。高貴が断るのを分かった上でもちかけたのだから、なんとも卑怯な心根であった。
 
 
 己が軽い風邪にかかった時、高貴は過剰なほどに心配した。寝込むほどひどくはなかったというのに、いつももの静かな高貴があまりに慌てた態度を見せ、真剣であったから、少しからかうつもりで大人しく床についたのだ。普段よりも更に優しげな声音で気遣う高貴に、面映く感じる中、愚かながらも甘えていたのだと思う。父も母も、高潔な人で尊敬はしていたが、高貴のようにつきっきりで看病してくれた試しはなく、どこか他人行儀なところがあったため、滅多にない扱いに稚気を出してしまったのだろう。また高貴は目下の者ということもあり、気安く、我が儘も通しやすかった。新しい屋敷に移り住んでから既に数年が経過していた頃のことで、家人の目を気にして体面を取り繕う必要もなかったのだ。大袈裟に憂鬱な顔をすれば、しんと胸に沈む穏やかな声で励ましをくれ、不機嫌な様子を見せれば、砕いた氷をひとすくい、果汁にひたして口へ運んでくれる。満たされる時間に酔い、高貴の行為に隠された切実な思いを振り返ろうともしなかった。
 己の振る舞いが全く愚行であったと気づいたのは、深夜にふと目覚めた時だった。
 側にいてほしいと頼んだはずの高貴が消えていた。数日の甘えに慢心し、なんとなく裏切られた思いで床を抜け、屋敷内を探したが見当たらない。まさか愛想をつかして出ていったのかと、急に不安を抱いた。風邪など、殆ど治っており、外へ出るのに躊躇はなかった。今、高貴がいなくなるのは困ると、己の今後ばかりを懸念して、ふらふらと近場を巡ったのだ。
 高貴の姿を見つけたのは、近隣にある、うらぶれた小さな神社の前だった。鳥居があり、殿舎が奥に一つあるだけの、最早神主にすら見放された神社だった。
 月が無言で見下ろす中、高貴は――丁度こちら側に背を向け、祈っているようだった。泣いているのだと分かった時には、背に痺れが走った。
 何を祈り、何を泣いているのか、理解したのだ。
 慌てふためき心配する高貴の様子が嬉しくもあり、また面白くもあって、故意に病が重いふりを続けた自分の愚行に、目眩を覚えた。夜中に抜け出し眠りもせずに、高貴はおそらく、こちらの病の回復を祈願していたのだ。
 記憶の中では朽ちていた小さな参拝堂は、月明かりの下、小奇麗に変わっていた。月の明かりによる錯覚ではない。高貴が人知れず、手入れをしたのだろう。一体、誰のために?――答えるまでもない問いに、しばし動けなかった。家の支度などを考えれば、遠方にある神社まで足を運ぶわけにはいかなかっただろう。こちらの家からあまり距離がなく、祈りを捧げられる場所、そういった適した場所に、この神社があったのだ。
 声をかけることなどできなかった。重なる木々の葉が赤く燃える秋夜の月を浴び、背を向けて祈りを捧ぐ高貴の姿は、己が軽はずみに立ち寄れぬほど際立っていた。ひとひら、またひとひらと、月光に貫かれて燃え尽きた葉が音もなく降っていた。彼の嘆きが夜の遥か彼方にまで満ち、木々の落涙を誘っているようにも思えた。夜気の向こうで輝く月もまた、濡れたような瑞々しい色を見せているのだった。
 我に返った己は、見つからないうちに、ただ急いで帰路を辿った。羞恥で、身が燃えそうになった。
 けれども翌日、すぐには病が完治したと告げることはできなかった。前日まではあれほど苦しげな態度を取っていたのだ。突然、大事はないと健やかな様子を見せれば、仮病だと知られるかもしれないと恐れたのだった。真実は言えなかった。深夜の出来事を全く表に出すことなく、微睡みたくなるほどの優しさと思慕を注いでくれる高貴からの侮蔑は、考えたくもなかったというのが本音だった。
 逆に、高貴が病に伏した時は、全く動揺したものだった。
 ひどい高熱を我慢した末、高貴は倒れてしまったのだ。そうなるまでに気がつかなかったのは、己の観察力のなさもあるだろうが、高貴の態度が昏倒する直前まで普段通りに徹していたというのもあるはずだった。
 しかし、この困惑をどうすればいいのか。何せ、物の位置がさっぱり分からない。結局は意識を取り戻した高貴が起き上がり、こちらの手を必要とすることなく、自分の世話をすませてしまったのだ。
 さすがに落ち込み、すまぬと謝ったのだが、高貴に自分の気の緩みが悪いのだと恐縮させる結果となってしまった。いや、余計に高貴を煩わせただけではなかっただろうか。落胆する己のために、高貴は病をおして、珍しい茶菓子の用意をしたのだ。
 一つ一つ、あの子の仕草を思い出すと、胸が締め付けられる。湯冷めしてはいけないからと、時間をかけて丁寧に濡れた髪を拭う。味が合わないと思った食事は、文句をつけずとも二度と膳には上らない。下駄の緒も、切れる前にきちんと取り替えられている。寒い冬の日、温もりが戻るまで、静かに指先をもむ。奇麗に磨かれた廊下。絶やさぬ微笑。辛いこともあったろうに、それでもなお、曇りのない笑みを浮かべ続けるのは、どれほどの忍耐力と意志を必要としたのか。
 生家にいた頃もそうだった。使用人達から謂れのない侮蔑を受けても眉をひそめず、たとえこづかれても困ったように笑うだけだった。それは高貴が愚鈍であったからでも、最も年若で立場が低かったからでもない。誰よりも迫害される苦しみを知り、傷つく時の痛みをも知っていた。そして僅かばかりの賃金を得るために早朝から働きづめである使用人達の鬱憤や疲労も理解していたからこそ逆らわず、一時の嵐を無言のまま耐えたのだ。使用人達はその間、ほんの少し溜飲を下げられる。乾いた果実の皮のように荒れた己の手を忘れるし、湿った薄い布団に包まる心細さ、障子の隙間を狙って滑り込む寒風を忘れられる。明日の朝には消えてなくなる虚しい爽快感であると分かっていても、彼らにだって気晴らしが必要だと高貴は敏感に悟っていた。
 使用人の心根ばかりを責めるのは卑劣であろう。己もまた腹の虫が悪い時、高貴に八つ当たりをしたことが幾度もある。主人の気紛れな癇癪にも、あの子は健気に耐えた。わざと、他の使用人を雇うかとちらつかせたこともあった。それでも高貴は泣き言一つ漏らさなかった。記憶を辿れば、謝罪ばかりしていた高貴の姿が苦しいほど蘇る。その殆どは、高貴に非などなかったのだ。
 拾った時には痩せこけて、ろくに文字さえ読めなかった無知な子が、気がつけば美しい羽根を持った鳥にかわり、遠くはばたこうとしているように見えた。それを気に食わなくさえ感じたこともあった。見下す意識が、己の中に根を生やしていた。しかし、明らかに表すのは恥ずべき行為だと、己を寛容な人間として捉え、眺めていた。そんな主人に、高貴は付き従ったのだ。
 
