花下凍土:1


 夢見るような、雪霞。
 他に色はない。ただ白い。凍えるばかりの、あまりの白だ。
 降る音は月光よりもささやかで、宙に舞うさまは風にそよぐ繊細な花々よりもはかない。彼方にてけぶるさまは弔いの煙を思わせ、静謐だった。
 けれども――
 時すら止めてしまいそうな、圧倒的な真の白。空を覆い、地を隠し、川を埋めて、谷をも潰す。おぼろであるのに、酷烈だ。世の果てまでもそめゆくこの白雪にかなう幻惑の術など、あるだろうか?
 目の奥へと沈む白の美しさに、リスカは酔いそうになった。
 
●●●●●
 
 リスカは途方に暮れていた。
 現在地は右も左も上も下も真っ白な、いっさいの区切りが見えない雪の道。わかるのはそれだけだ。
 方向感覚すらとうに失われて久しく、正確な時刻さえつかめない。およそ宵闇の時であろうことは粛々とかげりゆく天の気で感じとれるのだが、なにしろ四方八方、真綿のような厚みある雪でうめつくされている。建ち並ぶ木々も雪の鎧をかたくまとうほど。
 雪というのは一見もろく清げなのだが、じつはかなりのくせものだ。敷きつめられた白の鏡に闇の色がはね返されてしまうため、夜が夜として正しく現れず、どこかぼやけた薄暗い青さを浮かばせるのみなのだ。まるでめくらましでもされたかのようで、距離感も知らず奪われてしまう。真白き幽雅などと風情の奥ゆかしさにしんみりひたっていられたのは、沓中の爪先が寒さで痺れるまでだった。
 ようするに迷子状態である。情けない。
 転移の術さえ行使可能であったならば今ごろはとっくに屋敷へと戻り、赤々と燃えるあたたかな暖炉のまえでくつろぎつつ、獣のごとくにだらりと寝転ぶセフォーやツァルの髪を思うぞんぶんすいてやっていただろうに。なんてしあわせな時間。考えれば考えるほど切なさがあい増して意志も意気地も勇気も見事、打ち砕く。孤独の子と化したリスカは濃厚な敗北感に押されて深くうなだれたあと、髪の先まで凍らせる厳しい寒さにぶるぶる身を震わせた。
 なぜリスカがひとけの皆無な雪道でさみしく右往左往しているのかというと、理由はつぎのとおりだ。
 現在のリスカは複雑な事情のもと、人里より離れた場所に設けられたフェイの屋敷のひとつに長逗留しているのだが、そこで大層なつかれ……いや、おもはゆくも親睦を深めるに至った細工職人のミゼンという男から、朝方に一輪の花をちょうだいしたのだ。蛇足だが、かつて天才細工師と謳われ世に名をしらしめたミゼンもまたリスカ同様に、わけあってフェイの世話と保護を受けている身の上だった。
 ともあれその、無邪気な彼からもじもじと恥じらう態度で渡された一輪の花こそ冬の希少種、イベリーだった。樹木に寄生するようにして咲く清美な大振りの花で、色は透明感の滲む薄紫。だが別名を虹花といい、薄紫を基として花弁に多色の推移をうっすらうかがわせるのだった。彩りのとぼしい雪景色の中で、イベリーの花はまさしくあでやかな冬の女王といえる。うむ、酒飲みのあいだでは高級な花酒の王としても有名だが。
 いやいや肝心なのは酒ではなく! 花術師たる勤勉実直なリスカの場合は、まっすぐに、純粋に、嘘も偽りのかけらもなく、これはこれはわが術の研究に大変うってつけな貴花ではないかとおおいに知識欲を刺激されただけなのだ。
 ゆえに必要なぶんのイベリーをさっそく確保すべく、皆にないしょで屋敷を抜け出てきたというわけだった。本当に花酒醸造のためではない。光輝のごとき純然とした曇りない探究心であり、勉学欲。ミゼンからいただいた一輪のみではとうてい酒造に不足していたからなどという理由では断じてない。決してちがう。
 などとだれにともなく醜い弁明をくりかえし、不埒な酒欲をばりばりと燃やして隠密行動に走ってしまったから、ひとり迷子というぬきさしならぬ虚しい結果となったのか。いたたまれない。
