撩乱/月夜遭遇 [1]

 いざ舞い狂え、常世の花よ。
 
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 白い、白い上弦の月が、甘く柔らかな光を地上に注いでいた。
 そっと優しく、孤独な迷い子へ慈悲の手を差し伸べるように。
 ゆえに、リカルスカイ=ジュードは走る。
 月の光を背に浴びて、枯れ葉舞い散る雑木林の中を、ただひたすら走り続ける。
 
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 一難去ってまた一難。
 災難は次なる災いを喜んで連れてくるものだ。
 不幸のあとには幸福が訪れるとか、苦難を知る者は思いやりの心をもって他者を深く愛せるようになるとか、そういった言葉は生死に関わるほどの危機的状況に陥った者の口からは、決して紡がれないだろう。
 大体、逆境にもめげず毅然と立ち向かえるほどの前向きな思考を持つ人間には、そうそう不幸など訪れぬものではないのか。言葉というのは言霊とも呼ばれるくらいなのだから、やはり悲観的な考えを持つ人間のもとに禍々しい気が寄り集まってくるのだ。
 いや、先に不幸が落ちてくるから、いつしか人は悲観的になるのか?
 リカルスカイは夜気漂う雑木林の中を全力疾走しつつ、こういった無益な問いを自分に投げかけていた。
 どうすればいいのだろう、この状況。
 窒息しそうなほど呼吸は荒いし、走りすぎて足も胸もひどく痛む。その前に、無慈悲な連中に散々暴行を受けたため、身体中が錆付いているかのごとくきしきしと軋んでいる。きっと至る所に傷ができている。もともと古びていた外套は一層ぼろぼろになっているだろう。髪など、路上で物乞いをする老婆の蓬髪より、ひどい有様に見えるだろう。
 どこへ逃げればいいのか分からない。けれども、第一に考えねばならぬことは現実逃避のための無益な問いなどではなく、追っ手を確実に振り切る方法で、そうして自分の命を守らなければこの先押し寄せるであろう様々な問題など無意味になる。焦れば焦るほど、余計な考えばかりが脳裏に浮かんでしまうけれど。
 泣きたい、とリカルスカイは内心で少しだけ弱音を吐いた。
 数刻前に身勝手な都合でリカルスカイを排除しようとした男達の荒んだ暗い目を思い出す。闇に堕ちた不穏な眼差しは、他者を穢すことに何の躊躇も罪悪感も含んでいなかった。彼らが嘲笑と共に吐き捨てた罵声が、今も鼓膜にぴたりとはり付いている。
『所詮、所詮は不具の魔術師』
 不具……不具!! なんて痛烈な嘲りだろうか。
 この世の魔術師達にとってこれ以上ない侮蔑の言葉。なんたる不名誉。
 他人に指摘されるまでもなく、そのようなことはリカルスカイ自身、嫌気が差すほどよく理解している。だが、リカルスカイが自ら望んで不具と呼ばれる身になったわけではないのに。
 言葉は時に、魔物へと変わる。容易く脆い精神の中に侵入し、思う存分食い散らかす。
 リカルスカイは乾いた咳をしたあと、胸を強く押さえた。夜露に濡れた先端の鋭い野草が、リカルスカイの手や頬をうっすらと切り裂く。薄く血が滲むその傷口に、冷たい夜露が落ちてくる。
『ねえリカルスカイ……リスカ、気をつけるがいいよ。祭りが近いこの時期は、物見高い都人ばかりではなく、獣のように下劣な連中までが押し寄せる』
 リスカ、と愛称で呼んだ皮肉屋の魔術師の忠告を、なぜもっと真剣に聞かなかったのか。リスカ。その魔術師はいつも、リスカが嫌がるのを承知の上でわざと別の名を口にする。リスカと呼ばれるのはまだましな方なのだ。幼少の頃ならばともかく、今更リィだのリルだのと甘い愛称で呼ばれるのはご免だった。大体、この容貌にそのような可愛らしい渾名が似合うものか。魔術師なんて、自分も含めて誰もかれも陰湿な面を隠し持っている。他人の感情を掻き乱して翻弄し、企みの通りに狼狽する様子を、まるで一つの余興のようにとらえて笑う。
 なのに、忠告をくれたあの時だけ真摯な態度で、リスカ、と魔術師は呼んだ。素っ気ない対応しかせぬリスカの注意を喚起するために。今頃になってようやく忠告の重みを理解するなんて――私は愚か者だ。
 災難を招くのは運でも言霊でもなく、偏に自分の至らなさかもしれない。
 ああ、でも、たとえ不具と蔑まれようが、私だって魔術師なのに!
