幕間の声2[3]


 リスカは笑いかけて、固まった。長い。中流貴族には許されぬ長い名。ということは、もももしやフェイ。貴族は貴族でも大公爵とか。古き系譜をお持ちの高貴な家柄でございますか、とリスカは内心で口調を改めた。そしてそれ以上の詮索、推測を意志の力で無理矢理捩じ伏せた。
 絶句し、回れ右で早々に退散しようと企んだリスカの額を、フェイはやや乱暴につついた。
「おい。何だその及び腰は。俺は俺と言ったのは誰だ」
「あ、はあ、まあ、ええ」
 額を押さえつつリスカはしどろもどろに答えたが、思い切り視線が泳いでしまう。
「――俺を唯一というお前を信じる。揺るがせるな」
 しっかりと言質をとられている。余計なことを言わねばよかったと、リスカは調子に乗って口を滑らせた自分を内心で激しく非難、罵倒した。
 しかしフェイ、それほど高貴な身分を持ちながら、なぜ王都より遠く離れたこの寂しい町で生活しているのだ。
 まさか流刑とか、などとかなり失礼な推理をしてしまったが、さすがに口には出せない。
「わたくしもただ一人のファルス様を信じております! あの、わたくしも、フェイ様、とお呼びしてよろしいですか」
 決死の覚悟で頬を染めて言い募るリィザの姿が可憐である。ああ心の安息、目の保養、とリスカは気を緩めてへらりと微笑んだ。
「構いませぬが」
 解せぬ、という怪訝そうな顔をしながらもフェイは頷いた。もう、全く繊細な乙女心に鈍い騎士だ。
 ありがとうございます! と弾けるような笑みを浮かべるリィザを、花売りの少女が羨望の瞳で見ている。
 ううむ、貴族だけではなく、平民だとて身分を強く意識するものなのだ。リスカはほう、と小さく溜息を落とし、手に持っていた書物に視線を流した。
 あ。
 忘れていた。
「あの、フェイ。書物の代金を」
「いらぬ」
「そういうわけには」
「いいと言っている」
 もしや、リスカが書物も買えぬほどの極貧生活を送っていると勘違いしていないだろうか。失礼な、そこまで落ちぶれてはいない!
「馬鹿だな」
「なっ何ですか」
「こういう時は、素直に受け取るものだ」
 つまりあれだろうか、修羅場を逃れる餌になってくれた礼ということか?
 ま、まあ代金は浮いたしこれで勘弁してやるか、と微妙に都合のいい考えで自分を宥めるリスカだった。
 羨ましそうに成り行きを見つめていた花売りの少女が、改めてリスカを凝視し、あれ? という表情を浮かべた。
 リスカは条件反射でにへらと笑い返した。
「あの、以前……」
「ええ、前に一度、あなたの花を買ったことが」
 リスカは気軽な口調で答えた。
 花売りの少女はなぜか誇らしげに頬を赤らめた。
「まあありがとうございます。光栄です」
 いや、単に数本の花を買い求めただけで、こんなに歓喜の顔をされるとは……フェイ効果か。
「ああ、そうなのか?」
 フェイが口を挟んだ。
「はい。それはコトアの花ですね。今が盛りの、よい花です。お茶としても楽しめる」
「まあ! お詳しいのですね!」
 花売りの少女は、こればかりは本心から嬉しそうに笑った。リスカも笑みを返す。うむ、戦場では全く役に立たぬが、魔力の性質上、花の種類や名にだけは詳しいぞ。
「この花が飲用に?」
 騎士が知らなくて当然だ。英雄も知らぬ花である。
「ええ、色彩も鮮やかで楽しめますよ。湯を注ぐととても美しい赤い色に変わるのです。そこに一枚、ヴィタの葉を落とすと、今度は薄紫色に変わる」
 ヴィタの葉とは、爪の先ほどしかない香用の葉である。食事や茶菓子など、ちょっとした飾りが欲しい時によく利用される葉だ。
「ええ、ええ。そうなんです。コトアの花はどなたにも喜ばれます」
 少女はこくこくと頷き、うっとりと微笑しながらフェイを見上げた。
 特に若い女性に喜ばれますよ、と言いかけて、リスカは慌てた。いけない、余計な一言を口にしては。
