恋愛雨猫

【恋愛雨猫】――水屋と西田

 生徒会室に、迷い猫が飛び込んできた。
 先生に見つかる前に外へ出さないといけないんだろうけれど、今日は雨が降っているんだ。首輪をしていないから、きっと野良猫なんだと思う。こんな冷たい雨が降る日に、外で過ごすのは辛いよね。
 机の上に座ってヒゲをこすっている猫の様子を私はじっくりと観察した。茶色い縞模様を背中に持っている。結構気紛れな性格なのかな、額を撫でても懐く様子は見せないのに、ふと別の方へ意識を向けると軽くすり寄ってくる。うん、可愛い。
 にゃん、と気怠そうに鳴く迷い猫。その声に振り向くと、ぱっと視線を外されるけれど、私が違う所を見たら呼びかけるようにまた、にゃんって鳴くんだ。
 毛並みはちょっとぼさぼさしてる。でもほわりと温かくて、長い尻尾が愛らしい。
 ついつい迷い猫に夢中になってしまい、頼まれていた生徒会の仕事をさぼってしまった。開催日が迫ってきた明宝戦の予定表をチェックしなきゃいけないんだよね。
「猫?」
 突然背後から話しかけられて、私は驚きのあまり飛び上がってしまった。私の大仰な態度に猫もびっくりしたみたいで、にゃっと叫んで毛を膨らませていた。
「うーん……、猫を愛でる子猫ちゃん」
「みみ水屋先輩……?」
 相変わらず理解不能な先輩の言葉。
 私は顔を引きつらせつつ、机の横へ移動した水屋先輩を仰いだ。ちなみに机の上にいる猫も警戒した目で水屋先輩を見上げている。
 今日の水屋先輩は、とっても高級感漂うシックな服装でまとめている。シンプルだけれど、高そうな服。一体どこで購入しているんだろう? 本当に男装が板についてきましたね先輩。というか、それは伊達眼鏡ですよね?
 よく似合っていて恰好いいと思うのに、何かが間違っている気がします。
「そうか、ご免ね西田さん」
「え?」
「気がつかなくて、ご免」
「何を、でしょうか……?」
 真剣な顔をして眼鏡の位置を直す先輩の様子に、ちょっと腰が引けてしまう。
「今日はキャットディ? 子猫ちゃんプレイをしたかったんだよね?」
「ぐふぅ」
 ちちち違いますそれは壮絶に違います!
「わざわざ本物の猫まで手配するなんて、なかなか本格的だなあ。いや、いいんだよ、こういう積極的お誘い、むしろ望むところだから。どうする、やはり場所を変えた方がイロイロと集中できると思うんだが」
「せせ先輩っ、この子は迷い猫なんです! 今日は雨だから、きっと雨宿りするつもりで校舎に入ってきたんですよ!」
「そういう現実的な事実は無視しようよ。陵、つまーんなぁーい」
 無垢な表情を作っても、思い切り目が裏切っていると思います。
「私達は現実の世界に生きてますし!」
「時に人は、夢を追うものじゃないか」
 あんまり私が必死に言い募ったためか、水屋先輩が苦笑した。うう、またからかわれたのかな。
「それにしても小汚い猫だ。可愛げのない顔をしている」
 なんて意地悪い感想を漏らしたあと、先輩は優しい顔をして猫を抱き上げた。
 あれっ、この猫、触るのは許してくれても抱き上げようとすると嫌がっていたのに、先輩には抵抗しないんだ。
 猫は大人しく先輩の腕に抱かれて、丸い目をぱちぱちさせている。
「毛並みもよくないなあ。こら、爪を出すな。窓から放り投げるよ」
 憎まれ口を叩きつつも先輩は穏やかに猫を撫でている。
 猫は気持ち良さそうにごろごろと喉を鳴らして、先輩の腕の中でくつろいでいる。
 ……なんか、狡い。
 私にはそんなに懐いてくれなかったのにな。
「本当に汚い猫だなあ。ちょっと不衛生だぞ?」
 先輩は嬉しそうに笑って、すりっと猫の額に顔を寄せた。
 にゃん、と猫が返事をして、先輩の頬を舐めた。
「うーん、お前に舐められてもあまり喜びは感じないよ。私は是非こっちの子猫ちゃんに悪戯されたいというか、逆に悪戯を心ゆくまで仕掛けたいというか」
 と、怪しい発言をしながらも、やっぱり先輩は嬉しそうな顔をして猫を愛でていた。
「先輩、猫、好きなんですね」
「んー、そうかな。ああ、そうかもね。子猫ちゃんは大好きだよ。脱がしがい、調教しがいがありそうだし、きっと連続的に響く鳴き声も心地いいに違いないだろう」
「……私の質問はなかったことにしてください」
 先輩が声を立てて笑った。
 仲間はずれにされたと思ったのか、猫が、にゃあっと訴えるような声で鳴いた。でも、少し疎外感を持っているのは私の方かも。何だか先輩と猫って絵になる感じだ。どっちも気紛れでちょっと高飛車で。
 所在ない心地になって困惑しながら先輩達を見つめていると、ふと微笑されてしまった。
「あ、拗ねてる」
「ええ!?」
「嫉妬だね、拗ねてるね」
「なななな!」
「そうかそうか、私ったらいけないご主人様だな。他の猫に浮気をするなんてね。しかし安心しなさい、太陽が別の色に見えるくらいのイイ時間を用意しようではないか」
「うぐひ」
 別の意味で太陽が違う色に見えてしまいそうな気がして意識を失いかけた時、水屋先輩が机に腰掛けて、私と猫の頭を順番に撫でた。
 ……猫と私、同じ扱い?
「ほらほら、好きなだけお鳴き」
 鳴きません!
 力一杯抗議しようと思ったけれど、こっちを見下ろす水屋先輩の目はとても柔らかだった。
「両手に花、じゃなくて両手に猫」
 楽しげな先輩の声を聞いて、私と猫は同時に変な声を上げてしまった。
 