 いっそシアにたくらみのすべてをうちあけて同行してもらえばよかったのかもしれないが、身をきるような寒さの中をリスカのろくでもない欲望で連れ回すのはさすがに良心がとがめる。では他の者はというと、それもつきつめれば多様な障りがあった。
 護衛としては文句のつけどころがない某閣下様は残念ながら酒嫌い。金髪の某騎士殿の場合は話を持ちかけた瞬間、盛大に叱責されそうだし、麗しの某魔術師は圧するがごとく無言でリスカを冷視するだろう。かといって某響術師を誘った場合、寛大に諾と受けてくれるだろうが、少々型破りな性情のためにおそらく途中ではぐれるか、またはともに遭難するかで、うむ、あまり戦力とならないにちがいなかった。
「手足が冷たい……」
 意図せずくちからこぼれたつぶやきが、予想以上に心もとなく、か弱げで、さらに打ちのめされる結果となった。
 もう少しがんばって歩き続ければ、もしかすると離れにひっそり存在するという村にたどりつけるかもしれない。さらに道を迷わなければの話だが。
 負けるな私、とリスカは涙目になりつつも自分を弱々しく鼓舞した。弱小である。
 しもついてぱりぱりし始めている外套を両手でかきあわせ、ふたたび歩をすすめる。これだけ冷えてしまった身体、純度の強い酒を流しこんだらさぞや天国、などと無意識にでも妄想し吐息を落としてしまう時点でまったくだめだ、反省の色がない。
 と、自分自身の断ち切れない悪しき業について真剣に悩んだときだった。
 時折頬をゆるく裂く雪風にまじって男性の悲鳴が聞こえた気がし、リスカは奇妙な半腰の体勢でかたまった。なんだろうか、今の悲鳴。幻聴だったとしておくべきか。リスカはとっさに逃げの思考へ走った。
 それもしかたのないことだ。リスカは術師、ゆえに一般の人々よりは多少、怪奇現象超常現象異常現象などのたぐいに免疫がある。はず。とはいえ、意気消沈の坂をくだりつづけている無慈悲なこの状況、なおかつ先の見えない孤独感、疲労感、周囲の薄暗さ、ひとけのなさ、凍りつきそうな気温。そんな局面で響いた、だれかの悲鳴。心細いどころの話ではない。背筋に走る寒さとはべつの震えが身体に広がる。
 余計なためらいを見せると、想像を絶する奇禍やら百鬼の群れやらに真正面から遭遇しそうだし、たとえ怪異に対する免疫があったとしても恐ろしいものは恐ろしいのにかわりないのだ。くりかえすが、卑小である。
 うん聞かなかったことにしようそうしよう、空耳空耳、とリスカは内心で狡猾な決定をすばやくくだし、さっと踵を返そうとした。
 ところが運命というのは、掛け値なく悪辣無比なものらしい。
 以前、災難というのは次なる災いを喜んでつれてくるとか、悲観的な考えを持つ者のもとにまがまがしい気が寄り集まってくるなどとずいぶん鬱屈した感情にとりつかれたことがあったが、あれは実際のところ、なんの誇張なく正しい認識だったのかもしれない。
 突如、脇の木立から血塗れの男が出現し、目のまえを転がるような勢いで横切ったのだ。しかも、けだものめいた凄まじい悲鳴つきだったためにリスカもついつられ、うひぅええ、と女性らしくない間の抜けた叫び声をあげてしまった。
 いったいなにが、何事ですか、闇の吐息にそまりはじめたひとけのない雪道で血塗れの男と出くわすなどそんな怪異が都合よく起きるはずが、きっと幻覚、白昼夢、私いつでも気絶できる自信ありますよ、などとリスカは一瞬、思考を際限なく乱反射させた。
「助けて、助けてくれえ、殺される!」
 眼球がぽろっとこぼれ落ちそうなくらい大きく目を見開いた血塗れの男から、もの凄い強さで両肩をつかまれたリスカもまた、だれかに全力で救いを求めたい心境だった。助けを求めるあなたに私が絞め殺されそうな勢いなんですが。
