F2:01

 一つの物語が、千も万も繰り返し語り継がれる。
 千も万も別の方向を向いていて散り散りだった人の思いが、一つに重なる時がある。
 繰り返される夜と朝。
 繰り返される焦燥と恐怖。
 繰り返される間違いと躊躇い。
 繰り返される悩みと――。
 
 あらゆる繰り返しの中、私達は時に足をとめながらも、慎重に、軽やかに、必死に生きる。
 
●●●●●
 
 私は走っていた。
 夕暮れ時の、薄闇の中。荒廃し、灰色に濁った世界では、鮮やかな茜色の夕焼け空を見ることはできない。
 一体、どのくらいの間、胸を締め付けるほど奇麗な夕焼けを見ていないのだろうと、ふと考えた。学校帰りに友達と眺めたあの鮮明な茜空を、もう忘れてしまいそう。
 エヴリール世界の夕方の訪れは急で、まるで闇が雨のように降ってくるような恐ろしさを抱かせる。茜色は生まれず、ただひたすら闇色が広がり、町や木々を包み隠す。
 朧げになりつつある夕焼け空の模様を脳裏に描き、現実には不穏な薄闇色の天を目にしながら、廃墟と化している乾いた宮殿区域内の道を私は懸命に走っていた。瓦礫などが道々に散乱しているためとても走りにくいし、枯れた木々が密生していて迷宮のように入り組んでもいるから、少し意識を逸らしただけで方向感覚を見失うという危険があった。
 駄目だ、このまま闇雲に走り続けているだけではいずれ迷子になってしまう。
 私は一旦足をとめて、額に噴き出る汗を乱暴に拭った。
 自分の荒い呼吸が大気に溶ける。
 大気。
 大気は震える。音を、声を伝える。
 何か、聞き取れる音はないだろうか。
 祈るような心地でそう考え、はっと顔を上げた。
 どこかから獣の鳴き声が聞こえる。
 焦燥と恐怖が同時に募り、背中に寒気が走った。
「ディルカレート、どこにいるの。返事をして!」
 
