探偵高野とスラムの王2

 汚物のような匂いを発しているガキを、普段仮眠用としても使っているソファーに座らせる気にはなれなかった。俺は真っ先に、そいつを風呂へと引きずった。俺に手を引かれたそいつは大人しく浴室の黴びたタイルの上に座り込み、ぼろ雑巾のような衣服をぎこちない手つきでゆっくりと脱ぎ捨てた。ここへきてなぜか、観念した表情を浮かべている。俺が劣情のままに手を出すとでもいった、失礼にもほどがある誤解をしているようだが、わざわざ言い聞かせるのも面倒だったので否定してやらなかった。仮に今、女に飢えていて欲望を持て余しているのだとしても、垢塗れの痩せたガキを抱く気にはさすがになれない。どんな病気を持っているか知れたものではないだろう。
 なぜ見知らぬガキの身体を洗ってやらねばならないのかと理解に苦しみながら、俺は贅肉の一切ついていない細い身体をタオルで乱暴にこすった。汚れが少しずつ排水溝へ吸い込まれ、ガキの容貌も明らかになる。
 畜生、と俺は吐き捨てた。
 泥を落としたあとに現れた姿は、俺をおおいに脱力させた。
 見事な金髪。天使と見紛う容貌。
 盲目でさえなければ金持ちの爺が涎を垂らして大枚をはたきそうな、美貌の少年が俺の前にいた。
 
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 毛布に包まったガキは、ソファーの上で大人しくスープを飲んでいた。
 冷蔵庫に背を預けながら、俺はじろじろと無遠慮にそいつを眺めた。スプーンを無邪気に舐めていたガキは視線に気がついたらしく、金髪を揺らしてこちらに顔を向け、へらっと間抜けのような笑みを浮かべた。
 俺は溜息を落としたあと冷蔵庫から背を起こしてソファーへと近づき、そいつの顎を掴んで更に容貌を確認した。灰色の双眸。目は確実に見えていない。
「――リジェイルか?」
 天使の美貌のまま、ガキはへらへらとだらしなく笑っていた。精神に異常をきたした者特有の歪な微笑だった。だが、無垢ともとれるあけっぴろげな表情は、少年の美貌を更に輝かせた。異常ゆえの美しさは戦慄が走るほど神聖に思えた。
 体躯の未成熟さを見ると、俺の思い違いかと疑いたくなる。探し人のリジェイルは十九歳だが、目の前の狂った少年は十四、五歳にしか見えない。
 しかし、栄養不足のため未発達だといえぬこともなかった。そういうガキならこの町にごまんといるのだ。
 名を訊ねても、的外れの甘えを含んだ微笑しか返ってこなかった。スープを与えたことで、より警戒心を緩くしたのだろう。
 完全に狂っているのだ。これが本物のリジェイルであっても、そうでなくとも、壊れてしまえば単なる大人の玩具でしかなかった。
 額を押さえる俺の膝に、少年は猫のようにすり寄って頭を乗せ、身を丸めた。
 まあいいさ。
 とりあえず、明日、依頼人代理に連絡を取ってみよう。面通しさせれば、一発でリジェイル本人かどうか確認できる。
 
