腹上の花[2]
美女だ、凄い美女だ。
このまま剥製にして部屋に飾ってしまいたいほどの美しい貴婦人だ。
リスカは放心し、店に現れた女性の姿にしばらく見蕩れた。
長い金髪を優雅にまとめて細い項をすっきりと見せ、凛と佇む姿は絶品である。睫毛も長い。ばしばしに長い。唇はもう、蕩けるほどの官能的な赤さだ。白珠を連想させる肌に魅惑的な紫の瞳。目映いドレスに包まれた妖艶な肢体。
完璧だ。女性として完璧な美をかたどっている。
どうしよう、これほどの美人を客に迎えたことがない、とリスカは激しく狼狽えた。自分も一応女性なのだからこうまで動揺する必要は全くないのだが。いやいやしかし、リスカは現在男性体に変化していて。ああもう。
同性さえも惑わす美貌が目の前にある。
実にセフォーと釣り合いそうな……と考えて、うう、と息をつめた。
セフォーの反応は? とリスカはこっそり様子を窺った。やはり美人を前にすれば、冷酷無情な死神閣下様であろうとも態度を豹変させるものなのか、かなり興味が湧く。
「……」
ううむ、さすがは死神閣下。
髪一筋ほども顔色に変化なし。
驚異だ。
あらゆる意味で超越している。セフォーの域に到達すると容貌の美醜だけでは心が動かなくなるのか。
「あなたが、お店の主かしら」
小首を傾げて、くだんの美女は言った。そのような姿も素晴らしくさまになっていますね、とリスカは絶賛しそうになった。
「あ、はい。私が主です」
鸚鵡返ししてしまった自分が小僧のお使いに思えて、ちょっと項垂れそうになった。
「素敵な媚薬があると噂を耳にしたのだけれど」
うはあ、とリスカは内心で呻き、悲嘆に暮れた。
あなたも悪徳嗜好の持ち主ですか。背徳行為を奨励し実践しているのですか。これほど奇麗な人がですか。
「そ、それは、どうも……」
何と答えるべきか。
媚薬をこの美人が使用するのか、しかしあなたのようにどこもかしこも艶麗な女性なら必要ないのでは、といらぬ勘ぐりをしてしまい、リスカは赤面した。余計な詮索など全くもって恥ずべき下劣な行為だ!
駄目だ、商売、商売。
「一つ、いただけるかしら」
赤い唇を少しつり上げ、微笑んで、リスカをじいっと見詰める。濡れたような瞳とはこのことをいうのだろう。
なぜかリスカは落ち着かない気分になる。
「媚薬よりももっと強い、催淫効果のあるものが本当は欲しいのです」
ひええええ、とリスカはまたまた内心で絶叫した。
いいのですか本当にそれで後悔せぬのですか、とリスカは誰にともなく問いかけた。無用の問いである。
「そうですか、では、ええと」
ふっと美女が大きく笑んだ。
今が盛りと咲き誇る花のごとく。
「あああああの」
美女がなぜか、そわそわするリスカにゆっくりと接近する。
初対面の人間が保つ距離を軽々と乗り越えて、不必要なほど近い。
リスカは金縛り状態に陥った。
「その手のものも、ございます?」
「や、は、はあ」
当たり前だが、美女は間近で見ても美女だった。
「……あの、す、すみませんが」
どうして手を握られてしまうのか。
馬鹿な考えだが、その、何やら誘惑されているような気になってしまう。
と不埒なことをつい思って、リスカは絶句した。
まさか。
「ふふ。可愛い店主様」
うはあああ、とリスカは内心で激しく狼狽した。
今、リスカは男性体なわけで。何とするべきか、この状況!
