花下凍土:2
同じ匂いというのはもしや凶悪殺人者としての素質だとか残虐性だとか、まさかいえいえとんでもありません私なんて善良を地でいく品行方正な人間です、誇るわけじゃありませんがだれもが認める果敢な弱小っぷりですよ、悪党などと対面した日にはたとえそれが小物であろうとも潔く死んだふりをしてごまかすか兎を追い抜く速さで即座に逃走せずにはいられません、逆の意味ではこれ以上ないほどの勇猛心を持ってますとも! とリスカはこの寒さだというのに大汗をかき、一部誤りをふくめたなにも羨ましくない自慢をしながら自分の惰弱な性質を豪快に訴えた。あくまで内心で。
いやいやいや、素質を示唆していると決めつけるのはまだ早計というもので、おそらくなにかべつの、無害な意味合いであるはずだ。精神衛生上、素直な心根でそう思っておきたい。
深く詮索するのはやめてなにか他の明るい話題をふろう、そうだこの友好的な雰囲気を利用し帰り道をさりげなく聞き出しておこうかな、と心の平安を守るため、なんとも姑息な作戦を必死に練ったときだった。
「だがおまえ、あんまり容姿は、よくもないなあ。まあ、おれはさほど、なりの美醜にこだわらないからなあ」
などとつらつら平淡な口調で言われたが、突然なんですか、さきほどの話との繋がりが見えませんし、そもそもなんの慰めにもほめ言葉にもまったくなっていません、むしろ私をおおいに侮辱というか罵倒していませんか。他者と関わる中で社交辞令というものがいかに大事か、もっと知るべきでは。
リスカは大層憤ったが、やはりくちに出すことはしなかった。相手が得体のしれない殺人者でなければもしかすると一言くらい反論できたかもしれないが、その可能性はちょっと低い。
「おまえ、よく見たら女か? わけのわからない風貌だな。味気ない顔だしなあ」
喧嘩売ってますか上等です喜んで買いますよ私のかわりに某閣下様が。とリスカは虎の威をかりつつ心細さや恐怖などとはまるきりべつのところから生まれた危うい激情に、身体をしばし震わせた。おかしい、リスカが出会う者はなぜ揃いも揃って傍若無人で毒舌なのか。気づかいや思いやりの心を皆、しっかりと意欲的にもつべきである。
無神経な発言がいかにリスカの胸をえぐり血の涙をさそったか、夜明けがくるまで徹底的に説教してやりたいが、それはやはりかなわぬ夢で終わるだろう。ふがいない。
「おまえ、本当に宝はいらないのか」
リスカは顔をひきつらせ、胸中うずまく怒りをなんとかなだめつつも「いりません」と否定した。興味がまったくないとはいわないが、正直、その宝を得たのちに相手からほぼ確実に求められるだろう代償がおそろしい。
「ふうん」
男はふしぎそうに首をひねった。どうも奇妙な展開だ。無惨に転がる死体をそばにしてくりひろげる会話では決してないだろう。
「だが、どいつもこいつも金貨や銀貨は好きだろう」
男はそうつぶやいたあと、真横に伏している血塗れの遺体を動かし、ごそごそとふところを探った。
「――さあ、ほら、どうだ。欲しかろう、たんまりと欲しかろう」
男が遺体から無造作に奪い取ってリスカに差し出したものは、血に濡れた数枚の金貨だった。
「欲しいだろ? さあ、さあ」
リスカはめまぐるしく考えた。
試されている。
ゆるく笑む男の暗闇のごときまなざしの奥、たしかに見下す色があり、リスカの反応いかんによっては一瞬で狂暴な輝きへ変わるだろうと予測できる。
「あなたは、ほしくないんですか?」
リスカは答えず、逆に問いを投げかけた。
思惑の外にある対応だったのか、男が薄笑いを消し、ふしくれだった自分のてのひらにある金貨とリスカの顔を何度も何度も見比べた。幼子のようによるべない仕草に思えた。見た目よりももしかすると、ずっと若いのだろうか。
「おれは、おれの宝があるから。金貨なんかいらないよ」
男がやや憮然とし、ばらばらと手のひらから金貨を落とした。不躾なくらいの硬い音を立てて金貨が床に転がった。蝋のあかりをうけ、金貨が蜜のように濃い光を放つ。
