幕間の声2[2]


 その後、リスカは考えをまとめるために、一人で町へ出かけた。
 何というか、混乱している。自分の手の中にすっぽりとおさまっていた無垢なものが、実は目が眩むほど激しい輝きを放つ炎石のような存在であったという事実に驚愕し、また困惑してもいる。小鳥は、今のままの状況でよいのだろうか。もし自分が勝手に名付け親となれば、その名で、響きで、本来巨大な力を宿しているはずの小鳥を呪縛してしまう危険性がある。リスカの身に宿る魔力が原因で濃い影響を及ぼすのではなく、そもそも魔の系統に属する者は契約に束縛されやすいといった、捉え方如何では弱みに変わる性質を備えているためだ。名は、契約の鍵となる可能性が強い。強大な魔であればあるほど、契約の呪縛も力を増すというのは至極当然の摂理である。
 辺境の更に辺境の地、そういった場所で細々と生計を立てる、術師なのだか商売人なのか最早定かではないリスカが、三種の血が混ざっているとはいえ類い稀には違いない存在の小鳥と今までのように気安く接していいものか、つい煩悶してしまう。セフォーだけでさえ正直、持て余すというか対応に悩むのに、その上、小鳥までもとなると、どうしたって憂いを感じずにはいられない。仮にリスカが召喚系を得意とする術師で、尚かつ強さに対する執着を野心へと変えられるだけの豪気な度量があったならば、恐らくこの現状は全く異なる展開を見せただろう。聖魔の血を受け継ぐ者を服属させることが出来るかもしれないという千載一遇の好機に、快哉を叫んだかもしれない。
 残念ながら、リスカは召喚系の術を一切行使できぬ。系統違いなため召喚の儀について殆ど知識を持たぬという頼りない状態で、強大な魔と契約を交わすことは、一体どれほどの危険を伴うのだろう。
 リスカは緩慢な足取りで町中を巡りつつ、重い溜息を漏らした。ううむ。
 いやいや、セフォーの説明によれば、小鳥は現状で満足しているというのだし、あえて血筋のことなどにとらわれる必要はないのかもしれぬ。それに、未だ力自体は覚醒していないらしい。
 いや、だが術師たる自分が真実から目を背けてはならぬ気もする。
 などと、リスカの思考は光のように屈折と反射を繰り返し、結論をくだせず、何度も袋小路に行き当たった。駄目だ、少しこの問題から離れて気分転換でもした方がいい。
 うん、そうだ。たまにはぱっと買い物でもするか。リスカは一旦問題を脇にのけ、目についた店をひやかすことにした。
 普段はそれほど服装に気を配る方ではないが、こうして色とりどりの布や装飾品を眺めるのは楽しいと思う。知人、友人には悉く、自分は衣服や装飾品に興味がない無精者だと誤解されているようだが、それは少しばかり心外である。全く興味がないわけではないのだ。洒落気がないだの華やかさに欠けるだの質素を通り越して貧相だとまで厳しく評されるリスカだとて、人並みには美しいものを美しいと賞賛できる感性を持っているし、時には心を動かされることもある。そう、人並みには。ただ、優雅な生活を夢見ても、現実的に金銭問題という堅固な壁が立ち塞がっているため、いかんともしがたく、などとリスカは誰にともなく胸中で訴えた。
 まあ、一番心惹かれるのは、店先にうずたかく積まれた古書だったが。
 つらつらと書物の山を眺めていた時、ふと、知っている姿を路上の片隅に発見した。
 蒸しパンを売る露店の側で、花籠を持っている慎ましい身なりの少女。
 頬を染める彼女の前には、金髪の騎士、フェイが立っている。
 お? とリスカは好奇心をたたえた目で、フェイの行動を観察した。
 花を買うつもりなのだろうか。
 ふふふふ、とリスカは購入予定の古書を胸に抱えつつ、不気味な笑いを零した。フェイは花を購ったあと、誰かに渡すつもりなのだろうか。
 花売りの少女が持つ花は、愛らしい薄紅色のコトアである。コトアは乾燥させれば、お茶の葉としても楽しめる優れものだ。実に甘くいい香りがして、口当たりまろやか。花びらは薄紅色だが、湯を混ぜるとあら不思議。驚嘆するほど美しい赤へ色を変える。コトアの花は観賞用のみならずお茶用としても最適である。お茶会好きなご婦人方に喜ばれる花の一つだ。
 おお、買うのか、買うのか?
 すっかり野次馬と化したリスカは固唾を飲み、花売りの少女を前に躊躇う様子のフェイを見守った。
 騎士と花売りの愛らしい少女の姿が、また何とも初々しく絵になるではないか!