 
 短い期間ではあったが、妻を迎えた。
 高貴を追い出し、妻の気に入るような使用人を雇うべきかと悩んだ。妻側の親族が、何か過ちがあってはいけないと邪推し、別の使用人を雇用するよう命じたのだ。邪推とは、高貴が浅ましき念を募らせ、その劣情のままに妻に非道な振る舞いをするのではないかというものだった。論ずるのも愚かしい話だと胸中では一蹴していたが、それでも迷った。高貴はまだ純粋で、女性に対する密やかな憧憬や恋情などに無縁であったが、妻の親族の不興を買うのは面倒と思えたのだ。
 逡巡するこちらの様子を悟ったらしい高貴が、自ら打ち明けてきた。千字朗様のお言葉に従います。今までの恩は決して忘れませんと。
 慎ましさゆえの配慮を浅慮とうがち、また余計な口出しだと腹を立てた。己の力のなさ、生家の命令に言いなりになるだけの傀儡であると、遠回しに指摘されたのだと歪んだ捉え方をして、大層気分を損ねたのだ。
 結局、高貴を手放すことはできなかった。一度、親族が呼んだ使用人と面談し、様子見として仮雇用したのだが、不慣れであるという面を考慮しても、高貴に比べて頼りなく思えたのだ。
 妻と暮らすようになってから、高貴の仕事ぶりがよく理解できた。妻は家柄のよい娘らしく、家事をすることはなかった。
 初めの内、高貴は妻に遠慮して、家事や雑用以外の用事については控えた。それは主に、主人たる自分の身の回りの世話だった。妻が悪いというのではない。良家の娘、それも一人娘で、溺愛されて育てられた人であったから、他人の世話をすることなど全く思いつかないというのは、仕方のない話だった。しかし、困るのは己であった。今までは殆ど動かずとも、高貴が代わりにすませていたため、何をするにもぎこちない。
 逆に高貴の方は、自由な時間が取れて、楽になっただろう。焦れた己は、前の通りにしてくれとは素直に頼めず、怠慢であると責めて、高貴を呼びつけたのだ。あの子の細やかな気遣いを知っていながらも、主人の面目を捨てられずに叱責した。その時もやはり、高貴は面を伏せ丁寧に謝罪したのだった。
 美しく愛らしい妻に不満はなかったが、何でも従順に耳を傾ける高貴を側に置く方が、己にとって楽だった。我が儘も言え、好きなように振る舞える。その甘えを、全て高貴にぶつけていた。仮に高貴が妻であったら、賢妻だと皆に褒められただろう。
 まるで己の方が手のかかる子供のようではなかったか。妻の前では夫らしく泰然と構えたが、何かの拍子に気が抜けてしまう。横着の極みというべきか、高貴に背を流させて、読書に耽っているのを妻に知られた時は、ころころと笑われても反論のしようがなかった。
 
