恋愛夜道
天使の卵。
お土産屋さんとかで、そんな名前の可愛い置物とか、よく見かける。
私のバイト先は雑貨屋さんなんだけれど、ちょっと変わった店舗だったりするんだ。
どんな感じかというと、長方形型に面積のあるワンフロアを分割して、四つのテナントが入っていたりする。特にしきりとかは設けていなくて、何だかフリマみたいな印象を受ける。一階は主に飲食関係のテナント。ちょっとした珈琲屋さんとか、お菓子屋さんとかね。二階は、雑貨関係。三階に服飾関係。
私が週に三回働く雑貨屋さんは二階にあるんだ。オーナーは渡部さんっていう仲睦まじい三十代の夫婦で、とても優しい人達だ。彼らは手作りの小物を商品として販売している。主に、天使の卵。
これが凄く可愛い。
掌サイズに作られた、硝子や陶器製の卵。ちょこんとしていて、先端に小さな穴が空いていて、覗くと万華鏡みたいに奇麗な絵が見えるんだ。卵の外側にも繊細で細かい絵が刻まれている。たとえば、不思議の国のアリスみたいな絵とか、そういう物語の一幕みたいな絵。女の子に結構人気があって、プレゼントとしてよく購入される。
全部、渡部さん夫婦の手作りで、新作が並ぶたび、私は胸が高鳴ってしまう。売るのがもったいないくらい可愛いんだ。時々、私も買ってしまうくらい。
ホントにバイト先に恵まれたなあって思う。いつもここへ来るのが楽しみで、嫌な事があっても仕事をしている間に消えてしまう。
……はずなんだけれど。
私は商品棚の埃をハタキでそっと払いつつ、重い溜息を吐き出したり赤面したりばたばたしたり、一人で不審な行動を取っていた。真向かいのお店で働く女の子が怪訝な顔をしてこっちをちらちらと見ていることに気づいても、心を平静には保てない。
――昨日の出来事が頭の中で何度も何度も再現されてしまって。
水屋先輩って手品師みたいだ。絶対できないっていうことをいとも容易くやってのけてしまう人。
普通、都合良く花束をくれたりドレスをくれたりなんてこと、不可能だと思う。
好きだって、好きって、本当に?
「わー、もう!」
真剣に考えようとすると、心が一気に沸騰したみたくなって絶叫せずにいられない感じだった。
何だろう、私。本当なら、水屋先輩が冗談で好きだと言ってくれた方がいいはずなのに。本気だったら困るはずで。
恰好いいし頭いいし……言動は過激だけれど……、でも最大の問題は、同性、という事で。
偏見とかそういうのってよく分からないけれど、でもでも! 何かもう色々と考えちゃって! たとえば女の子同士でフツーに手を繋いだりって特に抵抗なくできることだ。先輩も女性であるわけなんだけれど、……どうしてか、手を繋ぐところを想像すると、妙に意識してどきどきする気がする。
ふと考えて我に返り、私はまたまた絶叫してしまった。
何でこんなこと考えているんだろ、絶対おかしい! 誰より私が変だって!
うーと唸りながらその場にかがみ込んでハタキを握り締めてしまう。
「……西田?」
「うぁあう! はいっ!?」
心の中であちこち転がっていた時、突然名前を呼ばれて、私は勢いよく立ち上がってしまった。
「……何かかなり煩悶していたみたいだけど、大丈夫か?」
「ああっ久能先輩!? 本物ですか!」
つい目を疑ってしまい、失礼なことを言ってしまって青ざめた。
「多分本物ですよ」
「すすすみません!」
自分の馬鹿。私は胸中で泣きつつ、破裂しそうな胸を押さえた。嘘、本物の久能先輩だ。
「西田、ここでバイトしてるんだ」
「はい、一応バイトしてますっ」
久能先輩はくすりと笑った。わぁどうしよう、笑い方、可愛い。
「外から西田の姿が見えて、驚いた。偶然こっち方面に来たんだけれどさ」
「あ、そうなんですか」
緊張してまともな会話ができない。というか、ちゃんと顔見れないです。久能先輩と会えるんだったらもっと可愛い恰好をしてくるんだったって、どうにもならないことが分かっていてもつい激しく後悔してしまう。今私が着ている服ってバイト中汚れてもいいように、すっごいラフなやつなんだ。
「何時にバイト終わる?」
「あ、えと、10時です」
「あともう少しか。バイト少女に、奢ってあげよう」
ええええ! と私は内心で力いっぱい叫んでしまった。神様、ありがとう!