「そうか――花の色が、気に入ったのだが」
 フェイはふと香りを確かめるように顔に花を寄せ、少し目を伏せた。
 ふむふむ、さすがは高貴な騎士殿、花を持っても絵になる男である! 見たまえ、お嬢さん二名の目が今にも蕩けそうではないか。
「どなたかに、差し上げるのですか?」
 リィザが胸の前で両手の指を組み合わせ期待をこめた目で、花の香りを楽しむフェイを見上げる。いやはや、どちらの少女を応援するべきか、全く迷うところだ。
 フェイは視線を花に落としたまま顔を綻ばせた。
 さあどうするフェイ!? とリスカは再び野次馬の心理に突き動かされ、内心で拳を握り、展開を見守った。
「飲用になるのだろう?」
 こくっと花売りの少女が頷く。
「では」
 ……。
 お嬢さん方が、硬直した。誰よりリスカが硬直した。
「ななな何……っ?」
 傍観者に過ぎぬリスカに花束を差し出してどうするのだ、このお馬鹿騎士は!
「お前、花の扱いに詳しいのだろう?」
 いや確かに花を扱う花術師ではあるが、それとこれとは話が別ではないか。
「いや、私は、何と言いますか、ほら、ねえ?」
 何を言い訳しているのだか、自分でも分からない。
 お嬢さん方も意外な展開を前にして、どことなく途方に暮れている様子である。女に渡すのなら嫉妬もできようが、男の友人相手では反応のしようがないのだろう。
 フェイよ、それは反則技だ、という非難をこめてリスカは見上げた。
 なかなか花束を受け取らずにいると、気位の高いフェイは少し不機嫌そうな顔をした。
「本当に愚かだな」
 先程から馬鹿だの愚かだのと、よくも言いたい放題暴言を吐いてくれるものである。
 ついむっとしてフェイを睨んでしまう。
 フェイは僅かに俯き、ふっと吐息を落とした。
「お前を思い出して、購ったのだ」
「はい?」
「もとより、お前に」
 と、フェイは躊躇うように言葉を切ったあと、本を抱えるリスカの腕に花束を置いた。
 リスカは仰天して、まじまじとフェイを見つめた。
 な、な、何なのだ!?
「いやはやフェイ、それはその」
「こういう時は、素直に受け取るものだ」
 フェイは俯いたまま、微笑した。
「それはどうかと思いますが……」
「馬鹿。弁が立つくせに、融通がきかぬな」
 褒めているのかけなしているのか。けなしている方に金貨五枚賭けよう、と焦りで混乱する中、くだらないことを思った。
「花の手入れに長けているのならば、飲用としても保管できるだろう。――時々、そちらに行く」
 胡乱な目で花束と本を交互に見つめるリスカの顔を、どこか愉快そうにフェイが覗き込んだ。私の店は飲食店ではなく、暇を持て余す貴族の社交場でもないのですが……とリスカは内心でぶつぶつと反論した。
「花の名を一つ、知った」
「は」
 呆気に取られるリスカの髪をさらりと一撫でし、足早にフェイは去って行く。
 あとに取り残されたリスカとお嬢さん二名は、言葉もなく、フェイの背を見送るばかり。
 ななな何ていう騎士なのだっ波乱の中に人を突き落としておいて、自分はさっさと逃亡するとは! 敵陣ならぬ恋陣の直中に置き去りにされた自分はどうすればいいのだ。
 戦々恐々と、リスカはお嬢さん二人に視線を向けた。
 えらい疑惑と不審と複雑な感情が混ざる奇異な視線が、怯えるリスカの全身に突き刺さる。
 ――男色家と思われたのか、自分!
 とんでもない誤解を知り、目眩を起こしそうになった。
 なぜだ、なぜこうなるのだ?
 思わぬ事態に頭を抱えたくなるリスカだったが、もう一つ、背に突き刺さる視線を感じて振り向いた。
 そこには、にやっと意味深な笑みを浮かべる古書店の旦那がいたのだった。どうやら密かに成り行きを見守っていたらしい。
 店主にまで誤解され、リスカは卒倒しそうになった。
 
