恋愛映画
二時限目の休み時間の事だった。
よく晴れた空、時折軽やかに髪をくすぐる気持ちのいい風。私とイリちゃんは教室の窓際で爽やかな風に目を細めつつ、のんびりと他愛無いお喋りに興じていた。
あ、飛行機雲、とイリちゃんが空を指差したから、私もつられて空を仰いだんだ。
私はこの時、窓の縁に体重を預けていた。すると突然、身体を挟み込むように両脇から誰かの腕が伸びて、窓の縁を掴んだ。
隣で私と同じポーズを取っていたイリちゃんの目が驚きに見開かれ、硬直している。勿論、私も全身凍り付いていた。背中に誰かの気配。微かな甘い香り。身体に触れる程接近しないと気がつかないくらい、微かな香り。
「素晴らしい空だね」
最早聞き馴染んでしまった麗人の声が背後で響いた。振り向かなくても誰か分かる。
水屋先輩。
「そ、そ、そうですね、先輩」
私は思い切り吃りつつ、何とか返事をした。
ついつい習慣となっているヘルプの視線を横目でイリちゃんに送った時、水屋先輩だけじゃなくてもう一人、誰かがすぐ側に立っていることに気がついた。
……久能先輩、じゃない?
私は勇気を出して、ほんのちょっとだけ視線をずらし、イリちゃんの方を窺った。
「うぎっ?」
と、イリちゃんが変な悲鳴を上げた。誰かが、イリちゃんの頭に腕を置いた……というか、まるで肘掛け代わりに寄りかかっていたんだ。
凄く背の高い男子校生。黒い髪の毛を少し立てていて、鋭い目をしている。しかも、面白いくらい制服を着崩している。久能先輩とはまたちょっとタイプが違うけれど、型破りって感じで格好よくて。
イリちゃんはその人に全体重を預けられているせいか、少しよろめいていた。頑張れイリちゃん。
私が心の中で応援するだけに留めた理由は――その人を知っているから。
イリちゃんの、お兄さん。入江博司。
正しくはお兄さんじゃなくて従兄なんだってイリちゃんが以前教えてくれた。でも事情があって兄妹同然に、一つ屋根の下で生活しているんだ。イリちゃんが物心のつく前、博司さんの両親が蒸発してしまったらしい。それで、イリちゃんの両親が幼い博司さんを引き取り、自分達の子供として育てることにしたんだって。
イリちゃんの家へ遊びに行った時、何度か顔を合わせた事があるけれど、殆ど話した事はない。何だか少し近づきにくい雰囲気を持っているし、イリちゃんもどちらかといえば避けている感があるんだよね。勿論、嫌っているわけじゃないと思う。
「やあ、水屋のキューティハニィ」
と、私をじろじろ眺め回しつつ、博司さんは面白そうに言った。
ぐふぅ、とイリちゃんが痛烈なダブルショックを受けたような顔で掠れた悲鳴を上げた。何がダブルショックなのかといえば、キューティハニィという言葉と、博司さんに頭を占領されている事だ。
というか、キューティハニィって何ですか!?