●●●●●
 
 時間を、神殿の隠し部屋でイルファイに何者かと問われた場面に戻し――
 
 夜が明けるまで、時々休憩を挟みながらも私達はたくさんのことを話し合った。
 まずは私の正体についてだ。
 実はね、自分が日本という国の出身で、誕生日の数字が原因でフォーチュンに目を付けられ……という根本的なところから正直に話そうと思っていたんだ。
 ところが、その決意をとめたのは、神剣のソルトだった。
 元は日本という次元の違う小さな島国で暮らしていた無力な娘、わけの分からぬまま突然試練を受けさせられ結果として負けたこと、その二つの事実は彼らにまだ明かすなと。
 ソルトの意見に躊躇ってしまった。なぜ事実をここで告げてはいけないんだろう。正直に話さないと、後々余計な混乱や疑いを招くんじゃないのかな。実際、リュイに対して隠し事をしてしまったために辛い現実を招いたという後悔が胸にある。その苦しみを教訓にして、皆に真実を打ち明けた方がいいと思ったのに。
 それに、リュイにはもう、私が試練の森で彼の命を秤にかけたこと以外のおおまかな事情を話してしまっているよ。
 私の疑問に対するソルトの答えは「現実をよく見ろ」という厳しい一言から始まった。
 お前の目の前に存在する者たちは、知恵や感情を持たぬ人形ではないのだ、と。
 平和な世界でのんびりと生きてきたお前とは違う。過酷な日々を過ごし、その中で死して蘇った者達。また、お前にはあまり馴染みのない身分が重んじられている世界。彼らには確固とした、苛烈といってもいいほどの自尊心があり、己の道がある。よく言えば誇り高く、悪く言えば頑迷なのだ。特にこの国は、伝統が重要視される。最古の神国であるがゆえに。
 滔々と説明されてしまい、更に困惑が強まった。
 確かにソルトの言う通り、私の考えと彼らが持つ常識ってかなり食い違いがあるとは思う。
 リュイが当然のように口にしていた、伝統が礎、という言葉もいまいち飲み込めなくて、変な気分になっていたし。勿論伝統は伝統で素晴らしいと思うんだけれど、正直、自分にはあんまり関わりがないっていうか……そういうものなんだって感心する以上の明確な思いを抱けなかった。
 こういう考えが心の中にあったので、すぐにはソルトの意見に賛成できなかった。だったら尚更、真実を告げておくべきじゃないのかな。そこまで自分の信条を大事にしている人達に、身分を偽ったり嘘をいうなんてしちゃいけないと思うよ。
 と、私が心の中でもっともらしく反論したら、ソルトは即座に溜息を聞かせた。うう、なんか今、ほんとにお馬鹿な娘だって呆れられた気がする。
 溜息のあと、なぜ真実を全て述べてはいけないのか、ソルトはきっちりと教えてくれた。
 身分を意識し、考え方も堅苦しく、その上、お前よりも皆、年上だ。その事実をよく考えろ。お前が逆の立場なら、突然現れた正体不明の若い娘を、何の警戒も抱かずに容易く受け入れられるのか。しかもその娘は身分を持たぬ平民で尚かつ戦いさえ知らず、神とはかけ離れた小さな島国を出身とし、ろくに際立った知恵や軍才も持っておらぬ状態なのだ。更に言えば、フォーチュンの目にかなわず見捨てられ、奇跡的に天界へ飛ばされただけの敗者。そういう無知で脆弱な娘の言葉に、この先一体誰が従おうか。
 自分にとってかなりきつい説明を受けたけれど、それでも私は最後の気力を振り絞り、悪あがきした。
 別に皆を従わせたいわけじゃないもの。ただ、この国の崩壊をとめて、皆を人間に戻したいだけだ。
 という私の必死な反論は、ソルトにあっさりと途中で遮られてしまった。
 皆を率いずに、この未知なる荒んだ世界でどう生きていくつもりなのか。たった一人で世界を変えられるとでも? 本心からそれを信じているのだとすればお前は目も当てられない愚か者だ。
 愚か者と一刀両断された私は、心の中でいじけた。率いるとかじゃなくて、皆と協力し合いたいのにな。ソルトって本当に口が悪い、というなけなしの訴えも、再び途中で遮られてしまった。
 協力し合うなどという生温い考えは捨てろ、と強く言われる。
 
 ――主よ、聞け。素のお前には、この者達は従わぬ。
 
 ソルトの厳しい一言に、息が苦しくなった。慰めすら含ませずに、知りたくなかった現実を教えてくれる。
 
 ――時間を費やせば、中にはお前の人となりを認める者が出てくるかもしれぬだろう。主の望む平等な関係で協力し合うことも、いずれは可能かもしれぬ。だが今は、その時間がないのだ。誰もが殺気立ち、余裕がない。一つでも希望を持ちたいと痛烈に祈る者達の前で、己が無力であることを軽々しく述べてみよ。皆の心は一気に離反するぞ。果てにこの者たちは混乱し、お前を恨み、拒絶する。お前がただ排斥されるだけではすまぬだろう。この者達の間で諍いも起きる。誰が何の役割を負うか、そういった些細な問題にすら足元をすくわれる羽目に。
 
 でも、それなら、どうすれば。
 現実ってなんて厳しいんだろう。ありのままの自分じゃ受け入れられない。その事実が喚きたくなるほど辛くて、理不尽に思えた。
 
 ――救いの光が見えぬ疲弊しきった状態の者が、何を望むか。目が眩むほどの圧倒的な、何よりも激しく、強く、揺るぎのない鮮烈な希望を見たいと思うのではないか。神聖な輝ける灯火。お前の存在は今、そうでなくてはいけない。
 