 無意識に唇を噛み締めた時、柔らかい泥土の上に盛り上がった木の根に足を取られ、危うく転倒しそうになった。崩れた体勢をなんとか整え、リスカは再び闇雲に走り出した。木々の輪郭を曖昧にする闇の彼方から、獣の遠吠えが聞こえる。笑いさざめくような、木の葉を揺るがす夜風の音。遥かな高みで煌めく星の瞬きさえも、耳を澄ませば聞こえそうだが、それら全ての音は、自分の荒い呼吸ですぐさま掻き消されてしまう。
 リスカは一度、月を仰いだ。魔力と月は、本来切り離せぬものだった。降り注ぐ月の光はこれほど淡く愛おしいのに、今は目映すぎて涙が滲む。肉体の中で、低い温度で燃える魔力が、月の光に呼応しているのだ。
 魔力。リスカは――体内に渦巻く魔力の含量のみでいえば恐らく聖魔級、それも高位魔力と呼ばれる上等な力を持っているはずだった。上位魔術師は幻術国家リア皇国内においても、数えるほどしか存在しない。リスカは魔力の質で判断すれば間違いなく、希少な上位魔術師の銀冠(これは皇帝から授与されるもので、正式な上位魔術師としての証となるもの)を授けられるのだ。だが、誰もリスカを魔術師として認めない。半人前以下としてしか、認識してもらえない。
 花術師リスカ。
 それがリスカの身分であり、全てである。国が、人が、リスカに魔術師としての正式な称号を与えるべからずと拒絶する。身の内で燃える魔力がどれほど上質であっても、真名以外の名を名乗ることは許されないのだ。全く、嫌になる!
「もう……」
 走れない。リスカはとうとう音を上げて、柔らかい地面を蹴る速度を落とし、のろのろと歩き出した。夜の気配に包まれた枯れ草の匂いが濃厚すぎて、鼻につく。湿った土の匂い。年月を重ねた樹木の匂い。それらの匂い全てが鬱陶しくなり、リスカは軽く首を振った。雨のように冷たい汗が幾筋も頬や首もとを伝った。
 普通の魔術師ならば真夜中の雑木林を無様に走り回らずとも、簡単な結界でも構築して身を守ればすむこと。魔術師として認定される前の学師ですら容易く扱える術だ。けれど、数秒程度で完成する初歩の術さえ、リスカはどうあっても操れない。
 リスカのような不具の魔術師を、魔術に関わる者は「砂の使徒」と称し、蔑視する。この由来は、己の美を鼻にかけた一つの高慢な宝石が、醜いものの中に埋もれていれば、より美貌が輝くと浅はかな知恵を巡らせ、砂漠の中に飛び込んだという神話から来ている。結局その宝石は、迎えにきた優しき神が差し伸べる慈愛の手から自らこぼれ落ちて、やがていつしか抜け出せぬほど砂の中に深く埋没してしまい、二度と美を誇ることができなくなる。要するに、どれほど強い力があっても、それを表に出せぬことを揶揄しているのだった。
 そう、私はこの力を満足に操れない。
 リスカは重い足を引きずりながら、自嘲した。どこへ逃げていいのか分からなくなると、自然と思考も迷宮をさまよう。
 魔術とは、様々な系統に区分されるものだ。
 大雑把に言えば、白魔術、黒魔術。その中でも召喚系だの使役系だの治癒系、防御系だのと、複雑に枝分かれする。魔術の道を選択する者は自分が持つ魔力の質と位を見定めて、それぞれ得意な分野を習得するが、それにしてもとりあえずは一通り学ぶものだ。たとえ初歩止まりであったとしても。
 やがて、いつか自分なりの理を見出し呪術を練り上げる。基礎から応用へ。それは普通の学問においても至極当たり前のことだ。
 なのにリスカは、応用ができない。
 上質の魔力を持ちながら、詠唱で魔術を発動させられない。体内に眠る力を言葉に乗せて術を行使できぬことは、魔術師としては致命的な欠陥があると判断される。
『カジュツシ――花術師』と蔑まれる由縁。
 花を媒体としなければ、魔力の一切を行使できない。
 魔術においてそういった厄介な制限を持つ者は、正規の魔術師として永遠に認められない。扱う媒体名をとって、リスカの場合は花術師と呼ばれている。
 これは、秘密にしていれば誰にも知られずにすむ……とはいかない。
 なぜなら、かなり分かりやすい独特の特徴が身体に現れるのだ。