「入江さんの兄であることを差し引いても、5秒以上そんないかがわしい目で西田さんを見つめるのは許せないな。無論、西田さんが私のキューティハニィである事は間違いないが」
「ひぃ」
私は倒れそうになった。危ない、窓、開放しているんだった。落下すれば大怪我すると思うし。
「今日の空は一段と美しいな。雨でも晴れでも、西田さんと共に見る空は特別だからね」
さっきまで和気あいあいとしていた教室内が、凍える程静まり返っているのは気のせいですか。
「空に輝く太陽など目ではない。私の心を焦がすのは西田さんだとも。そう、それは恋という名の甘く淫靡な灼熱の楔……」
ふひぅ、というイリちゃんの切実な叫びと、博司さんの笑い声が重なった。
「そう思うよね、西田さん」
ごめんなさい水屋先輩、私の意識が、さようなら今から失神するね、と儚く手を振っています。
私はぎくしゃくとした動作で恐る恐る振り向いた。
……振り向いた瞬間、時が止まった。ううん、全てが凍結した。
「みみ水屋先輩、その格好は……!」
「あ、これ? ははは、滝生から強奪、いや、借りてきたんだけれどね、似合う?」
水屋先輩はようやく窓の縁から両手を離し、満面の笑みでポーズを取った。私は酸欠状態みたいにぱくぱくと口を動かすことしかできない。
水屋先輩が、男子の制服を着ていたりしたんだ。
ああもう、何に驚けばいいんだろう。ぽろっと漏れた「強奪」という本音を表す言葉か、なぜか男子の制服に馴染んでいる先輩の姿か。
「駄目? 似合わない?」
「ととととてもよくお似合いだと思います」
水屋先輩がにっこりと笑った。私は目のやり場に凄く困って、視線をさまよわせた。そのお陰で、水屋先輩のネクタイが少し曲がってしまっているのに気がつく。
何でも器用にこなしてしまう水屋先輩だけれど、たまには些細な崩れとかもあるんだなあって私は感心し、小さな発見にちょっとだけ喜んでしまった。
「西田さん?」
「先輩、少し、ネクタイが曲がってます」
「本当?」
きょとんとした表情で水屋先輩が首を傾げた。自分のネクタイを結ぶのって慣れていないと結構難しいんだと思う。微かに眉を寄せつつ奇麗な指で不器用そうにネクタイをいじる水屋先輩の姿が、なんだか微笑ましく見えてしまった。
「直った?」
「いえ、ここが……」
普通な感じで訊ねられたから、私もつい友達の襟を直すような感覚で水屋先輩のネクタイを整えた。
「直りました」
と顔を上げた時、私はぎょっとしてしまった。ひどく近い場所で、水屋先輩が嬉しそうに唇を綻ばせ、私を見下ろしていたんだ。
もしかして、もしかして、私、はめられたとか墓穴を掘ったとか。
「いいな、こういうの。言うなれば会社へ向かう夫と新妻が毎朝繰り広げる愛の儀式だ。どうする私、毎朝玄関先で『いってらっしゃい、あなた』の笑顔と接吻で西田さんに見送られるなんて。そして時々は『行かないで、寂しい』などと甘えられたりするわけだ。行かないよ、どこにも行かないとも西田さん」
あ、クラスメイトが黒板に激突する音が聞こえたような。
「水屋、今時接吻はないだろ、接吻は。それはともかく、新婚の夫婦が毎朝行う儀式なんて、一ヶ月もすりゃ飽きる。行くなと引き止められるどころか、その内、とっとと行けと、追い出されるのがオチだ」
博司さんが極めて現実的な突っ込みをいれた。奥さんに邪険にされる肩身の狭いサラリーマンのお父さんを、私は一瞬想像してしまった。
「違うな、私達は永遠に新婚だ。なぜなら毎朝、西田さんに惚れるため」
げほっとイリちゃんが辛そうに咳き込んだ。私は手榴弾に等しい水屋先輩の告白で、泡のように消えかけていた。魂がだ。
そもそも私達は結婚できないんじゃ、という遠慮がちな心の声が聞こえる。
「愛の語らい中、非常に申し訳ないのですが、久能先輩はどうしたんですか?」
博司さんの腕を頭に乗せたまま、イリちゃんが毅然とした表情でそう訊ねた。私もそれが凄く気になっていた。水屋先輩の驚異的な台詞に肉薄するツッコミを入れてくれる久能先輩は、どうして姿を見せないんだろう。
水屋先輩の隣には必ず久能先輩、っていう法則が私の中にあって、姿が見えないと変なふうに不安な気持ちが膨らんでしまう。
「滝生か。奴は今日、休みだよ」
「えっ?」
咄嗟に私は大声を上げてしまった。どきどきしていた胸が一瞬だけ、冷たくなる。
「昨日、滝生は私の邪魔をしたから自業自得だな」