■■■

【恋愛羽化】――水屋と西田

 次の授業が始まる直前に「愉快な誘拐」なんて冗談を言われ、私は水屋先輩に誘拐されてしまった。
 そして辿り着いた場所は校舎裏の木の側。
「ここ。西田さん」
 先輩が指差す先を見ると、そこには蝶の蛹がくっついていた。羽根の色が透けている。
 私、蛹を見るのは初めてかも!
 しかも動いている。
「もう、出てくるよ。普通、蝶の羽化は明け方なんだけれどね。日中に見られるのは珍しい」
「本当ですか!」
 私達は真剣になって蛹を見守った。カメラを持ってくればよかった!
 どのくらい時間が経ったのか――ゆっくり、ゆっくりと蛹が割れて。その後は結構早かった。数分の間に蝶が蛹を脱ぎ捨てたんだ。
「わ、わぁ! 出てきました、先輩!」
 すっごい感動。ちょっと不気味なんだけれど、でもとても胸が高鳴った。
 生まれたばかりの蝶が羽根を震わせ、一生懸命動こうとする。固まっていない羽根が、少しずつ広がっていく。
 凄い。うまく言えないけれど、何か奇跡っぽい。
「蝶とは違うけれど――人の気持ちも羽化するよ」
 先輩が笑った時、蝶が羽根を広げて、青空へ飛び立った。