 言われた言葉の重さに、そんなの無理だ、と私は恐怖さえ覚え、胸中でソルトに懇願した。絶対無理だ。だって私、全然強くないし神聖でもないし、頭よくないもの。怖い。怖いよ、ソルト。絶対に無理。自分がどれだけ頼りないか、分かってるんだよ。
 
 ――皆を導くならば、国を救うならば、灯火となる運命を握れ、主よ。
 
 駄目だって、絶対にできない。
 胸の中に響くソルトの提案に、吐きそうなくらいの壮絶な恐れと拒絶感が湧く。身体も心に反応して、震えそうになった。灯火の真似事なんて死ぬほど無理。この国の希望は、灯火は、彼らなのに。自分がそんな存在の振りをして皆に担がれるなんて、想像するだけでも寒気が走るようなすごい罪だと思う。
 
 ――彼らは目に見える希望を得たいのだぞ。否というならば、主は何を正すためにこの世界へ舞い降りたのか!
 
 ソルト、ひどい。私は、ただ!
 
 ――灯火となれ。偽りと恐れながらも。主、その恐れを我は知っている。たとえ偽りであっても、お前を受け入れる。
 
 でも、でも。私、とても怖いよ。皆の上に立つとか、率いるとか、そんなふうに関わりたいわけじゃない。
 
 ――主よ、まずはこの瞬間を手に入れるために、偽れと言っているのだ。共に行動すれば、お前自身の姿が彼らにも見えてくる。その時こそ、主の真価が問われるだろう。今は皆を立ち上がらせるために、強くあれ。主は灯火。己が身を、希望のごとく皆に掲げよ。
 
 ソルト、側にいてくれる? だって私一人じゃきっと耐えられない。どうしよう、どうしよう。嘘をつくのが怖い。
 大人である彼ら、希望を失っている彼ら、戦い方を知り、知識を持ち、誇りを抱き、思考する人々。自分よりもずっと深さのある人々の前に、立たなきゃいけないなんて。
 
 ――共にいる。我は主のために生きる剣。主がどれほど無能で弱いか分かっている。お前に不足しているものを、我が補うのだ。
 
 うう、ソルトの言葉って、嬉しいけれど素直にありがとうって言えない感じだよ。
 確かに自分は頼りないんだけれど、無能ってきっぱりと断言しなくても。
 私は違う意味で項垂れつつも、どういうふうに皆に説明していいか、早速ソルトの知恵を借りることにした。
 でも変だな、無能だと言われて落ち込む気持ちもちゃんとあるのに、すごく安心感も覚えている。褒められたわけじゃないのに、どうしてだろう。
 
 ――なるべく偽りたくないと考えるのならば、不必要な事柄を伏せればいいだけのこと。天界より来たのは事実だ。先程、主は「遠い地から来た」とだけ口にしたな。天界も十分、遠い地ではないか。母国のことは隠し、天界の使者であると述べよ。失われし神の眷属、それも説明していい。己の出身を考えるから迷うのだ。主は実際、神々の祝福を受けている。
 
