花炎-kaen-火炎:2


 なぜなのか、自分でも分からぬ。
 たとえば、室内などの閉ざされた空間の中ではなく外出先で出会った時ならば、不穏な記憶を気にせず自然に対応できるのだ。逃げ場のない場所に置かれた場合、閉塞感は切実なものとなり、気持ちを紛らわせる術を見失って忍び寄る薄闇の気配のごとく恐怖が胸に滑り込む。
 リスカは内心で苦々しく溜息を落とした。
 僅かにだが、フェイを責めたく思う感情もある。
 位高き貴族ならば、不具の術師であるリスカになどかまわねばいいものを、なぜこうして足を運び、自ら関わりをもとうとするのか。過去の過ちを帳消しにしたいという目的で贖罪を求められても、誠実と敬虔を掲げる教会の神官ほどリスカは穢れなき情熱の灯りを心にともしてはいない。
 改めて比べるまでもなく身分や考え方、環境といった、自我を形成し、また己を取り巻く煩雑な事象の全てがリスカとフェイではこれほどまでに差異があるのだから齟齬が生じて当然のこと、潤滑な会話を成立させられるはずがない。贅を尽くした貴族の遊びや嗜みなど、リスカには無縁のものだ。
 頑固なくらいに視線を外さぬフェイを見遣って、リスカは今度こそ実際に嘆息した。
 自分は甘いのか、それとも信念が揺らぎやすいのか。恐らくは後者であろうと自嘲する。またそこに、罪悪感によく似た思いも巻き付いている。
 リスカは一旦視線を宙に投げたあと、卓上に右手を乗せた。
 二度と傷は負わせぬと誓ったフェイの言葉を信用したのではなく、半ば意地で手を差し出したのである。
「私の手を預けても、あなたに益はもたらせないと思いますが」
 フェイは微かに肩を揺らし、卓上に差し出された右手とリスカの顔を交互に見比べた。こちらの動作は予想外だったのか、ひどく驚いているようだった。
「……お前は寛容なのか、浅慮であるのか、判別しがたい」
 何ですか、その物言いは。
 リスカはむっと顔をしかめた。
 フェイはきつい眼差しであらぬ方を見据えていたが、ふとリスカの指を取った。どうやら緊張していたらしく、触れる手が少し汗ばんでいた。この瞬間、フェイという貴族が自分と同じ生身の人間で、すぐ近くに存在しているのだという当たり前の事実を意識した。するとなぜか、心理的な圧迫感も薄らいだように思えた。
「傷は、消えたのだな」
「治癒くらいはできますので」
 リスカは吐息混じりに答えた。
「髪は伸ばさぬのか」
「……は」
 突然の会話の方向転換に戸惑った。なぜ傷から髪の話へと飛躍するのだろう。思考の行方が読めぬ。
「髪、ですか」
 呟きつつ、あまり触れて欲しくないところを突いてくるものだ、といささか顔が引きつりそうになった。光を阻むぼやけたような灰色の髪は、リスカの密かな悩みの種なのだ。
 美しくもない髪をだらだらと伸ばして喜ぶほど、リスカは自虐的ではない。
「いいのです」
 事情など口にしたくはないので、自然と咎めるような冷たい口調になった。
「女だろう?」
 言われて、リスカははっきりと苛立った。
「自分の髪の色が好きではないのです。思い入れのないものに手間をかけたくはない」
「黄粉をまぶせば、美しいのではないか?」
 リスカは頭を抱えたくなった。この貴族は全く。
 黄粉とは、貴族の婦人や美貌を誇る一部の紳士の間で使用される頭髪用の化粧品で、恐ろしく高価なものである。貴重な蝶の鱗粉を成分としており、髪にまぶすと角度によってきらきらと妙なる煌めきを放つため、外貌を磨くことに熱心な貴族達は重宝しているらしいが、一般人にはとても手が出せぬ代物なのだ。
 金銭的に余裕のない暮らしを営む自分が、どうして厄介なこの髪のために散財しなくてはならないのか。
 そんな虚しい現実をわざわざ説明せねばならぬのかと、リスカは項垂れた。
「……興味ありません」
 つれない台詞で誤魔化したのは、僅かなりとも心にあった羞恥心ゆえか。
「変わっている術師だ」
 馬鹿者! と一喝できたら苦労はない。
「――細いな」
「は」
 また話が飛躍したのか。
