幕間の声1
現実逃避のため丸一日意識を失ったあと、ようやく目覚めたリスカは空腹と怪我の痛みが原因で、すぐには寝台から降りられなかった。
数日の寝たきりを覚悟したリスカを手厚く介抱し、食事の世話までしてくれたのは、悪夢でも見そうだが例の殺人光線的眼差しと氷の気配を漂わせる剣術師だった。
更に、荒れた家を掃除し住み心地よく整頓してくれたのも彼で、リスカは感謝するより先に空恐ろしさを感じてしまい全く頭が上がらなかった。
しかも用心棒くらい雇うべきだと諭され、なぜか……その、日中の間、セフォードがリスカの護衛をしてくれることになり、もうどうすればいいのか分からなかった。これほど献身的に面倒を見てもらいながら、護衛は結構です、なんて断れない。
●●●●●
「まだ動かない方が」
密かに外出しようとした矢先、背後から抑揚のない声が聞こえ、リスカは文字通り飛び上がった。
怖々と振り向けば、狭い廊下の角に腕組みをしたセフォード……セフォー(そう呼べと言われた)が立っている。
「あ、あの、少し身体を動かそうかと」
実に言い訳がましくなる自分に泣きそうだった。
「どこへ?」
問われて、困ってしまう。
花を探しにいこうと目論んでいたためだ。
夜盗の襲撃により、店に並べていた商品の花びらは殆ど使い物にならなくなってしまった。奇跡的に、机の下などに転がっていた無事な花びら入りの瓶も幾つか発見できたが、これだけの量ではとても足りない。
何かと出費が嵩む忙しないこの時期、臨時休業しても冬を越せるほどの十分な蓄えがあるわけではなく。
「どこへ?」
返答に窮して黙っていると、セフォーが忍耐強く同じ問いを口にした。
……結構頑固な人というか、意外に心配性というか。
「ええと」
セフォーの瞳が見て分かるほど厳しくなる。もともと冷ややかな目の色が更に硬質さを増して、別段後ろめたい感情などなくても平謝りしたくなった。
足音を立てずに接近されると、リスカは俯くしかなかった。普段でさえ長く凝視はできない。
「どこへ?」
「外へ行こうかな、と」
答えになっていない曖昧な言葉を返してみる。
「外の、どこへ」
やはり誤魔化されないか。
「森の方へ行こうと思いまして」
「なぜ」
相変わらず端的な話し方だなあ、などという軽口はまだ叩けない。
「祭りが近いでしょう。この時期は旅人が集まるのでいわば稼ぎ時なのですよ。しかし売りに出せる花びらがない。冬が本格的になると花を見つけるのが難しくなるので、今のうちに売れるだけ売らないと年を越せないのです」
リスカはつい詳しく説明してしまう。
口にしたことは事実だ。何の対策も立てずこのまま冬本番となり、僅かな蓄えが底をついた挙げ句餓死しましたでは笑えない。今時期に必要最低限の金額だけでも貯めねば、と深刻な焦りが募る。術師であろうがなかろうが、物を食べ、衣服をまとう、というごく当たり前の生活を続ける限り金銭は必要不可欠であり、現実的な問題として肩にのしかかる。
「あ、孤氷の月は、休業するのです」
孤氷の月とは、冬季間で最も寒さが厳しい時期をいう。
その月は皆、外出を疎んじるため、自然に客足も遠のくので、新たな花の使用法を研究したり別地へ療養しに行ったりなど、ゆっくり過ごすのが例年の習わしだった。魔力の充電期間でもあるため、店を完全に閉めてしまいたい。日々の煩雑さを忘れたいのだ。
しかし、今から花を探しても、恐らく微々たる蓄えしか望めないだろうなあ、と諦めに近い感情もある。
「という理由で、花を探しに森の方へ出かけようと思うのです」
ちらりとセフォーの様子をうかがってみる。
凍える眼差しは孤氷の月の寒さを連想させる。こちらまで凍てつきそうな気分になり、無意識に顔が引きつった。
「咲いていますか」
「それを言われると、なんとも……」
「魔力は」
「多少使えそうな程度には、戻りましたよ」
ああ、この端的な問いかけにも結構慣れてきたなあ、とリスカは少し自分を褒めてみた。目を見詰めず声の抑揚を無視し、ついでに気配も遮断して、言葉の意味を汲み取る作業にのみ集中すればいいのだ。
「足は」
「うーん、痛みはあるけれど、歩けぬほどではないですし」
と、視線を足下へ向けた瞬間、突然身体が浮いた。
「ななななな何事が起きてっ……」
意味不明の叫び声を上げた瞬間、間近に銀の瞳を直視してしまった。
自分が現在陥っている状況を理解するのにかなりの時間を要した。気がつけば、景色は室内から外へと変わっている。
抱え上げられ、拉致され……ではなく、移動させられているのだった。
「お、降ろして……」