 
 ああそれにこの花、持ち帰ったとして、セフォーに何と言えばいいのか。
 リスカは新たに持ち上がった、最大級の問題に頭を悩ませた。
 
●●●●●
 
 フェイよりもたらされた悩み事に頭を使いつつ、リスカは帰路を辿った。
 店の前に到着した時、外壁や屋根に絡み付く蔦の一部がもぞっと動いた気がした。リスカは不審に思って、そちらへ顔を向けた。
 うーむ、気づかない振りをした方がいいのか?
 リスカは咄嗟に溢れそうになる笑いを堪えて、蔦の影に隠れている小鳥を見つめた。壁に絡み付く蔦の方が細いため、柔らかな白い羽根や尾が隠し切れずにはみ出ている。何とも愛嬌のある姿だ。
「もう出掛ける用事はありませんからね、扉の鍵を閉めてしまおうかな」
 リスカは独白口調でわざと聞こえるように言い、隠れている小鳥の反応をうかがった。ぴくっと羽根が揺れて、ごそごそと頭が覗く。観念したらしい。
 ぴい、と小鳥は、らしくないか弱げな鳴き声を響かせた。おや。
「小鳥さん」
 呼んでも、蔦の上に顔を出すだけで、いつものように元気よくリスカの方へ飛んでこない。
「いらっしゃい」
 と再度招いたが、ぴいぴいと悲しそうに鳴くばかり。
 さて……、とリスカは思案し、小鳥が怯える原因に行き当たる。
 リスカが小鳥の背景を知ったことを、セフォーから聞かされたのだな。
 こちらも大問題であるはずだったのだが、フェイ騒動のお陰ですっかり忘れていた。
 リスカが怯えるというのならばともかく、小鳥がなぜ恐れる態度を見せるのだろう。
 リスカは考える。
 寂しそうに、悲しそうに啼いて震える小鳥。
 ああ。
 ――亡霊か。
 リスカは嘆息する。
 フェイを苦しめる英雄の亡霊。稚い小鳥を苦しめる魔性。
 聖魔と幻獣の血が見せる力の亡霊に、人の心を知る小鳥は怯えている。
 誰もが、過去の亡霊に苦しみ、生きている。
 きっと、セフォーでさえも。
 ただ、セフォーの場合は己の力をあるがままに受け入れ、心の均衡を保つことに成功しているのだろう。けれども、大抵の者はそう易々と自分の中に秘められた真実を正視することができない。それが強さであろうと、弱さであろうと。
 我が身に流れる血の重みを、フェイと小鳥は名誉と思うよりもまず、負担に感じている。
 リスカは一つ、深呼吸した。
「名には祈りを捧げるもの。心豊かであれ、幸福であれ、と」
 小鳥は力なく、ぴいと鳴いた。
「愛しい、愛しい小鳥さん。一つ、名前は要りませんか?」
 英雄ファルスを陰ながら支えた従者の名は、実はあまり世間に知られていない。だが、知っている者はその名を、心からの敬意を込めて賛美する。再生と希望を司る黎明の神の名を与えられた従者。名に満ち溢れる祈りは本人のみならず、周囲の者までもを癒し――
「グレシアス」
 黎明神グレシアス。
 その名が重いと嘆くのならば、愛称を。
「グレシアス――シア、いらっしゃい」
 名を呼ぶ時、その者は、確かに、存在する。
 いつか、目の前の小鳥は、望まずとも聖魔か幻獣として鮮やかに変貌を遂げるかもしれない。そうなれば偏った力しか持てぬリスカなどの側にいるのが馬鹿らしくなるだろう。どういった状況でかは分からぬが、いずれ別れの時が訪れるという可能性は否定できない。
 あるいは稚い鳥のままか、人の血も流れているというのならば、もしかすると。
 分からない。未来には無限の不確定要素が含まれている。
 リスカは真実を追究する術師だが、たまには目を瞑っていた方がよいこともあるだろう。問題が持ち上がった時は、セフォーもいることだし。うむ。
「小鳥さん、あなたの場合、私が名を与えることは、その身を呪縛する危険を孕んでいるのかもしれません。しかし、これだけは。私は呪縛のためではなく、祝福をこめているのです」
