探偵高野とスラムの王3

 俺は思い違いをしていた。
 敵の数は四人ではなく七人だった。二人を倒せただけでも奇跡に近いが、既に白旗を掲げたい気分だった。拳銃を所持していても、安い探偵に過ぎぬ俺がアクション俳優並みの行動を取れるはずがないのだった。俺がもしアクション映画の主人公であれば、おそらく最初の数分で命を落とし、バッドエンドの曲が流されるだろう。
 俺はあっさり捕まったのだ。
「リジェイルは?」
 プラチナブロンドの髪の男が、抑揚のない声で俺に訊ねた。俺はと言えば、がたいのいい男によって、薄汚れた床へ顔を惨めに押し付けられていた。
「逃げたさ」
「どこへ」
「知るか」
 と投げ遣りに答えた瞬間、痛烈な勢いの蹴りが脇腹にヒットした。
「リジェイルは?」
 拷問は同じ問いを千も繰り返すという。マニュアル本通りの責め方に、俺は少し笑った。
「天使は空へ還ったらしい」
 再びの蹴り。
「リジェイルは?」
「バラして食った。俺は年中食料危機の問題を抱えている」
 男達は、俺の冗談にも顔色一つ変えなかった。三度目の蹴りが顔に入った時、俺はそろそろ死を覚悟しようかと考えた。
「リジェイルは?」
「あんたはゲイかい?」
 四度目の蹴りは太腿に入った。俺はぞくぞくしてきた。次の冗談を口にできる余裕があるかと、自問した。
「リジェイルは?」
「尻を見せな。煙草を突っ込んでやるよ」
 今度の蹴りも太腿だった。進歩のない奴らだ。もう俺の腹を蹴る気はないらしい。
「リジェイルは」
「あんたの親父と話をさせろ。下劣な親父が飛ばす唾も言葉も精液一色だってことを確認してやる」
 右手を靴の踵で踏みつぶされた。
「リジェイルは」
「悪魔の銃が白煙垂らしてあんたの妹を狙ってるぜ」
 男の一人が俺の顔を覗き込んだ。
「リジェイルの居場所を吐け。そうすれば見逃してやる」
 その台詞を言われて素直に信じる人間は、おそらくこいつの母親だけだろう。
「言うんだ、死にたくはないだろう」
「なあ6セントボーイ。兄貴に欲情したのはいつだ。だがいかれた兄貴はお前よりも、黴びたドーナツに突っ込む方が好きだってさ」
 男は微笑を浮かべたあと、「初めて欲情した相手は、お前の姉貴さ」と言い返し、俺の右手を再び踏みつけた。
「死ぬつもりか、ここで?」
 殺すつもりのやつが真顔で何を言うのか。
「リジェイルの居場所は」
「お前の母親はピーターパンの淫らな下半身を崇拝してると聞いたぜ。さあ腰を振りながら空を飛べ!」
 こめかみを蹴り上げられた時は、さすがに呻いた。
「言え」
「……神よ、我に祝福あれ」
 やけくそで俺は叫んだ。下品な冗談が種切れだったのだ。
 背中を蹴飛ばされて、俺は無様に床を舐めた。糞の味がしやがる。BULLSHIT!
「あまつ御使い守らせたまえ! 担いし真理の十字架、我が手に光を」
 所詮俺は無神論者で、神の慰めを受ける権利などないのだ。適当な祈りの言葉を口にしたのは、悪党の金持ち連中に信仰を持つ者が多いと知っていたためだった。それこそ冗談のような話だが。
 神の威光は、ソドムの町を模倣したこのスラムには届かぬらしかった。
 俺はまた、酷薄な微笑を浮かべる男の蹴りをくらっていた。
 残り一発で昇天するに違いないと皮肉を抱いた瞬間、俺の神は気紛れに降りてきた。
 
 派手な銃撃戦が、唐突に開始されたのだ。
 
 それはもう見事なほど銃弾の雨が降った。銃声のお陰で、鼓膜がいかれるのではと危惧したほどだった。
 そして、唐突に止んだ。
 俺の周囲には、血塗れの男達が倒れていた。
「コーノ」
 俺の神は、金髪で天使のような美貌を持っていた。
 血に塗れた不浄の天使だ。
 