と水屋先輩が悪辣としか表現しようのない微笑をたたえつつ、私を見下ろした。
昨日、というのは、例の盗撮がやっぱり関係しているんだろう。図書室から私とイリちゃん、小沢先輩を逃すために久能先輩は自分の身を犠牲にしてくれたんだっけ。
うわぁ、あのあと久能先輩が一体どうなったのか、知るのが恐ろしすぎて寒気がしてきた。
――そうかあ、今日は先輩と会えないんだ。
ちくちくと胸を突き刺す不思議な感情。小さな痛みを感じて、私はそっと手を握り締めた。何だろ、急に支えるものをなくしてしまったような、不安定な気分。脱力して、この場に座り込んでしまいそう。
「あのぅ、もう一つお聞きしたいんですが……兄と水屋先輩って、お知り合いでしたっけ」
イリちゃんが質問した時、博司さんが何だか見下すような視線で私を貫き、唇の端を歪めて笑った。
博司さんの眼差しは、落ち込んでいた私にもっと不安感を植え付ける。今考えていた事、覗き見られたような感じがした。
「確か先輩達、別のクラスでしたよね?」
「うん? 確かにクラスは別だけれど、入江と滝生が以前から知り合いだったので、何度か話をしたことはあるよ」
俯く私の肩に、水屋先輩はさり気ない仕草で手を置いたあと、イリちゃんの質問にあっさりと答えた。
困惑の色を浮かべたイリちゃんの視線が、私と先輩を交互に映した。そうだ、盗撮の件について、イリちゃんが博司さんに相談してくれたんだった。
「色々とね、話し合ってみた結果、共同戦線を張る事にしたんだよ」
水屋先輩は穏やかな優しい微笑でそう言ったけれど、裏に何か恐ろしい企みを秘めていそうな感じがする。
「共同戦線?」
イリちゃんが微妙に青ざめつつ、鸚鵡返しに呟いた。
イリちゃん?
「そうそう、共同戦線」
と、博司さんが皮肉な微笑を浮かべて歌うように繰り返した。益々イリちゃんの顔が強張る。
「あ、あの! そういえば先輩、さっき用事があるって……」
イリちゃんが何だか必死に助けを求めるような目を向けてきたから、私は焦った口調で話を逸らした。
「放課後、ダブルデートしよう」
きっぱりと水屋先輩が言った。完璧な笑顔でだ。
「「はい?」」
私とイリちゃんの返事が重なる。ダブルデート?
「放課後デートのために、制服を着てきたんだよ。学生といえば放課後ロマンス。制服は必需品。銀行強盗と目出し帽とマシンガンがセットのごとく。あるいは高層マンションの夜景とシルクのガウンと赤いワインがセットのごとく。これが譲れぬ主張、極めて不変の王道というものだね」
むしろ邪道では、と私は思ってしまった。
「映画DEデート。チケットは購入済み。行こうね」
「でも、そのぅ、私、制服着てませんし……」
私はくらっと目眩をおこしつつも、一応遠回しに辞退の言葉を差し出した。
「問題はないよ。私の制服を貸すから」
「ひぅ」
仰け反る私を眺めていた博司さんが、ぽすぽすとイリちゃんの頭を軽く叩いた。
「そして歩の制服は俺が持って来ているし」
「えええ!?」
イリちゃんが頭頂部に乗せていた博司さんの腕を外し、仰天した様子で振り向いた。ちなみに、イリちゃんの下の名前は、歩っていうんだ。
「なな何で、私まで!?」
「ダブルデートと言っただろ、馬鹿だな」
死刑宣告みたいな博司さんの言葉に、私とイリちゃんはお互いに抱き合いつつ後退りした。ダブルデートって、この四人で!
「ちょっと待って、冴と先輩はともかく、何で私と兄さんも?」
イリちゃん、私と先輩はともかく、ってどういう意味かなあ?
ところでイリちゃんは、博司さんのことを「ニイサン」とは言わず「アニサン」と呼んでいる。……なんて蛇足的な事を考える私はやっぱり現実逃避しているんだと思う。
「放課後迎えにくるからね。――まさかそんなことはしないと思うけれど、もし逃亡を企てた場合、二人共あとでどうなるか分かるよね?」
戦慄を呼ぶような水屋先輩の脅迫に、私とイリちゃんは仲良く魂を昇華させた。
■■■
気分はまるで悪代官に無理矢理接待を命じられた商人の娘だね、とイリちゃんが独白した。
放課後。
私達四人は周囲の視線を集めつつ、ミニシアターへ向かった。先輩と博司さんはとにかく目立つ。鋭利で格好いい博司さんと、優雅で格好いい先輩。ここに久能先輩がいたら、何だか三大魔王って感じがするかも、なんて私は変な事を考えた。
久能先輩……今、何をしているのかな?
