撩乱/月夜遭遇[2]

 強い強い血の匂い。
 強すぎる。
 強すぎるのだ。
 リスカの勘が警戒を伝える。
 すっと目を凝らして周囲を窺うと、茂みが奇妙に荒らされているのが分かる。何者かがこの一帯で争った形跡だ。リスカの肌を切り裂いた枝があった周辺を含め、広範囲に渡って激しい闘争の痕跡が色濃く残されている。
 束の間痛みを忘れて、慎重に足を踏み出した。
 血の香りは、海の匂いにも似ている。体内には潮が満ちているためだという。
 ゆえに人は血液が夥しく流れた場所を、血の海、と表現する。
 群生する野草をかきわけ、不均等に並ぶ木々の間を抜けて、唐突に視界が開けた時、リスカはそこに、確かに、血の海を見た。
 月明かりは美しいものだけではなく、凄惨なものまでもを平等に照らし出す。
 リスカは息を呑み、呼吸をとめた。
 目に映るおぞましい光景に、魅入られる。
 軽く十はあろうかという屍。五体満足の、と表現していいのか分からないが、まともな死体は一つとしてない。どの遺体も見事に四肢が切断されている。飢えた獰猛な獣が力任せに肉体を噛み千切ったという雰囲気ではない。断面が奇麗なのだ。何者かが刃物を使用し、凶行に及んだのだろう。
 首、手、脚、胴。無惨に断ち切られた人間の破片。枯れ葉の上に四散している白い物は、臓腑だろうか。
 リスカは呆然とした。修羅の光景に、魂が束縛される。
 どう見ても生きている人間はいない。全身をばらばらに切り裂かれた状態で、鼓動のある方がおかしい。
 心の許容量を超えたむごたらしい光景を前にすると、嘔吐感や恐怖など微塵も感じないものらしかった。現実感がひどく乏しくて、悪い夢でも見ているような心地になる。
 どうしよう。
 リスカは何度も瞬きを繰り返した。
 いくら血に弱いとはいえ、多分一般の女性と比較すれば、こういった惨劇に対する耐久性はあるかもしれない。精神が麻痺しても、悲鳴を上げてはたりと気絶するほど脆弱ではないのだ。
 魔術師は、必ず心に枷をつけている。
 いかなる事情があれども精神の波動を常に一定に保つことは、魔導の道を志す者がまず最初に叩き込まねばならない大切な規約の一つだ。魔力は厳粛な理の檻にて飼い馴らすべきと。危機に瀕した時にこそ冷静な判断が下せねば、魔術師を名乗る資格はない。
 決して狂わぬよう、魔力が暴発せぬよう。
 そのため、本人の無意識のところで精神が狂気の沼に溺れかけると、無理矢理正気に戻らされるよう、予めかけていた暗示が効力を発揮する。
 リスカは、じわじわとだが、忘れていた手足の感覚が戻ってきたことを意識した。
 だらしなく放心している場合ではない。
 死人達には可哀想だが、遺体を集めて手厚く埋葬してやる気にはなれなかった。今はリスカ自身の体力、気力が大幅に失われているし、追っ手がしつこく探し回っている可能性も十分考えられる。
 ある意味、正常な意識を麻痺させる麻薬のごとき濃厚な血の匂いは、追跡者達の目から身を隠したいリスカにとっては好都合でもあった。
 大気中に溶ける血の甘い匂いが、リスカの乱れた気配をうまい具合に掻き消してくれるだろう。
 少し、ほんの少し、罪悪感はある。
 死人さえも利用せねばならない自分の非力さに、失望する気持ちもある。
 でも、でも。
 リスカは、ゆっくりと後退した。
 死体の山から目を離すことはできないけれど。
「あ……?」
 月が無言で見下ろす中、地面を濡らす血液が一瞬きらりと反射したように見えた。
 血の輝きにしてはいささか鋭利すぎる光だ。
 怪訝に思って恐る恐る屍の山へ近づくと、仰向けになっている男の胴体の下に、随分刃毀れした一本の長剣が見えた。
「魔剣だ!」
 思わず声を上げ、恐怖や罪悪感などを遠くへ押しやって血に染まる長剣を手に取った。
 かなり痛んでいるが、魔剣に間違いない。
「うわ、うわ」
 しかも、お目にかかる機会もないくらいの、上等な魔剣。
 そもそも魔剣自体が希有である。
 魔剣の正体は、伝記として後世に語り継がれるような名高い魔物の魂である場合が殆どだからだ。