「いいんですか、嬉しいです、ああでも私、先輩の貴重な時間を! あっそんな私が奢らせていただきますし、もう何でもまかせてください、ばっちりです」
「西田、とりあえず落ち着け」
「はひ」
恥ずかしい恥ずかしい!
学校で顔を会わせるのと全然違って、いわゆるプライベートタイムを共有しちゃうってことで。
「じゃ、終わる頃にまた来るから」
しみじみと幸福感に浸る私に苦笑しつつ、久能先輩は去っていった。
一方私は、テナントの女の子にそっと肩を叩かれるまで、初デートの感激に包まれていた。
●●●●●
特別な夜の道。
いつもなら何も感じない夜の道が、今日はこんなにも大切に思えてしまう。
だって久能先輩とお茶してしまったんだ。喫茶店で、二人きりで、向き合って……!
「電車で帰るのか? それとも歩き?」
「いいいいえ、もう何でもオッケイです!」
「西田、おかしいから、それ」
距離が近いです、先輩と。
真隣。真横を久能先輩が歩いています!
先輩、背が高い、横顔が恰好いい。足長い。たくさんの発見があって、私は飛び上がりそうなくらい嬉しい気持ちを抱え切れなくて、変な受け答えしかできなかった。
「このまま帰るのも何だよなあ。健全にボーリングとかどう?」
「はい、もう私、ボーリングです、どこまでも転がります」
「……西田が転がってどうする」
うわぁ阿呆な子だと思われた!
自分に絶望してふらついていたら、唖然としていた久能先輩が次第に笑い始めた。
「西田って、変」
「うひ。ええと、はい、変な方向で頑張ります」
「いや、その方向間違ってるから」
「き、軌道修正したいと思いますっ」
久能先輩は堪え切れない様子で本格的に笑い出したけれど、私は穴があったら入りたい心境で赤面していた。
「あー、ウケた。……何かさ、西田とつき合ったら面白いだろうなって思った」
「はい私、道が続くまでどこまでもお供しま……ええええ!?」
仰天して、私は立ち止まり、さらっととんでもないことを告げた久能先輩を見上げた。
「お互い、怪しい奴に振り回されているから、こういう普通の付き合いが新鮮だよな」
久能先輩のいう怪しい奴って、勿論水屋先輩のことだ。
「何でああいう奇怪な人間を好きになるもんだか」
独白口調で告げた久能先輩の横顔を、私は放心して眺めていた。
「こんな風に水屋のいない所で話す機会、あまりなかったよな」
「あ、はい」
「一度聞いてみたくてさ。いや、ある意味聞くのが恐ろしくもあったけれどな」
私もどちらかといえば、先輩の質問を耳にしたくない気がします。
「ここでの話はオフレコってことで。……お前、どうするの?」
何をだろう? と私は首を傾げつつ、足下に転がっていた小石を見つめた。ちょん、と蹴っ飛ばして、先輩の隣を歩く。
「水屋とつき合うとか」
「うぐふっ」
何かに躓いたわけじゃなかったけれど、私は思い切り転びそうになってしまった。久能先輩が咄嗟に腕を伸ばして支えてくれなかったら、多分勢いよくアスファルトに激突していたと思う。
「こういう質問、フェアじゃないと思う……けれど、何て言うか、状況が普通じゃないだけに、訊ねずにはいられない気分になってしまう自分がな」
久能先輩が微妙に遠くを眺めて、複雑そうに微笑した。
「正直、受け入れがたいし、そもそも冗談なんじゃないかという疑いを捨て切れない」
とっても返答に困ってしまう。
「西田が男なら、まだ理解の範囲なんだけれどな。……それか、西田が水屋以上に奇抜とか」
ごめんなさい、私にはどう頑張っても水屋先輩を超えられる自信がありません。
「たとえばだ、こんなことを考える自分もどうかと思うが、一体何をどうするのか」
「はい?」
久能先輩がなぜかさりげなく口元を覆って、視線を泳がせた。
「あいつ、恋愛だと宣言しただろう。ママゴトみたいに、仲良く登下校したいという意味ではないよな。これが普通に男女なら、まあ、色々とその先が」
「あふぅぁあ!」
「発狂するな西田。俺も結構キビシイ」
あああ先輩の口から、そんな、そんな大胆過激な発言が!