「そうですか――だれしも抱える思いは異なるもの。私も、私の宝があるから、今は金貨はいりません」
などと弁を弄する術師としていかにももっともらしく言ってみたが、本心ではかなりの速度で誘惑に落ちそうだった。金貨一枚あれば暮らし向きがかなり楽に……としみじみ考えて葛藤せずにはいられないあたりがリスカである。
「ふうん。そうか、やっぱりおまえ、おれと同じ匂いなんだな」
男が顔のしわを深め、はじめて柔らかな微笑をのぞかせた。その表情が思いのほか、日だまりのようにあたたかなこころよいものであったので、リスカは瞠目した。稚さを感じる言動と老木のような枯れた容貌。暗闇のまなざしと日なたの笑顔。残虐性と純真さ。人とは当然、多面的な感情をもち、状況に応じて故意に、あるいは無意識に態度を使い分けるものだが、それにしたってここまで極端な矛盾をなんら作為なく見せる者も珍しい。本当にこの男は何者なのか。俄然興味がわく。
「おまえは許してやる。殺さないでやる。おれが気に入る者なんてそういないぞ」
「は、はあ」
ここで図に乗り『ところであなたの持つ宝ってなんですか』などとたずねたら、その瞬間凶器を振り下ろされそうだった。後ろ髪はひかれるが、自分の安全のためにやめておく。
リスカの無事はともかくだ。目の前で機嫌よさそうに笑う男が凶悪な殺人者であることは曲げられぬ事実なわけで、するとこのままなにもせず逃げ帰るというのもためらわれる話だった。いや、無事帰還したあとにでも、騎士たるフェイに報告すればよいのか。
なぜだろう、見過ごすのもできないが、この男を捕縛させることに迷いが生じてしまう。死者が複数出ていることを忘れず念頭においてもなおだ。
「どうした」
「いえ――ここ、寒いですね」
リスカはつい言葉をにごした。
「ああそうだな、まったく寒い。凍えてしまう。面倒くせえなあ、こいつらを殺して、吊るして、面倒くせえなあ」
男はまた肩をすぼめて手をこすり合わせた。かさついた肌がこすれるかすかな音が、風の滑りこむ合間に耳をついた。
リスカもふいに寒さを強く意識した。なんだろう、どうしたことだろう、ここがあんまり寒いからなのか、積極的に動く気が起きない。はやく帰り道をたずねて屋敷に戻り、赤々と火が燃える暖炉のまえでセフォーやツァルの髪を丁寧にとかしたいと、焦るようにそう思っているはずなのに――
この寒さは寒さで、ここちよくないか。
外には一面の白。夜の色をしみこませているから、今はきっと海の中のように青いだろう。風にも、雪の匂い。肌の奥へ、さらなる奥へと伝わり、心身をじんわりと麻痺させる。あたたかな火も毛布もない。なにもないから、不満もない。まるで深い眠りへいざなう幻惑の術に落ちたようだ。幽暗な雪夜の虜となってしまったのか。
「なあ、おまえ、おれのものになるか」
「……え?」
微睡みのような思索にどっぷりと耽っていたため、返答が遅れた。おれのもの?
「おまえはおれのものになる、ああ、おれがおまえのものになってもいい」
「はあ……って、はい!?」
我に返った。
なんですって。どどどういう意味ですか、まさかこれは噂の求婚、男性が女性に一世一代の決意でやらかすというあの求婚なのですか、なんと私、名前もしらぬ者から告白を、とリスカは全身全霊むしろ無我夢中といったていで激しく驚愕した。
「ちょ、ちょっとお待ちください、まずは節度ある距離から始……ではなく! まずはおたがい語り合うところから……でもなく! というよりあなた、人殺しなのでは」
と、うろたえるあまり話が脱線しすぎてしまったため、いわぬでおこうときめていたはずの危険な事実をいともたやすく口にしてしまったリスカだった。だが人殺し加減の凄さならあらゆる戦場を灰燼へと変えた過去を持つ某閣下様などもう完全に敵なし、天下一にちがいなく、そもそも今は悪人が我が物顔で横行する不安定な世情であり命の重さというのも平穏の時代と比較すればずいぶんと深刻な変容が見られるわけで、つまり今さらリスカがその罪悪についてをしかつめらしく問いただすのはどうなのかと――ちがう、また話がずれている!