 揺れに揺れるこちらの心情などおかまいなく好き勝手に会話の綱を握るあたりはいかにも貴族で……と、あまり言うのもしつこいか。
「細い腕だ」
 差し出した手をしげしげと観察されて、リスカはぎょっとした。特に何の手入れをしているわけでもないので、たおやかな娘の手とはほど遠い。ひひ貧弱ですか、と内心で恥じ入り、慌てて手を引っ込めようとしたが、難しい表情を浮かべつつ観察に没頭しているフェイは放さなかった。
「あのう」
「食事は取っているのか」
 食事の心配までされるとは私って一体何なのだろう、とリスカは一瞬天を仰いだ。そこまで貧しい生活を送っているように他人の目には映るのだろうか。
 複雑な心境というより最早喜劇だ、などと胸中で独白し乾いた笑みを浮かべたが、不意に意識が別の記憶へと繋がった。
 そうだ。
 食事といえば。
「フェイ、あの、お気持ちはとても嬉しく、感謝しておりますが、毎朝店の前に食べ物などを置いていただくのは……」
 リスカは言葉を濁した。
 ティーナの事件後、フェイの屋敷を辞去してから――いや、閣下に強制連行されてから――律儀なほど一日も欠かさず店の前に食べ物や装飾品、花などが届けられているのだ。さすがに宝石などの高級品は数日のみだったが、それでも食料品に関しては今も配達されている。過分な贈り物は心苦しい、とリスカは途方に暮れていた。
「食べ物?」
 リスカの手を取ったまま、フェイが視線を上げた。
 はい、と肯定しようとして思案する。フェイの表情は怪訝そうだった。
「食べ物の類いを届けたことはないが?」
「え?」
 リスカは小首を傾げた。フェイもやはりわけがわからないという表情を見せた。
「しかし、花や宝石は」
「ああ、それは俺が使用人に指示したが。普通、食材などを贈り物にはせぬだろう」
 確かに――高価な菓子類ならばともかく、体面を気にする貴族が食料品を毎朝配達するという図式は奇妙である。高級品に囲まれて暮らすフェイには似合わぬ贈り物だ。
「そもそも俺が贈ったのは数日のみだ」
「は……」
 ということは。
 別の者が、リスカの店に毎朝食材を届けているのか?
「どういうことだ?」
 フェイが真剣な眼差しでリスカを見つめた。
「ええ、その――手を、放していただけますか?」
 フェイは少し拍子抜けした表情を浮かべたあと、リスカの言葉の意味を悟り、一瞬睨むような目をして指を離した。分からぬ。なぜ立腹されねばならないのだ。
 リスカはぎこちなくお茶に手をつけた。さて、謎が一つ、目の前に落ちてきたぞ。
 お茶の表面を見据えながら、リスカは思索の中に沈む。
 フェイが食べ物を配達していたのではなかった。では、誰か? 咄嗟に思い当たるのはツァルやジャヴだったが、どうも違う気がする。まず、ツァルであればもっと度肝をぬくような奇天烈な物を届けるであろうし、ジャヴの価値観は貴族よりであるため、やはり調理前の食材など贈ろうとはせぬと思うのだが、どうかな。
 そういえば以前に町中を散策している時、偶然怪我人を見つけて治癒の花びらを渡したことがあったが、確かその時は数日、店の前に酒瓶が置かれたな、とリスカは記憶を辿り、唇を綻ばせた。ああ、それに、とある神官の手伝いをした時は、連日聖水と菓子が届けられて――
「リスカ」
「……はい?」
 強い呼びかけに、リスカの思考は中断させられた。
「お前な、客を忘れて考えに浸るな」
「あ、はあ……」
「お前は本当に、普通の娘とはかけ離れているのだな」
「……」
「一度、お前の思考を覗いてみたいものだ」
 もの凄い皮肉を言われてしまった。いや、客にしては随分不遜な態度ですね、と胸中で言い返すリスカだった。
「ええと、そういえばジャヴのことですが、あなたの屋敷に滞在しているのですよね?」
「ああ」
 えらく不機嫌そうに頷かれた。なんだかなあ、とリスカは俯き、見つからないように微笑した。扱いの難しい騎士だ。
「様子の方は?」
「さてな。時々外出しているようだが。俺は保護者ではない、逐一監視などはせぬ」
「うーん」