「ひい、助けてくれ、化け物だ、人が山ほど殺されてる」
 正体不明の男は好き放題にリスカの肩をゆさぶったあと、正気を失った悲鳴を上げ、また雪道のむこうへと逃げ去った。
 あれだけの出血だ、どこかに深く負傷しているのは間違いないだろうから、男が逃走するまえに常備している治癒の花びらを渡すべきだったが、頭がくらくらするほど揺さぶられたために声も出ないし手ものばせないというありさまだった。
 リスカは半分ほど意識を飛ばしつつその場にへたりこんだ。竜巻にでもまきこまれたような心地だった。
 一瞬の遭遇にすぎないが、とんでもない目にあったものだ。いったい今の男性は何者で、どこから来て、どういった事件にでくわしたのか。人が山ほど殺害されるといった惨劇なんてそうそう発生するはずが……と否定しかけ、リスカはいったん思考を停止させた。
 うむ、その、大量殺人というか大虐殺というか血の宴というか、そういった凄惨極まりない殺戮現場を片手間にひょいとつくりあげてしまう物騒な御仁に、ちょっと心当たりがあったりしなくもない。なにせ異名は死神閣下。ひ。
「いやいやいや! まさかそんな!」
 目撃者も聞き耳を立てている者もおらず、当然糾弾する者だっていないのだが、妙な焦燥感に苛まれたリスカは大仰に手をふって否定した。
 ちがいますよねセフォー、まさかあなた、私の知らないところで暇つぶしに善良な村の人々を手当たり次第に切り刻んだり生首を飾ったりなどしてませんよね信じてますからね、とリスカは心の中で祈るように訴えた。
 こうしてはいられない、即刻屋敷に戻り、この恐るべき真偽のほどをセフォーに確認しなくてはとても安眠できない。リスカは自分が今迷子状態である事実を完全に忘れながら、敢然と立ち上がった。
 その瞬間。
 災難とはまったく、休む間も与えてくれずに次なる災難をつれてくる。これはもう世の定理とすべきではないか。
 リスカは目を剥いた。ふたたびの悲鳴が聞こえたのだ。
 それも、さきほど男が駆け去っていった方角からではない。飛び出してきた方向からだ。つまり、別のだれかの悲鳴という意味になる。
「ひぃ」
 ざぱっと乱暴な動きで雪を蹴散らして、つっこむように脇道からリスカのまえにあらわれたのは、またしても外套を血塗れにした男だった。ただし、こちらの男性のほうがさきほどの者より若干細身で若いようだった。
「助けて、うわああ!」
 リスカこそうわああと悲鳴を上げたい。なにせさきほどの場面を再現したかのように、血塗れの男にしがみつかれている。さらには首ががくがくするほど激しく身を揺さぶられた。
「お、お願い、肩を、ゆ、揺らさな」
「悪かったよ、謝るから、許してくれよ、殺さないでくれえ」
 なにがなんだか、わけがわからない。
 男たちが飛び出してきた方向で、いったいどれほど惨烈をきわめた事件が起きているのか。
 リスカはともかくも、常軌を逸した様子で泣きじゃくる哀れな男をなだめようと、軽く身をねじり、距離を取ろうとした。
 そのとき、目の端をなにかがよぎった。黒い影? 人なのか、獣なのか、それとも――
 確かめることはできなかった。その影に気を取られた隙をぬうようにして、何者かに後頭部を強く殴打されたためだった。
 意識が暗闇に落ちていくまでの一瞬に、男がほとばしらせた悲痛な叫び声を聞いた。
 
●●●●●
 
「ん」
 ひどい頭痛で、目が覚めた。