「だからなんだ、先に襲ってきたのはこいつらじゃないか。追い払っても追い払っても底なき泉のようにわいて出る。うんざりだ、おれはもう、飽いてとまらない」
「あの、すみませんが、根本的なことをまずたずねたいのですが、あなたは、だれ?」
リスカはとうとう、その質問を相手に向けた。
放心している場合ではない。ひとつひとつ順繰りに解明していかなければ、あやかしめいたこの幽境にすっかりはまりこんでいつしか帰ることさえ忘れそうだった。
「おれか。おれはな」
男がまた手をこすり合わせ、重い口を開いたとき――
夜泣きのような風が止み、かわりに、ざくざくと雪を踏みしだく音が外から響いた。これは、だれかの足音だ。
そのかすかな音を男もたしかに拾ったのだろう、大きく顔色を変えて立ち上がる。まさに変貌だった。鬼のごとく目をつりあげ、顔に走る無数の皺を裂けるほどに深くして、男が全身から怒気を発する。
「まただ、またきやがった。おれの宝を奪いにくるやつらめ」
男は獣のように吠えた。
すると、老い木のようであった身体がぐうっと盛り上がり、ひとつの黒い小山と思えるほどの凄烈な威圧感を見せる。背に流れる長い髪は死者が渡る河のよう、蝋のあかりによって壁に大きく伸びた影は地底から這い出した悪魔のよう。
「殺すぞ、きっと殺す」
男がつぶやき、闘犬のごとき瞬発力で小屋を飛び出した。
突如の狂的な変貌に仰天し、しばし忘我していたリスカは、中途半端に開かれた扉から粉雪まじりの風がふきつけてきたことでようやくうつつにかえり、慌ただしく身を起こした。
自分の命は当然惜しいが、だからといってこの場面で見過ごすほど冷酷にはなりきれない。第三者の命の危機よりも、あの不可思議な男にこれ以上罪深い真似をさせたくないというのがきっと本心なのだろう。
リスカは男のあとを追うため、小屋を出た。長い時間座りっぱなしでいたためか、数歩進んだときに小さくよろめいてしまった。手足がうまく動かない。冷えきってしまっている。
舌打ちを一度落とし、むりやり足を進ませる。
頭上には、雪でつくられたのにちがいない冷冷とした白い月がある。遠き空を大地に繋く、不規則にそびえたつ無数の樹木。不透明な、濃い青の夜。これが雪の夜。
横殴りの強い風が吹いた。青い大気の中、こまかく舞って消える雪が、夜空を流れる天の川のように一瞬見えた。ああ天地が逆さまだ、とリスカはこどもじみた感想をもって心底から怖じ気づいた。それでも、行くしかないのだった。
策もなくただ駆け出すと、どこからか悲鳴が聞こえた。
リスカは急ぎ方向を変え、足にからみつく雪を蹴散らして断続的に響く悲鳴を追った。
そこで、雪の膜に隠されていたゆるい傾斜につっかかり、体勢を崩してしまった。
「わ、わ!」
勢いを殺せず傾斜を駆け下りるはめになり、右へ左へよろめいて、最後にごろごろと転がってしまう。
「うう」
地面が雪で覆われていてよかった。それに、木々に衝突せずにすんだことも運がよかった。傾斜を転がった際に多少足をくじいてしまった気がしなくもないが、大きな怪我はしていないはず。
全身に付着した雪を情けない思いで払ったあと、場所を確認しようとあたりに目をこらす。後方にあったはずの狩猟小屋が見えない。そういえば雪山ではわずかな油断が命取りに……と考えてリスカは蒼白になった。
と、先が見えなくなったわが身の危機におののいたとき、斜向いの木陰から大きな黒い塊が飛び出してきた。
「ひ!」
リスカはさらにおののいた。その黒い塊が迷うことなくリスカのほうへと突進してきたためだった。
「助けて、助けてえ」
既視感のありすぎる展開に、リスカは凝固した。その黒い塊に見えたものは、血塗れの女性だった。あきらかに、怒り狂うあの男に襲われて命からがら逃げてきたという風情だった。
「お願いよ、助けて。これあげるから、わたしを守って」
「え、えっ?」
ぐいぐいと力づくで外套の内側に押し込まれそうになったのは、またもや金貨だった。だがここに蝋の灯りはない。金貨は光をはじかず、ただぬっぺりとしていた。
「待って、私、これは」