ください、と繋げるはずの言葉は、冷たい瞳に一刀両断され死に絶えた。
絶句というか呆然としている間に、どんどん景色が流れていく。
リスカは、とうとう森につくまで、正気を失っていた。
●●●●●
そうして是も非もなく抱えられたまま、花を探す自分がいた。
なぜ、なぜ、と問いばかりが虚しく頭の中で空回りしている。
重いでしょう。腕もいい加減痺れているでしょう、と余計なことを感じ胸が苦しくなり始めたのは、森の奥まで随分足を踏み入れた頃だった。いや、リスカは抱えられているだけで、実際に足を踏み入れたのはセフォーだが。
しかし、リスカも限界だった。
恐れ多い。伝説の人に従者のような真似事をさせている。
「も、もう、歩けます」
「足場が」
足場が悪いので駄目だ、と言いたいらしい。理解できる自分が謎だ。
「でも」
困る。困るのだ。
セフォーは視線を真っ直ぐ前に据えたまま「見つけた時に」と言った。
花を見つけた時に降ろす、という意味だろう。
「リスカさん」
「は」
「なぜ」
ううん、この問いの意味はさすがに分からない。
「姿を」
ああきっと、どうして男の姿に変身しているのか、と聞きたいのだなあ。
奇跡的に机の下に転がっていた花びら入りの瓶は、三つだけ。その内の一つが性別転換用の花びらである。この花はリスカ専用で売り物ではない。残りは媚薬の花びらと、眠りを誘う花びら。
「一人暮らしは何かと物騒ですから」
頷かれて、それでも、もの言いたげな表情をされた。
「しかし今は」
私がいるだろう――と、続けたいのだろうか?
そう推測するのはまるで自分がかなり自意識過剰というか身の程知らずというか。
結局「習慣になっているのでこうしないと落ち着かないのです」という無難な答えを返した。
「では、いいですか」
と、言われ、リスカは首を傾げた。
……ううん、端的言葉を極める道程はまだ遠いようだ。何について問われているのか、分からない。
「報酬の代わりとして」
「はあ……?」
「一室を」
仰天してしまう。
つまり同居ですか!
そういえば普段セフォーがどこに寝泊まりしているのか、不思議だった。
夜になると姿を消すのだ。
まさか一晩中外に立ち見張りをしているわけではないだろうが、突出した力を持つこの剣術師様はリスカの思惑を悉く覆し、およそ考えられない驚異的な……奇想天外な行動を取ってくれるので一概に否定はできない。非凡な人間というのは様々な意味で常識を超えていると思う。
すぐに考えがあちこちへ飛躍するのはリスカの悪い癖だ。何の話だったか……、そう、一室を貸してほしい、と言われたのだった。
うう、とリスカは内心呻いた。それは――それは、今現在、金銭的にどう見ても余裕のない状況にいるので、報酬を渡さずにすむというのはありがたい話だが。世に名を馳せる天下無敵の剣術師様が護衛をしていると分かっていて、不可能に挑戦するかのごとく店に押し入ろうとする盗賊など滅多にいないと思うし。いや、知らずに襲撃を計画してしまう運の悪い盗賊ならばいるだろうけれど。盗賊の命運はともかくとして、日中だけではなく夜間もセフォーが側にいてくれるのであれば、これ以上安心な防衛対策は考えられない気がする。結界すらもう必要ないだろう。……結界用の花びらも、なくなってしまったし。
ただし、四六時中一緒にいて、リスカの精神が持つだろうか。
気に入らなければ、簡単に「始末」しちゃう極端な剣術師様だ。いつ気紛れを起こしてリスカがその対象となるか、実は戦々恐々である。
違う意味で命の危険をひしひしと感じる。
でも、意外に面倒見がよかったり親切だったり、よく分からない人だ。
あーどうしよう、と悩み、次から次へと難題をふっかけてくれるセフォーをそっと窺う。
私を殺さないと約束してくれるのなら、と言った瞬間、始末されそうだ。
「不服ですか」
「いえ、とんでもないっ」
光栄です、などと眼光の鋭さに負けて反射的に答えてしまう自分が憎い。体勢的に距離が近いため、威圧感も倍増である。
「と、ところで……」
この話題は心臓に悪いので、先送りすることに決め、内心気になっていたことを優先する。
「一体、どこへ向かっているんでしょう」
花を探す目的のはずがセフォーは足下も見ぬまま、さくさくと進んでいく。
リスカが滅多に足を踏み入れない場所にまで来ているようだ。
帰りはどうなるのだろう、置き去りにされた場合、一人で無事に戻れるだろうか、とかなり深刻になる。
セフォーは答えず、ただ、薄く笑った。
●●●●●
こちらの懸念をよそにセフォーは森の奥へ奥へと進んだ。