「いや、ちょっと想像したくなるのが男というもので」
思わずといった調子でぽろっと久能先輩がこぼした言葉に、七割ほど魂が抜けかけた。数秒見つめ合って、先に視線を逸らしたのは久能先輩の方だった。先輩って、先輩って……。
「……そういう目で見るなって」
「……」
「だからな! そんな話はともかく、西田はどうするつもりなんだ」
力技で話題を無理矢理変えたという印象がしなくもないけれど、久能先輩の言いたいことは分かる。
「卑怯を承知で言えば、今の内にはっきりと水屋に断ってほしい。その気がないなら」
「えっ」
「という考えを持っているって話」
断る。
あぁそうか。私、水屋先輩に、自分の気持ちをちゃんと伝えていないんだ。
――でも、自分の気持ちって。
水屋先輩に対する自分の感情は少し複雑なんだ。
なぜなら、水屋先輩に告げる前に、まだきちんと整理していない想いがある。
私が立ち止まったため、久能先輩も足を止めて、どこか揺れる微笑を浮かべた。
「水屋って腹立つよな。最近俺は、本気であいつをへこませてやりたいという邪悪な衝動に駆られる」
久能先輩はとても楽しそうに囁いた。腹が立つと言いながらも、水屋先輩を思い出す眼差しはとびきり柔らかい。
――やっぱり、駄目なんだなあ。
すとんとそういう気持ちが胸の底に落ちる。
どんなに胸が締め付けられて好きだと感じても、それが相手の指に絡まらなければ運命にはならない。
未来は怖いけれど勇気を出さなきゃいけない場面がある。
きっとそれは、こんな時だ。
明日へ前進するために、必要な失恋。
「あの、先輩」
ぱちぱちと瞬く街灯。夜空の星も瞬き、この時間を見下ろしている。
――ちゃんと告白して、けじめをつけたいな。
玉砕することは決定で、先輩はとっくに私の気持ちを知っているけれど、一度もきちんと伝えていないからとても苦しくなったりする。こんな風に夜道を一緒に歩くと、まともに会話もできなくなるくらい舞い上がってしまうから。
幸せだけど、きっとこれ以上望んじゃ駄目なんだ。
「ああ、俺、今西田に告白されたら、いいよって答えるけど」
「ふひ」
決意して口を開いた瞬間、久能先輩に先を越された。
「俺も前に宣言した以上、男らしく、半ば本気でお前を落とそうかと」
「せ、せ、先輩、でも、あの、水屋先輩のことが……」
「腹いせかな」
腹いせ!
衝撃的な台詞を爽やかに言われて、私は卒倒しそうになった。
告白もさせてもらえない私って一体。
「恋愛って、片思いから進展することもあるんじゃないか? 告白されて、それで付き合い始めることなんて、ざらにあるだろう」
「せせ世間ではそのようなこともありますが、この場合は絶対駄目だと思いますですが」
必死に言い募ってみると、久能先輩はふむと一見考え込むような表情を浮かべた。……でも、内心ではもの凄い企みが進行中のように思えてとても不安になるんですが、気のせいでしょうか。
――というより、うまくかわされたのかなあって思う。
「いや、西田って俺のライバルになるんだよな」
「あひっ」
「さっきは断れなんて言ったけれど、水屋の性格上、素直に引き下がるはずがないだろうし。第一、西田って面白いほど丸め込むの簡単そうだし」
「うひぃ」
「自分でも意外だが、お前と水屋が関わるとさ、なぜかかなり嗜虐的な気分になるというか」
あぁ先輩、そんな凄く楽しげな微笑みで悪魔的台詞を。
「それに俺、水屋を抜きに考えれば、西田のことは結構好きなんだよ」
「うぐひ」
本日最大の衝撃パンチを浴びた心地です私。
「水屋の気持ちが微妙に分からなくもない。他人を転がす楽しさをこの頃覚えてしまったなあ」
気絶していいですか記憶喪失になってもいいですか、今すぐ。
「なあ西田」
先程とはがらりと態度を変えて清々しく笑う久能先輩が、ほぼ捕獲するような感じで私の肩に腕を回してきた。
あぁ先輩ってば何かいい匂いするし、髪の毛が結構つやつやで、笑顔が何て素敵で、というか、腕が肩に! 心拍数が異常を訴えつつありまして、私、もう限界が近いです。
「俺とつき合うのも、結構楽しいと思うよ?」
意識が夜空の彼方へ散っていきます、先輩。
●●●●●
翌日。
一睡もできなかった私の顔色を見て、イリちゃんが二、三歩後退しつつも心配そうな顔をした。