やや動転しながらも女をひとまず落ち着かせようと、リスカは強めの声を発した。途端、女が身を硬直させた。リスカの言葉に反応したのではなかった。女の目は色濃い恐怖をはらんで、リスカの後方に真っすぐ向けられていた。
「――おまええ、裏切ったなああ」
振り向くよりもはやく、間延びした男の声が背後から響いた。一瞬、このままなにも聞かなかったことにして気絶してしまおうかととことん弱気なことを考えてしまった。
神に祈りを捧げつつ、ついでに救助の手も切実に願いつつ覚悟を決めて振り向けば、想像とおりの悪鬼と化した男がそこに立っていて、射殺さんばかりの強烈な視線をリスカにぶつけていた。あたりには青い夜が満ちているというのに男の表情が明瞭なほど見て取れるのは、やはり白い雪が闇の色を吸収しているせいだ。できれば、天をつくほど怒りにまみれた狂暴な表情など見たくなかったリスカだった。
「おまえ、その女をかばうのか。やっぱりおまえもこいつらとおなじ、おれの宝を狙っていたんだな。ちくしょう」
「誤解です、そうじゃなくて!」
懸命に否定したが、血に濡れた木の棒をもってじりじりと近づいてくる男の身からは濃厚な殺意が絶えない。
リスカに助けを求めた女は、泡を食った様子でひとり、逃げ出した。男の目がリスカからいったん逸れて、女のあとを追うそぶりを見せた。リスカは条件反射で、男のまえに飛び出してしまった。なにも考えていなかった行動なのだが、どう見てもこれは逃走をはかった女をかばい男をいさめるものだった。冷や汗やら脂汗やら絶望感やら、とりあえず色々ななにかが身体から一挙に噴き出した。
「かばったな、女をかばったなあ!」
「ちがいます!」
ちがうもなにも結果的には指摘とおりなのだが、ここで素直に認めてしまえば命がない。
「なにがちがうという、おまえはあの女を見逃した。おれの宝を奪われることを、よしとした。おれだけがいつまでも奪われるのか、おれの身が荒らされるばかりが定めなのか!」
「ちがう!」
「おのれええ!」
男が咆哮した。雪夜を震撼させる瞋恚に彩られた狂おしい叫びだった。風がうろたえ、星が固まり、生けるものすべてもまたうち震える。
ゆっくりと振り上げられる凶器。見ていられず、リスカはその場にへたりこんでうつむいた。定めというならリスカもまた、逃れられないものがある生き方をしているにちがいない。そうだ、たとえ不具と指さされようとも術師のはしくれとして、死ぬ間際まで剣のかわりに弁をふるうのだ。心を貫くものが、言葉という刃であるならば。けれども鋭利であるばかりではない。決して非情な痛みをもたらすものだけではないはずだった。
「かばいたいのは、あなたです」
うつむき、地に積もった雪をつかむ自分の手を見つめながら、最後のあがきとして告げる。
「だって、寒いでしょう。奪いにきた者を、追い続けるのは、寒いでしょう。追うから、老いる。だから、今日だけは、一度だけは、追うのをやめてみませんか」
凶器が頭上にふりおろされる気配はなかった。動きをとめた男は、じっとリスカの言葉を聞いているようだった。
リスカは雪をつかんでいた手をそっと動かし、自分の胸にもっていく。
「追わねば奪われる。あいつらは泉のように、栓のない泉のように、わいて出る」
「そういうときは、こうします――」
リスカはすばやく立ち上がり、ふところから一枚の花びらを引き出す。そうして、いつのまにか懲りもせずに舞い戻り、隙あらばリスカもろとも男を襲おうと、そばまで迫っていた略奪者――さきほど助けた女に向かって、その花びらをふっとひらめかせる。
大気に波紋を広げて、生み出される防御の盾。花の刻印を刻んだ方陣のような盾は、うむ、当人の性格をあらわしてかあまり強固そうには見えないが、それでも術になじみのない者が見れば驚くべき代物であるにちがいなかった。
突然の術の発現に、女がぎゃっと悲鳴を上げ、一目散に去っていく。
「このような感じで、殺さずに、総力あげて脅してみる、という方法はどうでしょう?」
とほんのり悪人気分に傾きつつもリスカは恐る恐る男に提案した。自信たっぷりではなく恐る恐るというあたり、もはやリスカたるゆえんである。