くらっと目眩がしかけた時。
「うあっ?」
急に美女の顔が遠のいた。
背中から、もの凄い強大な力の気配。
何と言うのだったか、異国にある諺で。前には虎、後ろには狼などと確か。
いやそのような諺、どうでもよろしい。
「セフォー」
嫌な汗をかきつつ戦々恐々と名を呼んだ瞬間、リスカは頭頂部に軽い重みを感じた。
ぴぴぴぴぴぴ、と頭に直接響く軽やかな鳴き声。
小鳥さんである。
どうでもいい話だが、セフォーが面倒を見ているというだけで小鳥にさえ尊称をつけたくなる自分がいた。
小鳥が頭の上で羽根を休めて鳴いていることよりも、重要なのは。
かかかか肩に手を置かれている。セフォーに。
そして、リスカ自身の手は妙齢の女性に握られていて。
どういった神の悪戯なのか是非問い質したいと強く思わずにはいられなかった。自分はどこで道を踏み外したのだろう。リスカは胸中で弱々しく独白しつつ、必死に二人の間から抜け出す手段を考えた。
背後のセフォーは一体いかなる表情を浮かべているのか、貴婦人の顔が明らかに強張っていく。
うむやはりセフォーの限度なく冴え渡る視線はリスカ以外の者にも効果絶大なのだと認識するに至り、目の前の貴婦人に共感と同情を寄せた。
よかったよかったと深々安堵したリスカだったが。
この女性、ほんの数十秒の見詰め合いで、素晴らしい解決策を見出してしまったのだ。
なんと、言葉よりも雄弁な凄まじい気配を漂わせるセフォーの存在を完全無視したのである。美人が見せた度胸の良さと無謀さに、仰天せずにはいられない。
「あなた、お名前は?」
「あ、はあ、リカルスカイ=ジュードと申しますが」
「そう、素敵なお名前。懇意にしてくださるかしら」
「は、それは、ええ」
咄嗟に頷いた直後、懇意の意味をリスカは激烈な勢いで考えた。
あ、なぜだか背後の温度が一気に低下した気がする、と不吉な空気を感知してしまったが、後の祭りというものだ。
「え、ええと、媚薬ですね」
とにかくまずは仕事をしよう、とリスカはこの切羽詰まった状況から逃避すべく商売への意欲に燃えた。他に突破口はない。
ぎくしゃくと女性の手を外したあと、小鳥を頭に乗せたまま脱兎のごとく商品棚へ走り寄り、わさわさと無駄に慌てつつもお目当ての瓶を探す。
何秒後に振り向けば事態は変化の兆しを迎えるだろうか、と真剣に苦悩せずにはいられない。
「催淫の効果があるものは?」
衝撃的な台詞を再度耳にし、リスカは観念して振り向いた。とてもセフォーの方は見れなかったが。
「こちらは媚薬程度の効果をあらわすものですが、さらに強い効果をお望みならば……」
リスカは瓶から二枚、赤い花びらを取り出して、女性の方へ掲げた。
「一枚ではなく、二枚同時に、口に含んで下さい」
媚薬の花びらは、枚数を増やせば効果も増す。
「では三枚ならば?」
「えっ」
退路を断たれた気分になり、冷や汗が背筋を伝う。
「そ、そうですね、更に強い効果が発揮されるでしょうが、お勧めできません」
「なぜかしら」
強力すぎるためです、と果たして告げてよいものか。体力持ちませんよ、と言いかけて、あまりにも品がなく露骨すぎる表現だとすぐさま気づき、リスカは一気に顔を紅潮させた。苦手だ、不得手すぎる会話なのだ!
