幕間の声2[1]
「ねえ、セフォー」
昼間である。
洗濯日和。そういった言葉を持ち出したくなるほど見事に晴れ渡った爽快な午後の空が、窓の外に広がっている。
リスカは長方形の窓枠で小さく切り取られた空をぼんやり眺めたあと、指定位置の華やかな長椅子にだらりと寝転んでいるセフォーへ、言葉を投げた。
「ちょっと相談があるのですが」
ちなみにリスカは、自分の指定席である古びた揺り椅子に腰掛けている。店の方は、といえば、丁度客足の絶える「凪の時刻」。あんまりうららかな陽気なので、ついつい睡魔に襲われそうになる。
「……何か」
転寝していたセフォーはだらしない体勢のまま、半分夢の中を漂っているに違いないぼうっとした視線をリスカへ向けた。別によいのですが、セフォー、髪の毛がもつれて毛玉のようになっていますよ。
「小鳥さんの、名前を」
と、リスカが口にした途中でセフォーはすぐさま目を瞑り、寝た振りというか聞こえない振りをした。面倒臭いと思ったのだろう。
「セフォー」
リスカは呆れ、再度名前を呼んだ。セフォーは観念したのか、渋々といった様子で緩慢に瞼を開いた。
料理などは得意なのに、その他のことは結構物臭なセフォーである。関心を持てない事柄については一切無視したいらしい。
「小鳥さんに、名前をあげたいと思うのですが」
なぜ相談したかというと、セフォーはどうも小鳥と意思の疎通ができているような気がしたためだ。実際に何度か、そういった不可思議な場面を目撃したことがある。
一応、名前の候補をいくつか用意したのだが、ふと疑問に思ったのである。もしや、小鳥にはリスカが知らぬだけで、もう名前があるのでは、と。
そのあたりのことはセフォーが詳しいかもしれぬと思い、こうして訊ねてみたわけだが、なんともはや実に億劫そうなやる気のない表情を向けられてしまった。
「何でもいいのでは」
などと、全く誠意の感じられぬ適当な返答を寄越された。しかも、用は済んだとばかりに、そのまま心地よい微睡みの中へ戻ろうとしている。リスカは内心で溜息を落としたあと、揺り椅子から立ち上がってセフォーの側へ近づいた。こちらの気配を察知したらしく、うん? という表情でセフォーが軽く目を開き、ゆっくりと瞬いた。
「リスカさん」
セフォーはどこかうっとりとした表情を浮かべつつ体勢を少し変えたあと、長椅子の空いている場所をとんとんと叩いた。座りなさい、という意味であろう。直立しているのも何なので空いている場所に素直に座らせてもらった瞬間、するりと腕が伸びてリスカの腰に回された。わわわっとリスカは内心で奇声を上げた。何やら獰猛な肉食獣に捕獲された気分である。
いや、それはともかく。
「何でもいいというわけにはいきません。名前は、重要ですよ」
リスカは内心強気、しかし実際は怯えつつ反論した。
セフォーは無言だったが、えらくつまらなさそうな目をして、ふいっと顔を背けた。
何だか最近の閣下様は随分生意気というか我が儘……いや、反抗的……ではなく! うむ、感情表現が豊富になってきた気がする。まあ、それでも普通の人間と比較すればまだまだ表情に乏しいだろうが。
人とは少しずつ古い殻を脱ぎ捨て、生まれ変わるものなのだなあとリスカは感慨にふけった。学問に終わりがないように、人も成長し続けるということか。
「ところで、小鳥さんは驚くほど利口ですね」
リスカは前々から疑問に感じていたことをセフォーにぶつけてみた。小鳥の利発さ、どう考えても普通の鳥とは思えない。まさか、本当は鳥ではなくて力のある魔術師が変化していたりとか、などとリスカは胸中で非現実的な戯れ言を漏らした。
「それはそうです」
てっきり「ええ」などの短い肯定の言葉を返されると思っていたのに、セフォーは微妙に意味深な返答を寄越した。
「ええと、セフォー?」
どういう意味だろう。リスカは首を捻りつつ、セフォーに先を促した。
が。
「誤解を?」
と、逆に聞き返されてしまった。会話が全然繋がっていませんよと注意したくなるのはリスカだけだろうか。すみませんセフォー、その言葉の前に、肝心であるとされる台詞の大部分を端折っていませんか。
「面倒です」
あの、十ある台詞の内、およそ九割を間違いなく省略していますよね?