 
 自分が知る範囲の中で、あの子が持っていた趣味はといえば、読書ではなかっただろうか。もしかすると、唯一であったかもしれない。
 こちらの機嫌のよい頃合いを見計らって、意味の分からぬ言葉を訊ねる時があった。それは大抵、書物で目にした難解な言葉ではなかっただろうかと思う。辞書を開けば早かろうが、高貴はあえて、己に教えを乞うていたと気づく。主人の顔を立てるつもりだったのか、その心は最早紐解けないが、少なくとも訊ねられた言葉の意味を淀みなく答えられるよう、こちらも姿勢を正すようになった。知識を得るという行為の深さを、よりよく考える機会ともなったのではないか。
 耳目のみで終わらせるな、思考を深める血肉とせよ、と己は嘯いた。訊ねてきた文字を、その場で何度も書かせた。また、知る限りの、剣のごとき強い響きを持つ言葉、鈴の音のように可憐な言葉も学ばせた。高貴は背筋を奇麗に伸ばし、熱心に励んだ。快い、凛然とした眼差しだった。
 だが、己が示す文字は、見栄えばかりを気にした抜け殻のようなものであった。その中に、あの子は峻厳のごとき尊い精神があると信じた。己の言葉が崇高であったのではない。ただ祖父に恥じぬようにと、それだけを心がけて書いた空の文字であることは、誰より己が知っていたのだ。示す言葉が美しいと感じたのは、高貴自身が豊かであったために違いない。あの子は、文字を通して心を見た。
 