切なくなった時、飲み物を買いに行っていた水屋先輩が戻ってきて、私の顔を覗き込んだ。
「あ、ありがとうございます」
チケット代とかジュース代を払うと言っても、先輩は笑うだけで受け取ってくれない。奢ってくれること、嬉しいような悪いような、複雑な気持ちがした。
「レンアイ映画ねぇ……」
イリちゃんの隣に座っていた博司さんが、パンフに視線を落としながら独白した。博司さんは何となく恋愛映画とか好きじゃなさそう。
「結構評判はいいみたいだけれど?」
私の隣に腰を降ろした水屋先輩が、苦笑している博司さんをちらっと眺めて柔らかく言葉を返した。ううん、普通の態度の時の水屋先輩は、とっても穏やかで人当たりがいいんだけれどな。いつもこうだったら嬉しい……。
「まあいいか。貸し切り状態だしな」
博司さんの言葉通り、館内には私達以外誰もいない。客席数はたった五十程度しかなくて、全体的に可愛い造りをしたミニシアターだった。
「貸し切りか。何をしても無礼講だな。暗闇は罪を許し、全てを受け入れるしね」
さらっと紡がれた水屋先輩の言葉がとても怖いです。
「その通り。暗い場所は、どんな罪も包み隠す」
博司さんが楽しげな表情を浮かべて、ぴきっと固まるイリちゃんの顔を覗き込んだ。
え? え?
混乱する私を、博司さんが深く斬り込むような、何とも言えない壮絶な目で一瞥した。
「俺はシスコンなんだよ」
すうっとイリちゃんの顔から血の気が失われた時――館内にゆっくりと暗闇が舞い降りた。
暗くなりきる前に、博司さんがイリちゃんの腕を取って立ち上がる。
「え?」と驚くイリちゃんを無視して、博司さんは水屋先輩だけに話しかけた。
「席がこれだけ空いているんだから、何も隣に並んで観ることはないだろう。お前達のために、離れて座ってやる」
イリちゃんと私は示し合わせたように両方の頬を押さえ、か細い悲鳴を上げた。何かホラー映画の登場人物になった気分だ。
「私達のために、ね」
水屋先輩がからかうような声音で返答し、くすりと笑った。
「そういうことに、してあげよう。好意を無にしては失礼だろうからね」
「俺達は前列の席に移動する。歩、行くぞ」
そんな……! と絶句する私とイリちゃんの抗議をさらっとかわした水屋先輩が、暗闇の中、博司さんにひらひらと手を振った。
■■■
その映画は「time love time」というちょっとふざけた感じのタイトルで、パンフに掲載されていた概要もコミカルな文体だったので、私はラブコメディだとばかり思っていたんだ。
けれど実際は凄く切ない恋愛映画だった。主人公は女の子で、とても好きな人がいる。勇気を出して告白し、片思いが成就して喜んでいたのも束の間、恋人となった青年の元に以前交際があった女性からもう一度やり直したいって連絡がくるんだ。青年は主人公の女の子と付き合い始めたばかりでまだ心の全てを傾けているわけじゃなく、以前の彼女にまだ気持ちを残しているような状態だった。そもそも、嫌いになってその女性と別れたわけではないらしい。
主人公の少女は凄く悩んでいる。青年と別れたくないけれど、辛そうな顔も見たくないって感じ。悩む毎日を送っている時、運悪く交通事故に巻き込まれてしまうんだよね。
そこで主人公は――青年に関する記憶をなくすんだ。
正確には、交通事故により記憶の一部を喪失したふりを、する。
青年が自分に対して罪の意識を感じたり、気持ちを殺すような真似をさせたくないって主人公は結論を出す。そうして、あんなに好きだった青年を、「忘れた」ふりをして、以前の彼女のもとに送り出そうとするんだ。
もうこの辺の場面が、涙を誘う程健気だった。明るい笑顔を見せながら「私は記憶がないんだから、別に悩むことはないよ。こっちこそあなたのこと忘れて悪いと思っているくらい。だからせめてあなたには幸せになってほしい」っていうようなことを、躊躇う青年に繰り返し言い聞かせて、女性のもとに向かわせようとする。もう自分は以前の自分じゃないから、恋愛感情を持ってないって何度もアピールしてね。でも、全部、演技で。ホントに切ない!