「リジェイル」
 リジェイルは笑った。見えぬ目で俺を射抜き。
 積み上げられた廃車の上に座り足を組むリジェイルを、俺は見返した。いつの間にか俺は、無数の孤児に囲まれていた。孤児といっても、銃を構えていれば立派な兵士になりえるのだ。
 俺は、もしかしたら、気づいていたかもしれなかった。
 リジェイルが狂人の真似をしていることに。
 逃避行中、町中であれほど騒々しくはしゃいだのは、遠巻きに様子を窺う孤児達に何らかの合図を見せる目的もあったのだろう。
「僕を捕えようとするなど、おこがましい」
 天使はまがまがしくも美しい微笑を見せた。
「コーノ。あんたはごみのように裏切られたのさ。気づいていただろう」
 哀れむような口調に、俺は腹が立った。
「俺を引きずり回して遊んでいただけだったんだな、お前」
「そうさ。僕を探し回っている馬鹿な探偵を、からかっただけさ。僕の兄に雇われたあんたが悪い」
 出会ったのはやはり偶然ではなかった。リジェイルは自らの意思で俺の前に姿を現し、様子を探っていたのだ。調査中、無人のビル内で手を引けと俺を脅したのは、パールヴェル家の親族が雇った同業者達ではなく、リジェイルの指示を受けた連中なのかもしれない。
「そうかい。名門の坊やが、なぜスラムに居着く」
「つまらないからさ。はりぼて屋敷で下種に囲まれて暮らすなど、反吐が出る」
 俺は寒気を覚えた。なぜ親族どもがよってたかってこいつの捜索に心血を注いだのか、理由が分かった気がした。金の魔力すらも見下して嘲笑う、恐ろしいガキだ。
 リジェイルは、薄汚い孤児どもを掌握するスラムの王として君臨したのだ。黄金で作られた椅子ではなく、糞を固めた椅子を選んだ。
「教えてやろうか。僕の親父が死んだだろう? あいつはねえ、僕がまだ屋敷にいる頃、兄弟達にこう宣言したのさ。遺産の全てを僕に渡すと。その夜からだ。兄弟達が僕をあの手この手で殺そうと暗躍し始めた。逃げるしかないだろう?」
 そうしてリジェイルはスラムに辿り着き、光差さぬ暗闇の中で町を牛耳り始めたのか。
「親父の遺言通り、遺産は僕の手に落ちる。だが、僕が死ねば、遺産は兄弟達に分配される。くだらない。くだらない話だ」
「くだらなくは、ないだろうよ」
 少なくとも、俺にとっては金が全てだ。
「金がほしいか、コーノ」
 リジェイルが身軽な動作で、俺の前に降り立った。俺が渡したコートを着込んでいる。薄っぺらく色褪せているコートは、彼の身には大きく、けれどもなぜか違和感がなかった。リジェイルが見せる傲慢な神々しさは、どんな衣服も聖布に変えるのかもしれなかった。
「ほしいな」
「死んだあとでも、ほしいか」
「ほしいとも」
「あんたも下種な種類の人間か」
 俺は笑った。喉を震わせると暴行を受けた箇所が痛みを訴えたが、俺はどうでもよくなった。
 この世に下種ではない人間など存在するだろうか。
 人の魂が高貴なものならば、この世は果てまで楽園であるはずだ。
 見てみるがいい。
 この醜く薄汚れた町を。
 楽園など、夢物語の中でしかお目にかかれない。
 そして俺はもう、子供の頃に聞いた夢と希望溢れる甘い物語など覚えてはいないのだ。
「教えてくれ。下種どもを導くお前は愚者か聖者か」
 俺は笑いながら、立ち上がろうとした。不釣り合いな凶器を掲げる孤児どもが、いっぱしの戦士の目をして俺を見据え、銃口を向けた。
 リジェイルは俺に近づいた。見えぬはずの目は汚物を見下ろす時と全く変わらぬ冷酷な色をたたえていた。こいつは間抜けのように笑っているより、こういった他を寄せ付けぬ怜悧な眼差しをする方が余程その美貌に相応しかった。
「死後に悪魔へ金をばらまくのか、コーノ」
 お前こそが悪魔のようだ、リジェイル。
「そうとも、そして悪魔と宴をひらくのさ」
 俺は投げ遣りに答えた。裏切られたなどと甘ったるい感情を抱くつもりはなかったが、なぜか精神の一部が腐敗していく気がした。俺の現実など、所詮この程度のものだった。垢塗れの汚いガキに射殺され、当然のごとく身包みを剥がされて最後はどぶに捨てられるのだ。
「ねえコーノ。僕が何の代償も払わずに、この場に立っていると思うか。兄弟達に命を狙われ無一文で飛び出した夜、路頭に迷う僕へ手を差し伸べた爺どもは、何をした? 天国を見せてやると言われたが、僕が目にしたものは地獄だ。爺の萎びた尻が蠢く絨毯!」
 リジェイルが発狂したように叫ぶ。絨毯! 絨毯だ! 爺の薄い頭にしがみつき怒りのミルクをまき散らしながら、顔の横に突き出される腐った果実に噛みついた、ああほらコーノ、指に爺の毛が絡み付いている。
