S/死神1095

 1095日間。
 それが、殺し屋<えす>に俺が監禁された日数だった。
 
 
 
 もし日常が平和という名の線路から脱線することなく継続していれば、俺は現在、最も気楽であり華やかな時代でもある高校生活の終わりを、跡形もなく夜空に消える花火のようにきっと惜しんでいたのだろう。
 だが、ドラマとしては三流に違いない俺の平凡な日常は<えす>と出会った瞬間に突然牙を剥いた。高い授業料を支払った塾の講師に、必ず合格すると太鼓判を押されたはずの高校受験に失敗してしまったため、やたらと期待を寄せていた母親にあわせる顔がなく、鈍い頭痛を持て余しながら街外れをぶらぶらと歩いていた時のことだった。
 ちょうど逢魔ヶ時と呼ばれる時刻、俺は悪魔の代わりに<えす>と出会ったのだ。
<えす>はその時、真っ黒いスーツを着ていて、不吉の影を引きずる死神のような暗いオーラを放っていた。
 何より目が、壮絶だった。見つめられるだけで精神を侵蝕されてしまいそうな、深い夜の底を浚う目だった。
 死神が立っていると俺は直感的にそう思った。決して間違ってはいない確信だった。
 なぜなら路上に佇む<えす>の足元には血塗れの死体が転がっていたのだ。
 
 
 
 俺の立場は簡単に説明すると、目撃者、あるいは第一発見者というのだろう。
 路上に死体が転がっているという異常な事態に驚き、その直後身の凍るような危機を悟ったが、悲鳴を上げるよりも早く<えす>が俺に接近し、気づいた瞬間には強烈な拳を腹部にもらっていた。たった一撃、その拳一つで俺の意識は壊れたテレビ画面のように色のない砂嵐に襲われた。続いて脇腹に一発、顎の下に一発。
 俺はこうして、情けない中学時代を終えた。
<えす>の手によって強制的に終了させられたのだ。
 
 
 
<えす>は単純だが効果的な暴力で俺を気絶させたあと、自宅へ戻った。勿論、俺を連れてだ。
 恐らく<えす>は面倒事が発生する前にと、殺しの現場に運悪くはちあわせてしまった俺をも殺害するつもりで、一旦自宅へ連れ帰ったのだろうと思う。その場ですぐに殺さなかったのは、多分、しばらく生かしておいてこちらの背景を詳しく調査するためだったのではないか。
 結論から言えば、俺は山中深く埋められることも、手足を切り刻まれることもなく、まだ無事に生きている。
<えす>が腕に怪我をして帰宅した日があった。俺は無言で<えす>の手当てをした。応急処置後、俺を葬ると言っていたはずの<えす>は、なぜか行動には移さなかった。手当てを受けたことで憐れみを覚えた、などという生温い感情が原因ではないだろう。俺には一つ、奇妙な能力が備わっていたのだ。俺の片目は、狭い範囲に限定されるけれど透視ができる。視野を遮る障害物が、俺のいかれた片目の前では、水のように透明なカーテンへと変貌する。そして壁や扉などの外に存在する人間の体温を、赤外線のように映し出す。<えす>はその能力を見破った。
 俺はこうして、三年間、<えす>に監禁されたのだった。
 
 
  
 最初の数ヶ月は、パイプベッドに手錠で繋がれた。俺が激しく喚き、暴れたせいだ。<えす>は容赦なく、解放を訴える俺を殴った。夜の果てによく似た<えす>の静かな目が、暴力に飽きて死を映す直前に、俺はいつも泣き疲れて寝入ってしまっていた。死と暴力と生の周りを、自分の尾を追う狂った犬のように、ぐるぐると俺は巡っていたのだ。
 更に一年が経過し、俺はこの気違いめいた異様な生活環境に順応してしまった。何より俺の意識が<えす>という存在を掻き消せないほどの圧倒的な世界として受け入れてしまったためだった。
<えす>の目は自身の孤独を映さないくせに、見つめるとひどく孤独を思わせるという不思議な力があった。俺は多分、<えす>の目に囚われた。そう認めた日、俺の手錠は外れたが、精神の方が繋がれた。
 出て行くなと直接言われたことはなかったが、もしそれを実行していたら俺はすぐさま殺害されただろう。<えす>の静謐な目がそう物語っていた。俺は料理を覚えて、掃除をして、洗濯をして、<えす>の帰宅をぼんやり待つという怠惰で変化の乏しい日々に甘んじた。ある意味、穏やかな生活が保証されていただろうと思う。
<えす>の仕事は映画に登場する殺し屋そのもので、家の地下倉庫には一体どこから調達してきたのかと驚くような凶器や非合法の道具がいくつも収納されていた。いつもいつも黒い格好をするのは特に好き好んでいたのではなく、血糊が服に付いた時のためだということも理解するようになった。服に飛び散った血は、しつこく手洗いをしなければなかなか落ちない。俺は腕まくりをして、風呂場で<えす>の服をよく洗った。何が面白いのか不明だったが、<えす>は俺が必死に血を落とす姿を、煙草をくわえつつ眺めることが多かった。
<えす>は恐らく二十代後半あたりの年齢だろう。長身で痩せ型だったが衣服を脱ぐと意外に筋肉質で、受験のため塾と自宅の往復を繰り返していただけの俺とは比較にならないほど力が強く俊敏だった。歩く時は猫のように音を立てず、背後に回る時は死者のように気配を消す。
 監禁された三年間、<えす>と話をしたことはあまりなかった。こんなに長く時間を共有したのに、だ。
 不定期に舞い込む非現実的な仕事の内容は確かに俺が脳裏で描いていた架空の物語と重なっていたが、昔ヒットしたハリウッド映画のように、<えす>から殺しの手段を教授されるなどということはなかった。俺は切り取られた世界の一画にひっそりと佇み、許された範囲で静かに呼吸をしていたにすぎない。ただ、<えす>が携帯電話で仕事を請け負っているということだけは知っていた。また、仕事を斡旋する専門のスタッフがいるという驚きの事実も知った。
 俺の声と<えす>の声は、結構似ていたので、時々、遊び半分に電話の応対をさせられたことがあった。殺しに遊びも何もないが、俺にとっては<えす>が運ぶ死の匂いはあくまで間接的なものにすぎず、彼の手の中で無造作に握り潰された命は、二度と会わない通行人が全身に振りまいている香水の残り香と、殆ど大差がなかった。この三年間の成果で、俺の死に対する概念は、脅威から遠く離れた希薄なものへと塗り替えられてしまった。
 しかし、危うい静けさが漂う俺の生活は、やはりそれをもたらした<えす>によって壊された。
 
