腹上の花[1]
世界は天秤型を成す三つの大国が支配している。
大陸全土の名を「パルヴァ」という。
左側の天秤にはアレクファンド帝国、右側はリア皇国、そして二国を支える軸となる位置に存在するファーデル真国。この三大国が周囲の小国を支配している。また、天秤大陸の周辺には杯から溢れ落ちた飛沫のごとく小さな島々が幾つも点在していた。
それらの島は「神の涙」と称されている。
リスカの母国であるリア皇国は俗に幻術国家と呼ばれ、他国と比べて最も魔術系統の研究が進んでいる。術を学ぶのならリアへ、と唱えられるほどに修学環境が整備され、魔道に関する様々な制度その他の設備も充実している。こういった例に見られる通り、術の類いにおいては最高峰の国家と名高いが、同時にひどく閉鎖的な古めかしい老国としても認知されており、リアを出身とする者が各地域へ活動拠点を移すのは概ね自由であっても、他国民には情け容赦なく手厳しい。魔術を修学するためはるばる渡って来た国外の者などについては、たとえ貴人の強力な後ろ盾があり紹介書を用意していようとも大抵門前払いで追い返すし、一般の無害な旅行客すら入国の際には事細かな審査を繰り返すほどで、そう容易くは受け入れない。
遥か昔から受け継がれてきた国の頑な気質は、他国より幾度となく通達される苦情や勧告をものともせず、決して変化しなかった。時の流れにも左右されぬというよりは、時自体が失われてしまったかのような頑陋な国なのだ。
だが、現在のリア皇国は先帝崩御を契機に、王族間で絶え間なく小規模の闘争が繰り広げられ、安寧とはほど遠いと言わざるをえない。術師の擁護に力を注ぐ法王と、貴族を中心にして結成された騎士団の面子を重んじる新皇帝とで権力が二分しているせいか、王都は実に不穏な空気が満ち満ちている。策謀巡らす権力者や貴族達にとってはこの先美味しい汁が吸えるかどうかの瀬戸際で、些細な変動さえ見過ごせぬ緊迫した毎日を送っていることだろう。
まあ、王都を遠く離れたリスカには全く興味のない話だ。
権力にも闘争にも犯罪にも無関係な暮らしをしている。
――はずなのだが。
現在、リスカはなぜか牢獄生活を強いられ、抜き差しならない羽目に陥っていた。
いやはや、身に覚えのない罪で投獄されてしまったのである。
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腹上死、という言葉がある。
いきなり何だ!? とリスカ自身思わなくもない。
まあ、その、説明するまでもないだろうが、情事中に死ぬ、という意味だ。
こう言うのはかなり虚しいが、リスカとは無縁の言葉である気がする。……いや、こういった淫靡な死に方を羨ましいと思うわけではないが。ううむ。
しかしながら全くの無関係とは言い切れぬ事情を抱えているため、なんとはなしに複雑な感情が芽生えてしまうのだ。勿論、リスカが当事者という意味では断じてない。
ではどういう意味かというと、リスカは媚薬の花を売っているのである。
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人が身に宿す欲望とは、世界情勢に大きく左右されるものなのかもしれない。
あるいは逆に、欲望の灯火とは、己の胸を焦がすだけにとどまらず世界全体を飲み込むほどの激しい威力が隠されているのかもしれない。
「全くねえ……」
リスカは店の入り口付近に置いている椅子に腰掛けつつ、商品棚を眺めた。視線は花びら入りの瓶を端から順序よく追っているが、意識は別のところをさまよっている。
腹上死の流行は王都から広がり、リスカが暮らす辺鄙な町にまで影響を及ぼしているようだった。
都がもたらす荒廃と腐敗は加速度的に益々深刻なものとなり、人々の精神までも確実に蝕んでいく。
いち早く胸中に憂いを抱え厭世的な感情に支配されてしまうのは、噂話の収集を生き甲斐とする暇と金を持て余した裕福な貴族の方々に多いようだった。悪徳は美味、無上の果実に勝るとばかりに怠惰や罪悪をよしとして――いささか自虐的な心情をも孕みつつ――せっせと背徳行為に日々邁進し、知人友人その他にも「さあ悪の宴を始めましょう」と奨励しているらしい。
