花炎-kaen-火炎:1


 さて、と寝台の上で行儀悪く胡座をかいていたリスカは、軽く首を捻った。
 目の前には、いささか表面が色褪せている預金箱から取り出して並べた、冬を越すための支度金がある。リスカは一度、小さく唸って首の後ろを撫でたあと、ほうっと溜息を落とし脱力した。
 足りぬなあ。
 何度硬貨の数を確認したところで、一枚が二枚に増加するなどという都合の良い奇跡が起こるはずもない。無論、リスカとて夢のような奇跡の到来を待ちわびるほど無邪気な子供ではないし、目前の問題を投げ出して現実逃避をしているわけでもなかった。
 ううむ、とリスカは自分の膝に片肘を乗せ、頬杖をついて硬貨をしばし睨んだ。身じろぎした拍子に、木製の寝台が微かに軋んだ音を立てた。意味もなく視線を巡らせたあと、窓から差し込む日差しによって白く変色した寝台脇の小棚を凝視する。木製の家具は手入れを怠ればどれほど耐久性に優れ良質であっても、すぐに腐食し使いものにならなくなる。リスカはどちらかといえば清潔を好む方だが、いかんせん一つの問題に集中すると周囲が目に映らなくなるというあまり褒められぬ傾向があり、そういった状況では掃除や家具の手入れその他の日常的な用事が後回しになってしまうのだ。いや、正直に言うと、別段高級品とも呼べぬ安物の家具であるため、つい面倒に感じて手入れをおろそかにしてしまうだけだ。このような考えはよくないと自戒してはいるのだが。
 思考が大きく脇へ逸れたが結論として要約すると、家具の類いもそろそろ寿命が近づいているので、買い替えなくてはならぬだろうということである。
 そこで視線は再び、寝台上に並べた硬貨へ戻る。
 冬を越すための預金であったわけだが何度数えても、足りぬのである。家具の買い換えなどといった余裕は一切ない。
 リスカ一人であれば、少し苦しいかもしれぬが切り詰めていけば何とか間に合う金額ではある。しかし、今年は、自由気ままな一人旅にはならぬだろう。最強の護衛であるセフォーがいるのだ。
 とても二人分の旅費は捻出できない。
 町を凍らす風が吹き、重い雪に覆われるこの厳しい季節、リスカは店を完全に閉めて魔力の充電期間に当てる計画を立てている。どうせならば旅に出て、足りぬ能力を補うために道中観光を兼ねつつ偏りのある知見を広めたく思う。
 ――今年は諦めるしかないかな。
 ふっとリスカは吐息を落とした。
 分かってはいる。見知らぬ土地を目指して旅に出ようが出まいが、要は己の心根一つでより豊かな知識を得られるのだと。それでも時には煩雑な日々を忘れ、羽根を伸ばして開放感を味わいたく思うのである。
 セフォーに頼めば一つ返事で簡単に不足分の旅費を調達してくれそうだが、その場合は手段選ばずどころか善悪すら問わずとなるに相違なく、恐らくどこかで惨劇の幕が開いて血の雨が降るのだろうと予測できてしまうため、残念だが相談相手には向かない。
 ティーナが残してくれた金貨、あれを勘定に入れれば――。だが、それはやはり心が痛むし、フェイに預けたままでもあるため、返してくれとはなかなか言い出しにくいのだ。いっそフェイに借金を申し込むかという考えもちらりと脳裏をよぎったが、何ともあまりに情けなく、別の意味で心が軋む。
「あぁ、どうするかな」
 リスカは両腕を伸ばし、寝台へ仰向けに寝転がった。
 
●●●●●
 
 セフォーが不足していた生活用品などを調達しに町へ出掛けた数十分後のことだった。
 本格的な冬が町の前まで近づいたことにより客足が急速に途絶えつつある事実を受け止めて、リスカは店を閉める準備を始めていた。
 壁際の商品棚に陳列していた小瓶などを分別する作業にいつの間にか没頭し、埃を拭っていた時、肩に乗っていたシアが不意にリスカの頬へ頭をすり寄せ、ぴいと鳴いた。
 何事かと振り向くと、上品な藍天鵞絨の外套をまとったフェイが店の入り口に立っていた。
「フェイ。こんにちは」
 声をかけると、フェイは挨拶代わりに軽く頷き、整理途中の雑然とした店内を不思議そうに見回した。
「何をしているんだ?」
「冬支度です」
 首を傾げるフェイに微笑を見せたあと、リスカは手にしていた小瓶を片付けて、二階の居間へと誘った。
 