 ……というソルトとの密かなやりとりのあと、突然押し黙って顔色を変化させていた私をひどく不審げに観察していたイルファイたちへ、詳しい説明を始めた。それはこんな感じの内容。
 世界は、崩壊を望む者の力によって穢された。神々はこの事態を憂いているけれど、身が放つ神威の強大さゆえに天界を降りることは許されない。そこで二神の眷属である自分が神々との誓約のもと、世界の立て直しを図るべく聖獣を連れて来ることになった。といっても、本来この世界で信仰されていた風の神であるシルヴァイ、闘神であり祖王のオーリーンは、私に神力をさずけてくれたため天界の理に背く形となり、皆の記憶から消滅することになってしまった。ゆえに私は世界の再生のみならず失われし神の存在も伝え歩き、この地への加護を取り戻さなくてはいけない。二神の力は今、自分の中にわずかに存在するだけ。私は天界の者なので、エヴリール世界の仕組みを詳しく知らない。そのため、こちらの常識とは噛み合わない部分があると思うが、目こぼししてほしい。
 ……まずここまで説明すると、皆一様になんともいえない複雑な顔を見せた。
 世界の崩壊を望む者、そういう何者かの悪意が存在したという事実に驚いたみたい。神官などの要人の間では、世界に天災のごとく降り注いだ強大な魔力は神が地上に与えた試練か粛清なのではないかと幾度も討議されていたようなんだ。
 次に受け入れ難かったのはやっぱり、失われし神の存在だったらしい。
 私に神力が備わっているという点については率帝が認めてくれたので疑われなかったんだけれど、太古の風神、そして始祖王であった神の存在が皆の記憶から抹消されている、なんて言われてもすぐさま納得できるわけじゃないよね。
 好奇心旺盛で常識外の話でも比較的柔軟に飲み込んでくれそうだったイルファイでさえ、猜疑の目というか、異物を見るような視線をこっちに向けてきたし。
 私はそこで、更に付け加えた。世界は今もまだ緩やかな速度で崩壊に向かっている。なぜなら、この世界の破滅を望んだ者の凄まじい力を受け継いだ人がいて、今までの常識や慣習を覆すような新世界の構築を計画している。もしこのまま現世界が滅ぼされてしまえば、皆の蘇生は意味をなくすだけでなく、大地に恩恵を授けてくれていた他の神々までも消滅する。全てが無に帰してしまうだろう。
 ……ここまでの私の言葉に、皆が顔色を変えた。きっと信じがたい部分の方がすごく多いだろう。それでも確かにこの世界は崩壊へ傾いていて、人々はレイムに変えられてしまっている。だから、たとえ信じきれずとも、一概には否定できないといった心境なんじゃないかな。
 パニック中の皆には悪いと思いつつ、私は話を先に進めた。本音をいえば次の話題に移ることで、自分の正体に深く突っ込まれる事態を避けたかったんだ。狡くてごめんなさい。
 破滅を望んだ者の後継者が今どこにいるのかは分からない。なのでまず、この国を中心として、人々をもとに戻し態勢を整えていきたい。そうせねば、後継者の企てを阻止できないだろう。後継者は新世界を構築しようとしているため、人々の蘇生を認めないと思う。もしこちらの動きが知られれば、きっと排除を目論む。
 ……そこで一旦言葉を切り、素早く考える。
 そうなんだ、いずれは後継者と対峙するに違いない。今、こっちの動きがその人に悟られている可能性は低いはずだ、とソルトが言った。授けられたばかりのフォーチュンの力が大きすぎるゆえに、すぐには制御できない状態であるからって。
 うん、そうかもしれない。私も神様のくれた力を全然使いこなせてない状態だ。自分を例として考えると、元は普通の人だったに違いない後継者も、力の制御法とかが分からなくて四苦八苦している状態なのではないかという推理が成り立つ。フォーチュンが私達の行動について、後継者にあれこれ報告しているとも考えにくい。これは私の勘なんだけれど、自分の力を全て譲ったとはいえ人嫌いっぽい皮肉屋なフォーチュンが甲斐甲斐しく後継者の面倒を見たり、親切に指導するとは到底思えないんだよね。フォーチュンだったらきっと、力を授けたあとは「好きなようにやれ」と言ってさっさと放置しそう。思い返せば私がまだ後継者候補の一人として数えられていた時、何事も気の向くままに、という結構無責任な発言をしていたもんね。