「このままで」
駄目だ、さっぱり意味不明である。端的言葉の逆襲に、リスカは降参した。
「セフォー、申し訳ありませんが、詳しく説明していただけませんか」
リスカは困った声で聞いた。
「罪子です」
「は」
その言葉のどこが詳しい説明なのか、謎である。更なる疑問が増えるばかりだ。
「罪子とは、どういう意味でしょう」
「罪子という意味です」
最早説明にすらなっていない。
「リスカさん」
「ひ」
「あなたは、私のことは聞いてくれぬのに、鳥などには熱心です」
いや、それは単純にセフォーの過去を知るのが恐ろしいためです、無論興味はあるのですよ、しかし未だ心の準備が、などとリスカは胸中で弁明していた。
ええい、覚悟を決めてみよう。いざ決戦、とリスカは胸に熱い闘志を秘め、口を開いた。
「ではセフォー、あなたのことを教えてくださいますか? 出身国は? 私と出会うまで、なぜ魔剣の姿で眠っていたのですか?」
と、身が震えるほどの勇気を振り絞って訊ねたのに、何が気に食わなかったのか、セフォーは毛玉になっている髪を揺らしてまたもやふいっと顔を背けた。セフォー、言いたくないのならば、先程なぜ急かすようなことを口にしたのでしょう。分からぬ人だ。
思わず苦笑すると、セフォーが身を起こして、ぎょっとするリスカの頭に頬を預けた。
「あなたは」
「ははははい!?」
「他のものに目を向け過ぎです」
他のものとはいうが、リスカが一番目を向けている存在はセフォーである。様々な意味で目を向けずにはいられないといった方がより正しいが、不用意な発言は控えた方が身のためだろう。
「……以後、気をつけます」
「よろしい」
叱られているのかそうでないのか、よく分からぬ。ところでセフォー、本気で私の頭に体重を乗せていますね、密かに重いのですが。
「混じっているのです」
と、セフォーは微かに眠たげな声で呟いた。
思い切り話が飛躍しているが、推測するに、小鳥の話題へ戻ったのだろう。しかし、端的言葉に益々磨きがかかっていませんか、とリスカは内心で懸念した。これ以上解読が難解になるとお手上げである。
「何が混ざっているのですか?」
「血が」
「血とは?」
「あなたは、あれをただの鳥と誤解を」
「違うのですか」
「聖魔です」
「……は?」
「そして、人」
「は」
「更に、幻獣――幻鳥です」
「お待ちください、それは、小鳥さんの話ですよね?」
「ええ」
「聖魔?」
何やら聞いてはいけない驚愕の事実を耳にしてしまった気がする。
「もしや、小鳥さんは、聖魔と人と幻鳥の血を受け継いで……?」
確認のためというより、まさかなあ、という軽い冗談のつもりで、リスカは聞いた。いや、冗談であってほしいという心からの願いだった。
「そうです。聖魔が人と結ばれ、その混血が幻鳥と交わって生まれた者。あれは聖魔であり、人であり、幻鳥」
ひええええ、とリスカは内心で絶叫した。ここここ小鳥さん、そうなのですか!?
「せ、聖魔? 聖魔って、あの聖魔ですか!?」
悪魔の上に君臨するだけの凄まじい力量を持つ、神懸かり的な存在……いや、存在するかどうかも疑わしい、伝記の中の聖魔。何せ、人の世には姿を現さぬのである。
その血を、小鳥さんが。
リスカは驚異の事実を知って、半分失神寸前だった。とんでもなく希有な生き物が、あああんなにあどけない小鳥の姿をしているというのか。
「血が混ざりすぎているために、本来あるべきはずの力が潰されているのです」
セフォーがリスカの髪を弄びつつ肩を抱いてきたが、話が衝撃的すぎてその仕草を気にする余裕はなかった。
つぶらな瞳を持つ愛らしい小鳥が、恐るべき聖魔の血を。
ああ神よあなたは一体何の悪戯をしたのですか、とリスカは虚ろな目をした。道理でお利口なはずである。
「殺せばよい」
「は、はいっ!?」
「今の姿は、殻にすぎません」
「うう、ああ?」
「死の脅威に耐えられるだけの自我があれば、聖魔か、あるいは幻獣として、力を振るえるようになる可能性が」
「殺……」
「だが、血が拒否すれば、目覚めることなくそのまま死ぬでしょう」
「あわわわわ」
「あれは今の状態を望んでいるようですが」
リスカは放心した。小鳥さん、ある意味、セフォーを超えていませんか。いや、超えているも何も、セフォーが屍の山に立つ死神閣下ならば、聖魔の血を受け継ぐ小鳥は悪魔をはべらす魔神猊下だ。最強とか無敵とか、そういった次元の話ではない気がする。
「混ざりすぎた血は、穢れ。ゆえに罪子と」
罪子。
「穢れし力が発動するならば、脆弱な鳥のまま過ごしたいと」
無意識にリスカは顔を上げて、セフォーと見合った。
セフォーの瞳が、ひどく近かった。
「殺してみますか」
「何ですって?」
「今ならば、容易く殺せます」
「駄目ですっ。今のままで!」
というか、仮に聖魔として覚醒した場合、どう変貌するのか予想できず恐ろしい。幻獣でも十分、恐怖の対象である。ああ、リスカの癒し的存在であった可憐な小鳥までが尋常ではない背景を持つ異形だとは。なぜ自分の周囲には存在そのものが波瀾万丈という奇妙な者ばかり集まるのだろう、とリスカは身震いした。
「そそそれにしてもセフォー、なぜ、そのようなことを知っているのですか」
「あれを飼っていた悪魔を知っているためです」
「悪魔?」
リスカは再度放心した。最早、話の展開についていけなくなりつつあった。悪夢だ。
「セフォーは、うう、ああ、ええ、ああ悪魔と、お友達でいらっしゃるのでございますか」
リスカの言語は壊れかけていた。精神も崩壊しかけていたが。
セフォーが少し、身を引いた。な、何ですか、その警戒した態度は。飛びかかる寸前の虎みたいですよ。
「言えば」
「は」
「それを言えば、あなたに嫌われそうですね」
「そんなことは……」
嫌悪する前に、恐怖のあまり卒倒するかもしれないが。
「過去とは、面倒なものですね」
「セフォー」
「もう少しだけ」
「はい」
「このままで」
うやむやにされてしまったが、セフォーがあんまり静かに告げたことと、小鳥の過去にえらく愕然としたこととで、リスカは追及する気力を失っていた。