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 その夜、俺は息苦しさで目を覚ました。悪夢ごときで脂汗を流し飛び起きるといった正常な神経はこのスラム暮らしの中でとうに失っているため、原因は外界からもたらされた何かということになる。
 ベッドに押し込んでいたはずの少年が、いつの間にか俺の腹の上に乗って、首に手をかけていたのだ。
 少年は天使の微笑を浮かべていた。窓から差し込む月明かりに照らされた少年の表情は、狂っているだけに神々しいほど美しかった。月光を浴びた金の髪は銀にかわり、冷たく清らかな輝きを見せている。
 眠らせる前、逃亡を封じるために手首をベッドのパイプに繋いだはずだ、と美しき殺人者と化した天使を見上げながら俺は冷静に思い出していた。戒めを外すだけの知恵はあるのか。
 天使の指にじわじわと力がこもった。俺は考えを放棄して無言で少年の細い手首を掴み、一息で捻り上げたあと、腹の上から乱暴に叩き落とした。体躯と力の差が、咄嗟の緊急時にはものをいうのだ。
 固い床の上に転がった少年が、怯えた様子で細かく震えていた。風呂場でこいつの全裸を見たのだ。痩せ細った身体の至る所に、薄く傷痕が残されていたのにも気づいている。変態爺どもの折檻を受けてもいるのだろうが、もっと古い、一歩間違えば死に至ったであろう深い傷痕も見受けられた。
 俺はもうこの時点で、目の前のやせ細った少年がリジェイル本人であることを疑っていなかった。今までどれほど念入りにしつこく捜索しても見つからなかったのは、その美貌を隠すように顔や身体を泥で覆い、神出鬼没な孤児の中に紛れていたためだったのだ。さすがに孤児の数と隠れ家だけはどんな情報を辿っても把握しきれず、コネも一切通用しない。何しろ大人を憎む彼らは鼠のように思いがけない様々な場所を住処とし、危機察知能力にも図抜けている。
 俺は嘆息した。
 こいつが狂って、尚かつパールヴェル家を飛び出したのは、身に受けた傷の中のどれかが原因であるのかもしれなかった。
 だが、薄汚い大人の一人である俺にはどうでもよいことだ。
「寝ろ」
 俺はリジェイルを抱え上げ、再度ベッドに押し込んだ。見えぬ灰色の目が不思議そうに揺れていた。俺はその目を見るのが急に嫌になり、乱暴に毛布をかぶせた。
 リジェイルは恐る恐るといった様子で毛布から顔を出したが、俺が大きく舌打ちすると慌てて寝た振りをした。
 俺は無造作に髪をかきあげたあと、ソファーに横たわり、目を瞑った。押し寄せる倦怠感の中で、リジェイルと鉢合わせしたのは幸運な偶然にすぎないのか、それとも仕組まれたことなのかをしばらくの間、考えた。
 
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 次の日、俺は嫌がらせも兼ねて、町がまだ目覚めきらぬ早朝から依頼人代理にリジェイルを保護したという連絡を入れた。探し当てたというのに、依頼人代理は不機嫌な声で不満を垂れ流した。保護する必要はなかった、ただ現住所のみを確認すればよかったのだと。俺のことをダニか何かと勘違いしているような、嫌悪と侮蔑が明らかに漂う口調だった。俺もそいつのことを金のなるダニだと考えていたので、大してどちらも変わらない。
 依頼人代理は最初の慇懃無礼な態度はどこへやら、命令し慣れている人間特有の傲慢な声音で、俺にリジェイルを連れて、十六番街の外れにある墓地まで来いと告げた。そこでリジェイルと交換に、更に報酬を上乗せしてやるからという言葉を匂わせた。甘い言葉の裏に隠されたあからさまな危機に、俺はいっそ笑い出したくなった。
 何だ。そういうことか。
 俺はやはり、とんでもない金塊を手中にしているようだ。その金塊は、触れると四方からナイフが飛び出す仕組みだった。
「リジェイル」
 俺は金髪を呼び寄せた。
 冗談ではなかった。リジェイルを連れて指示通りに墓場へのこのこと姿を現せば、俺はていのいい射撃の的となり蜂の巣にされるのだろう。つまりリジェイルはいずれ殺害されるために捜索され、ついでに俺までも始末の対象に挙がっているのだった。道理で金払いがよかったはずだ。それに三流探偵の俺が一人死んだところで、誰も不審になど思わないだろう。逆に、路上の脇に転がる俺の死体を眺めて、犬の餌を調達せずにすむと喜ぶ不届きな住人がいるに違いない。
「とんでもねえ」
 俺は乾いた笑いを漏らし、無精髭を撫でた。
 たとえ――そう、たとえ依頼人代理の約束を保古にしてリジェイルを匿っても、結果は火を見るより明らかだった。このおんぼろアパートに数人の雇われ掃除屋が詰めかけて、リジェイルを確保したあとに無言で俺の額を撃ち抜くだろう。墓場へ行っても行かずとも、殺害されることに変わりはないのだ。
 ああ、畜生。
 俺は屑だが、自分の死を笑えるほどイカレてはいないのだ。
「来い、リジェイル」
 俺はリジェイルの腕を掴んだ。リジェイルは子供のように、嫌、嫌と首を振って反抗した。俺は苛ついて、天使の頬を軽く引っぱたいた。
 依頼人代理だけではない。俺の他にリジェイルを捜索していた同業者達の主もまた、最終的には殺害を目的としていたのだろう。
 推理するまでもない理由だ。同業者達の依頼人はパールヴェル家の財産を狙う親族どもで間違いない。当主の病死後、金の亡者が暗躍し始めただけのこと。財の取り分を少しでも増やすため、リジェイルを捕えたのち始末しようと、それぞれがいやらしく画策しているらしい。さすがは名門一家。身内で殺し合いの劇を演じるのか。
 俺が雇われたのもまた、簡単な理由だった。同業者達は皆、依頼人が違うため、足の引っ張り合いを繰り返すばかりでリジェイルに手が届かない。そこで、俺の聡明なる依頼人代理は、パールヴェル家と全く関わりのない人間を使い、調査員達だけではなく他の親族の目も欺いて先にリジェイルを発見しようとしたのだろう。
「死にたいのか?」
 どう考えても、もう遅いような気がしたが、俺はとにかく逃げるつもりだった。リジェイルは虚ろな濁った目をして、奇妙な細い悲鳴を上げていた。
 俺はふと、なぜ一瞬でもこいつまで連れていこうとしたのかと、自分の神経を疑った。こいつが傍にいれば間違いなく足手まといになり、歓迎できぬ死神を呼び寄せる。
 この部屋に置き去りにして、俺だけ逃げた方が助かる確率はまだ高いのだ。
「勝手にしな」
 俺はとりあえず冷蔵庫の空き缶に詰めていた隠し金を取り出し、はおったコートの内ポケットに突っ込んだ。拳銃は眠る時も装備している。
 リジェイルは耳を澄ませて俺の行動を窺っていた。俺はもう見向きせず、さっさと部屋のドアを開けて八年住んだ小汚いアパートをあとにした。
 