 となると、後継者が力を自在に使えるようになるまでの間、どれだけこっちが態勢を整えられるかが勝敗の行方を握る鍵となる気がする。
 思考を色々と巡らせていた時、渋い顔をしたイルファイが質問を投げてきた。
 王子と剣についてのことだ。
 うん、その問題については後ろめたさを感じずにちゃんと説明できる。こっそりと安堵しつつ私は口を開いた。
 レイムを人へ戻すには魔法や魔術、通常の剣では無理だ。魂ごと滅してしまい蘇生を望めない。人にあらざるものを斬る神剣のみがレイムの身を解放できる。ただし、この国の神剣は誰にでも扱えるものじゃないとリュイに聞いた。
 ……そこまで言ってリュイに視線を投げると、無言の肯定が返ってきた。
 頷き返して、また話を続ける。
 この国に残された二本の神剣を扱えるのは二人の王子。彼らにも人々を戻す神剣を手に取ってもらいたい。勿論、私も協力する。ただし、私は天界の者ゆえに人々の蘇生と崩壊をとめる以外の問題……政治など国家体制に関わる問題については手を出せない。
 私は口を閉ざして、皆に視線を向けた。
 政治には一切関わらないという意思表示を予めしておかねば後々深刻な問題が生まれるかもしれないとソルトが忠告してくれたんだ。私もその意見には同感だった。政治の話なんてされてもさっぱりわけが分からないし、国を動かすのに神様の力は必要ないと思う。
 私の話は大体これで終わった。
 イルファイや率帝が話を整理するかのように気難しげな顔をしていた。
 皆の意識が逸れている隙を見計らって、私はさりげなくリュイに視線を向けた。人の気配に敏感な……というか、もともとこっちを見てたらしいリュイと目が合った。とても真面目で騎士体質が身に付いている人だから、話の途中で口を挟むようなことはしない。でも内心で、首をひねっていたんじゃないかなと思う。さっきの話だと、私という存在はまるで生来神の眷属である、と聞こえるものね。一点を除いた真実を既に知っているリュイが、わざと曖昧にした表現に気づかないはずがない。
 ごめんなさい、事情は二人きりになれた時に説明するから見逃して。
 私は視線で必死に「事実を暴露するのはやめて~」と頼んだ。何かを悟ったらしいリュイが、了承の証のように月色の瞳をわずかに下げてゆっくりと目礼してくれた。こっちの意を汲んではくれたものの、なんだか柔らかさに欠けているような雰囲気に、不安を覚える。呆れられたのかな。リュイの態度が硬い。
 話しかけたい衝動に襲われたけれど、ここは我慢しなきゃいけないし、何より、頼らないようにするという状態に慣れなきゃいけない。リュイを皆の所に返すって決めたんだから甘えては駄目。うん、もう独占はできないんだよね。頑張ろう。
 いつもすぐ側にあった包み込むような優しい空気から離れるのはとても辛いけれど、リュイのためにはその方がいい。胸の痛みを宥めつつ、リュイが視線を上げてこっちを見るより早く、私は別の場所へ顔を向けた。
 皆がそれぞれ考え込んでいる間、私は少し休憩させてもらうことにした。本当は私も皆の話をもっと詳しく聞きたいんだけれど、ひどく身体が重くてたまらない。今無理をして肝心な時に倒れたりするような失態をおかしてしまった場合、いたたまれなくなる。
 ぴとりと寄り添ってくれているエルの長い尾に触れつつ私は目を瞑った。エルのお腹はやわらかくて安心できる。でもエルってば、さっき気づいたんだけれど、私が抱えているソルトにさりげなく嫌がらせしているんだよね。尻尾の先でぱしっと柄を叩いたりしている。もしかしてエルも、この神剣がただ者じゃないってことに気づいているのかな。