悪徳の入り口は最も簡単な欲望……つまりは肉欲という艶かしい性的衝動に結びついてしまうわけで。
媚薬が異様にばか売れするのは、そういった理由が原因であるのだろう。
「ううん」
穏やかな冬を静かに迎えたいと願うリスカにとっては、商品を順調にさばけるこの事態は歓迎すべきものであろうが、なぜだか素直に喜べない。……いやいや、別に僻んでいるわけではない。絶対ない。
「うむう」
つい顔をしかめ、小さく唸ってしまう。
今し方も媚薬の粉ならぬ媚薬の花びらを客に売ったばかりである。
およそ一週間前の夜盗襲撃騒動で、あわや店休業、果ては路頭に迷うかという危機的状況に追い込まれたリスカだが、「死神閣下」の凄まじい異名を持つ剣術師様に救われ(……それが幸か不幸かは考えたくないが)、更には花探しまで協力してもらい、なんとか治癒用と解毒用の花、媚薬用、魔除け用の花などを手に入れて、数種類の商品を揃えることができたのだった。
うう、何と申しますか、リスカは花を通してしか魔力を制御できない「砂の使徒」……花術師なわけで。
普通の魔術師のようにそこらの物、たとえば首飾りや指輪あるいは護符などを代用として、魔力を自由自在に駆使することはどうあっても不可能なのだ。まあ、力ある魔術師はそもそもリスカのように一人で細々と商売など始めたりせず、権威と財力を誇る貴族達の庇護を受けたり法王のお膝元で華々しく活躍したりと、生活が困窮することはまずもってない。
何の話だったか。
ああ、そうだ、死神閣下……ではなく剣術師様。
リスカは現在、滅茶苦茶努力して、ある一方を見ないようにしている。
その、あの、ある一方とは、つまり。
店の奥まった場所、いつの間にか豪華な長椅子が置かれた辺りのことだ。
自分で説明するのはさすがに物悲しさを感じるが、胡散臭い商品ばかりがずらりと並ぶ薄汚い店内には少々不釣り合いな、美しい紅色の長椅子である。
貴族の屋敷でしかお目にかかれないような高価な一品であるのは間違いない。貴族の屋敷内など実際に見たことはないが。
ああ駄目駄目意識しちゃ、と思うほど人間は意識せずにはいられない。
視線の端に、真っ赤な長椅子が図らずも映ってしまうのである。
自己主張しているとしか思えぬ長椅子の豪華絢爛さが悪いのか。
それとも、長椅子に横たわる諸悪の根源……じゃなくて凶悪ならぬ接近要注意!の美麗な死神……いやいや違う……覇気がありすぎるどころかもう神威並みの雰囲気を平然と漂わせる剣術師様のせいか。あるいは。
リスカはつい「死神閣下様」と呼んでみたい衝動に駆られた。うまい異名を考える人がいるものだ、などと感心してしまう。
思わず気を抜いて、ちらりとそちらを見てしまった。
「何か」
ひえ! とリスカは内心で悲鳴を上げた。
切っ先の鋭利な刃物めいた視線と、ばっちりかち合ってしまったのだ。
「いえ、滅相もない!」
自分で何を言っているのか意味不明である。
慣れない、この人の容姿がどれほど麗しく美形であろうと、氷の眼差しにはまだまだ慣れない。
ああ、しかし。
豪奢な椅子もですけれどそれ以上にあなたの肩の上に乗っているものがどうしても気になってしまうのです、とリスカは胸中で不必要な弁明をした。
と、店内に「ピ、ピピピ」と実に心和む愛らしい鳴き声が響く。
ううっ、とリスカは呻いた。
――説明しよう。
そう、信じたくない光景で、何度も目を疑ってしまうのだが。
気に食わぬ者は排除する、ある意味魔物よりも空恐ろしく物騒な剣術師様の肩に、白い羽根の可愛い可愛い小鳥さんが、ちょん、と乗っているのだ。
似合わない。
似合わなすぎる。
間違っても、ほのぼのだとか和み系な構図に見えない。
小鳥の可憐さとあなたの凄絶さとが天と地ほどに隔たりがあるように思えてならないのです、とリスカは内心で本音を吐露した。いや、声には出さなかったので吐露したことにならないが。
