桜下ノ剣
――直弘?
ごめんなさいね。あの子、今いないのよ。
いいえ、おばあちゃんが今日退院する予定なの、それで、母と一緒に病院へ迎えに行っているのよ。
――そうね、あと一時間もすれば帰ってくるでしょう。
ねえ……直弘と宿題をする約束をしていたのでしょう? 身近に暮らすお年寄りから話を聞いて、昔の人々の生活を調べるんだって、あの子、騒いでいたもの。
そう、それで、直弘ったら、おばあちゃんのお迎えにね。
――上がって、あの子が帰ってくるのを待つといいわ。
あら、そんなこと気にしないでね。あの子の方こそ宿題の約束をしていたのに、すっかり忘れるなんて。
――そうなの? でも、一人でするより、お友達と協力し合った方が宿題もはかどるでしょう。
それにねえ、こんな寒い日に会いに来てくれたのだから。
ああ、ほら、指先が赤くなっているでしょう。頬も、髪も、こんなに冷たいわ。
何か、温かい飲み物を用意しましょう。
――さあどうぞ。
遠慮しないでね。ココアは嫌い?
――ねえ、あなたも直弘と宿題のテーマが同じなのでしょう? この家にはね、ちょうどあなた達の宿題のテーマにぴったりな過去が色々眠っているの。うちは割合古い家だから、祖先が残した書物や絵も大切に保管されているのよ。ええ、そう。掛け軸や茶碗もあるわね。値打ちがあるかどうか、わたしには分からないけれど、どれも時代を経たものだけが持つ特有の厳かさや美しさがあるわ。
物だけじゃなくてね。こんなに古めかしい一軒家でしょう? 我が家には怪談話なんかも伝わっていたりするの。
そうよ、まるで御伽噺のような話がね。
その中でも、一つ、不思議で悲しい話があるわ。
「桜下ノ剣」という話なのだけれど。
これは、直弘も知らない話。
ええ、おそらくは祖母も知らないでしょう。長い間、わたしの家ではこの話が禁忌とされていてね、家の者も決して口外しなかったと伝えられているわ。
……わたし?
わたしはね、この話を……おばあちゃんのお母さんから聞いたのよ。ええ、書物ではなく口伝という方法で、失われることなく残された話なの。
勿論、事実よ。
これは、過去に起こった真実の話。
それを、あの子が帰ってくるまで、あなたに話してあげましょう。
――悲恋、という言葉を知っている? 胸を貫くような悲しい恋。想いの叶わぬ、切ない恋。
――今からあなたに話すのは百年以上前の恋物語よ。
うちの祖先はもともと刀屋を営む商人だったの。当時の藤沼家の主を雪衛門といったのだけれどね、彼の刀好きが高じて――いえ、白刃のきらめきに魅入られて――築いた富で、ある武士の身分を買ったのよ。
ええ、その通り。明治維新よりも少し前の話ね。
時代の波は身分という得体の知れない壁を打ち砕き、新たな風を運んできたわ。士農工商という強固な身分制度が金銭によって変貌する時代に突入した頃の話。世の中が平穏を取り戻した時、剣技に頼って生きていた武士達はそれまで自分を支えていた腰の刀を捨て、別に生きる道を探さなくてはならなくなったのよ。
けれど、彼らは剣の技しか知らない。特に下級武士達は明日の生活にも困るようになって、その身分をいくばくかのお金に変えなくてはならなかったの。
財を持っていた雪衛門はそういう武士から誇りと身分を買ったわ。
もともと商人に過ぎない雪衛門は刀の目利きはできても、実際に人を斬ったことなどなかったの。ただ、自慢げに、腰に二本を差して歩いていただけ。
奇妙なことにね、雪衛門が愛したのはカネサダやコテツといった名のあるものではなく、無名の冴え冴えとした細い刀だった。鞘に特別な装飾があるのでもなく、見た目も質素な、目利きの雪衛門からすれば、貧相といってもいいような特徴のない刀だったはずなの。
けれども雪衛門はその刀以外、帯刀しようとはしなかった。病の床につくまで、その刀をずっと愛でていたのよ。
――雪衛門には、雛子という娘がいてね。
名が示す通り、赤い着物を着ると、まるで人形のように愛らしい娘だった。
雪衛門は一人娘である雛子を、目に入れても痛くないほど可愛がっていたの。それが、無名の刀を持ち始めて以来、あれほど溺愛していた雛子には目もくれなくなったわ。一種、異様な執着を雪衛門はその刀に向けていたの。なぜなのか、理由は誰にも分からない。
刀に対する異常な固執の原因が判明しないだけに、雛子としてもずいぶんやりきれない思いをしたでしょうね。一本の刀が、雛子から愛する父を奪ったようなものですもの。