 リスカは唸った。肉体的な痛みは時間が癒すこともあろうが、精神に負った傷というのは厄介なもので、日が経過するにつれ深刻化し追いつめられることが多々ある。ジャヴは今、ひどく不安定な精神状態ではないだろうか、とリスカは懸念していた。事件後、祭りなどで顔を合わせた時は一見正常であるようだったが、あれは実際のところ立ち直ったのではなく意識が現実に追い付かず躁状態だったのではないかと推測できる。師を葬ったセフォーを前にしても平然とした態度を貫いていたという事実は、逆に危険な状態であることを示す確かな証拠になるではと思う。
 たとえ己を律することを重視する魔術師だとはいえ、人であるということには変わりないのだ。心は感情の海に浮かぶ小島のようなもの。いつ荒れ狂う波に飲み込まれるか、本人でさえ完全には読み切れない。
 ある程度身辺が落ち着いた今が一番苦しい時であろう。緊張の糸が切れた時、どのような行動に出るか。逐一とまでは言わぬが、少なくとも気にはかけておくべきだった。それに、ジャヴは雨の日――
「リスカ」
「……うむ?」
「うむ、ではない。人に訊ねておいて再度自分の世界に浸るのか?」
「……失礼をしました」
「全くだ」
 機嫌を損ねてしまったか、とリスカは苦笑した。
「お前、俺の話を聞いていないだろう?」
「とんでもない。きちんと聞いていますよ」
「俺は置物ではないぞ」
「はい」
 こんなに尊大できらびやかな置物があっては困る、とリスカはかなり無礼なことを考えた。
「俺と話すのは退屈というのか」
「そんなことは一言も」
 リスカは当惑した。すぐに己の世界へ浸ってしまう悪い癖がある、ということは自覚しているのだ。
 大体、あなたと私では共通点や話の糸口など、ささやかなきっかけが殆どないといっても過言ではないのですが、とリスカは更に困惑を深めた。まさか高潔なる騎士殿に、店に訪れる客から聞いた他愛ない夫婦喧嘩の顛末を吹き込むわけにはいかないし。いや、当事者の夫婦には悪いが、あの話はつい面白く聞いてしまった。食堂を営んでいる夫婦なのだが、旦那の酒癖の悪さに我慢できなくなった妻が一計を案じて、酒瓶の中身を全て色水に変えてしまったのだとか。それに気づいて逆上した旦那が、今度は妻が密かに集めていた香水の中身を酒に変え、その後皿や杯などが飛び交う壮大な夫婦喧嘩が始まったのだという。いやはや凄い。
 などとまた脱線しそうになり、リスカは我に返って気を引き締めた。
「お前、先程何をしていたのだ? 売り出すものを入れ替えていたのか」
「ああ、いえ、違います。店を閉めようと思いまして片付けていたのです」
「別地へ居を移すつもりか?」
 なぜかひどく驚かれた。
「いえ、この季節は客足が鈍りますので、店を開けていても意味がないのです。ゆえに毎年、冬季間は店仕舞いをして、休養がてら旅をしているのですが」
「問題があるのか」
 金銭的な問題が、とはなかなか率直には言えぬものだ。リスカは微笑で誤魔化し、ぬるくなりつつあるお茶を喉に流し込んだ。
「どこへ行くつもりだ?」
「まだ決まっておりません」
 うむ、金銭の問題を解決するのが先なので、とリスカはまた胸中で繰り返した。
「資金がないのか?」
 ……どうしてそういうことだけは聡いのか、とリスカは恨みがましい目でフェイを見た。
「放っておいてください」
 ええその通りですとも、と内心で不貞腐れたが、微妙に物悲しさを感じてしまった。
「なあ。……それならば」
 フェイが躊躇うように視線を外し、頬杖をついた。
 横を向かれてしまったため、金色の前髪に邪魔をされて目元が窺えない。窓から差し込む冬の弱い光でも、フェイの髪は鮮やかな輝きを見せていた。ふと改めてフェイを眺め、こうして普通に会話している不思議さを考えた。
「何でしょう?」
「資金が足りぬ、そして行く先も決まっていないのなら――」
「はあ」
 フェイは卓上に両肘を乗せ、緩く指を組み合わせたあと、微かにはにかむような表情を浮かべて、きょとんとするリスカを見つめた。
「俺の別荘へ、来るか?」



|| 小説TOP || 花術師TOP ||  ||  ||