私、イリちゃん達のことが気になっていたはずなのに、主人公の少女に完璧、感情移入してのめり込んでいた。
お願い、少女の本心に気づいてあげてよ青年! ってやきもきする場面になって――
映画が山場にさしかかった時だ。
少女の心に、青年が気づき始めて、強く問いただす。だけど、少女は頑に否定して、涙を流しているのに笑顔を作って「覚えてない」って叫んでいる場面。どきどきする。どうなるの、どうするのって、私も少女と同じく心拍数を上げてしまう。
そんな緊迫した場面。
――ふと、隣に座っている先輩が身じろぎした気配を感じた。
一瞬、集中力が途切れてしまい、私はスクリーンから隣の先輩へ視線を移した。ふわりと柔らかい髪の毛が頬に触れた。
え?
耳に、吐息。
前側から回された腕が、私の肩を押さえた。
主人公の女の子がぽつりと落とす、心の声が館内に響いている。
『あなたが誰を好きでも、私は』
耳に、先輩の唇がほんの微かに、微かに、触れて。
『あなたを誰より、何より――』
鼓膜に、心に触れる声。
『愛してるの』
「愛シテル」
台詞と重なる先輩の、声。
「――!」
たった一言。
先輩が口にしたのは、たった五文字の簡単な言葉。
嘘。
どん、と思い切り胸を叩かれたみたいな衝撃を、私は感じた。
呼吸がおかしくなるくらいずきずきとして、身体中の血が激流のように巡る。燃え上がったみたいに、頬が熱くなる。
ぐらっと視界が揺れてスクリーンが霞むほどの、熱。
何これ、何、何!
私、変!!
ざわざわと全身に鳥肌が立つ。滅茶苦茶動揺してしまって、私は無意識に両手で顔を押さえた。
だって先輩の言葉が!
こんなに、信じられないくらい心を貫いて、胸の中を暴れ回っているんだもの!
頬を押さえる私の手に、さらりとした先輩の指が触れる。私は熱湯に触ってしまったかのように、大きく反応してしまった。
スクリーンの光にぼんやりと浮かぶ先輩の輪郭。奇麗な目だけが明瞭に見える。
駄目、私――!
「西田さん」
とんでもないほど混乱したまま、私は勢いよく立ち上がって――
・■・■・■・■・■・■・■・■・■・■・■・(※この範囲は、イリ視点です)
どうしたものかなあ、と思うというか、悩むというか。
冴、今頃襲われたりしていないかなあ、と心配にも思う。
水屋先輩はもしかすると意外に本気で、必死なのかもしれないと更に考えてみる。大体、同性であるという時点で、誰よりもスタートラインが離れていて、ゴールが遠いのだ。冴を落とすのは、簡単そうに見えて実は難攻不落。そもそも冴は久能先輩に恋する少女であったわけだし。
傍観者でいる分には面白いし、水屋先輩を応援する気持ちもあるけれど、冴の心情や立場を思うと万歳三唱とはいかない。私は何だかんだ言いつつ、冴の味方なのだ。
現実も映画の世界も、恋は前途多難なものであるらしい。
私が現在置かれている状況も、様々な意味で非常に難しいものではある。
私は意識の半分をスクリーンに預け、もう半分の半分を冴達のことに、そして半分の半分の半分を今夜の夕食メニューに、残りを隣に座る兄さんへ傾けている。人間とは複雑なもんだ。
それにしても、なぜ私までが兄さんと並んで恋愛映画を鑑賞しなければならないんだろう。
冴達の近くに陣取っていた方が絶対愉快だったのに、と拗ねたくなる。
まず第一に、兄さんの隣なんて、気まずくて仕方がない。私はそれほど人見知りをする方じゃないが、苦手な相手というのはいかんともしがたいのだ。
何しろ、話が合わない。選ぶ友達のタイプも正反対。趣味や好みも全く逆。それに服のセンスも違う。つくづく異なるのだ。
ここまで感性が違っていれば普通は敬遠するものだし、実際、兄妹同然に暮らしているけれど今までは触らぬナントカに祟りなしっていう暗黙のルールに従って、お互い必要以上に干渉することなどなかった。そこそこ平和な日常を私達はそれぞれ別の場所で築いてきたのだ。いわば目に見えない国境線が私達の間には存在した。
それがなぜか、最近微妙に崩れ始めてきている。
私のせいじゃない。
兄さんが、変化したのだ。
なぜ。
その理由。
もしかすると、と思わなくもないことが、あるにはある。
しかし、信じたくないというか、気づきたくないというか。
ありえてほしくない可能性なのだ。
私は健全な恋がしたいと思う。冴達のように、好んで茨の道を突き進もうという度胸とやる気と誠意は全くない。手抜き、それが私の信条。の、はずで。
――兄としか、考えられないんだけれどなあ。だって、小さい頃から、兄として見てきたんだし、それ以外の何ものでもないというのは、最早どうにも変えられない真実。
人間の目というものは、結構心の内を正確に映し出すものだ。
兄さん、何を見てる?