 
 
<えす>は三日、帰ってこなかった。
 今まで二日以上家を空けることはなく、俺は空気すら刺激となるほど緊張していた。片目で外へと繋がる扉を透視するが、<えす>という存在を構成する体温を見つけることはできなかった。俺は、不安だったのだ。孤独を思わせるあの目に、いつの間にか安堵さえ覚えていたのかもしれなかった。
 四日目の夜に、ようやく<えす>の姿を感知し、俺は初めて、玄関の扉を自分の手で開け放った。
<えす>は迎え出た俺をしばらく眺めたあと、笑った。俺は笑い返せなかった。<えす>は、最早拭い消せないほどの濃厚な死の気配をまとっていた。
 俺はいつものように、黒いスーツの上を預かった。普段よりもずっと重く感じる上着は<えす>の身体から流れた大量の血を吸っていた。
 俺は<えす>に肩を貸して、寝室のベッドまで付き添った。<えす>は軽く溜息を落とし、ベッドへ仰向けになって、天井を見上げた。
 長い沈黙のあと、<えす>は俺に、出ていけ、と言った。そして銀行の暗証番号や非常時の電話番号など、この先必要となるに違いない情報を与えてくれたが、そのどれも俺の望む言葉ではなかった。では何が訊きたいと、そう問われて、俺はようやく笑った。えす、とはどういう意味のコードネームなんだ。
「佐藤。佐藤高久。佐藤の、頭文字で、エス」
「安直だし、センスない。それに、殺し屋らしくない平凡な本名だ」
「悪かったな」
<えす>は苦笑して、俺に手招きした。そうして外国人がする挨拶のように、俺の頬に軽く口付けた。
「もう行け。俺は死ぬから」
 俺は<えす>の目を覗き込んだ。深い深い夜の果てのような目。秋の夜でもなく、春の夜でもなく、冬の底知れない暗い夜。
<えす>のズボンのポケットから着信音が響いた。
 俺は無断で<えす>のポケットから携帯電話を取り出したあと、耳に押し当てた。
『――<えす>か?』
 携帯電話の相手は低い声でそう言った。確認を取るように。俺は、少し考えたあと、そうだ、と答えた。仕事の依頼かと思った。だが、通話はすぐに切れた。
 どういうことかと考え、俺は<えす>を見下ろした。
<えす>は眠っていた。俺が追い付けない夜の底に一人で行き、静かに眠ってしまったのだ。
 俺は、何かを思わねば、と焦った。何かを感じなくてはいけない。悲しみでも怒りでも虚しさでも愛しさでも、何でもいいから、精神が狂うくらいの強い何かを抱かねば。
 しかし、俺にその機会は与えられなかった。
 俺の片目は、条件反射のように玄関の扉の外を捉え、そこに誰かの体温を見たのだ。
 俺は一度、握りしめたままの携帯電話を凝視した。
 扉の外の体温はなぜかチャイムを鳴らさず、そこに立っていた。俺は、そいつが<えす>の死の気配を間接的に漂わせていることを知った。
 俺は立ち上がり、眠る<えす>の懐から拳銃を取り出した。
 猫のように。
 死者のように。
 俺は呟きつつ、拳銃を左手に、携帯を右手に、玄関へ近づいた。
 扉の外に立つ体温は、どういう方法でか鍵を静かに開けようとしていた。
 俺は扉の側の壁に寄りかかり、吐息を落としたあと、拳銃の安全装置を外した。
 俺の名前は、佐倉という。
 佐倉も、頭文字のスペルは<えす>だ。
 俺の目も今、何より深い夜の底を浚っているだろうか。
 静謐を、孤独を、平和の裏側に存在する涙を、俺は身体の奥に染み込ませているだろうか。
 微かに扉が音を立ててゆっくりと開かれた。
 俺は微笑を浮かべて、一歩室内に侵入したそいつのこめかみに銃口を押し当てた。そいつは硬直し、ざっと顔を青ざめさせた。引き金を押さえる指に力をこめてみる。確かな感触に、<えす>の目を思い出した。
「やあ、くそったれ」
 
 
 俺はその夜、<えす>という名の死神になった。

end.

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