 勿論例外もあるけれど、リスカは魔剣そのものを目にするのも、これで二度目だった。
 魔剣は魔術師どころか傭兵や騎士、妖術師の間でも垂涎の的。売れば、一生遊んで暮らせるだけの大金を得られる。
 こ、これ、盗みたい。
 思わず不埒な考えが浮かぶのは、どうしようもない。
 刃毀れの具合が大分ひどいが、リスカならば治癒できぬこともない。
 治癒の花びらがあれば、という面倒な条件がつくが……。
 不具の魔術師であるという歴然とした事実を思い出してつい落ち込みかけたが、一旦暗い感情は脇に置き、魔剣の状態を確かめることに専念する。
 白刃は本来なら感嘆の吐息が漏れるほど、精巧なのだろう。今は血に塗れ、傷がついている。
 研ぎ澄まされた刀身にまるで絡み付くようにして彫られている、蔦のような模様。凄い。寒気が走るくらい端整で美しい。
 これほどに精美な剣、状態が良好であったならば到底リスカの手には負えぬ代物だ。多分、ただ身の側に置くだけでも相当の負担を強いられる。
「だが、死にかけている……」
 魔剣に覇気がない。死にかけているからこそ、手にしても正常心を保っていられるのだ。
 知らず知らずの内に、溜息が溢れてしまう。
 想像するに、この魔剣が目の前の凄惨な光景を作り出したのだろう。
 ということは、死人の中の誰かが魔剣の正当なる持ち主だったはずだ。
 力ある魔剣は主を選ぶという。
 ならば、このまま死なせてやる方が、剣にとっては本望だろうか?
「でも」
 勿体ない。たとえ、自分のものにならぬとしても。
 うう。どうしよう。
「ああ、もう」
 なんて夜だろう。
 リスカは呻いた。
 魔剣を握り締め、できる限り素早く、この場を去る。
 魔剣に鞘は存在しない。理由は、持ち主が鞘となるから。
 しかし、この程度の人数、といっては命を散らした人々に申し訳ないが、もとは尋常ではない威力を誇っていただろうと推測される魔剣であれば、これほどに刃が消耗するのはどう考えても不自然だった。魔剣は血を浴びれば浴びるほど、強さを増す性質を備えている。
 とすると、答えはおのずと見えてくる。
 無礼千万、傲岸不遜な言い草であるのは重々承知だけれど……、多分、持ち主の力量が魔剣に追いつかなかった。あるいは持ち主が扱う以前より、激しく消耗していたか。
 魔剣にもそれぞれ特徴があるが、中には持ち主の生気を吸収する危険なものも存在する。
「その手の類いには、見えないけれど……」
 勝手に屍の山から持ち出してきたことに幾ばくかの後ろめたさと不安を覚えつつ、リスカは剣を両手に抱えて、木々の間をゆっくりとすり抜けた。
 視線は、弱い月の光を頼りに、足下に生える草花を探していた。
 たった一輪でいいのに。
 この季節、治癒の花を見つけるのは難しい。
 治癒の白い花――クルシアは、夏の半ばから秋の初めにかけて咲く。その短い時期に摘めるだけ摘んで備蓄しておくのだ。秋も深まり冬が近い季節、果たして遅咲きのクルシアが見つかるかどうか。
 加えて、リスカの体力も残り少ない。
 魔剣の治癒より、我が身の安全を優先させなければならないことは分かっている。
 魔剣を発見した時は興奮して忘れていたが、ここへきてじくじくと足の傷が異様に痛む。
 頻繁に目眩がするのは、あまり歓迎できない兆候だ。
 貧血を起こして倒れてしまいそうな予感がある。
 他人の怪我を治すより、自分の傷を癒すのは更に難しく、魔力を多く消耗する。体力がここまで失われると精神を統一できなくなり、結果、魔力も望む通りには扱えなくなる。
 魔力、体力、気力はそれぞれ別物ではあるけれど、互いに深く干渉し合うのだ。どれかが欠けると、他のところに大きく負担がかかってしまう。
 それに。
 この魔剣は――。
 リスカの戸惑いは、魔剣が思った以上に瀕死の状態であることだった。
 急速に魔剣が輝きを失い始めている。まるで死にたがっているようにさえ思える。
 リスカは焦りを覚え、なぜだか泣きたくなった。
 探しても、探しても、花が見つからない。


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