 リスカは深い溜息を落としつつ、月明かりに自分の左手をさらした。人差し指を覆う、花の模様。まるで入れ墨のよう。
 この花の刻印のせいで……と、内心苦々しく思う。
 魔術師達が集まる〈重力の塔〉からも閉め出され、人に後ろ指をさされて、王都から遠く離れた辺鄙な町へ逃げるように去るしかない。
 本気で泣きたくなってきた……とリスカは独白した。
 自分では、それほど悲観的な性格ではないはずだと思っていた。確かに、仲間達からの冷笑や見下す眼差しに耐え切れなくなり、王都を去ったのは事実。けれども、我が身の腑甲斐なさを恨み一生落胆してなどいられない。前向きとはいかないまでも、それならば自分にできることをしようと発起して、丁度辿り着いたこの町で商売を始めたのだ。
 花を媒体とすれば魔術は使えるのだから。
 考えに考え抜いて試行錯誤を重ね、魔力を込めた花びらを売ることにしたのが、およそ一年前。
 まず、花びらの色ごとに、溶かす魔力を区別する。
 たとえば黄色の花びらは、障気を払う護符として。
 青い花びらは精神安定。
 淡紅色は、病に。
 水色は結界を作る。
 紫は、風の刃を生む。
 白い花びらは、怪我の治癒。
 そして赤い花は、媚薬の効果をふんだんにもたらす。
 まあ、飛ぶように売れるのはもっぱら媚薬かわりの花びらと、精力強壮剤代わりの橙色の花びらだが……。
 いや、人の欲望に限りがないために、リスカの商売は地味ながらも成り立っていた。感謝感謝で、ようやく自分の能力を冷静に受容することができていたというのに。
 ……あの男達が。
 治癒の花びらを買いに来た、風采の上がらない男。魔物を退治して怪我を負ったなどと豪語していたが、真相はどうせ酔っぱらいの喧嘩だとリスカは踏んでいる。腕のいい傭兵だとも自慢していたが、それもどうだか。真に屈強な傭兵がこれほど深い傷を安易に負うはずがないし、自らの功績を吹聴したりするとは思えない。
 しかし、実状がどうであろうが、客は客に違いなかった。
 リスカは治癒の花びらを売った。
 治癒の効果のほどに半信半疑の表情を浮かべていた男は、高額すぎるなどと文句を言って値引きをしつこく要求したが、リスカは一切の交渉をはねつけた。自分が作った治癒の花びらに自信があったし、第一、町で売られている薬草と比べて、それほど代金に差があるわけでもない。
 ふわりと傷口に乗せるだけで、砂糖のように淡く溶ける花びら。すると次の瞬間には柔らかな光に包まれ、奇麗に傷が塞がっている。上出来、だと思う。男も、大したものだ、と渋い顔が一変して明るくなり、きちんと代金を支払ってくれた。――この時は。
 少しだけ嫌な予感がしたのは、それまで威丈高な態度を取っていた男が目の色を変えて店内を見回したためだ。舐め尽くすような視線。まあ、一見の客は大体似たような顔をして店内を眺める。
 愛想のよさを見せながらも目は笑っていない男は、狭い店内を丹念に物色し、リスカを質問攻めにした。壁際の棚に陳列した可憐な花びら入りの瓶を指差し、これはどういった状況の時使用されるのかなどと。
 リスカはまともに取り合わなかった。警戒心が働いて、のらりくらりと矢継ぎ早に繰り出される質問を適当にかわし男を追い出したあとは、すぐさま花びらによる結界をはった。
 ただ、花びらの結界は、別の無害な客までも阻んでしまう。
 仕方なく結界を外して、リスカは商売を再開した。こういった辺鄙な町では当然のごとく、治安がすこぶる悪い。盗賊の出現なんて日常茶飯事。強盗に押し入られるのは、自衛と警戒を怠る自分の責任。今日を生きるのに忙しくて、利得が絡まぬ限りは誰も同情などしてくれない。
 リスカもこの町の不文律は十分承知していた。そのつもりだった。夜には必ず結界を作り、我が身の安全を守る。しかしあの夜は、妊婦の容態が悪化したといって駆け込んできた顔見知りの神父に付き添い、その騒動で防衛対策をすっかり忘れてしまったのだ。
 深夜。
 夜陰に紛れて、男達がリスカの店を襲撃した。
 就寝の前に水を一杯飲もうと思って、小さな調理台の方へ近づいた時のことだった。裏口の鍵を外して室内に侵入し商品の花びらを盗み出した男達と運悪く鉢合わせしてしまったのだ。
