斜め86°の月狂い

 秋だというのに花見をした。
 正直、寒かった。
 冬も間近なのだから、紅葉も何もあったものではなかった。
 落葉観賞をしているといった方が正しいだろうと思った。
 更に言えば、深夜だった。
 城戸は俺の友人だったが、冷気が満ちる真夜中に二人で花見をするほど親しい間柄ではなかった。
 しかし、突然公園へ来いと呼び出されたのだ。俺は理由も分からず動揺しながら城戸が待つ公園へと駆けつけた。
 急いで来てやったというのに、城戸はベンチの側に佇み、ぼんやりと空を仰いでいた。白い横顔がいやに寒々しかった。
 片手をあげて挨拶はしたものの、その後一時間は互いに無言だった。城戸が何を考えているか知らないが、そっちが話しかけてくるまで意地でも口を開いてやるものかと思っていた。
 すると城戸が、ごめん、と何の脈絡もなしに謝罪した。横顔を俺に見せたまま。
 俺は城戸の視線を辿った。満月だった。食われそうなほど巨大な満月だった。
 何の謝罪か、しばらくの間考えた。
 城戸はそれまでの沈黙が嘘のように、どこかうちひしがれた態度で喋り始めた。ごめん、俺、実は人間じゃないんだ。蜘蛛の変種なんだ。人間に興味があってちょっと変身してみたくて、月を見上げて祈ったんだ。そうしたら月の光は俺の姿を人に変えた。最初は人間が怖かった。汚いとも思った。けれど日を重ねるうちに、別の感情が浮かぶようになった。思ったよりも人間は複雑で面白くて怖くて優しくて、俺、蜘蛛に戻りたくなくなったんだ。それでも今夜、月が翳るまでに戻らなければもう二度と蜘蛛にはなれないから、随分悩んだのだけれど、なあ俺、どうしたらいいだろう?
 俺は呆気に取られた。何のコントかと思った。
 城戸はようやく夜空に陣取る巨大な月から視線を外し、俺を見た。月明かりの加減が原因なのかもしれないが、青ざめて見えるくらい切羽詰まった顔をしていた。こいつの中で何かが壊れている気がした。
 俺が唖然としていると、城戸は更に早口で話し出した。
 蜘蛛に戻ると俺はもうこんな風に高槻と話せなくなるし、ビールも飲めないし、焼き鳥も食えない。でも人間のままでいれば俺はいつか狂うのだと思う。蜘蛛は所詮蜘蛛で、もし戻れば俺は人間であった頃の記憶を失うに違いない。戻りたくないのに戻らなければならない。
 俺はかなり動揺した。
 本気で言っているのだとしたら、城戸は重症だ。病院に行け。
 冗談なのだとすれば、腹が立つ。その場合、俺は当然、問答無用で殴るだろう。
 俺はとりあえず、適当なことを口にした。
 あのさ、蜘蛛だったらよ、そんなふうに、どうするかって迷わないもんじゃねえ? 二者択一って人間の思考だよな。大体、蜘蛛は焼き鳥食わんだろ。なんてったって蜘蛛だしな。
 すると城戸は泣いた。ああ俺、人間の思考を持つことができたのか。俺は人間らしいか?
 一応は人間に見える、と俺は頷いてやった。
 蜘蛛か。せめてもう少し気色悪さを感じずにすむ別の生き物にしたらどうだと俺は思った。猫でも犬でもいいじゃないか。よりによって、蜘蛛か。お前の思考は凄いなと俺は感心すらした。
 城戸は本気で嘆いていた。勿論演技だろうが、なかなか鬼気迫る様子に俺は引きつつあった。
 いい加減不気味な会話を早く終わらせたくて、俺はこう言った。心の中では焼き鳥を食いたいと考えて。
 なあ城戸、もし今、お前が蜘蛛に戻っても、俺達は友人だ。生涯、友人だ。
 城戸は言った。ありがとう、俺の友。
 礼を言われて俺は胸中、複雑ではあった。城戸は、気圧されそうになるほど真剣な表情を見せ、真っ赤な目で抱きついてきた。俺の背に回ったその手はかすかに震えていた。
 城戸は囁いた。ごめんな、俺、きっとお前を忘れてしまう。だけど、お前は覚えていてくれるか。蜘蛛に戻った俺が、いつか月を見上げる事を思い出すまで。俺はまた人になりたい。またいつか。
 そうか、なれよ、待ってるからな、と俺は適当に返事をした。
 城戸は安堵したように泣き笑いの表情を浮かべた。
 ひどく幸せそうな笑顔だった。
 
●●●●●
 
 そして、城戸は失踪した。
 ある日、俺は友人達と居酒屋に集まり、他愛ない会話のついでに行方不明になった城戸の話をした。俺はその途中、トイレに立った。
 戻ってくると、友人達が俺を見て、げらげら笑い始めた。
 何だよ、と俺は呟いた。
 友人達が、ビールの入った俺のグラスを指さした。
 俺はビールの表面にぷかりと浮かぶものを見て、言葉を失った。
 友人の一人が腹を抱えて笑いながら、聞いてもいないのに説明し出した。
 驚いたぜぇ、高槻のコートから蜘蛛が出てきてよ、キモイし、やべぇし、追い払おうとしたんだけど逃げねえのよ、この蜘蛛。そうしたら宮越がさぁ、蜘蛛を高槻のビールに入れてさ。すげえ必死にもがいて、キモイっつうの。
 既に酔っぱらって真っ赤な顔をしている宮越がにやにや笑い、反応をうかがうように俺を見上げた。
 ビールを飲めよ高槻、一気しろ。
 悪乗りした友人達が、一気コールをし始めた。
 俺はビールに浮かぶ蜘蛛をずっと見つめていた。
 気味の悪い黒い蜘蛛。
 胴体に黄色い月の模様が入った、そういった醜い蜘蛛だった。
 醜いまま、死んでいた。
 俺は友人達を見回した。目眩がして、息苦しいのに、俺はただ阿呆のような笑みを浮かべていた。
 
●●●●●
 
 その帰り、俺は月を見上げた。
 満月ではなかった。弱い、無力な、欠けた月だった。
 すぐに暗色の雲に覆われ、見えなくなった。
 ふと考えた。地を這う蜘蛛の目線では、ほぼ直角になるくらい顔を上げなければ月は見えないのではないかと。
 月は高い場所にあるから。
 人間でさえも、こうして仰がなければ見えないのだから。
 普通の蜘蛛はそんなことをしないだろう。しようとも思わないだろう。なぜ見上げるのか、その行為が無意味かどうかも関係ない。
 俺は、街灯さえ存在しない夜道で、足を止めた。
 俺は一人の友を失ったのだろうか?
 分からない、いや、こんな馬鹿なこと、あるはずがない。きっと城戸はどこかで生きている。あの夜の出来事は、城戸が仕組んだ悪戯に過ぎないのだ。
 多分、きっと。
 
 ――けれど、俺は、二度と蜘蛛を殺せなくなった。

end.

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