だから雛子は、町で刀を差した侍を眼にする度、顔を背けたわ。
でも雪衛門が病死した途端、父の魂が乗り移ったように、雛子は刀を抱えて手放さなくなったの。
家の者は当初、父が恋しいばかりに刀を持ち歩くのだろうと考えてね、雛子をとがめようとはしなかったわ。けれど、いつまでたっても雛子はその刀を離そうとはしなかった。次第に家の人達は、雪衛門の未練が愛娘に憑依したのかと気味悪がり、また、若い娘が刀を四六時中かかえて持ち歩くことは外聞が悪いと思うようになったのよ。
彼らは何としてでも雛子から刀を手放させようと、言葉を重ねて幾度も説得したわ。
雛子は、けして頷かなかった。
――見る者によっては、刀が雛子を守っているようにも映ったそうよ。
刀に微笑みかける雛子の姿は大層美しくて、多少の奇矯な振る舞いには目をつむるから嫁に迎えたいと縁談を持ち掛ける者が現れるようになったわ。
――そうね、年の数え方が、現代とは異なるわ。
当時の雛子は十七……今でいえば、十五歳くらいね。昔の女性は、そのくらいの年齢でお嫁にいっても別段早すぎるということはない。
あどけないながらも、刀に魅入られた雛子の眼差しはどこか危うく儚く見えるのに、赤い唇に時折微笑が浮かぶと、どきりとするくらい妖艶だった。
夢幻の世界へいざなうような、凄絶な微笑だったのですって。
だから――過ちの夜が訪れたのも、さだめといえばさだめなのでしょう。
白く、透き通るような上弦の月が、闇色の空に飾られていたわ。
散りかけの桜が、月の光に照らされ、淡く輝いていた。
雛子は闇が最も深まる時刻、ふらりと庭へ出たの。冴え渡る夜に、いつものように無名の刀を抱えてね。
大方、月の光に白刃をさらして眺めていたのでしょう。
そこへ、雛子に懸想していた若い男が忍んできたわ。成就されぬ片恋が募り募って淫らな邪妄に変貌し、白痴のように無垢な雛子を引き裂こうとしていた。
雛子は勿論悲鳴を上げ、抵抗したでしょう。
ところが、家人は誰も起きてこなかった。夜の帳に覆われた町は、しんと静寂に包まれて、時折寂しげに野良犬の遠吠えが響くばかりであったから、雛子の悲痛な叫びが聞こえなかったはずはないのに、誰も庭に姿を見せようとはしなかった。
最初、男は、嫌がる雛子の手を取り、なんとかなだめて彼女を屋敷の中へ連れて行こうと苦心していた。強引ではあったけれど、決して非道な行為に及ぼうとしていたのではなかったはず。様子がおかしくなったのは、あんまり雛子が激しく抗ったためでもあるのでしょう。けんもほろろに拒絶を見せる雛子と接するうち、男は次第に気を高ぶらせ、残忍な光を瞳にたたえるようになってしまった。一度目覚めた欲の炎はそう容易く消えぬもの。身の中の獣を解き放った男は、未だ成熟しきらぬ華奢な身体を無理やり庭花の上に押し付けようとしたわ。
雛子は本来聡い娘だったから、なぜ家人が助けにきてくれないのか、なぜこうも男の振る舞いが大胆で堂々としているのか、理由を瞬時に悟ってしまったの。既に、雛子の知らぬうち、親同士でこの男と雛子の縁を結ぶ取り決めがなされていたのであろう。けれど、いくら縁談話を持ちかけても雛子が一向に頷かぬため、業を煮やした家人達がこの男をそそのかして、夜這いにくるよう仕向けたのではないかと。
雪衛門が病死した後、商売は急に立ちゆかなくなり、坂道を転がるように暮らし向きが悪くなっていたわ。
雛子を見初めた男の生家は裕福であったというから、家人はなんとしてでも縁談話をまとめたくて仕方がなかったのよ。どれほど雛子の容姿が美麗であったとしても、そこは噂の恐ろしさ、いつ娘の白痴的な言動が仇となり、返す刀となって、あれは狐憑きの娘だと根も葉もない中傷が広まるか分からない。それならば、こうして良い縁談が舞い込むうちに話をまとめてしまいたいと思うのは、当然かもしれないわ。
男の態度が多少横暴であったとしても、そういう事情があるために、雛子を不憫に思いつつ、家人は見て見ぬふりを貫いたのよ。
彼等の思惑に気づいた時の、雛子の苦しみはどれほどだったでしょう。
雛子は――惚れてもいない男の妻となるならばと覚悟を決めて、抱えていた刀を鞘から抜いた。
僅かな傷もない鏡のような白刃――それは、未だ刀が、人の血に穢れていないという証拠でもあったわ。