「僕の血縁者は憎しみを持って殺意を向け、縁もゆかりもないはずの男は反吐のような欲望を持って殺意を向ける。何も変わらないじゃないか。外の世界も、内の世界も。ならば、僕こそが奴らに地獄を見せてやる」
 リジェイルは嘲笑した。
「全部、食らってやる。汚濁だろうが罪だろうが、命だろうが。二度とこの身に糞を突っ込まれるものか」
 凄まじい瞳でリジェイルは、俺を見つめた。視力は失われているはずだったが、いっそ惚れ惚れするくらいに激情を秘めた暗い眼差しだった。こいつの目の中には、星も太陽も存在しない。空を叩き割る稲妻のような、神の鉄槌のような、激しい怒りが塗り込められている。
 だが、リジェイル。
「金で購ったものにも、価値を見出せる時だってあるさ」
 リジェイルの瞳が硬質さを増した時、俺はその細い身体を掴み、投げ飛ばす勢いで背に庇った。
 俺はしがない探偵だが、少なくとも、これほど激しく生きる意思を宿すガキを見殺しにするほど落ちぶれてはいないのだ。いや、俺は理不尽な世界に見せつけてやりたかったのか。背徳の町で産声を上げた不浄の天使が、正しいものをぶち壊す瞬間を望んだのか。
 俺はリジェイルの代わりに銃弾を受けた。
 俺達を取り囲む孤児の背後から、新たに駆けつけた数人の敵がこちらに銃口を向けていたのだ。
 腹に数発、太腿に一発、利き腕にも一発命中しやがった、畜生。
 リジェイルが俺の後ろで震える気配を感じた。
 小さな戦士達が一斉に、俺を撃った奴らへ弾丸の雨を降らせた。
 なかなか壮観ではあった。狙いの外れた弾が柱や天井に突き刺さり、火花が至る所で散った。散弾の葬送曲だ。
 ああ、参ったな。
「コーノ?」
 葬送曲がやんだあと、リジェイルは小さく、困ったように俺を呼んだ。
 背後からリジェイルが俺の顔を覗き込んだ。俺は腹を押さえるようにして床にうずくまった。
 スラムに君臨する若き王は、穢れを知らぬ天使のように儚い顔をしていた。
 孤児達は狡賢さを原動力に素早く動き回り、敵の何人かを生け捕りにした。なに、カモの懐へ手を突っ込む時と要領は変わらない。
 俺たちの前に、敵の捕虜が突き出された。リジェイルの指示を仰ごうと、孤児達が待機している。全く、正規の兵士並みにこいつらは図太く、強く、忠誠心に溢れている。彼らは決して大人に敬意を払わないが、己と同じ匂いを発しながらも美しく才に溢れた天使を心底崇拝しているのだ。
「殺せ。殺してしまえ」
 リジェイルは躊躇いも容赦も見せなかった。生け捕りにした男を一瞥し、傲然と華やかに、死の宣告を下した。
「百発の弾丸を顔に撃ち込め」
 きっとこいつは何も惜しまないのだろう。いや、惜しむものなどこの世に一つもないと悟っているのだろう。
 だが激情の天使は、瞬き一つで表情を変え、うずくまる俺の髪に怖々と触れてきた。
「コーノ。死んでしまうのか?」
 このまま放置されれば、そりゃ激痛と出血多量で死ぬだろうな、と俺は考えた。
「僕はいつだってあんたを殺せたんだ。子供達に見張らせていたから」
 ああそうかい。ご苦労なことだ。
「僕を生かしたって、いいことなんか何もないじゃないか」
 天使は笑ったが、不意にぽとりと涙を落とした。
「たがが探偵のくせに。金で動く下種のくせに」
 言いたい放題、よくもまあ。
 皮肉な思いで顔を歪めた時、リジェイルに身を揺さぶられた。殺す気か。
「なぜ庇った。僕から金を巻き上げるためか。僕が感謝をして金を払うとでも」
 うるさい天使だ。
「ああ、神様」
 天使が神に懺悔をしている。
 どうしたものかな、と俺は考えた。
 どうやらリジェイルの中で、俺は確実に死ぬものと認識されているようだが。
 なあ、スラムの若き王。
 物騒な町に暮らす探偵が、何の防衛策も取らずにいると思うか。
 ジャケットの下に、防弾着くらいは身につけているんだが。腹部に命中した銃弾は、それなりの衝撃と痛みを与えてくれたが致命傷にはほど遠く、せいぜい痣を作る程度だ。むしろ、太腿と腕に受けた怪我の方が重傷なのだ。
 俺はガキを見殺しにするほど腐ってはいないが、自分の命と引き換えに他人を救うほどお人好しでもない。
 くだらない戯れ言を急に思いついた。女はドレスの下に嘘を隠し、探偵は安物のジャケットの下に防弾着を隠す。そして天使は、拳銃に涙の弾丸を詰め込む。やはり、くだらない考えだ。
 ぽとりぽとりと雫を落とす天使を見上げながら、俺はいつ、防弾着の存在を告げようかと悩んだ。
 