 ぴ、と小鳥が近づいてくる。
「祝福をこめるのは、あなたを愛しいと思うゆえです」
「リスカー!」というなにやら必死な動作で、小鳥がリスカの胸に激突……ではなく、飛びついてきた。リスカは苦笑し、よしよし、と小鳥の羽根を撫でる。そうだ、この小さく愛らしい姿が、小鳥の本性を示しているのだろう。
 だから、まだ、恐れる必要など何もない。
「シア。この名で、かまいませんか?」
 するするっと小鳥がリスカの肩に登って首筋に潜り込む。ぴい、と元気よく鳴いて頬にすりよる仕草を見ると、了承してくれたらしい。リスカはくすっと笑った。
「ではシア。家の中に」
 家の中に戻りましょうね、と続けかけて、リスカは絶句し足を止めた。いつの間にか、閣下様が扉に寄りかかってこちらに視線を向けていたのだ。
「セセセフォー」
 リスカは条件反射で激しく動揺し、腕の中の花束と本を取り落としそうになった。
 セフォーは扉の前の石段から身軽に降り立ち、落下寸前の本と花束を取り上げた。ひい、とリスカは内心で悲鳴を上げた。思わず身構えるリスカの髪を、セフォーは子供のようにぐいと掴み、軽く引っ張った。痛い。
 セフォー、新手の嫌がらせですか。
「リスカさん」
「は」
「私には?」
「はい?」
「贔屓です」
「……は?」
 恐る恐る聞き返すと、セフォーはどことなく不貞腐れた感じの表情を浮かべた。何が贔屓なのだろう?
「ええと、セフォー」
「くれないのですか」
「はあ」
「名を」
 リスカは少し目を見開いた。もしや閣下様は「自分も愛称が欲しい」と仰っているのですか。
 真実を確認するべくまじまじと見つめると、微妙に眉間が寄った険悪な表情を返された。ひえっ殺戮的破壊行動開始の合図ですか。
 いやしかし、セフォーの思考の行方はいつも計り知れぬというか、人知が及ばぬというか。
 ぴい、と小鳥が――シアが小さく鳴いた。「怖いよ……」と呟いているように思えた。
「セフォー……愛称も何も、セフォーには既に名前がありますでしょう?」
「嫌です」
 近頃我が儘さがとみに増していないだろうか、閣下様。
 嫌と言われても、とリスカは困った。
「名は祈りと。祝福と」
 と拗ねられて、ようやく支離滅裂な発言の裏に隠された真意が理解できた。成る程。セフォーは要するに、祝福がほしいと言っているのか。大抵の者は生誕時に神々の言葉を映す鏡とされる神官などから、祝福をいただくものだが――いや、リスカが詮索することをセフォーは望んでいない。
 リスカは一度目を伏せたあと、笑った。
 分かりました、閣下様。
 リスカは宮廷式の挨拶を真似ようと少し芝居がかった動作で姿勢を正し、佇むセフォーの前で片膝が地面につくほど身を屈めたあと、軽く頭を下げて左手を背に回した。
「天の神々、地の神々、森羅万象を統べる賢き陽土の神人、中界におわす瑞座の霊帝よ、我が声を聞き届けてくださるならば、かの者の頭上に明星の冠を。怠惰と渇望を糧に燃え盛る悪しき火を打ち払い、聖なる命の泉で身を清め、日々の平安をお与え下さい。狭き栄華の門に立つ不動の精霊よ、真実の都が生む鏡を掲げ、今こそ永遠なる祝福を」
「いえ、あなたの言葉で」
 注文に応えられるかどうか。
 リスカは微笑んだ。
「ええ、セフォー。あなたは――」
 リスカは術師。祈りを言葉に乗せ、祝福を時にもたらす。
 
「世界にとって、私にとって、誰にも代われぬただ一人のあなたです。朝の時間があなたに微笑みをもたらすものでありますように。夜の時間があなたに安息をもたらしますように」




●幕間の声2・END●

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