刀というのは奇妙なもので、人の血を浴びれば浴びるほど凄味を滲ませ、妖気を漂わせるの。たとえ雛子が剣に素人であったとしても、手にした刀が血を舐めていれば、男はその気迫に押されて諦めてくれたかもしれないわ。
けれど、雛子の刀はあまりにも清浄で初々しい輝きを放っていた。
それは、男にも、刀を構える雛子自身も、分かったことでしょう。
男は引かない、そして刀にこの男を追い払うほどの覇気はない……雛子は、僅かの間に激しく苦悩したでしょう。一方、男は、雛子の恐怖を感じ取り、余裕すら覚えて、無力な野兎を追い詰めた時の高揚感で満たされていたことでしょう。
男はたっぷりと残虐な狩りの時間に酔い痴れた。雛子の悲嘆を一滴残らず飲み干すために、卑猥な微笑を浮かべて、わざと抵抗する隙を与え、焦らしたのよ。雛子が懸命に振り回す刀は、男の衣服にかすりもしない。密やかに笑う男の声と雛子の荒い息だけが夜のしじまに響いたわ。湿り気を含み、濡れているような夜の大気が、二人をその漆黒の衣で包み隠していた。覗いているのは、散りかけの桜。上弦の白い月。
桜の幹を背に、追い詰められた雛子は、低く嘲笑する男をぼんやりと見ていた。
白い花びらが散っている。刃物のように鋭い風が桜の花を切り刻み、舞い躍らせる……。
雛子は、虚ろな瞳を刀に落とした。刹那の後、煉獄を垣間見たような暗い眼差しをゆっくりとすくい上げた。まるで誰かに操られているように、雛子は刀を握り締めた手を、迷いなく持ち上げたわ。
いいえ――細い刃先は、男に向けられたのではなかったの。 雛子の胸に、鋭利な刃先は狙いを定めていた。
切っ先の行方を見て、男は少し驚いたようだったわ。声をかけて止めようとしなかったのは、微かに覚えた畏怖の念のせいもあったし、まさか本当に自害を図るはずはないという身勝手な思い込みのせいでもあった。
いえ、かりに雛子が本気だったとしても、まだいとけない脆弱な娘のこと、かすり傷をつけるのがせいぜいだろう、刃先が与える軽い痛みと肌に滲む微かな血の色に恐れおののき、直ぐさま刀を放り出して泣き震えるに違いないと、安易に捉えていたのよ。
男の想像通り、自らに刃を向けて自害を決意したはずの雛子の腕は、ちくりと胸を刺した程度で止まってしまった。血腥い争いとは無縁の暮らしをしていた雛子が、僅かな躊躇いも覚えずに潔く自決できるはずがないわ。命を断つことに対する恐怖は、本能として誰の心にも眠っているものだもの。
勝ち誇った男の瞳と、悲嘆に暮れた雛子の瞳が交わったわ。
その瞬間――、刀が目覚めた。
血を知らぬ刀、憎悪を知らぬ刀……それが、突如強靭な意志を持って、月の光をひるがえし、闇夜を引き裂く閃光のように雛子の胸を貫いた――!
信じられない光景だったことでしょう。
雛子のために、無垢な刀が鬼神と化し、白い刃を彼女の血で赤く染めたのよ。 絶句する男の前で、雛子は満足そうにうっすらと微笑んだわ。
人に恋をした刀。刀に恋情を抱いた娘。
重なる二つの想いはけしてうつつでは叶わぬゆえに――悲恋。
命を奪う以外には、愛する娘を救えはしないと刀は悟ったの。雛子も、死を望んでいた。愛する刀に殺められるのならば悔いはない。
刀身に滴る雛子の鮮やかな血は、まるで刀の涙のようだったわ。声なき悲鳴を上げ、刀が激しく高く慟哭している。
正気に返った男は我が目に映る光景に戦慄し、ほうほうの体で逃げ出したわ。
ゆえに、後のことを、男は知らない。
雛子のあとを追うように、刀がぽきりとひとりでに折れたこと。天を仰ぐ雛子の清らかな双眸に、乱れ舞う桜の花びらが映っていたこと。
ああ、ほら、なんて狂おしいのでしょう。
闇が泣いている、桜が泣いている。上弦の白い月が、眩い光で大地を照らす。
ひらひらと、ひらひらと。
可憐に妖しく、艶やかに。
刀に、娘に、血に、夜に、桜の涙が降り注ぐ。狂気のごとく、闇が凄絶な美しさをまとう。
残酷な夜が、血に溶けた。最早天も地も、ない。夜の行方は、永久に舞う白い花びらのみが知っている。
悲恋の餞にと――花びらが、世界を真っ白に塗り替える。
――――……。
――どうしたの? なぜ、あなたは泣いているの? まあ……困ったわ。あなたを悲しませるために話をしたわけではないのよ。
ほら、ちょうどここから桜の木が見えるでしょう、それでこの話を聞かせてあげようと思ったのよ。 いいえ、この桜は、当時の桜とは別のものよ。
え?――そうね、まるで、この雪が、花びらのように見えるわ。こんな冬の日に、雪の花が乱れ咲いているのね。
刀の行方?