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 俺が傷の手当てを受けている最中、天使の顔をしたスラムの王は、配下の孤児達を伴って姿をくらませた。
 信じられない話だろう? その一日、スラムの町から住人という住人が全て、忽然と姿を消したのだ。いや、勿論、足腰の立たぬ老人や赤子などは残っていたが。
 スラムの町が一日限定で廃墟と化した。
 どうなっているのだか、と俺は呆れた。
 その答えは、翌日配達された新聞にて明らかになった。
 我らが王は、スラムの住人達で結成された十字軍の先頭に立ち、パールヴェル家を襲撃しにいったらしいのだ。
 とんでもない天使だ。
 
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 その後どうなったかというと、スラムの町は微妙に金回りがよくなったようだが、やはり、相変わらず怠惰で堕落しきった様相を見せていた。
 天使は当たり前のように、俺の部屋に潜り込む。来るなと注意しても図々しく上がり込むのだ。お陰で悪臭を放つぼろ雑巾のような小汚い孤児どもまでわんさと押し寄せる。
 パールヴェル家とはどうなったのかと訊ねても、リジェイルは曖昧な笑みしか寄越さなかった。一体、どういった方法で脅し、金を根こそぎ強奪したのか興味はあった。そして警察の捜査をどのように封じたのかも気にかかった。
 リジェイルはガキどもには王の顔を見せたが、俺の前では白痴のような態度を取り、へらりと間抜けな笑みを浮かべた。こいつの魂胆はお見通しだった。下手に出れば俺が許すとでも思っているのだろう。裏でガキどもを自由自在に操り、血も涙もない冷酷な面を晒して暗躍しているのは知っているのだ。
 だが俺の仕事にまでついて回るのは勘弁してほしかった。リジェイルのお陰で、最近の仕事は俺の力量を超えるほどグレードアップしていた。
 俺が小言を垂れると、こいつはあからさまに嘘臭い無邪気さと儚さを漂わせて、大声で泣き喚く。こうなると銃を隠し持つガキどものみならず、町の娼婦までもが俺の存在を生ごみ以下を見る目で睨む。闇討ちなどご免だったので、リジェイルを叩きだすこともできやしない。
 いや、一度、俺はこの状況から解放されるべく夜逃げをした事があったのだが、リジェイルの部下に発見され監禁されたのだ。思い出したくもないほど暴行を受けた。つまりこの町を脱出すれば俺の命はないという脅しだった。パールヴェル家と関わった以上、今後勝手な行動は許されないのだろう。
 リジェイルは黄ばんだ水を湧かせる噴水へ遊びにいくのがお気に召しているらしく、ほぼ強制的に俺を引きずってはそこで水と戯れた。
 全身ずぶ濡れで、笑う天使。
 俺が溜息をつき、噴水の縁から腰を上げてその場を去ろうとすると、慌てて飛びついてくる。
 無性に腹が立って、思わずリジェイルを膝から叩き落とした。地面へ転がり落ちたリジェイルはきょとんとしたあと、泣く寸前の弱々しい顔を見せた。
 俺はまた、嘆息し。
 コートを脱いで、水を滴らせるリジェイルの頭を乱暴にふいた。
 リジェイルは俺のコートを頭に引っ掛けたまま、再び噴水の水を弾き、踊るようにくるりと回った。
 太陽も町も目映げに、笑うスラムの天使を見つめていた。

end.

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