途中で、獣しか通らぬような険しい傾斜を軽く乗り越え、小川を迂回し、仰け反るような厳しい崖をひょいと飛び越え、リスカが蒼白になるほど危うい荒道を躊躇いなく歩く。
既に西日が大地を赤く染める時刻。森の日暮れの到来は、町中にいる時よりもずっと早い。おそらく半刻も待たずして、薄闇が森に忍び寄るだろう。
視界を遮る木々の葉の隙間から強く差し込む茜色の光を浴びつつ、リスカは、本当に帰りはどうなるのだろうと不安になった。もう少し穏やかな道を……というリスカの儚い懇願はあっさり却下されている。
大体、ずっとリスカを抱え通しで疲れないのだろうか。大の男でも一人の人間を長時間抱きかかえるのは大変なことだと思う。
よく考えれば結構異様な光景だ。リスカの姿は今、男なのだ。か弱い女性の姿ではない。男が男を抱き上げるなんて、かなり気味の悪い光景では……と今更気づく。
しかし、セフォーは力もさることながら容姿にも恵まれているわけで。冴え冴えとした雰囲気はともかく。
リスカがどこぞの可憐な姫君であれば絵になったかなあ、と少し落ち込んだ。
いやいや、そのような場合ではない。目的は花探し。全然探せていないが。
「あの、セフォー」
「何か」
花探しはどうなったのでしょう、と聞いていいのだろうか。
セフォーがわずかにこちらへ顔を傾け、一度瞬く。目的を忘れてませんか、と疑いたくなるような無表情だ。
白に近い銀髪は西日を受けて大層幻想的な輝きを見せている。ざっくばらんに束ねず奇麗にときすかせば、もっと美しく見えるだろうに、と残念に思う。
セフォーは、リスカの前では顔を隠さない。顔半分を覆う美麗な模様の入れ墨も夕焼け色を受け入れ、ほんのり淡く輝いている。存在自体が目を引くという稀な人だと再認識する。
あ、少し自分、卑屈になりそう、とリスカはまた落ち込んだ。
自分の髪は光を拒む灰色だ。手入れを怠っているために艶もない。しかもばさばさで肩より短いし、と益々心が暗くなる。
「目が」
「……は」
嘆きの海に沈みかけていたため、返事が遅れた。
「美しい」
そう言ってセフォーは再び前を向いた。
リスカは咄嗟に理解できなかった。
セフォーの言葉をゆっくりと繋げてみて、あわあわと動揺する。
目の色をどうやら褒めてくれたらしい。
現金なことだが、かなり気分が上昇して、妙に胸騒ぎがした。
リスカの目は、ごくごく淡い花の色。異国から取り寄せたサクラの花の色に似ている。
唯一、自分の中で許せるのが目の色だと密かに思っていたので、逆に、他人に褒められると落ち着かない。
もしここで置き去りにされてもあまり恨まないかも、とリスカは考え、顔を伏せた。
●●●●●
「――あ」
ぼうっとしていた時、セフォーが足をとめた。
辿り着いた先はリスカの知らない場所だった。
森の最も深い場所。誰も知らない、険しい斜面を越えた先に広がる楽園。
遅咲きの、クルシアの花が舞い乱れて――。
クルシアだけではない。白い花びらの隙間に覗く、別の可憐な花。輝きが香る。
リスカは知らない。
こんな場所、知らない。
「花が……」
言葉が漏れる。
最後の炎が燃え上がるように、花々を照らす太陽の光。あまりに強く、神々しい。
この美しさ。計り知れない。
「なんて、奇麗」
美しい。
目映い。
凛然と、華やかに高らかに咲き誇っている。
リスカは見入っていた。殆ど諦めかけていたのだから、余計に心を奪われていた。
夢の中では思い描けぬ鮮やかな瑞々しい光景だ。降る光がさらさらと花びらを撫で、慈しむ。
「見つけたのです」
「……え?」
「探して、ようやく」
セフォーはそっとリスカを地面に降ろした。
リスカは呆然とセフォーを見上げながら、考える。
夜に姿を消す剣術師。もしかして、ずっと花を探してくれていたのではないだろうか。
どうして。
「どうして」
胸に突き上げるものがある。苦しく、熱く、痛みを伴うほどに。
「美しいですか」
そう言ってセフォーはリスカの背を軽く押し、小さな楽園へと促した。
「……はい」
リスカは――迷う。
美しいのは、何だろう。
リスカは何を見ればいい? 氷のような目を? それとも咲き乱れる花を?
「それはよかったです」
心に問え。
何を思うか。
どんな言葉で刻むのか。
「セフォー」
「何か」
「美しい。美しいです。セフォー」
リスカはしっかりと見上げてそう言った。
この世には決して間違えてはいけない瞬間がある。
見るものを間違えてはいけない瞬間が。
「そうですか」
セフォーは淡く笑った。
そして手を差し伸べ、囁いた。
「全ての花はあなたのために」
●【幕間の声1】END●