いつから、そんな、男の人の目をするように?
――私はなぜ、兄さんの目に気づいたか。
いや、あれだけしつこく嫌がらせされて、こづき回されて、皮肉を言われれば誰でも気づくか。
歪んだ愛情表現はどうしたものか。兄妹の範疇を超えて、いじめに近い。そうだよこの人は本当に性格悪いよ、と私は内心で呟いた。
「つまんねえ映画……」
兄さんが、肘掛けに腕を乗せ頬杖をつきながら呟いた。
確かに兄さんにとっては退屈な映画だろうと私は納得した。
どうでもいいけれど、なぜ私側の肘掛けを独占するのだろうか。
まあ、どちらかといえば私も恋愛映画を好んで観る方ではない。映画の世界で展開される物語よりも、もっと興味深くて面白い友人と先輩の恋愛模様をつぶさに眺めているせいか、多少のことでは感動を覚えない体質に変化しつつあるようだ。
「この男も、うぜえな。何で迷う必要があるんだか。とりあえず両方キープしとけばいいだけの話だろ」
「……」
ああそうですね二股、三股を平然と、堂々と貫く兄さんならではの自己中心的な発想には負ける。
しかも乗り換えのサイクル早いし、隣室に私がいる時であっても平気な顔で女の子を自室へ連れ込むし。私が音楽好きになったのは、漏れ聞こえる女の子達の声を掻き消すため、大音量で聴いているからだ。節操なしで、貞節という言葉には後ろ足で砂をかける男だよ、兄さんは。
そうだ、こんな話、とても冴にはいえないが兄さんは数日前、他校の女生徒をお持ち帰りした時、私にゴムを買って来いなどと当然の顔で命令したのだ。なぜうら若き乙女がコンビニに出向いて、兄の欲望処理タイムに協力すべくいらぬ恥をかいてこなければならないのか。思い出すと殺意が湧く。
兄さんはいつか必ず、女に背中を刺されると思う。
「何だよ? その渋い気配は」
渋い気配って何。普通は、渋い顔って言うでしょうが。
「あぁ何だ、お前って純愛を信じてるとか」
兄さんがこっちに顔を寄せ、嘲笑を滲ませた小さな声で囁いた。煩いな、映画に集中できない。純愛を信じて何が悪い。……いや、純愛なんて言葉、本音では声に出すのも躊躇うほど非現実的でサムイと私も思う。絶滅種的な言葉と言えばいいか。しかし、兄さんが否定するというだけで、肯定したくなるのだ。
「あのさ兄さん。つまんないなら、先に帰っていていいよ」
私は冴が心配なので帰宅するつもりはない。兄さんがいなくなれば、気が休まるし。
「『アニサン』って呼ぶな馬鹿」
「兄さんは兄さん」
私はしつこく、あにさん、と繰り返した。どこぞのお嬢様ではあるまいし、上品にオニイサンなんて呼べるか。
「しかし水屋の趣味は分からねえ。地味顔が好きなのか」
「冴は可愛い」
「まさかお前もかよ」
うるさいなあ、もう……。
というか、兄妹で恋愛話なんかしたくないんだけどねえ。
私は無理矢理、意識をスクリーンに繋げた。兄さんとの会話は疲れる。無駄に体力を使う。
スクリーンでは、主人公が恋人の青年に、記憶喪失は嘘ではないかと問いつめられているところだった。それを知ってどうするんだ青年は。主人公の心を力づくでこじ開けて、救うことはせずに放り投げるのか。受け止める気もなく自分の心を満たす為だけに主人公の心を切り裂くつもりなら最低だ。
主人公の悲痛なモノローグが流れる。誰より愛していると。