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 周囲に視線を配りながら、歪んだ階段をおりている途中、バタンと俺の部屋の扉が開いた。俺は頭を抱えたくなった。日の光に輝く金髪が、よろめくようにして俺のあとを追ってきたのだ。
 俺は、やたらと目立つその美貌を凝視しながら、いっそここで天使を殺した方がいいのではないかと思い始めていた。
 リジェイルはがたがたと何度も手すりに衝突しながら、階段下に呆然と立つ俺の方へ近づいてきた。危うげな足取りは、危惧した通りの災難を招いた。見事に段を踏み外して、転がってきやがったのだ。
 俺は条件反射で転がり落ちてくる天使を受け止めた。
 天使は痛そうに顔をしかめていたが、言葉もなく見つめる俺の視線に気がついたらしく、へらりと微笑んだ。
 
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 リジェイルの金髪は嫌になるほどよく目立った。汚物に塗れたこのスラム街に、これほど見事な金髪の子供など存在しない。いわば俺は、歩く金をぶらさげて逃避行に乗り出したようなものだった。昔、俺が数年暮らした田舎では夜中になると一斉に蛍の光が瞬いたが、こいつの金髪は真っ昼間でも鮮やかな煌めきを辺りに振りまいている。電灯を掲げる道化と何の変わりもない。余程腕の悪い阿呆なスナイパーでも、これだけ派手な金髪を撃ち外すことはないだろう。
 俺は何度目か分からぬ溜息を落としたあと、コートの前を広げて、へらへら笑っている金髪頭を自分の懐へ引き寄せた。リジェイルは歩きにくそうにしながらも、俺の脇腹にしがみついてくすくすと笑っていた。俺は何も面白くなかった。
 