 私とソルトは、心が繋がっている状態だ。そのせいか、ソルトの独白なんかも時折胸に響く。ソルト、エルに尻尾で叩かれた時、不細工獣めって悪態ついたんだよね。思わず笑いそうになって困った。エルのために、不細工じゃないよ恰好いいし勇敢だよ、と心の中で訴えたら、感性音痴め視覚音痴めって私まで悪態の標的になってしまった。ソルトもエルも、本当に人見知りが激しいんだなあ。でもなんとなく子供の喧嘩みたいで微笑ましい。
 どのくらい休憩したんだろうか、夜が随分深まった頃、率帝が優雅な動作で私の前に膝をついた。衣服のこすれる音を聞き取り、私は瞼を開いた。エル、駄目だよ威嚇しちゃ。
 そういえば率帝、私の上着を着たままなんだけれど、いいのかな。身分が高い少年だと思うから、ちゃんとした他の衣服に着替えた方がいいんじゃないだろうか。
「お休みのところ、申し訳ありません」
「気にしないで。何かお話があるんだね」
 できれば敬語もやめてほしいと言いたいところなんだけれどな。年も近そうだし、どうにかしてその辺は懐柔できないかな、とつい悪巧みに走ってしまう。
 率帝が私の側に寄ると、背後に控えているディルカレートがはっきりと警戒心を見せる。涼やかな青年剣士めいたディルカレートは、私のことを全然信用していない。
「お身体の具合は」
「平気。率帝の方が辛いのではない?」
 問い返すと、率帝は大丈夫というように微笑んだ。理知の色が浮かぶ暗水色の瞳にちょっと見蕩れる。率帝って若いのに、すごく落ち着いていて優雅だ。こんな時にどうかと思うような感想なんだけれど、もし今が平和な状況だったら尻込みしてしまうくらいの美少年かも。羨ましい。というか、平凡すぎる自分の容姿が切なくなる。
 ディルカレートとリュイとクロラも奇麗だ。うわぁなんかますます切なくなってきた。
「ヒビキ様?」
「……なんでもない。あのね、呼び捨てでかまわないよ。敬語も気にしないで」
 不思議そうに見つめてくる率帝に愛想笑いを返し、ちゃっかり敬語廃止なんかを奨励してみたんだけれど、リュイと同じで結構テゴワイ感じかも。
「私は天界から来た者だもの、この国での身分を持っていないよ」
 ディルカレートの冷淡な眼差しを意識しつつそう言った。彼女の視線、私の方が敬語を使うべきだ、とはっきり咎めている。
「率帝は身分が高いんだよね」
『率帝』ってどういう意味を持つ呼称なのかな。
 私の疑問を察したらしい率帝がやや戸惑い気味に頷きつつも、片膝を立ててその場に座り込んだ。どうやら腰を落ち着けて説明してくれるらしい。うーん、よかった、さっきこの国の仕組みを知らないと明かしておいて。
「率帝とは、魔力を身に宿す者達――彼らを総じて率使(りつし)と呼ぶのですが、その彼らを統べる最高司令官の称号です」
 最高司令官。
 それって率使のトップってことだよね。かなりどころか、国王の次くらいに身分が高いんじゃないだろうか。
 内心で慌てる私に、髪の毛をぐちゃぐちゃにかき回していたイルファイが顔を向けた。
「魔法使い達は、ある意味において他の権力から独立した存在だ。国の保護下にあるが、非常時には王命がなくとも独自で動くことが許される集団。率帝が率いるこの集団を、混沌、叡智、豊穣などを司る十の神々の恩寵を受けし存在として十祇(じゅうぎ)と呼ぶ。ただびとには操れぬ力を持ち、流れゆくものをとどめ、見えぬものと語る者達は神律の糸と繋がれているとされている。ただし、神と同列に並ぶことは許されぬために、律を率という言葉へ変じさせた。神殿を含む彼らの砦を、十祇廷(じゅうぎてい)という。貴族でさえも容易にはくぐれぬ『孤高の門』で守られている区画だ」
 一気に説明されたために、呼吸を忘れそうになった。なんとかイルファイの言葉を咀嚼し、小さく吐息を落とす。
「ええと、十祇は、王都内に在りながらも自治権を持っている……という捉え方で合ってる?」
 その十祇廷は自治体として認定されていると考えていいのかな。