 視界も意識も霞がかったようにぼんやりしている。ああ、雪霞のせいなんだろう。そういえばリスカは道の途中で迷子になり、ひとり薄闇の世界に取り残されたのだった。色彩の沈む、幽寂の雪道。その透きとおる青白さ。うつくしさ。月も陽も寄せつけない。そういえば、セフォーは雪景色が似合う人だ。あの銀髪のせいだろうか。まったく最近のあの人は横着になって、私が手入れしないと髪をぼさぼさのまま放置するんだから。せっかくきれいな髪をしているのにもったいない。ある意味冒涜ですよ。本当、星の光で編まれた糸のようにきらきらきれいだから、さわるたびに見蕩れたり、息がとまりそうになったり、いつまでそばにいてくれるのかと不安にもなったり――
 それにしても、頭が痛い。
 頭の奥で小人がぐつぐつと釜をゆでてでもいるのではないかとばかげた妄想をしてしまうくらい、意識が揺らめいている。小人たちは、そう、晩餐の最中だ。煮込んで、焼いて、炒める。食卓には溢れんばかりの料理の数々。小人たちはかわいらしい顔に似合わず、大口を開け、血の浮いた肉の塊に行儀悪く食いつく。尖った歯で肉をかみちぎり、汚く咀嚼する音。なんだろう、この音。ちがう、咀嚼の音ではない。つぶしている。肉を叩き潰す音だ。どうしてそんな真似を。
 思考をおおっていた霧が唐突に晴れる。
 リスカは、はっと身を起こした。
 以前に嗅いだ覚えのある、不快な匂い。
 血?
 うらぶれた、もとは狩猟用であったろう広さのある廃屋にリスカは寝かされていたらしい。ふちの壊れた明かり取りの窓からは容赦なく冬の厳しい冷気がすべりこむ。そのくせどこか閉塞的だった。木屑や割れた食器などがあたりに散乱し、手狭さを感じさせるせいかもしれなかった。
 照明は、上半身を床から起こしたリスカのそばに置かれている蝋の二本、窓際にかけられた二本のみで、時々寒風にゆらめいている。
 十分な明度だ。おおまかな屋内の様相を見て取るには。
「!?」
 リスカは息をのんだ。
 妄想のはずの、肉を叩き潰す音。その不吉な音は、現実だった。屋内の隅で、ずいぶんと古びた丈の短い外套を着こんでいる痩せ形の男が、すでに虫の息となって横たわっている人物の背中を太い棒で執拗に打ちのめしていた。
 その瀕死状態の人物が、意識をとぎらせるまえに雪道でリスカに救助を求めた男であると気づく。
 目を凝らせば、ほかにも血塗れの死体が彼らのそばに転がっていた。数えて、三体。
 血の気が引く。
 冗談でも夢でもなかった。か弱い者なら見た瞬間に卒倒しそうな、戦慄の血の宴が目の前でくりひろげられていた。
 瀕死の男の背に木の棒がふりおろされるたび、ぴしゃっと血の飛沫が床にはねる。そして、ゆらめく蝋のあかりが、暴行をやめぬ男の影を過剰なほど大きく壁に映す。影は本質を映すという。ではこのいびつな、魔物めいた影が男の真の姿なのか。
 リスカは無意識に半身を起こした体勢のまま後ずさりした。そのときに沓の先が、床に転がっていた薄汚い杯にぶつかり、小さな音を立てた。
 不用意な物音は、男の動作をとめるのに十分な働きをしめした。
「目、さめたのか」
 男が顔をこちらに向け、さびた声で抑揚なく告げた。こすれあう葉のさざめきを思わせる声だった。
 予想以上に、老いた顔貌の男だ。厳しい日差しに毎日さらされたかのように顔いっぱいに深いしわが刻まれており、めもとがくぼんでいる。頬がそげているためか、なおさら目がぎょろりと飛び出て見えた。葉のさざめきのようなさび声を持った、樹幹めいた肌膚の男。どういう人間なのかと、好奇心とはべつのところで思い悩む。
 少なくとも幸福な歳月をすごしてきたものが持つ顔ではなかった。平穏を見出せぬそのまなざしの、深々とした乾き。疲弊と諦観のみならず、煮詰めたような淀んだ憤りまでもが渾然となった、仄暗い日々を生きる者の顔に相違なかった。枯渇し、忘れ去られた廃井戸を連想する。瑞々しさが一滴もない。
 というのに、背に流れる黒々とした長い髪だけは花苑の娼婦も羨むほどにあでやかで、容貌との落差にどうしても不気味さを覚えずにはいられなかった。
「あなたは」