 
 それにしても、とリスカは内心で苦笑を漏らす。
 フェイは本当に典型的な貴族なのだなあ、と感心してしまう。
 たとえばこのような時――室内に足を踏み入れても外套を脱がぬので、もしやと気づき手伝うと、それを当然のように受け入れてリスカの手に委ねる。つまり、フェイは日常の習慣として侍女などに衣服の着脱を手伝わせている、ということなのだ。
 上質の生地で織られた外套を預かったリスカは、それを丁寧に衣装棚へかけたあと、調理場へ足を向けてお茶の準備を始めた。自分でお茶をいれるのは久しぶりだ。普段はリスカが頼む前に、セフォーが気を利かせて用意してくれるのである。
 そこでふと、気づく。
 快適な時間を過ごせるよう、何でも率先して準備してくれるセフォーと共に暮らすリスカも、他者の働きを当然と受け止める貴族と何も変わらぬのではないか、と。
 盆にお茶を乗せて運びながら、リスカはぼんやりと思考をさまよわせていた。
 フェイは椅子に腰掛けて優雅に足を組み、珍しそうに室内を観察していた。以前、フェイをこの居間に通した時も、やはり物珍しそうな様子で周囲を見回していたことを思い出す。広大な敷地を所有するフェイの観点でいえば、リスカの小さな店など、人が住めるとは到底信じられぬ不自由な狭さに映るのだろう。物置小屋程度にしか見えぬに違いない。
 そういった驚きを含む感嘆や好奇心を隠そうともしないフェイは、やはりリスカとは住む世界が違うのだ。ある意味、無防備な彼の態度は、不躾ではあっても傲慢だとは一概に断定できぬ。仕方のない境遇の隔たりは、同じ分だけ理解の差へと変化する。
 まあ、実際、身なりも立派に整ったフェイの姿は溜息が漏れるほどこの質素な居間にそぐわぬのだ。
 リスカは微笑を唇に浮かべて、お茶をフェイの前へ置いた。
「巡察の途中ですか?」
「いや、今日は違う。――この香り、確かコトアの花の……」
「ええ。以前、あなたにいただいた花です」
 町中で偶然出会ったフェイにコトアの花をもらい、飲用にするべく乾燥させたのだ。
「あぁ、本当に赤い色をしているのだな」
 下級貴族あたりならばコトアの花茶をいただくこともあろうが、上流貴族だと目にする機会さえ稀かもしれぬと気がついた。だが、騎士も兼ねているのならば巡察途中で町民が出入りする飲食店に寄ることも珍しくないだろうに、と不思議に思う。
「――悪くない」
 一口含んだあと、フェイは呟いた。それが本心なのか、こちらに気をつかい世辞を言ったのか、判別できなかった。自分が渡した花を使用して出されたお茶だから、口に合わないとは正直に告げられなかったのかもしれない。
 用事のある時ならばともかく、こうして何事もなく向かい合うと、フェイという騎士はこちらに幾分かの緊張感を与える相手だった。無論、貴族らしく横柄であったり自尊心が強かったりするのだが、今のように落ち着いている時は、威圧感などによるものではなく自然と滲み出る気品に気圧されるのだ。
 ――それに、そう遠くはない過去において、リスカは肉体的な痛みと屈辱をフェイに与えられている。
 二人きりで閉じられた空間に置かれると、やはり僅かなりとも警戒心が湧く。恐らくフェイは、既に完治しているとはいえリスカに傷を負わせたことを少しは後悔しているのだろうと思う。また、手に受けた痛み以上の気遣いを、確かにリスカはもらっている。ゆえにフェイを今更なじったり敬遠するのは、あまりにも心が狭小であろうし見当違いとも言える。
 だが、理屈はどうであれ、未だ感情の部分が全てを水に流せずにいる。平穏というのは時々、幸福ばかりではなく辛い過去を蘇らせる余裕をも生み、日常に影を落とすのだ。
 それはシアも同様らしく、普段は好奇心旺盛であるのに、リスカの肩に大人しくはり付いたまま移動しようとしない。
 リスカはなるべく複雑な心情を顔に出さないよう意識していたが、逆にその態度が不審を与えたのだろう。
「まだ、俺が恐ろしいか?」
 フェイの正面に腰掛けた時、突然そう聞かれ、リスカははっと顔を上げた。
「まだ、俺を許せてはいないか」
 フェイは穏やかな表情で言い、卓上で指を組み合わせた。
 リスカは微笑み、首を横に振ったが、一瞬強張ってしまったことに気づかれただろうと思った。
「悪かった、と何度言っても意味はないだろうな。だが……誓う。二度と傷は与えない」
「……どうぞお気遣いなく」
「その顔で心配するなと諭されてもな」
 フェイは苦い笑みを見せた。艶めく金色の髪が少し頬にかかっていた。気怠い表情は不思議とフェイに似合っていて、近寄り難い雰囲気を作り出している。貴族というのは、どこかしら雅な倦怠感をまとうものなのかもしれなかった。
 絵師に肖像画を描いてもらう時、フェイはこのように憂いを含んだ顔をして時間が流れるのを待つのではないかと、ふと浮かんだ空想に内なる目を向けた。
「お前は疑うだろうが、これでも後悔はしている」
 いくら否定しても誤魔化せぬだろうとリスカは観念する。
「分かってはいるのです。あの時のあなたの行動を、理解してはいるつもりなのです」
「理解と意識は違うものさ」
 リスカは卓の下で、ぎゅっと両手を握り合わせた。
「私の問題です。どうかあなたは気になさらないでください」
 余裕のない冷ややかな口調になってしまっただろうか、と内心で悔やんだ。心に一瞬、掌に押し当てられた炎の熱が蘇ったためだった。嫌悪などの感情とは異なるのだが適切な表現が思い浮かばず、素っ気ない返答になってしまう。
「ならば、俺に手を差し出せるか?」
 真面目な表情のフェイを、思わずリスカは凝視した。
「意識したあとでは、俺に手を預けられぬだろう?」
「そんな……ことは」
「壊すのは容易いな。だが、修復は虚しいほど時を要するものだ」
 僅かに自嘲を含んだフェイの台詞に、リスカは目を閉ざした。
 瞼の裏に、闇の中で燃える不穏な炎が広がった。
 人の間に争いが生まれたのは、火を扱う術を覚えた時だと、そう言われている。
 炎とは、天を燃やすものではなく大地を焦がすことから、悪魔に属する術なのだと――。



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