女性は機敏にリスカの反応の意味を察して、含み笑いした。
勘弁してください、とこの手の会話に免疫のないリスカは降参しかけた。商売人であることをやめたくもなった。
頭上でぴぴぴぴと鳴く小鳥に「頑張れ負けるな」と慰められている気分だ。
「リカルスカイ様」
鈴を転がすような甘い声で名を呼ばれ、リスカは動揺を封じる為に激しく瞬いた。
「くださいな」
「は」
「その花びら、全てを」
「――全て!?」
驚愕の叫び声をあげたあと、思わず瓶の中の花びらを数えそうになった。
大雑把に見ても、数十枚は瓶の中につめられているのだ。これだけの数を一度に使用すれば、催淫効果どころか意識が弾けて淫魔と化すこと相違ない。
「いけません」
無意識に語調が厳しくなった。
「私は一介の商売人にすぎませんが、それでも自分なりに掟を定めているのです」
「ご安心を。一度に服用致しません」
虚言だ、とリスカは見破る。
曲がりなりにもリスカは術師。自分の能力を遥かに上回るセフォーのような特異な存在が相手ならばともかく、驚異的に艶麗といえども通常の人と変わりない女性の虚りを看破できぬはずがない。
「二枚、お売り致します。その結果、お気に召してくださるようならば、後日また二枚お売りします」
リスカにだとて譲れぬ一線があるのだ。限度を超えた激しい快楽は、最早怒りのようなものだとリスカは考える。また嘆きに通ずると。
「お優しいのかしら、あなた様は」
揶揄されているようだ。しかし、妥協できぬものは仕方がない。
「よろしいですわ。ならば、予約という形で全てわたくしのものにできますか」
「……それは」
「リカルスカイ様。わたくし、フィティオーナと申します。ティーナとお呼びくださいませ」
すっと表情を改め、ティーナが近づいてくる。
まるで夜会に現れた女王のように気高く。
けれども――彼女の瞳は暗い輝きを放っている。ただ愉楽に浸りたいがために我を張っているのだとは思えぬひたむきな暗さ。
痛ましい、とリスカは眉をひそめた。
「いけませんか。代金はただいま全てお支払い致しますが」
とティーナは顔を背け、懐から、な、な、なんともいやはや、金貨二十枚を取り出したのだ!
リスカは目がくらんだ。金貨二十枚。ある意味、最大級の魔力に匹敵する。
どれだけの価値を持つか説明すると、金貨一枚は、銀貨十枚の値がある。
銀貨一枚は、銅貨二十枚の値。
銅貨一枚で、丁貨(ていか)十枚の値。
丁貨一枚は、玖貨(くか)五枚の値と考えていい。
ちなみにリスカが定めた媚薬の花一枚当たりの価格は、丁貨三枚。決して低価ではないが、効果のほどを体験していただければ妥当なところだと納得できるはずだ。
金貨二十枚といえば、一年以上は何もせずとも慎ましく暮らせる金額である。
自分、良心が吹き飛びそう、とリスカは凄まじく苦悶した。
「一度に全てをお売りくださいとはもうお願い致しません。その代わりとして取り置きしたいのです。これは手付金とお考えくださいませ」
ああいけない良心が、正義が、常識が、金貨の魔力に負けて脆く儚く崩壊してしまう。
「――いけません」
いえ、いけなくないんです本音では、とリスカは心の中で泣いた。
「取り置きは許されませんの?」
「いえ……これは、金貨二十枚は、多すぎるのです」
心から欲しいと思っています、とは阿漕すぎてとても言えない。
未練と執着と金銭欲を断ち切るため、リスカは最大限に気合いを入れてティーナを見据えた。全力で立ち向かわねば、きらきらと輝く金貨の誘惑に呆気なく敗北し膝をついてしまいそうだったのである。
「そう――そうですか」
ティーナはふっと自嘲した。
だが、彼女の笑みは、瞬時に華やかなものへと変わった。
ティーナが本来持つのであろう、朗らかな明るい笑みだった。
「素敵。あなたは素敵な方」
「は」
「この世には、金貨に勝る意志があるのですね」
「あ、はあ」
ティーナが再び熱っぽい視線を寄越し、リスカの手をきゅっと握った。
「わたくし――」
婉然とした美貌が、リスカの意識を束の間奪う。
セフォーの視線も小鳥の歌声も、一切遮断して……。
「わたくし、あなたが気に入りました。リカルスカイ様」