 
 己の甘えに終止符が打たれる時がきた。徴兵の報せである。
 戦争など愚かしいと思っていた。しかし、その愚かさに翻弄されるのが世の常だとも諦観していた。貧困を知らず、苦労を知らず、妬み争いの類いを知らずにいた温和な日々に不満はなかったが、松明のごとき輝きを見せる国の思想に反駁する強さもなかった。空虚な論に支えられた軽卒さが己の内にあったのみだ。
 死がいかなるものか知っているつもりであった。それでも、失われた希望を考えたことはなかった。
 徴兵の報を命運であるとして、決意を固めるのは特に困難なことではなかった。血相を変えて反対し逃げ道を探そうとする親心を理解せず、ただ潔く受け入れることが正しいのだと頑に信じた。可哀想なのは、取り残される妻だった。だが、夫婦の期間が短く、子もまだ授かってはいない。若く美しく家柄もよい妻であれば、戦争終結後には難なく次の再婚相手を探せるだろうと思った。
 離縁の話を持ちかけた時、妻は悲嘆に暮れ取り乱した。胸が痛んだが、未亡人とするには、あまりにも妻は心が儚すぎたのだ。
 その夜、高貴を側へ呼んだ。己が戦地へ立てば、高貴はこの屋敷から追い出されるだろう。彼を毛嫌いしていた両親が面倒を見るとは思えなかった。再び行く当てをなくし、放浪させるのは酷であった。これまで、どれほど貢献してもらったか、それを考えると、高貴には感謝しかなかった。
 最早必要ではなくなった財を集め、畏まる高貴に渡した。あの子はいつもの笑みを消し、一言も口を聞かず、深く頭を下げて銭を受け取った。肩の荷がおりたような心地で、その夜は眠りについた。
 ゆえに気がつかなかったのだ。取り返しのつかない日が訪れるまで。
 高貴が頻繁に家を抜け出ていると知ったのは、いつだったか。不審に思い、生家の使用人を呼び出したあと、なだめすかして聞き出したのは、息のつまるような身代わりの話だった。
 己の代わりに高貴が戦地へ行くという。
 真っ先に両親を疑った。我が子可愛さに、高貴を無理矢理説得したのではないかと思った。また、その話を唯々諾々と受け入れた高貴にも腹を立てた。なぜ、抗わないのか。持たせた金を使えば、どこへなりとも自由に逃げられただろうに。
 憤りのあまり、己は高貴を声高になじった。初めて手をあげたのではないだろうか。
 あの子はやはり、必死に詫びた。けれども、強く、毅然とした眼差しをしていた。自ら望んだのだと、怒鳴るだけの己を前にして、決意のきらめきを見せながらそう言ったのだ。
 ああ、この子は。
 どこまで、真摯に見つめるのだろう。
 殺された国民のために、お国のために行きたいのだと、高貴は何度も繰り返した。それは嘘であるとすぐに分かった。高貴は争い事を厭うている。
 なぜ嘘を言うのか。なぜ自ら。
 拾わねばよかった。本当に、拾わねばよかった。
 なんという生を高貴に与えてしまったのだろうか。めまぐるしくこれまでの日々がよぎる。何もいいことなど、なかったのではないか。どんな幸せがこの子にあったというのか。高貴を包んでいたのは、ただ貧困の雫がしみ込んだ絶望の衣だけではなかったか。
 愚かだと責めずにはいられなかった。こんな主人を救うために、身代わりになるという。あまりに不憫でたまらなかった。
 敵を殺せるのが嬉しいのだと、澄んだ微笑で答える高貴の姿が、目に焼き付いた。
 なぜ失いそうになってから、人はかけがえのないものに気づくのだろう。
 手を伸ばし、高貴の肩に触れる。痩せた頼りない肩だった。この痩せた身体の中に、溢れるほどの思慕があった。それは意志となり、運命すらねじ曲げる激しい奔流のような誓いに変わっているのだった。人の愛しさ、狂おしさは、無限の希望になるのだと知った。
 だが、その希望がたった一息で吹き消されそうになっている。
 叩いてしまった頬を撫でた。熱を持ち、ほのかに赤くなっていた。人形のように動かず畏まる高貴の髪に両手の指をくぐらせた時、初めて死が恐ろしいものであると知った。指先に伝わる甘いような体温が、傲然とした死にさらされ、凍えるのかと驚愕したのだ。
 高貴は困ったように微笑した。やはり、碧空よりも澄んだ眼差しだった。髪の奥に差し込んだ手をずらすと、大人しく目を閉ざした。親指でそっと瞼の上を撫でる。その瞼の薄さと滑らかな感触に己は震えた。高貴はふと風の囁きに耳を傾けるような表情を見せた。やがて安息を味わうように唇を綻ばせていた。
 どうして今頃悟るのだろう。
 この子を失ったあと、自分はどうすればいいのだろう。
 病に伏した時、夜に祈ってくれる者が他にいるだろうか。言葉の真実を、これほど真剣に聞いてくれる者がいるだろうか。些細な行為の全てに、穢しがたい優しさを絶やすことなく注いでくれた者が、他にいただろうか。
 闇雲に探して、手に入れられるものではなかったのだ。
 どれほど貧しくなっても、もうよい。
 己の膝に頭を乗せ、安らかに目を閉じる高貴を見下ろして、逃げようと思った。最後の夜だからこそ、初めて見せる罪のない甘えに、ひどく胸がかきむしられるような切なさを抱いた。まだ大人になっていないのに、己よりも死の厳しさを理解して、穏やかな顔を見せている。
 この子を連れて遠くへ逃げよう。非国民であると糾弾されてもいい。国を守る前に、愛しい者を守らずして、何の生だというのか。志に、何の価値が?
 幾度もそう思ったのに、なぜ己は絶望しているのだろう。歓喜でもなく、決意のためでもなく、流れる涙は既に喪失を伝えている。
 泣かないでくださいと高貴が言った。慰撫するような柔らかい声音だった。幸せそうに微笑む高貴に、また涙が流れた。
 己の人生は限りなく薄いものであったかもしれない。けれども、唯一、己が刻んだ言葉に命が宿った。高貴。お前はその証なのだ。貴きものを、お前が注ぐ優しさの中にようやく見出した。
 高貴、逃げよう。
 木の根をかじってでも、生き延びよう。お前は貧しさに慣れているから、きっと大丈夫だろう。私も耐えるから。そうして苦難を乗り越えれば、お前と共に喜びを分かち合えるだろうか。
 朝日さえ、昇らなければ。
 