なぜ愛らしい小鳥が、恐れ多くも剣術師様の肩を陣地と決め込んでいるかというと、話は昨日の昼に遡る。
店の側で怪我をしていた小鳥を、剣術師様が偶然発見したのだ。
この小鳥、まだ幼鳥なためか、恐怖を知らず好奇心旺盛だった。リスカが花びらで治癒したあと、わくわく、という様子で剣術師様にすり寄ったのである。
すると、かの剣術師様……セフォーは姿勢を改め、何事かと恐れおののくリスカをじっと見据えて「この小鳥を」といつものごとく中途半端な発言をした。
端的言葉を極めるべく精進しているリスカは、セフォーの発言を次のように受け止めた。この小鳥を飼ってもいいですか、と。
しかし、しかしである。
リスカは、知っている。
小鳥を発見した時、セフォーは顔色一つ変えずにそのまま無視したのだぞ。
ちょうどリスカが側を通りかかったので、小鳥救出の展開に持ち込めたのだ。
そういった経緯を振り返ると、セフォーはどう好意的に解釈しても小鳥の世話などには関心がないとしか思えなかった。
一体いかなる心境の変化かとリスカはかなり煩悶したのだが、分厚い壁さえ貫くような氷河期真っ直中の眼差しの威力には、さっさと全面降伏するしかなかった。我ながら軟弱、意志薄弱すぎて涙が滲む。
ぴぴぴ、と呑気な小鳥の歌声がまた響いて、いらぬ方向へ広がりを見せるリスカの思考を妨げる。
そんなに鳴いちゃ駄目、セフォーに瞬殺される恐れありだから、とリスカは内心でとことん無礼な心配をした。
――別にセフォーが嫌いなわけではない。
存外に心ある人だというのも知っている。
その反面、悪魔と匹敵するほど冷酷な素顔があることも知っている。
温度差が激しいというべきか。
極端すぎるというべきか。
表情はいつも一定で冷たいままだけれどなあ、とリスカはわざわざ胸中で付け足した。
「そろそろ」
相変わらずの端的言葉で、セフォーは言った。
「ああ、そうですね。そろそろ休憩しましょうか」
ちょうどこれから「凪の時刻」に差し掛かる。凪の時刻とは商売用語で、客足が絶える時間帯を意味している。いわゆるお茶の時間なのだ。
セフォーはよくリスカを休ませようとする。
数日の間、リスカは摘んできた花へ魔力を注ぎ込むことに熱中しすぎて体調を大きく崩してしまい、セフォーにまたもや迷惑をかけてしまったのだ。
何しろ、丸一日、起き上がれなくなった。
病み上がりの身体なのに、ちょっと無茶をしてしまったのだ。
ああ、あの時のセフォーの非難をこめた眼差しは死ぬほど恐ろしかった……とリスカは余計なことを思い出して、一度身を震わせた。
でも、本当に意外や意外、セフォーは献身的な奥様並みと評価してもいいほどリスカの代わりに甲斐甲斐しく働いてくれる。仰天する話だが、セフォーが作った食事は美味しい! のだ。何の肉を使って調理しているのか、食材については怖くてとても聞けないけれど。知る恐怖と、知らぬ恐怖。普段のリスカならば真実追究を選ぶが、この場合どちらがより恐ろしいかといえば断然知ってしまう方であるため、喜んで目を瞑ろうと思う。
「では」
リスカの思惑に気づかないセフォーは、小鳥を肩に乗せたまま立ち上がった。ちなみにこの「では」の意味は、「ではお茶の用意をしましょう」と受け止めてよい。
「ありがとう、セフォー」
「いえ」
素っ気ない返答だが、無視されるよりましだと思おう。
うん、満面の笑顔を返されても不気味だし不吉だし。
などと色々失礼千万な考えを弄んでいる内に、調理場へ消えたセフォーがさっとお茶を用意してくれた。すっかり給仕が板についていて、非常に申し訳ない気分になる。
「美味しいです」
お世辞ではなく本気で賞賛すると、セフォーは喜びを示したのか、僅かに目を細めた。……ちょっと怖い。
ぴぴ、ぴっぴぴーという小鳥の陽気な歌声を聞き流しつつ、しばし琥珀色のお茶を堪能していた時、この時刻では珍しい来客が姿を見せた。
リスカはそちらへ視線を向けて……硬直してしまった。
絶世の美女、といっても差し支えないほどの佳人が現れたのだ。