彼女は途中で


*この短編は30万ヒット感謝の番外でございます。



 
 今日もいい天気だなあ、とリスカは澄み渡る空を見上げて目を細め、小さく欠伸をした。
 買い物の途中であったが別段急ぐ必要はない。散歩もかねてのんびりとゆくか――暢気にそう考えた時、前方からもの凄い形相で突っ走ってきた少年と、見事に衝突した。
 全速力で走ってきた少年の勢いに押され、リスカはその場に転倒し、わわっと情けない悲鳴を上げた。突然与えられた衝撃と痛みに、何事が我が身に起こったのか理解できず、唖然とするより他になかった。リスカを混乱の渦へ陥れた少年もまたぶつかった時に体勢を崩し、微かに顔をしかめてこちらを一瞥したが、結局謝罪の言葉一つ口にすることなく慌てた様子で走り去ってしまった。何なのだ、一体。
 地面に打ち付けられた腰をさすりつつ、リスカは内心で毒づいた。ひどい目にあってしまったものだ。
 いささか立腹し、立ち上がろうとした時、ふと足元に落ちている書物に視線が奪われた。
 何だろう?
 リスカが首を捻りながらその書物を拾い上げると同時に、声がかかった。
 ぎょっとして仰ぐと、中途半端な体勢で書物を掴むリスカの前に、僅かに息を切らしたフェイが立っていて、真剣な眼差しでこちらを見下ろしていた。
「フェイ?」
「……大丈夫か?」
「ええ、はあ」
 フェイは一度厳しい視線を少年が去った方へ向けたあと、諦めた表情で軽く首を振り、戸惑いを隠せぬリスカに手を差し伸べた。恐縮しつつもリスカはその手に掴まり、立ち上がった。
「一体、何事ですか?」
 先程リスカを転倒させた少年を、もしやフェイは追っていたのだろうか?
「いや、大したことではない。それよりも怪我はないか」
「ええ。ですが、この本は……」
「ああ、今しがたの子供に盗まれたのだ」
「そうですか、あなたも災難でしたね」
 成る程、それで少年はあんなに必死な様子で逃走していたのかと納得し、リスカは落ちていた書物をフェイに差し出しかけて――呼吸をとめた。
 書物の題名が。
 リスカもフェイも、書物の表紙を飾る金色の文字に釘付けとなった。いやに華やかな文字が刻まれている。
 ――『愛の聖典・第三幕』と。
「愛の……?」
「聖典……?」
 リスカとフェイは一度顔を見合わせたあと、同時に呟き、再び書物へ視線を落とした。咄嗟には意味が分からず、リスカは眉をひそめてその書物をぱらぱらと開いた。
「な……!」
 開いた瞬間、男女が全裸で絡み合うえらく生々しい図が!!
「ぎゃっ!!」
 リスカは思わず叫んだ。
「ななな!?」
 過激な図を載せた書面に激しく動揺したが、ある事実に気がつき、顔を上げてフェイをまじまじと凝視する。先程、フェイはこの書物を少年に盗まれたと言わなかったか? ということは、このいかがわしい破廉恥な本は、フェイの私物なのか。
「こここのような昼日中から、何て不埒な書物を!」
「何!?――馬鹿者!! 誤解だ、俺のものでは……!」
「嘘をいいなさい、見苦しい! ああ信じられぬ、清廉な騎士ともあろうものが」
 フェイは顔を紅潮させ愕然とした表情を浮かべたが、すぐに鬼気迫るような勢いで自分のものではないと激しく否定した。しかし、リスカは猜疑の目でフェイを睨んだ。怪しい。
「違うと言っているだろう! 先程の子供がこの本を店から盗んだのだ! 俺は偶然、その場に居合わせて――おい、なぜ後退りする!?」
「近づかないでください」
「リスカ!!」
「おやめください! 名を呼ばないでもらえますか、私まであなたの仲間と思われるでしょうっ」
「仲間!? お前、その発言は無礼ではないか。大体、なぜ俺が今更そのような書物を!」
「今更? 今更!?」
 フェイは一瞬絶句し、更に顔を赤らめて狼狽していた。
「深い意味などない!」
「そういう趣味がおありだったのですね、フェイ」
「馬鹿! だから違うと……そんな目で見るな、誤解だ!」
 往来で声高に言い争うリスカとフェイは人目を集めていることにも気づかず、不毛なやりとりを続けた。
 
「何をしているのかな?」
 
 ――更に激しくフェイを非難しようと口を開いた時、突然声が聞こえ、何者かにくだんの書物がリスカの手から奪われた。
「あ!」
 焦りつつ振り向くと、背後には美麗な笑みを浮かべるジャヴが立っていた。
「どうしたのかな、君達。何を揉めて……」
 と苦笑するジャヴの目が書物の題名にとまった瞬間、空気が瞬時に凍り付いた。さながら純度の高い氷のごとく。
「……」
「……」
「……」
 三人の間で時間がしばし、停止した。三者三様、果たして胸中にいかなる思惑が荒れ狂っていたのか、それは本人ばかりが知ることである。
「……うん、まあ、そうか」
 長い沈黙の末、なぜかジャヴは神妙な顔で頷き遠くを眺めた。
「待て待て! 納得するな!」
「ジャヴ、このような破廉恥騎士と私を同列に扱わないでください!」
「破廉恥!?」
「そうでしょうっ」
 再びフェイとリスカの間で白熱した言い争いが勃発しかけたが、ジャヴにぽんと肩に手を置かれ、冷静な声でとめられてしまう。
「二人とも、やめなさい」
 うっとリスカは息をつめた。ああなぜ自分までもが変態の巻き添えに。
「いいかな、君達」
 説教されるのかと思い、緊張しながら身構えたが、予想に反してジャヴは妖艶に微笑み顎を撫でた。
「何事も実践あるのみだよ。書物にばかり頼ってはいけないね」
 は? と思いがけない台詞を耳にしたリスカとフェイは放心した。
「騎士殿、貴殿も勉強家だね」
「な!?」
「リル、言ってくれれば、いつでも私が練習相手になったのに」
「はい!?」
「ああ、よろしければ二人ともまとめて、私が引き受けて差し上げようか」
 この場が完全に凍った。いや、耳がジャヴの衝撃的な言葉を拒否した。
 フェイとリスカは思わず手に手を取り、艶かしい表情を浮かべるジャヴから身を引いた。
 
「……冗談だよ、君達」
 
 
 
 なぜかジャヴまでが参戦し、火花散る激しい言い争いが続くことになった。
 正式な書物の持ち主である店主が引きつった顔で背後に立っていることも、リスカ達は気づかなかった。
 更にこの言い争いが、リスカの帰宅が遅いので迎えにきたセフォーや、遊びに来ていたツァルまでもを巻き込む大騒動にまで発展するとは、一体誰が予想しただろうか。人生とは謎に満ちている。


END

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