「自治権か。基本は勅令に従わねばならないが、確かにそうともいえる。十祇の律に反するならば、王命でさえも拒否できるからな。また、十祇廷内部は隠されている。これもやはり、王命であっても公開されることはない。ああ、今我らがいるこの神殿は隠されし砦とは別に、公に開かれているものの一つだ」
 なるほど。じゃあ率帝ってこんなに若いのに、魔法使いである率使たちの王様みたいなものなんだ。
 うわぁダントツに身分が高い、と私は改めて驚き、ちょっと怖じ気づいた。いいのかな、こんなに気安く話しちゃっても。しかも私ったら当たり前のようにタメ口で接している。そりゃあ、ディルカレートの視線が険しくなるわけだ。
「率帝は、十祇王とも呼ばれることがあるな。ガレ国王との混同を避けるため、そして配慮のために今ではあまり呼ばれないが」
 イルファイが、がしがしと頭をかき回しつつ率帝へ視線を向けた。ものっすごくイルファイの髪を梳かしたい気持ちが芽生えるけど、我慢我慢。
「王家とは異なり、十祇は血脈を重視しない。才が全てだ。つまりこちらにおられる率帝は、誰よりも魔力が秀でていたということになる」
 微妙に皮肉な響きが含められているイルファイの説明に、私は言葉なく感嘆した。ということは今後、たくさん魔法を知っていそうな率帝ってすごく頼りになるかも、と現金な考えに傾いてしまう。
「率帝の位に座した時より、私の真の名は秘なるものとなりました。次代の率帝が現れるまで、私の名が世に明かされることはありません」
 イルファイの視線から逃れるように率帝はこっちへ顔を向け、微笑んだ。
「あなたの御名は尊いものですね。ヒビキ……『響く』という言葉であると。余韻、振動、共鳴、影響を与える名。その意味を隠すことなくそのままお使いになられている。私を示す『率帝』と同様の意味が?」
 シルヴァイたちの話をした時、私の名前についてもそういえば少し率帝と話をしたんだった。なぜか普通の会話はちゃんと通じているのに、名前を口にした時は日本語の「響」として聞こえるらしい。それで、こちらの国の言葉ではこういう意味にあたると簡単に説明した。
 多分、今された「率帝と同様の意味があるのか」という質問は、実名ではなく称号なのかって聞いているのに違いない。
「ううん、違う。本名だよ」
 と答えると、率帝だけじゃなくイルファイにも驚かれた。更には、こっそりとこっちの話に耳を傾けていたらしい神官長のバノツェリにもぎょっとされてしまった。
 どうしてそんなに驚かれるんだろう。もしかしてこの国では、神力や魔力を持つ人間は本名を口にしてはいけないんだろうか。
 どぎまぎとする自分を宥めるために、エルの尾を撫でてみた。私の名前なんて特に珍しいものでもないし……あ、異世界ではきっと奇妙に思えるんだ。
「真なる名、その意味さえ隠さずともあなたは平気なのですね」
 感嘆と驚嘆の中間、といった感じの表情で率帝に言われたけれど、そこまで驚かれる意味が分からなかったため曖昧な微笑で誤摩化してしまった。
「響。美しい御名です」
 わっ率帝ってば、今の発音、日本的だ。
 私は嬉しくなり、笑みを深めて率帝を見返した。





※蛇足的説明(以下、読まれずとも本編がわからなくなることはありません)

本人は気がついていませんが響は神々の力をもらったことにより、話す言葉は全て「神の旋律」で語られている状態です。万能語みたいなもので、誰が相手でも通じます。ただし、響本人が日本語の音を意識している場合は、相手にも日本語として聞こえてしまいます。
また、名乗る時の響は日本語の音を(自覚なしの状態でありながらも)思い浮かべていますので、率帝たちの耳にもやはり日本語の「ヒビキ」と届いてしまい、意味をたずねられました。
強い魔力を持つ率帝や、ソルト、エルは、響の普段の言葉が「神の旋律」であると気づいています(いずれ本編内でさらりと触れます)。

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