 絶句するリスカと盗賊の一人の視線が刹那、交差した。昼間の客だった。
 リスカは勿論、必死に応戦した。誤算は、魔導の戒律に背いたたちの悪い魔術師が男達の中にいたということ。それに、防御の結界をはったり攻撃を仕掛けたくても、媒体となる花びらが全て盗まれたあとでは、なす術がなかった。いざという時のためにと常備していた数枚の花びらも、敵の魔術師が繰り出す術を封じるのに使いきってしまい、そうなるとあとは全く打つ手がない。散々逃げ回って、どの部屋も嵐が通過したかのように荒れてしまった。砕け散った瓶の破片や本などが店中に散乱し、平穏を忘れたリスカの家は、ほんのわずかな時間で惨憺たる有様へと変貌した。
 いい気味なのは、古代文字で封印された瓶からリスカ以外の人間が花びらを取り出した瞬間、枯れてしまうという事実を男達が知らなかったことだった。
 まあ、お陰でその事実に気づいた男達が逆上し、リスカに手加減なく暴行を加えたけれど。
 リスカだって本当は怒り狂いたいところなのだ。
 商品の全てが無駄になったのだから!
 多少でも剣技を身につけていれば、取り囲む男達にも怯まず対峙できただろう。だが、リスカは通常の魔術師の例に漏れず、身体を鍛えることには消極的であったため、基礎体力に自信がない。錆びた剣の先を向けられれば、体術などに縁のないリスカは、何とも情けないが、怒りよりも恐怖が上回ってしまう。……都合の悪いことに、自分自身に施していた、とある秘密の術も丁度効力が切れてしまい、余計に我を見失った。
 リスカは、防衛対策の一つとして、実は性別を偽っている。
 艶麗な美人などとは恐れ多くてとても言えないが、リスカは一応、女であったりする。
 愛称はともかくとして『リカルスカイ=ジュード』なんて、人に名乗ればちょっと誤解されるような大層な名前だ。
 まあ、その、外見は、別に卑下するつもりはないけれども、あまり人様に堂々と誇れるものではなく……つまり貧弱な部分が所々なきにしもあらずなので……ええい、単刀直入に説明しよう。どうせ淡白な顔貌をしているのだ。わざわざ大掛かりな魔術で(リスカの場合は一旦花びらへと魔力を注ぎ込まねばならないが……)外貌そのものを変化させなくとも、単純に性別のみの転換術を施すだけで皆、リスカがれっきとした青年だと信じて疑わないのだ。
 いや、青年ではなく栄養不良の血色の悪い少年だと思われている可能性の方が強い。美貌の影など感じられないので、倒錯趣味になぜか傾く男の魔術師などから、妙な誘惑を仕掛けられることもなかった。別に慕われたいわけではないが、微かに悔しい、というか複雑な気分になる。魔術師には結構容姿の優れている者が多いのだ。勿論、転換術やら何やらで、全く別の容貌に変身している場合が大半なのだけれど。
 リスカはもともと性別を匂わせない容貌なので、色気が絡む揉め事には無縁だった。
 それでも一人暮らしには危険がつきまとうと案じ、念には念を入れて、昼間は性別を変えていた。
 複数の凶暴な男に襲われている最中で、その術が効力を失うなんて災難としかいいようがない。
 この際リスカの外見が彼らの好みに添わなくても、暴力の気配で神経を昂らせている時には、そのようなことなど些末な問題だろう。リスカには理解できないが、血の色や香りは人をひどく酔わせるという。残酷に暴虐的に。支配欲と性欲は簡単に結びつくものだ。
 女だと知られなければ、腕一本程度の犠牲で、男達は去ったかもしれない。
 仮に彼等が男色家で術の効力が切れなかったとしても、艶のない灰色の髪を持つ痩躯のリスカなど陵辱する気にはならなかったはずだ。女は欲望の対象、そう思い込む男に限って、下劣な加虐趣味を持つのはなぜなのか。
 どちらにせよ、獣にすら劣る連中に陵辱されるなんて死んでも嫌だ。
 女だと知られた瞬間、リスカはそれこそ咄嗟に死んだ振りをして、一瞬狼狽する男達の隙をつき、こうして死に物狂いで店の外へと逃げ出したのだ。
 ……もう、追っ手は全て撒けただろうか?