 たずねかけて、リスカは口をつぐんだ。かけるべき言葉が見当たらないことに気がついたためだ。
 いや、本来ならば聞きたいことはいくつもあるはずだ。ここはどこか、なぜリスカを連れ去ったのか、その瀕死の男はだれなのか、なぜ屍が積み重なっているのか。なぜ、何人もいたずらに殺そうとしているのか。
 しかし、言葉は音にならず、喉の奥に沈んだままだ。男の表情をどれほど慎重に探り解明に挑んでも、あるべき殺意の片鱗さえ見えなかったせいだった。
 だったらなぜ凶行に及ぶのか。
 未知なる存在に抱く畏怖とよく似た曖昧な不安が胸を支配し、リスカの口を重くする。
「待ってろよ、つぎはおまえだからな」
 淡白な口調で待つよう諭されたため、すぐには言葉の意味を理解できなかった。
 ゆっくりと瞬きをくりかえしたあとでようやくのみこみ、リスカは愕然とする。つぎはおまえを殺す、と言われたのだ。
「ま、待てません! いえ、やっぱり待って、私のことは気にせずぜひ捨て置いてください」
 日頃から友人知人その他の人々に、女性らしくないだのなんだのと理不尽な説教をされたり皮肉を投げつけられるリスカだが、このときばかりは自分でもちょっと態度を悔い改めようかなと殊勝な気分になった。殺害宣言を放った危険な男に力強くつっこみをいれてどうするのだ。しかしこのまま黙って殺されたりしたら死んでも死にきれないものがあり、いやだからといって相手を挑発するかのように自己主張するのもどうかと、そもそも最近の私って監禁率と血みどろの事件遭遇率がやけに高すぎませんか、まったく望んでいませんよ本気で怯えているんですよ、と混乱のあまりリスカは怒濤の勢いで無益な嘆きを吐き出した。
「ああ、寒ぃ」
 煩悶するリスカの様子などまったく目に入っていないのか、異様な雰囲気を醸し出す老樹めいた殺人者は飽いた風情で棒を放り出したあと、両の手をちからなくこすり合わせ、背を丸めた。実際に暖のいっさいがなく凍えるような気温なのだが、それにしても男の所作はひどく寒々しく頼りないものだった。いましがた人を殺したことにたいする高ぶりや苛烈な意思は見えず、ただ貧しい者が身をきる寒さに震えているだけといった罪のない仕草で、その寂とした哀れなたたずまいに、真横に死体が転がっているほうがどこか信じられない気持ちになってくる。だからこそリスカは焦りや恐怖などといった当たり前の感情をもちろん真剣に抱きながらも、死に物狂いで逃走路を探そうとは思えずにいたのだった。この現状、悪夢のなかで恐怖を抱いている、といった不透明な状態に一番ちかい。どんなにおそろしくても、現実ではないような。
「早く終わらせて、眠りてえな」
 男が目線を床に落とし、大儀そうに独白した。蝋の灯りにゆらめくその表情は、やはり冷酷な殺人者にはふさわしくない寂然としたものだった。
 びゅう、と雪の気配をふんだんにまとう寒風が崩れかけた壁の隙間から容赦なくはいりこむ。だがこの刃物のような冷たい風が、屋内にたちこめるはずの血の匂いをあらかた吹き飛ばしてくれていた。寒さというのは、様々な感覚を麻痺させてくれる。隅に積まれた屍さえも、しだいにただの置物に。リスカは必死に外套のまえをかきあわせつつ、抑揚のない男の声に添うようにして低く言葉をつむいだ。
「なにを、終わらせたいんですか」
 重い荷を持ち上げるかのように男が緩慢に床から目を離し、リスカを見つめた。
「きまってるだろう? これだよ、こいつらをとらえて、殺して、吊るして、ああ、面倒くせえなあ。追っ払っても追っ払っても虫のように集まってくる、きりがない、疲れたなあ」
 陰鬱とした、暗闇のごとき言葉だった。
 好きでこの者たちを殺害しているようではないとわかったが、ではなぜそうも皆から執拗に狙われるのか。なにを目的に?