 などと、リスカは感心していた。行き交う通行人も、ちらちらと二人へ熱い視線を投げている。
 おおおっ、買いましたか買いましたか!
 リスカは内心で、よしっ、と歓声を上げた。
 背後に忍び寄って驚かせてやれ、と実に意地の悪いことを考え、ほくそ笑みつつ一歩踏み出した時。
 花を抱えるフェイの側に、一人のお嬢さんが軽やかな足取りで駆け寄った。
 おや、とリスカは足をとめた。
 まあ、何とも可愛らしい貴族の娘さんである。勝ち気そうな大きい瞳と光が溢れるような笑顔。淡い金の髪は柔らかな波を描いている。腰をしぼった華麗な衣服は発色のよい青。まるで人形のように端正な娘だ。
 しかし、貴族の娘が昼時でも物騒な事件が多発する町中をたった一人で散歩しているのか? と怪訝に思って首を傾げた時、少し距離を置いた場所に、渋面を作る護衛らしき従者三名が立っているのに気づく。
 ふむふむ、とリスカは頷き、勝手な空想を膨らませた。
 この娘さんは恐らくフェイに淡い恋情を抱いているに違いない。それで、一目愛しの騎士様の姿を拝みたく、渋る従者をかき口説いて、こんな場所まで追ってきた、と。
 ぐふふ、とリスカは自分の想像に満足し、女性らしくない下世話な笑いを漏らした。といっても、今のリスカは男性体である。
 いやいや、やるではないかフェイ。こんなに可愛らしいお嬢様を虜にするとはすみにおけぬ。
 さてさてフェイよ、その花束をお嬢様に渡すのか。
 リスカは完全に面白がりながら、路上で会話をかわす二人の姿を熱心に見つめた。
 うむっ、何やら花売りの少女とお嬢様の間でそこはかとなく牽制しあう気配が!
 いいぞいいぞ、と人の悪い笑みを作り、興味津々で見守るリスカだった。二人の忍びやかな戦いを察したのか、僅かにフェイが困惑の表情を浮かべている。うーむ、この色男。
 思わずリスカは身を乗り出した。知略を巡らせて競い合う凄腕剣士の試合を観戦している気分に近い。
 ふと、花束と少女二人を交互に見ていたフェイの視線が、こちらに向いた。悪乗りしてにやついていたリスカは、一瞬固まった。み、見つかってしまったか。
 知らぬ振りをして誤摩化そうとしたが、これ幸いという安堵の表情で、フェイがこちらへ近づいてくる。
 わわわ、馬鹿者、なぜこちらへ来るのだ。
 と焦りかけたが、そういえば自分は現在、男性体である。面倒に巻き込まれる恐れは皆無。リスカは胸を撫で下ろし、余裕を取り戻した。
「こんにちは」
 リスカは意味ありげににやっと笑いつつ、挨拶した。
「……ああ」
 眉をひそめてぶっきらぼうにフェイは頷いた。ふふふ、照れているのかね。
 少女二人も慌ててこちらへ駆け寄ったが、リスカの姿を目にした瞬間、「あ、これなら問題なしね」というほっとした表情を浮かべた。そりゃそうであろう。リスカは男性の姿をしているのだから。
「ファルスエンヴィ様、こちらの方はご友人ですか?」
 にこりとお嬢様が可憐に微笑んで、リスカを見つめた。
 フェイの名はファルスエンヴィというのか、とリスカはこの時、初めて知った。さすがは騎士、ご大層な御名である。というか、どこかでその名を耳にした覚えがある、と視線をさまよわせ、記憶を飛ばした。
 輪郭の曖昧な事実に意識の先端が触れかけた時、憧れの騎士様の不興を買う訳にはいかぬ、と少女二人は目映い笑顔をリスカに向けてくれた。リスカは何となく照れた。うむ、美しいものとは実に心を和ませてくれる。
「ええ」
 と、まるでセフォーが乗り移ったかのように、フェイは言葉少なに答えた。こらフェイ、もっと愛想良くせぬか。
「ご紹介くださいませんか?」
 うっとりとフェイを見上げつつ、お嬢様がしとやかにお願いする。物腰の優雅さと気品が、押し付けがましさを一切感じさせない。さすがは恋する貴族の乙女である。
 花売りの少女も口を挟みたいところだろうが、いかんせん、身分の壁が邪魔をして気安い態度を取れないようだ。
「――この者は、私の個人的な知人ですので」
 遠回しに、リスカの紹介を断っている。まあ、そうだろうなあ、と内心で苦笑しつつ納得した。リスカは貴族でもない上、不具の魔術師なのである。紹介のしようがないであろうし、何より、本来ならば知り合いとは思われたくないだろう。……少し虚しいというか、悲しいが、仕方ない。