「……単純な映画」
そう言いながら兄さんは、私の背と座席の背もたれの間に腕を無理に差し込んできた。
「な、何、兄さん」
私は小声で抗議した。
主人公のモノローグは続く。
『あなたを好きでいられて私は世界で一番幸せな人になれたから』
死にたいくらいに好きだと。
そんな愛、あるもんか。
「歩」
「何」
突慳貪に返事をしたら、暴力的な勢いで制服の襟をぐっと掴まれて、身体を引っ張られた。
「乱暴っ」
「それが何だよ」
「あのねえ……」
「俺はさ、歩」
殆ど喧嘩腰で胸ぐらを掴まれていて、実はビビリな私はかなり引きつっていた。
兄さんの目が怖い。いつからこんな目を。
鋭くて、冷めていて、だけど触れたらきっと熱い。女の子を勘違いさせる目だ。
「モラルもルールもくそくらえな人間なんだよ」
「知ってる」
「いや、それでも最後の砦くらいは守るつもりがあったさ。だが水屋がな、馬鹿らしいと笑った。誰のための砦か。ルールもモラルも全ては自分の幸福のためにある、自分の行動を妨げる常識など糞ほどの価値もないと」
あの水屋先輩が、そんな下品な台詞を口にしたのか、と私は驚いた。
「いつか壊れる砦なら、自分の手で相手もろとも破壊した方が楽しいってよ」
……その相手って、冴? あ、哀れな……と私は心底同情した。
「水屋に比べると、俺の方がまだマトモじゃねえか、なあ?」
少なくとも水屋先輩は、冴一筋じゃないか。兄さんより余程真面目で誠実だ。
私は思わず呆れて、兄さんの顔を見た。
鼓動が、早まる。
何で、そんな目で――
歩、と兄さんが私の耳元で囁いた。
「俺はお前に、誰より何より、死ぬ程エロイ事がしたいと思ってるんだが、どうするよ」
「――!!!?」
ケダモノ降臨……!!
私は即座に兄さんを突き飛ばして、立ち上がった。
・■・■・■・■・■・■・■・■・■・■・■・■・■・■・
「イリちゃ――ん!!」
「冴――!!」
私が椅子から立ち上がって絶叫した瞬間、なぜか前列の座席に座っていたイリちゃんまでも同時に悲鳴を上げた。
がたがたがたっと座席にぶつかりながらイリちゃんが、猛ダッシュで私の方に駆け寄ってくる。
私も死に物狂いでイリちゃんの手を掴み、そして。
――先輩と博司さんを置き去りに、二人で逃避行の旅に出た。
■■■
「ああああ先輩、先輩が変で、壊れて、愛って、耳、耳に……!」
「ケダモノ、兄さんが人間を捨てた、ししし死ぬ程って、何、何なの……!」
私とイリちゃんはお互いの手を握り締めつつ、映画館を抜け出して、街中の歩道橋の上まで走り切った。
というか、全速力で走っていたので、歩道橋の上という微妙な場所でついに息が切れてしまったんだけれど。
二人して荒い呼吸のまま、意味不明なことを叫び合ってしまう。
通行人が驚いた顔で私達を振り向いていたけれど、気にする余裕なんてなかった。
私達はお互いの身が無事である事を確認し、ひしっと抱き合った。
「冴、無事だったんだね!」
「イリちゃんもよかった!」
どうしてイリちゃんまでが混乱しているのか分からないけれど、とにかく私達は、慰めあって友情を深めた。
――あぁ神様、私達、これから一体どうなるんでしょう?
●END●
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