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【恋愛脚本】――イリ兄妹

「もういい加減にしてよ、兄さん」
 私は道の途中で、うんざりと溜息を落とした。
 今日の計画が、兄さんの乱入で滅茶苦茶になってしまったのだ。予定では、一人の休日を満喫するべくまずは書店で本を買い、喫茶店で軽くお茶して休憩し、『夢の鉄道・子供記念館』というちょっとマニアな会館を覗いたあとに百貨店内を巡り、最後に近所で開催される素人漫談会を楽しむはずだったのに、なぜか混雑している繁華街の方へ連れてこられてしまった。哀れだ、私。
「何なのさー、何のつもりなのさー」
 兄さんの腕が肩に回っているお陰で、逃げることさえかなわない。
「昼飯、食いに行くんだよ」
 素っ気ない説明に、一人で食え! と心の中で抗議する。
「私には私の完璧な計画というものが」
「俺にも俺の予定ってものがある」
 あぁ兄さんってば本当に自己中万歳な人だこと。
「兄さんが行くような店は私に合わない! 私は暖簾のない小料理店とか居酒屋とか大衆食堂がお好きですのよ」
「あっそ」
「予定外の店に行くのは疲れるの。私の脚本に番外編なんてないんだってば」
「そんなシナリオ、今すぐ燃やせ。価値ゼロ」
「蹴りたい……後ろから思いっきり蹴り倒したい……そうすれば私の心に天使が戻るに違いない」
 兄さんはすこぶる底意地の悪そうな笑みを浮かべて、私を見た。
 あぁ嫌だ。なぜ私がこんな悪の塊と仲良く昼食を食べねばならないのだろうか。
 大体、こうして一緒に歩くこと自体、あまり好きではないのだ。私に女心というものがあるとすれば「道行く人々に、つり合ってない恋人達だと思われそう」なんていう卑屈で切実な物悲しい感情が生まれる状況だと思う。うぇー、今本気で寒気がした。
「兄さん、腕離してくれない?」
 肩が重い。まるで怨霊を肩に乗せている気分だ。
「嫌デスヨー」
 などと明らかに小馬鹿にしくさった妙な節付きの台詞で却下されてしまった。
「お前が兄さんって呼ぶのをやめたら、考えてやらなくもない」
「嫌デスワー」
 お返しに兄さんの口調を真似して答えると、肩に回されていた腕で髪の毛をかき回された。畜生!
「ところで、水屋がお前の友達拉致って恋愛宣言したって?」
 兄さんったら、興味ない顔しているくせに意外と情報通なのだ。
「女同士というのは水屋にとって不利だよな。妊婚に持ち込めねえもんな」
 妊婚、言うな! そんな略語を街中で堂々と口にしないでほしい。
「レンアイ宣言ねぇ」
 兄さんにとっては阿呆らしいことに思えるのかもしれない。分からない。
「いいじゃないの、段階をきちんと踏んでいて」
 なんてフォローした私の顔は言葉を裏切って引きつっていたかもしれない。多分、この話が友人である冴に関わっていなかったら、私も兄さんみたく鼻で笑ってしまっただろう。私は恋愛のすったもんだをウザイと思う女子高生なのだ。最近、特にそう思う。兄さんの影響を大きく受けているに違いない。悪の影って、本当に色濃いものだ。
「お前と俺って、根本的なところは似てるよなあ」
「ウワッ、悪夢!」
 兄さんと似ているだなんて縁起でもない。
「似てないよ、私は兄さんよりまともな思考を持ってるもの」
 そうなのだ、恋愛をウザイと言いつつも、もし自分に恋人が出来た時、小心者の性として浮気などはしないだろう。世界を巡り回るお金のように、次々と女のもとを渡り歩く兄さんとは天と地ほどに違いがある。
 拒絶したというのに、兄さんはおかしそうに笑った。
「お前が一番面倒じゃなくて楽なんだよ」
「楽っていうより、都合がいいの間違いでしょうが」
 気分がどんどん沈んでいく。地球の底を突き抜けて、反対側の大気圏にまで突入しそうだ。
 そんな安っぽい基準で弄ばれているのかと思うと、情けなくて涙が出てくる。
「振り回されるの、ご免だしな」
 そーですか。
 苛つく奴だ。
「じゃあさぁ兄さん」
「何」
「私が兄さんを振り回せば、嫌になってくれるってわけね」
 兄さんが急に立ち止まったため、私は危うく転倒しそうになった。肩を掴まれていたので、地面と抱擁をかわさずにすんだけれど。
 もしかして怒らせたのかと僅かに戦きつつ、兄さんの顔を見上げてみる。
 笑っていやがる、この男。
「いいねえ」
「……何が?」
「そりゃいい。振り回せるものなら――」
 兄さんが食いつきそうな目をして、振り回してみれば、と囁いた。
 何か、兄さんが書いたシナリオの上で踊らされている気がしなくもない。