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 リジェイルは全く落ち着きがなかった。気を抜くとコートの内側からすぐに抜け出そうとする。ベルトにさした拳銃を玩具にしようとする。挙げ句、空腹を訴えて駄々をこね、無視すると不貞腐れてその場に座り込む。
 俺は何度、この厄介な天使を見捨てようと思ったかしれない。
 いや、実際、置いていこうとしたのだ。するとこいつは、甲高い声で泣き喚く。どんな騒音にも負けぬ拡声器並みの泣き声を響かせながら足を踏み鳴らし、見限って背を向けかけた俺の方へと必死に手を伸ばすのだ。
 恥も外聞もなく涙を流す天使を黙らせるには、口の中に食い物を突っ込むしか方法がなかった。俺は屋台の側までリジェイルを引きずったあと、ケチャップと薄いベーコンしか入っていないバーガーを買った。食べ物の匂いに気づいて物欲しそうな顔をするリジェイルを、汚水を汲んだような噴水の横にまで、また引きずる。
 食い意地の張った我が儘な天使を石段に座らせたあと、俺はバーガーを口の中へ押し込んでやった。リジェイルは驚いた表情を一瞬浮かべたが、すぐに和んだ様子でバーガーに食いついた。俺はその幸せそうな横顔を見て、ひどく虚しい気分になった。
 口の回りどころか折角洗ってやった髪まで、ケチャップ塗れにしている。
 指を舐め始めるリジェイルの腕を掴み、俺は不透明な噴水で洗い流すよう諭した。空腹感がなくなりご満悦となったのか、俺の言葉に耳を済ましたあとリジェイルは無邪気に噴水の水を叩いて遊び始めた。クレイジーだ。
「やめろ」
 そう言ってもリジェイルは、遊びに夢中になってやめようとしない。どころか、制止する間も与えず噴水の中に飛び込みやがった。
「ディー」
 天使は水滴を四方にはね飛ばしながら、俺に笑いかけて、そう言った。ダディ、と呼んでいるのだろうが、俺はまだそれほど年を食っちゃいない。
「ディーじゃない。高野だ。高野」
 天使は声を上げて笑い、両手で噴水の飛沫を受け止めて踊るようにくるりと回った。
「コーノ。コーノ」
 拙い発音で、俺の名を大声で連呼する。教えなければよかったとすぐさま後悔した。間違いなく俺の名はこの周辺の住人に知れ渡っただろう。
 いつもは必ずすり寄ってくるハイエナのような孤児達や娼婦が、天使の美貌に圧倒されて近づいてこなかった。どこか羨望の眼差しで、水と遊ぶ天使を遠巻きに眺めている。
 黄ばんだ太陽さえも目映げに天使を見下ろしていた。
「置いていくぞ」
 俺が一声かけると、夢中で遊んでいたリジェイルは本当に置いて行かれると悟ったのか、慌ててこちらへジャンプしやがった。
 勢いよく飛びつかれたので、避けようがない。びしょ濡れの天使のお陰で俺までも濡れ鼠と化した。
 
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 笑い種だが、俺の逃避行はほんの二時間で呆気なく終了した。
 目立つリジェイルを連れて歩き回るのは得策ではないと考え、レンタカーを借りに町外れの廃品工場へ足を向けたのだが、優秀な依頼人代理はそこへも既に手を回していたのだった。
 俺が素直にリジェイルを連れて墓場へ現れるはずがないと依頼人代理は先回りし、配下の人間をすぐさま手配したようだった。工場で違法の商売をしていた異国の男は、危機を察して既にとんずらしていた。
 廃品工場の中は薄暗く、広さと鉄屑の多さだけが取り柄のような場所だった。泣き出しそうなリジェイルを、俺はタイヤを詰め込んだ廃車の中へ無理矢理押し込んだ。
「いいか。どんな音が聞こえても声を出すな。絶対にここから出るな。いいな? 誰も回りにいなくなってから逃げるんだ」
 もがくリジェイルの頭に、俺はコートをかぶせた。薄闇の中なら、身動きさえしなければタイヤと同化して見えぬこともない。
「すぐに戻る。いいな」
 俺は小声で念を押した。
「戻る、戻る」とリジェイルは小刻みに身体を揺らしながら、俺の言葉を繰り返した。
「そうだ。俺が戻るまで、動くんじゃない」
 とは言ったが、俺は生きて戻る自信が全くなかった。
 依頼人代理がこの廃品工場へ寄越した配下の人数は確認できただけで四人だったが、俺は狙撃手でもなければプロの傭兵でもない、ただのしがない探偵なのだ。どう考えても勝算はない。
 しかも人数は時間が経過すれば更に増えるだろうと予想できた。依頼人代理は、どうやら本気で俺を始末しようと決意しているらしい。
 この廃品工場に配備された奴らは単なる見張り番のようなもので、要するに本番はこれからなのだ。
 俺はなぜ、自ら囮役を選んだのだろうと奇妙に思った。よく分からない。
 いつものように金欠で、しかし、いつもより疲れていたためなのだろうか。
 理由など。
 理由などに意味はない。
 確かなのは、俺が鉄パイプの背後に身を潜めながら拳銃をかまえて、携帯で誰かと連絡を取り合う敵の背を撃ち抜こうとしている、ただそれだけなのだ。

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