―――――
 
 己が身に纏うもの、日頃使うもの、些細な物のありかが分からぬ。その狼狽を、高貴は予見していたのだと気づいた。生家に長く勤める使用人から見せられた高貴の手記。唯一、高貴に辛くあたらなかった老いた使用人だった。戦地へ向かう直前の高貴から渡されたものだが、是非目を通してほしいとその老使用人に懇願されたのだった。
 それは生活の全てを詰め込んだ手記だった。どの棚に何があるか、掃除の順序、庭草の手入れ法、己が好む酒や食べ物の様々な調理法、膳に並べてはならぬ品、傘と下駄を頻繁に確認すること、氷売りの訪れる時刻、着物の繕い方。それらの言葉は、己に向けてのものではなく、高貴の後任となる使用人にあてての指示だった。
 己は笑った。高貴、お前はこのようなことまで記したのか。主人の機嫌の見分け方。腕を組んで掛け軸を眺める時は機嫌がよくないのだと。そういった時は、熱めの茶を出すこと。庭に向かって俯く時間が長い時は大抵、頭の痛みに襲われているため、横になるようすすめよと。一度目は決して頷かぬが、しばし時を置いて次に声をかけた時には大人しく従うはず。屋敷内を意味もなく歩き回っている時は、話しかけてはならない。ただし、何度も側を歩かれた時は肩を揉んでほしい時であるので注意せよ。長く放っておくと、主人は機嫌を損ねる。また、満月時には夜更かしをするので、床の横に書物を置くこと。主人は寒がりだが、やせ我慢をするので、外出時は必ず厚着をすすめること。稀に理由なく癇癪を起こすが、決して主人の前で泣いてはならぬ。優しき主人は、後々、ひどく己を責めるのだと――。
 己は顔を覆って笑った。最早言葉が見つからぬ。
 お前が全て、持っていってしまった。
 
 
 戦地へ赴いた高貴から、手紙の類いが届くことはなかった。
 その存在がなかったかのように、音沙汰のない日が続く。長い不通に、己は焦れた。どんな僅かな報せでもかまわないから得たかった。あらゆる人脈を伝い、無理を言って、高貴の情報を求めた。――行方知れず、とのことだった。諦めよ、と父が静かに諭す。高貴が配属された隊はほぼ全滅したとのことで、希望が入り込む余地はないと。
 父の説得を振り切り、更なる捜索を求めた時、到底受け入れられぬ事実を伝えられた。
 高貴の安否に固執する己に何を感じたのか、父はかかりつけの医師を呼び、このように言ったのだ。
 毒薬を渡したのだと。
 父を凝視した。目を逸らさず真正面から父を見たのは、随分久しぶりのように思われた。落窪んだ目、刻まれた深い皺。老いた父の姿を見つめ、二重の驚愕を覚えた。父の愛を理解しなかった己に今なぜか、気づいたのだ。家名の重みが苦しく、本心では疎んじていた父や祖父、その頑さと厳しさに己は憎しみさえ抱き、背を向けて、高貴へと逃げた。それがますます、子を思う父達を追いつめたとも知らずに――。
 すまぬ、と父が詫びた。己は混乱し、頭を下げる父ではなく、悔恨の色を浮かべて押し黙っていた医師に詰め寄った。
 毒薬とはどういうことか。
 医師は答えなかった。ただ緩く首を振った。取り乱す己を、父がとめた。それでも己はひたすら医師を問いつめた。
 嘘だろう。毒薬を渡したなど、それは私のための方便だろうと。
 医師は暗い眼差しで、何度も首を振った。父もまた、己の名を繰り返し呼んだ。
 だが、己は、求める答えを得るまで、医師に問い掛け続けた。高貴の真面目さを知っている。毒薬を渡せば、必ずあの子は飲むだろう。だからこそ、嘘でなければいけない。
 嘘であるという言葉を引き出すまで、引き下がれない。
 そうでなければ、夢の中でさえ、高貴を失うことに。
 なぜ毒薬を渡したのか、とは訊ねなかった。その理由など、想像に難くない。
 引き下がれぬ。このままでは、父を永遠に憎む羽目になる。どうか、嘘にしてほしい。
 幾度医師を責めたか。あの子は己の尊き命なのですと叫んだ時、とうとう医師は降参したかのように、ぽつりと、己が望む答えを口にした。許しを乞う苦痛の眼差しをしていた。
 