 だが、恋の成就を願うお嬢様方にしてみれば、できうるならば公の友人より個人的知人とお近づきになりたいのである。ううむ、フェイよ、この微妙な乙女心が分かっていない。本命を落とすにはまず友人関係の把握から、である。
 などと失礼なことを考えつつ、リスカは微笑を浮かべて、慣れぬ貴族式の挨拶をした。片手を背に回し、わずかに腰を屈めて、礼をする。確か、こんな感じであったはずだ。
「お前……また、その姿は」
 と、フェイは渋い顔で言いかけ、口を噤んだ。また男に姿を変えているのか、と呆れているようである。
 お嬢様達は、目の色を変えてリスカを見つめた。意中の騎士様がくだけた口調で話す相手とは一体何者!? と驚いている様子だった。二人の静かな気迫を感じて、リスカは微かに怯んだ。笑みが引きつる。
「ええ、まあ、なんとなく」
 と訳の分からぬ返答で誤魔化し、「では失礼を」と去ろうとした。傍観者でいる内は存分に楽しめるが、巻き込まれるのはご免である。
「こら」
 無責任な理屈を抱きくるりと踵を返したリスカだったが、敵前逃亡を果たす前に、フェイに腕を掴まれた。
「待て」
「な、何ですか」
「その書物。盗むつもりか?」
 はっと気づけば、未払いの書物を抱えたままだった。古書店の旦那が険しい顔で店先に立ち、リスカを睨んでいる。
「あ、そ、そうでした……」
 愛想笑いを浮かべつつ、リスカは誤魔化そうとした。
「馬鹿だな」
 うううっ、と呻いた瞬間、抱えていた書物をさっと取り上げられた。
「ああっ?」
「そこで待っていろ」
 人の話を聞かぬ不遜な態度の騎士は、リスカの書物を奪ったあと、古書店の旦那に近づいた。旦那の顔ががらりと変わって商売用のにこやかなものになる。まさか、支払ってくれるつもりか?
 ちょっとお待ちを、と慌てて呼びかけようとした時、がしっと再び腕を掴まれた。恐る恐る振り向くと、お嬢様が熱い視線でリスカを凝視している。
「あああの」
「ファルスエンヴィ様と、随分お親しいのですね」
「いえとんでもない!」
 大仰に映るくらいの勢いでリスカは即座に否定した。
「申し遅れました。わたくし、レイトルリィザ=ユーレシオと申します。どうぞ、リィザとお呼びくださいませ」
「は、はあ」
 フェイの愚か者、無関係の自分が餌食になってしまったではないか。
 うむ?
 ファルスエンヴィ。
 思い出した。
「英雄ファルスと同じ名だ」
 とリスカはつい、ぽろっと独白した。
 単なる呟きであったのだが、リィザは耳聡かった。嬉しそうに頷いたあと、我が事のように誇らしげな顔を見せた。
「ええ、仰る通りでございますわ。ファルスエンヴィ様の御名は、崇高であれ不覊であれ、と母君が祈りをこめられたものです。英雄のごとく覇者となられることを願ったのです」
 英雄ファルスとは、遥か昔に、少数の部隊のみを率いて領土を奪いに押し寄せた蛮族を見事征伐し、祖国の平安を守護したと語り継がれる雄邁な聖騎士のことである。なるほど、と思ったが、それとは別に納得しきれぬ謎があった。
 ファルスエンヴィという名を持つならば、普通、愛称はかの偉大な英雄と同じく、ファルスになるはずだった。フェイとはあまり呼ばない。
 はて、と眉をひそめた時、リィザが通行人の足さえとめてしまいそうな、鮮やかな微笑を見せた。
「よろしければ、あなた様の御名をお聞かせ願えませんか」
「え、ああ、これは失礼致しました」
 しかし、フェイは紹介したくなさそうだったのだが……はてさて、どうすればよいものやら。
 躊躇していると、ぽすんと頭に固いものが乗せられた。
 うむっ? と驚いて仰ぐと、支払いを終えたフェイが、人の頭に書物を乗せてこちらを見下ろしていた。
「……あの」
 私の頭は物置き場ではないのですが、という意味をこめて、恨みの視線を送ってみた。
「ほら」
 とフェイは何でもなさそうな顔で、書物を渡してくれる。
「ファルスと呼ばれるのは気が重い。皆には悪いが期待には応えられぬ」
 お嬢さん方の手前、珍しくも謙遜しているような口調ではったが、フェイの目は少しも笑っていなかった。長い歳月をかけて刻み込まれたらしき深刻な影が窺える。