「保健室でちょっと眠ったら?」
「うん、そうする……」
イリちゃんに半分担がれつつ、私は穏やかな睡眠時間を夢見て大人しく保健室に向かった。
その途中。
ああ神様。あなたはやっぱり意地悪です。
水屋先輩と久能先輩に廊下でばったり会ってしまったんだ。
「西田さん? 具合悪いの? 抱いて眠ってあげようか?」
さりげなく怖い台詞を言っていませんか、水屋先輩。
「いえ、そんなどうかおかまいなく!」
と懇願したのは全く無視されて、水屋先輩に両手で頬を挟まれてしまった。
「この気怠い感じの眼差しにどうも背徳的な支配欲を覚えてしまうが、いけないいけない。保健室へ向かう途中だったんだね、西田さん。うん、これは先生を脅してでも保健室を貸し切らなければならないな。いやあ、心配だな。ちゃんと眠らせてあげられるか我ながら自分の理性に責任が持てなくて」
持ちましょう、是非持ってください理性を。
「よし来い、保健室ランデヴー。くっ、このオイシイ状況は全く予想していなかっただけに、えれぇ期待をしてしまうな。やばいな、授業など最早どうでもいい気になってきた。というか、んなもん呑気にやってられるか畜生」
せせせ先輩、言葉遣いの方がなにやら少しずつ壊れかけていませんか。
「冴、えーと、私はそろそろ教室に戻ろうかなー……」
イリちゃんが思い切り目をそらして、裏切りの言葉をぼそりと告げた。
ひどい、イリちゃん!
「大丈夫、西田さん。私は優しいから」
滅茶苦茶説得力ありません。その前に、何について優しいというお話でしょう。
「……いや、なるべく優しくするよう努力をする振りはしよう。うん、振りだけど。人間、大事なのは結果じゃないよ、そこに行き着くまでの過程だというし」
真顔で言い直さないでください、先輩!
「いやぁもぉ、いくとこまでいってしまえという神の思し召しに違いないよね」
違います絶対に違いますよ、と私は胸中で声の限り否定した。
「……陵、お前が抱くR指定の情熱が極彩色に見えて、俺もとめられない気が」
そんな、頼みの綱の久能先輩まで逃げようとしてる!
「保健室は禁断の密会のためにあるんだ、そうに違いない」
とか恐ろしいことを呟きつつ、水屋先輩はなぜか襟元を乱暴に緩めている。ちなみに今日の水屋先輩はシャツにネクタイにズボンという男子生徒的な恰好をしているんだけれど……その仕草、もう完璧に自分が女性だってことを忘れていませんか。
「本気で犯罪行為を決行しようとしているだろ、陵」
「当たり前のことを聞くな。ここで決めなきゃいつ決めるんだ」
「ぐふっ」
あぁ品行方正で女生徒の憧れだった水屋先輩は一体どこへ消えてしまったんだろう。あの平和な日々はそう遠い昔じゃなかったはずなのに。
少しずつ後退するイリちゃんと久能先輩の腕を、私は藁にも縋る思いで掴んだ。ここで見捨てるなんてひどすぎる。
「あー……、陵、ほら、西田、マジで具合悪そうだし、少しは眠らせてやろう、な?」
「先輩、校内で犯罪はいけないと思います、ここは一つ、お手柔らかに。せめて場所を変えるとか」
何で二人とも逃げ腰なの?
「既成事実さえ作ってしまえばあとはコッチのものだ。なし崩し的に奪ってしまう所存なり」
ドッチのものですか!
水屋先輩がふっと唇を歪めて不敵に笑い、片手を腰に当て、髪の毛をかき上げた。ななな何かそのポーズ、本気モードに入っていませんか。
「大丈夫、大丈夫。西田さんは何も心配しなくていいから」
と、水屋先輩がテレビに出てくる悪役みたいな台詞を口にしたあと、壁に寄りかかって正気を保とうと頑張る私に抱きついてきた。水屋先輩はとても甘い匂いがした。雑誌に出てくるモデルのように奇麗な人。見た目はこれ以上ないってくらい整っているのに、性格と言動がとんでもなさすぎる。
「ちっ、こんなナイス展開が待っているなら、この前夜の歌舞伎町で外国人に声をかけられた時、断らずにアレを買っていればよかっ」
「陵ー!! おおお前、校内でヤバイことを平然と言うなー!」
「みみ水屋先輩、そんなモノを使わなくても既に思考がトリップしてます……!」
イリちゃんと久能先輩が同時に慌てふためき、ぶつぶつとよく分からないことを呟いている水屋先輩の口を塞いだり大声を上げて誤摩化したりしていた。……アレって何だろ?