■■■
 
【恋愛相談】――西田とイリ

「博司さんに……仕返し」
 私はたった今告げられたイリちゃんの言葉を繰り返した。
 場所は私の部屋。結構遅い時間に、微妙にやつれた顔のイリちゃんが来て、泊まらせてって頼まれたんだ。
 泊まりに来てくれるのは楽しいから嬉しいんだけれど、この頃、やけにイリちゃんの訪問数が増えている気がする。
 それはともかく、イリちゃんが口にした大胆発言に、私は驚いてしまった。
「あの、イリちゃん。そんなに博司さんに嫌がらせを受けているの?」
「そう。全くその通り。その嫌がらせというのがまた実にいかがわしー手段で」
「え?」
「……何でもない。ととととにかく、兄さんをぎゃふんと言わせたい。というか、断末魔の叫びを上げさせたい」
 イリちゃん、それ、死んじゃうよ。
「ほらっ、冴だっていつもいつも水屋先輩の爆笑トーク……じゃなくて情熱トークに振り回されているでしょ! たまにはやり返したいと思わなくて!?」
 うん、少しは思うけれど……、イリちゃんて白熱すると言動に演技が入ってくるんだよね、面白いというか可愛いなあって思う。
「というわけで、奴らを死霊の生け贄にする計画をじっくりことこと煮詰めようではありませんか冴殿」
「う、うん」
「大体奴らは、私達が無力だと思っている!」
「イリちゃん……?」
「そうだ奴らを超える生物を捕獲し、戦わせてみるとか」
 もう別の方向へ話がずれていると思うよ。
「そうだイリちゃん。あのね、この前バイト先で知り合った子に、合コンしないかって誘われたんだ」
「やるではありませんか」
「それで、友達も誘っておいでっていう話で」
「私も行く。そこで強者そうな生物を捕獲できるかもしれませんことよ冴様」
「うん、でもね」
「何を弱気な!」
 私はかなり寒気を感じつつ、イリちゃんを見返した。
「もし、合コンに行ったりしたら、何か後々、とても恐ろしい出来事が起きる気がして」
「……」
「それで、もし私達が運良く二人を振り回せたとしても、そのあと、やっぱり恐ろしいことが起きそうで」
 私達はしばらくの間、恐怖を感じるくらいの沈黙に包まれた。
「冴……」
「うん……」
 私達は二人して、鳥肌が立った腕をさすった。
「ご免ね、相談してくれたのに、役に立てなくて……」
「ううん、こっちこそ……」