 
 生家に戻れと訴える両親を振り切り、己の屋敷を守り続けた。
 手記に記された通り、着物の類いが整然と箪笥にしまわれていた。無人の屋敷を、手記を片手にゆっくりと歩いた。文机の上に、見覚えのある絹の包みが置かれていた。中には、一文たりとも減っておらぬ金があった。金の下に、小さな紙がはさまっていた。幸。たった一言、そう記されていた。
 お前は幸福であったというのか。
 いや、自らの幸福を願う子ではなかった。ならばこの言葉は、己のために記された言葉に相違なかった。
 言葉まで、与えたはずの言葉までも、お前は私に捧げるのか。
 では、高貴は一体何を得た!
「幸など!」
 
―――――
 
 雨の音に耳を傾けるうち、己は微睡んだようだった。
 優しげな声がふわりと蘇る。
 
 ――千字朗様、太陽は困らないのでしょうか、月にはこれほど呼び名があるから。新月、三日月、十六夜月、更待月……いつも違う名で呼ぶのは、寂しいですね。
 
 己は笑ったような気がする。
 子供とはおかしなことを考えると。
 
 ――月が太陽を追っているのですか、それとも太陽が月を追っているのですか。二つとも休まずに巡っていたら、いつまでも会えないのではないでしょうか。
 
 切ない表情を浮かべて語る姿に、ふと見蕩れた。
 泣きそうな目だった。己は何も言わず、不安そうに瞬く高貴の髪を撫でたはずだった。心が休まる答えを、あの時、すぐに返してやればよかった。
 お前が戻ってくるまで、たとえ誰に聞かれても、答えはしない。
 
 戦争は終わったよ。もう、戦う必要はない。
 帰っておいで。
 また、手を差し伸べるから。
 差し伸べるしかできぬこの手を、お前は掴んでくれるだろう?
 お前は驚くかもしれない。私は自分で下駄の緒をつけかえるようになったし、時には繕い物もするように。信じられないだろう?
 お前のおかげで、己の手でできることが随分増えた。誰も褒めてはくれないが、我ながら成長したのではないだろうかと自賛している。他にも、まだ語り切れぬほど、伝えたいことがある。お前を喜ばせたいと思う。何を語れば、笑ってくれるだろう? 愛していると言えば、お前は怪訝な顔をしそうだ。それでも、言わせてくれるだろうか。私は機嫌を損ねるかもしれないが、お前は宥めるのがうまいから、かまわないか……と考えるのは、姑息だろうかね。
 しかし高貴、あの手記は少しひどい。まるで私が四六時中気難しい人間であるようだ。私はそれほど偏屈な主人ではないと思う。事実というのは、稀に隠した方がいい時もあるのだから。
 なあ、語る言葉が増えるばかりで、困っているよ。
 月を、秋を、幾度見送ればいい?
 
 ――千字朗様、月も星も、なんて奇麗なんでしょうね。
 
 ああ、そうだね。
 お前の目は、奇麗なものをよく探して、教えてくれる。私は時々、目を曇らせてしまうから。
 今も見えない。
 雨が、さあさあと降り、邪魔をしてしまう。
 
 だから、高貴。
 私が目覚める前に――この雨をやませておくれ。


end.


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