決めつけては悪いが、痩せ老いた男の容貌からして、他者が財を目当てに群がるほど富裕な層の者であるとは思えない。豊沢とはいえぬ無色の生を送っているとしか、受け取れない。そうでなければ人世から隔絶されたようなこの寂しい場所で、嫌々殺人などに手をそめるだろうか。かといってありきたりな怨恨や痴情のもつれなどでもないだろう。
 逡巡の末、リスカは疑問をくちにした。なにかしらの突破口となるかもしれないからだ。
「なぜ皆がそれほどあなたを追うんですか」
 一度はリスカから逸らされた暗色のまなざしがふたたび戻る。さきほどとは打って変わって、灰をまぜたように濁った苛立ちが浮いているまなざしだった。
「おまえもだろ? おれの宝がほしくて、こいつらと同じようにわざわざやってきたんだろう。白々しいよ、白々しいことを聞くなよ」
 宝?
 リスカは困惑した。
 裕福層ではないだろうという不躾な予想は裏切られた。多数から略奪を目論まれるほどの貴重ななにかを所有しているのか。
「どんな宝なんですか」
「それを聞くのかよ。狙ってきたんだろ?」
 いえ純粋な迷子です、偶然巻き込まれただけなんです、宝うんぬんより帰り道をもっとも求めています、と正直に説明して、はたして素直に信用してもらえるのか。
「待ってな、手があたたまったら、おまえもちゃあんと潰してやるからな。ああ、寒くっていけねえ。身体が動かない」
「いえいえいえ! 私まったくあなたの宝などいただきたいとは思っていません。私が探していたのは花酒用のイベリーで……あ」
 男の決意を変えてもらおうと勢いよく訴えるあまり、思わず余計な本音まで暴露してしまったリスカだった。
「イベリー?」
 意外にも、男は反応した。
「は、はあ。その、私、お酒が好きでして」
 なぜ名も知らない殺人者に自分の趣向を訥々と明かしているのか。リスカは顔を赤らめた。
「ふうん。おれは酒はのまないけどな、イベリーは知っている。雪に映える花だ」
「そうですそうです! 美しい花です」
 などと商売人よろしく調子よく相づちをうって追従する自分の卑劣さが物悲しい。逆上されても困るが。
 とくに手足を拘束されているわけではないが、なにしろ長い時間寒さのなかにいて全身がこわばっている。今後、万が一にでも襲撃されたとき、とっさに反応できるかかなり心配ではあった。ふところに忍ばせている花びらの種類は、なんだっただろう。まず治癒の花びら。防御の盾をつくるものも一枚あったか。もともとイベリーを探すため出掛けたのであって、危機と直面するなど想定外のことだったのだ。攻撃用の花びらは一枚もない。準備の悪さにリスカは落ち込んだ。
「じゃあおまえ、本当におれの宝を狙いにきたわけじゃないのか」
「はい。というよりあなたのことを知らないし、あなたの宝というのもなんなのかまったくわかりません。それに、じつは迷子でして、帰り道もわからないという…」
 思い切って白状すると、男が一瞬変な顔をしてリスカを見た。
 リスカはいたたまれずに視線を泳がせた。今の間抜けな発言が真実かどうか探る気配を感じる。まあ、普通はやすやすと信じないだろう。
 けれども男は少し笑った。
「ふうん。なんだかおまえは、おれと同じ側の匂いがする。なんだろうな、ふしぎだな」
 リスカは驚いた。

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