 自宅を兼ね備えた店の裏手に広がる雑木林を逃走路として選んだのは、途中で野花を手に入れようという目的があったためだ。細かいことを言えば、魔力を使うにしてもよくよく花を吟味せねばならないのだが、切羽詰まった状況では藁にも縋る気持ちだった。
 花術師は花の種類、色、開花の程度によって、魔力の色合いや引き出され方に大きな差異が生じる。
 どのような花でも自由に魔力を流し込めるのならば苦労はなく、露骨な差別もされないはずだ。
 治癒には治癒に適した花が、破壊の術には生命力の強い花が、というように、力に共鳴する花を用いねば意味がなかった。中には、魔力を全く受け付けない花もある。魔力を弾く花、延々と魔力を搾り取る花など、厄介な特性を持つ花まである。
 それでも、他の「砂の使徒」と比較すれば、花術師は多様な力がある程度は行使できる。
 花の種類は、数千、数万と存在する。
 その中から魔力の受け皿となりえる花を探せばいい。リスカは長い歳月を費やして研究を重ね、ようやく魔力と相性のいい数十種類の花を見つけたのだ。
 雑木林の中に逃げ込んだ時、願望通りに防御と攻撃用の花を発見できるとまでは思わなかったが、目くらましに使う程度の小花なら簡単に見つかるだろう、と楽観視していた。
 だが、ここでも誤算が生じてしまう。
 今は秋だ。
 しかも、もうすぐ秋の踊り子が去り、冬将軍が到来しようかという頃。
 夏場に比べ、草花の数は激減している。
 加えて、よほど注意せねば闇夜に包まれた雑木林の中で、足下に生える秋花の種類など見分けられるはずもない。月明かりは雑木林の隅々や細部まで見渡せるほど強くはないのだ。地面を覆う枯れ葉では代用できないし、追われている状況で花摘みに集中できるわけもない。
 まさに踏んだり蹴ったりの進退窮まる切実な状況だった。
 このようなことになるのなら自力での解決にこだわらず、人気のある町中を目指せばよかったのだ。彼等の仲間が途中で待ち伏せしてないとも限らないが、夜間の巡回に駆り出された衛兵に出会う幸運だってあったかもしれないのに。何より、出費を惜しまず、腕の確かな傭兵でも雇うべきだった。
「痛っ」
 不意に鋭い痛みが臑に走り、リスカは顔を歪めてその場にうずくまった。
 見ると、野性の獣か何かによって不自然に折られた低木の枝の先端が、臑から膝にかけて深く肌を抉ってしまっていた。情けないが、痛みには本当に弱い。魔術師でありながら血を見るのも苦手だ。
 うわあ凄い痛い、とどこか放心し、他人事のように傷口を眺める。
 我に返り慌てて傷口を押さえるが、ぬるりとした血の感触に青ざめた。このままだとかなりの量の血が流れる。
 まずい。血の匂いで居場所が男達にも知られてしまう。向こうにはおそらく下位だろうが魔術師もついている。
 リスカは震える指で外套の一部を裂き、応急手当をした。傷口に巻き付けた布は、すぐに黒く濡れていく。
 ああもう、と思わず呪詛がこぼれた。どうして私がこのような目に遭わなくてはならないのだろう。
 とにかく、一刻も早くこの場から離れた方がいい。血が流れた場所というのは、追跡しやすいのだ。
 ただ、痛みを我慢しようにも足に力が入らなくて、何度も転倒しそうになった。野草ではとても魔力を注ぎ込めない。特に治癒の術は一定量以上の魔力を必要とする。攻撃系の呪術よりも実は遥かに高等なのだ。
 自分の身から流れる血の匂いが気持ち悪い。
 あまりにも濃厚で、強烈で、吐き気すら覚えた。
 出血多量で死ぬんじゃないだろうか、と冗談にも思えないような考えが脳裏に浮かび、冷や汗が背を伝う。何だか体温まで急激に奪われている気がする。寒い。
「血の、匂い」
 ふと、意識しない間に、声がこぼれた。


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