そう、それが不思議なのよ。
折れたはずの刃先は雛子の胸に深く突き刺さっていたはずなのに、いつのまにか消失したらしいの。だから、うちにあるのは刀の柄だけ。
――天へと飛び立った雛子の魂が、胸に刺さった刃先を抱えていったのかもね。
あら、違う?
そんなことないわ、雛子はその刀を、父親代わりにしていたわけではない。ましてや恨んでいるわけでもないわ。それは、最初のうちはね、父の形見として持ち歩いていたのかもしれないけれど。たぶん、惹かれただけ。恋と名のつく果てなき想いに、どんな説明がつけられるの?
きっとそれが真実でしょう。何も悲しいことなんて、ないのだわ。
いいわ……持ってきてあげる。
ここで、待っていて。
必ず、待っていて。
●●●●●
直弘は、はらはらと雪を落とす真っ白な空を見上げた。
祖母の体調は悪化の一途を辿りとても退院は許可できない、という医師の言葉を廊下で盗み聞きしたせいか、直弘までも身体の具合が狂ってしまったような錯覚に苛まれていた。
(空が泣いている)
直弘は、不意にそう感じた。
泣いているというのは、普通、雨空を表現する時に使用する言葉のはずだが、それでも直弘は、この白い雪は涙に違いない、と強い確信を抱いた。
病院で、直弘は母や祖母の顔を直視できなかった。
友達と会う約束があるから、と見え透いた嘘をついて病室を飛び出したまではいい。問題は、どこへ向かうのかだった。予定も目的も約束もないのだから。
無意識に、足は自宅のある方へ向かう。
直弘は辿り着いた自宅の庭先へと視線を向けた。塀などといった立派なものはない。学校で見かける緑色のフェンスのような柵が、狭い歩道と庭の境界に張り巡らされているのだ。
何気なく見回して――直弘は目を疑った。
彼と同年代の、着物を着た美しい娘が、庭先にある桜の木の前に佇み、柔らかい微笑みを浮かべている。雪のように白い小さな手に、何か細長いものを抱えているようだった。
佇む娘の微笑は、ひどく悲しげにも見えた。いや、実際、娘は泣いているようだった。
直弘は言葉を失い、混乱しながらも、慌てて玄関へと向かい、庭まで走った。そこまでの僅かな道のりが、遥か遠くに感じられた。
直弘が庭に駆け込んだ時、既に娘の姿は幻のごとく掻き消えていた。
だが――。
白い雪に囲まれた桜の木の根元に、何かが置いてある。
直弘は恐る恐る、桜の木へと近づいた。
あの娘が立っていたはずなのに、雪の上に足跡はない。まさか幽霊を目撃したのだろうか、と直弘は怖れながらも、木の幹に立てかけられた細長い二つの棒を凝視した。
棒ではない。これは、刀だ。
刀が二つに折れている。
直弘は首を傾げた。これは確か、祖母が押入れの中へ大事にしまっていたものではないだろうか。記憶が正しければ、押し入れの中におさめられていた刀は、刀身が折れていて、柄の部分しかなかったはずだ。
それが……刃先が、目の前にある。 あの娘が、刃先をここに放置したのだろうか。
直弘はしばらく思案した。
いや、あの娘が持っていたのは、刃先の方ではない。祖母の箪笥にあった方だ……。
では、欠けていたはずの、この刃先は、一体どこから舞い戻ってきたのだろう。
いくら思い悩んでも、答えは見つからなかった。
直弘はもう一度、空を仰いだ。
降り注ぐ白い雪。頬に当たった雪の結晶が、体温で溶かされ、水に戻って涙のように伝う。
ひらひらと。
儚く、切なく。
やっぱり、これは涙だ。
直弘はもう一度、そう思った。
end.
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