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【恋愛取引】――水屋と西田

「駄目」
「先輩……」
「駄目なものは駄目」
 水屋先輩が怒った目で私を見下ろした。
 実は遠藤先輩と私で生徒会用の備品(というか珈琲とか紅茶とかなんだけれど……)を買いに行くという話が問題になっているんだ。
 誰が買い出しに行くかっていうのは、公平にくじ引きで決めたんだけれど。
 水屋先輩がとっても険しい表情で、「駄目」と言い、私を引き止めようとする。
「遠藤と二人きりで買い物なんて許せん。遠藤、一人で行くがいい」
「先輩、でも、くじ引きで……」
「何、西田さん。遠藤と浮気したいの。へえぇ、二人で新婚みたくカートを押しつつ買い物したいわけ。不潔だ、二人で一体何を買うつもりなんだ!」
 生徒会用の備品です……。
 というか、どうして買い出しが浮気という話になるんでしょうか。
「会長、我が儘言わないでください。買い出しメモを見たら、この量、俺一人じゃ持ちきれませんよ」
 と遠藤先輩が困惑した表情で訴えたけれど、どうして同学年の水屋先輩に敬語を使っているんだろう。理由を知るのがちょっと怖い。
「……んだと、てめぇー、私の子猫ちゃんに荷物を持たせるつもりなのか、あぁ?」
 みみみ水屋先輩、凶暴モードに入ってます!
「いえ、滅相もない! 俺一人で行ってきます!」
 遠藤先輩が地獄を見たような顔でそう叫んだ。
「あっ、待ってください。くじで決めたんですし、私も行きます」
 下級生の私が楽をして、上級生の遠藤先輩に全部押し付けてしまうのは心苦しいものがある。
「何それ! 浮気宣言?」
 水屋先輩が本気でショックを受けたという顔をして、私を睨んだ。
「違います! ただ買い出しに行くだけですっ」
「分かっていないようだから教えてあげるけれどね、西田さん。この遠藤という男、見た目に反してソッチの方面では積極的なんだよ。何だっけ、先月末、二年の成瀬東子という女生徒と一年の松井瞳という子に」
「わーっ!! 俺、すげえ一人で行きたい! っていうか行かせてください会長!」
 水屋先輩の台詞の途中で遠藤先輩が絶叫し、涙目で懇願した。
「水屋先輩、脅しちゃ駄目ですっ」
 遠藤先輩が死にかけというくらい辛そうな表情をしたから、つい私は口を挟んでしまった。すると水屋先輩は、むぅっと眉間に皺を寄せたあと、とても機嫌を損ねた感じで顔を背けた。
「先輩、あの、寄り道とかしないですぐ戻ってきますから」
「ヤダ」
 何だか聞き分けのない子供を相手にしている気分だ。
「……あー、名案浮かんだんだけれど、会長と西田が買い出しに行くっていうのはどう」
「あぁ!? この私に買い出しに行かせた上、更には荷物を持ってこいと命令するのか貴様は? 二度と朝日を拝めねぇツラになりたいのか。内臓を爪楊枝で抉るぞ?」
 先輩の顔がどんどん凶悪になっているような。と言いますか、もうホントに男性としか思えない言動です。
「じゃあ、私が一人で行きます」
 このままだと収拾がつかなくなると思って、一人で買い出しに行く覚悟を決めた。
「駄目ッ」
「でも、皆さん、お茶飲みたいですよね?」
「別の奴に買い出しに行かせる」
「駄目です、先輩」
 私と水屋先輩はお互いに「駄目」という言葉を繰り返した。先輩って、頑固!
「どーしても遠藤と買い出しに行きたいんだ? その途中で暗い場所に連れ込まれて襲われたいんだ? そして両親には言えない『旦那様、もう許して堪忍して』という不埒なことを経験したいと、そう言うんだね」
「ふぐぅっ、言ってません!」
「浮気者! あの日私の身も心も縛ったのに、もう他の奴に気を移すなんて……! 買い出しの帰り道で『重いだろ、西田。俺が荷物持ってやるから』『いえそんな、私持てます』『遠慮するなよ、ほら』『遠藤先輩……あっ』なーんていちゃつきつつ、手と手が触れ合った瞬間に頬を染めるつもりなんだ。不良!」
 後方で他の役員達が、水屋先輩の一人演技を見て卒倒しかけていた。私も半分、意識が消えかけていた。
「分かった、そこまで言うんなら……」
 と水屋先輩は踵を返し、生徒会室の隅に置かれている『前会長の遺産達』と呼ばれて恐れられる箱の中をごそごそと探った。一体次はどんなことをするんだろうと思ったら、先輩は玩具屋さんで売られているようなナイフを持って戻ってきた。
「これで私を刺してから行きなさい」
 と私の手に玩具のナイフの柄を握らせ、刃の先端部分を自分のお腹に当てた。
「……」
「行けるものなら行ってごらん」
 先輩、これ、刃の部分を押したら引っ込むっていうトリックナイフですよね……。
 私は九割くらい魂を飛ばしつつも困惑した。先輩は私の手に自分の手を重ね、真剣な顔で見つめてくる。
 うん、刺しても絶対に怪我はしないだろうけれど、本当にそれをやってしまった場合、別の意味で大変な事態を招きそうな感じだ。
「私を裏切る覚悟があるなら、刺せるよね」
 話がとんでもなく大袈裟になってきていませんか。
 心情的に、絶対刺せないです。あとがかなり怖いです。
「ねえ、行かないで」
 私が硬直していると、水屋先輩が今度は泣き落とし作戦で訴えてきた。
「……あの、ホントにすぐ戻ってきますよ?」
 学校から徒歩で十分のお店に行くだけなんだし。
「ヤダ、駄目」
 うう、先輩のこういう目に弱い。絶対演技だと思うんだけれど、時々今にも壊れそうなとても儚く切ない目をするんだ。
 負けた、と私は項垂れた。
 その時。
「じゃあ、俺が西田の代わりに行く」
 成り行きを見守っていた長谷川先輩が飄然とした態度で近づき、私と水屋先輩の手からナイフを取り上げた。
「えっ、でも長谷川先輩」
 慌てて呼び止めると、長谷川先輩は微かに笑って私の頭を軽く叩いた。
「水屋がここで本当に血塗れになったら困るだろ」
 と言ってナイフを水屋先輩に手渡したあと、ぽかんとしていた遠藤先輩を引きずって生徒会室を出て行った。
 ……血塗れ?
「水屋先輩」
「何?」
 水屋先輩は、作戦成功という感じの腹黒い笑みを浮かべていたけれど、私が振り向くとすぐに爽やかな表情を作った。
「まさか、そのナイフ」
 私は背中をぞくぞくさせながら、先輩が持つナイフを見た。
 水屋先輩はにっこりしたあと、ポケットから小さな鞘を取り出してナイフをぱちんとおさめた。
「そそそれ、玩具ですよね。本物じゃないですよね!?」
 くるりと手の中でナイフを回し、水屋先輩が片目を瞑って鮮やかに笑った。
「ナイフも私も、真剣みたいだよ」

●END●


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