「マジでお前が恐ろしい! 頼むから西田だけは狂わせるなっ。黒さ満点のお前と比較した場合、西田は外の穢れを知らない純白の天使だぞ。西田までがお前に感化されてバベルの塔を築いてしまったら、日本の未来と俺は壊滅する」
「その台詞が一秒未満ですらっと出てくる久能先輩もかなりヘヴィ……」
「……?」
何か謎だけれど、イリちゃんと久能先輩の顔がホントに引きつっているような。
「平気だよ、西田さん。私が二段飛ばしで大人の世界へ連れて行ってあげよう」
水屋先輩がうっとりとした表情で、私の頭を撫でつつ低く囁いた。首元がぞわぞわぞくぞくとして目眩が。
「くそう、どうすればいいんだ。このままだと無垢な西田が悪魔の餌食になってしまう。とめるか俺、命がけで大犯罪を阻止するべきなのか、そして最後の武士となるか。そもそも俺はどうしてこんな奴の幼なじみとして生まれたのだろう、それが全ての敗因に思えて仕方がない。俺の教育が間違っていたのだろうか。いやきっとゆとり教育が悪かったんだ、夏の太陽のせいだ。あの頃僕らは若かった」
「冥福を祈るからね、冴……無力な私を許して。思い出はいつかセピア色に変わるから。母様、父様、雪はいつか溶けて花が咲くでしょう。一番になんてならなくていい、私たちはもともと特別なのよ」
二人とも、どこか遠い場所を睨みながらとても不安になるような意味不明の言葉を紡いでいる。というかイリちゃん、暗い表情でドナドナを歌われると、凄く追いつめられた気持ちになるんだけれど。
「さあ行こう西田さん。何も怖くないからね」
水屋先輩がきっぱり二人を無視し、戸惑う私の腕を取ったあと、無敵の笑顔を見せた。
「あの、先輩、私、寝不足みたいで、少し保健室で休もうかなって」
「んー、ダイジョーブ、ダイジョーブ。問題ナーイ」
何が大丈夫なのか、全然分からないです。
「……途中で気絶するかもしれないしさ」
「……はい?」
今ボソッと途轍もなく不吉なことを言いませんでしたか、先輩。
「出会いはセンセーション、タイミングはパッション」
「皆、何か壊れてますよね……?」
水屋先輩がにっこりと笑った。何か私、全身悪寒に苛まれつつあるんですけれど。
「待て陵!」
破壊的な語りの世界から舞い戻ったらしい久能先輩が、きりっと恰好いい顔をして呼び止めた。
「今邪魔すると、流血沙汰も辞さない覚悟だが?」
「デート」
「何?」
久能先輩が自分を鼓舞するように一度深呼吸し、戦いに挑む戦士のごとく決然とした態度で水屋先輩と向き直った。
「なあ西田、昨日の夜デート、楽しかったよな?」
「うひっ」
「……夜デート?」
久能先輩の作った笑顔がかなり蒼白なんですが。
「また今日もデートしようか。二人きりで」
「……滝生、ちょっと私と話をしようか」
水屋先輩がゆらっと動いた。その背に阿修羅を背負っているような気がするのは目の錯覚ですか。
「滝生君、君はなかなか愉快なことを言ってくれるね? 勿論、五体満足で帰宅できるとは思っていないだろうね」
「西田の肩って華奢なんだよなあ。腕も腰も細いし、女の子って可愛」
がし! と水屋先輩が夢見心地のように奇麗な微笑を浮かべつつ、久能先輩の両肩を掴んだ。
「冴、今のうちに逃げるのよ」
ぽかんと成り行きを見守っていた私の腕を取り、イリちゃんがぷるぷると唇を震わせつつ早口で告げた。
「保健室はきっと戦場と化すから。ああ惨い……」
「え? え?」
水屋先輩が優しげな微笑みを顔にはりつけたまま、もがく久能先輩を問答無用で引きずって行き、保健室の中に消えた。ぱたんと静かに戸が閉まった直後、もの凄い勢いで再び扉が開き、室内にいたらしい保健の先生が飛び出してきた。……先生の表情が幽霊を見たかのごとく強ばっている。
「地獄変……」と呟くイリちゃんの声が、風に消えた。
●●●●●
その後、バイト先に水屋先輩が顔を出すようになったんだけれど……あの後、保健室で一体何が起きたのか、何度聞いても答えは返ってこなかった。
ただ、数日の間、久能先輩が廃人と化したとか。
何を体験してしまったんですか、久能先輩。
●END●
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