 そういえば、フェイは過剰なほど騎士であること、また貴族という身分であることを意識している。その立場が原因で、周囲との軋轢に苦悩し、同時に辟易してもいるのだろう。
 名は、重いか。
 リスカは少し考えた。
「フェイ。このような話を知っていますか。英雄ファルスが従者に漏らした言葉です」
 フェイは英雄の話題についてあまり乗り気ではない反応を見せたが、リスカはかまわずに先を続けた。
「戦場にての話です。一時、戦況が膠着状態となった時、ふと足元の野花を見下ろして次のように嘆いたそうです。殺めた将の名は知っていても、大地を彩る花の名は一つも知らぬと」
「英雄には大義と使命がございますもの、仕方がありませんわ」
 とリィザが一度フェイの様子をうかがい、慎重な口調で英雄を庇った。リスカは視線を向け、表情を変えずに一つ頷いた。
 大義と使命。
 リスカの本心は――嘲りに塗れる。
 その言葉を盾に、人は己の愚行を正義へとすり替えるのだ。
 正義など、所詮、勝者と、彼を崇める者達の利己的な主張に過ぎない。野望を秘めた強者が生んだ便利な魔除けの呪文というべきか。
 人の心にかけられる盾は、何と欺瞞に満ち満ちて、気味が悪いものなのか。
 正義と使命で、一体、この世の何が許される?
 ――だが、この場で詮無い皮肉を口にするのは、更に愚劣というものだった。
 愚かしい、浅ましいと胸の中で騒ぐもう一人の邪な自分を、リスカは一時、封じる。今は大義の在り方について論議しているのではない。
「ええ、そうです。しかし、英雄は恐らく、大義以外に何も知らぬ己を、一瞬虚しく感じたのでしょう。また、戦いに明け暮れ剣を濡らすだけの日々を恥じたのかもしれません」
 フェイが挑むような眼差しをリスカに向けた。
「従者は何と?」
「知らぬことを知るあなたを、お慕いしていますと」
 フェイは失笑した。納得した表情とは程遠い。これはかなり屈折しているなあ、とリスカは内心で溜息をつく。
「英雄が英雄であることには変わりないな」
「ええ。そしてあなたがあなたであることもかわりがありません」
「俺の背後にはいつも英雄の亡霊が立っている。取り憑かれているのさ」
「よろしいですか。名とは意味のあるもの。己を絶えず縛るもの。しかし、名を冠するものが先にありき、なのですよ」
 そう諭しつつ、リスカは別のことも同時に考えていた。ああ、そうか。気づいた。
 名の前に、まずその人が、その存在がなければ、何一つ意味をなさない。
「その名を冠されるほどの逸材ではない。残念ながらな」
「あなたはあなただと申しました。名の重さを知り苦悩するあなたを、慕う者がいる。慕う人はあなたの後ろに立つ亡霊を見ているのではなく、亡霊の存在にあがく今のあなたを信じています」
 リスカは花売りの少女とリィザを一瞥した。力強い肯定が返ってくるのが何とも頼もしい。
「俺の周囲に存在する者はこのように言う。英雄のようであれと。俺に偉業など成せるものか」
「英雄ファルスたれ、ではなく、英雄のようであれ、と望まれているのでしょう? それは思いが違う」
「同じようなものではないか」
「いいえ。英雄のようであれ、という言葉は祈りです。英雄ファルス。強く雄々しく気高い者。その加護をあなたに授けるという意味です。あなたの頭上に降るものが、嘆きの雨ではなく栄誉をたたえる光であるようにと」
 フェイはじいっとリスカを見つめた。何やら悔しそうな顔をされたが、一体……。
「名は同じでも、あなたは英雄ファルスではない。英雄ファルスの加護を受けた、ただ一人のあなたです」
「……お前は、意外な時に、本当に弁が立つ」
 微妙に拗ねた表情で責められた。意外な時とはどういう意味だ、とリスカは内心で反論した。
「さて。フェイ。私の名はリカルスカイ=ジュードと申します。あなたの名は?」
 リスカはちょっと気取った仕草で挨拶をしてみた。やれやれ、気位の高い貴族のご機嫌をうかがうのも大変である。
「……フェイ。ファルスエンヴィ=ジスタル=ルウ=セシリオーヴァ」
 フェイは一度虚空を睨んだあと、その青い瞳でリスカを射抜き、己の胸に刻むようにゆっくりと名を告げた。



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