「今は、この一枚しか花びらをもっていないんですが――ああ、いえ、なぜ花びらなのかと思われるでしょうが、私、ちょっと事情があって花を用いねば魔術が使えなくてですね、と、とにかくです。私、あとでたくさん、防御に適した花びらを届けにきます。あ、ご安心を、この花びらは私でなくても使用できますから。そうしたらあなたはもう、襲いにくる者を殺すことも、追うこともなく暮らしていける。そのかわりといってはなんですが、よろしければ帰り道を教えていただきたく…」
と後半部分、小狡い頼み事を付加してしまったが、リスカを凝視する男からは、今にもはちきれそうだったはずの憎悪が感じられなくなっていた。
「おまえ、だれだ。何者だ」
とけげんな面持ちで聞かれたが、むしろあなたの存在のほうが謎で恐怖で不可思議ですよ私なんてごくごくささやかな一般人ですよ、と異論をもちかけたくなったリスカだった。あくまで胸中のみでの主張である。言えない。
「花を使う術師。花術師、といいます。いやこれはもう職業なのか、身分か、個の証明となりうるのか、いやそれとも、ううむ」
適した言葉を探して色々説明しているうち、深みにはまっていくリスカである。
「かじゅつし。花の術――ああ、そうか、おまえ、だから花を」
男が納得したように独白した。
あれもしかして花術師だからイベリーを探していたと思われたんですか、いやっそれはそれ、花酒をですね、などと後ろめたさにかられてつい言い訳しそうになった。賢明にも思いとどまったが。
「ま、まあ、うん、そういうわけで、今日のところは、帰りませんか?」
リスカはこどもに語るようにして、男を優しくうながした。
「そうか、そうかあ」
男はふいに、泣き笑いのような表情を浮かべた。
「うん、そうだな。寒いもんなあ」
「はい」
「帰るのがいい、そのほうが、安らかだなあ」
「はい」
「おれも休みたい。ずっとずっと休みたかったんだ。だがずうっと、追うてばかりで」
「はい」
「どうして絶えずさまようばかりであったのか。ああ、寒い。帰らねば――」
「はい、帰りましょう」
納得してくれたのかとリスカは安堵した。そして男に手をのばそうとしたときだった。
押し倒すような勢いで、男に抱きしめられた。
「ひぅわ!?」
なっ、なんですか、なにをするんですか、いくら感謝をしめしたいからってそんないきなり大胆な、物事には順序というものが、とリスカは愚かな方向に思考を暴走させてしまった。けれどもだった。そういう、あまりにろくでもなく、無邪気な思考は――日なたのように柔らかな声音で遮られてしまった。
「動くなよ、なあ。すぐ、終わるからな。大丈夫だ、おれは花が好きだから、守ってやるから」
守る?
リスカはまたたいた。
風が束の間、凪いだ。
リスカをしっかりと抱きしめる男の背にせまったいくつもの青黒い影。邪悪な人影だ。
彼らはみな、手に凶器の刃をぶらさげていた。小さな目の部分だけが、凶器同様、ぎらぎらと、荒々しい獣の輝きを放っていた。その中に、たった今追い払ったはずの女もいた。ならばこの影たちは全員、男の宝を奪うためにきたのか。
唖然とし、身じろぎしようとしたがリスカの身は男の腕に束縛されたままだった。かけらもリスカを傷つけぬ、穏やかな束縛だった。
いつのまにこんなにいたのか。略奪者たちはいつのまに、近づいてきていたのか。おかしい、いくら話に集中していたからって、突如ふってわいたように、複数の人間が接近しているなんて。
黒々とした醜悪な影の向こう、雪でつくられた月が見える。透き通った、うつくしい白だった。凛然と、孤独に、闇夜を照らしていた。天の川めいた粉雪のゆらめき越しに、救いのないこの闇夜をただただ凛と見下ろすのみ。
「あれを渡せ、あれはどこだ。この化け物め」
「切り刻め。きっと奥に隠しているんだ」
「きざめ、砕け」
リスカは目を見開いた。なにかを叫ぼうとしたのにあんまり男が優しくリスカを抱きしめるものだから、胸がつぶれそうになり、声が出ない。本当に胸がつぶれそうな、そういうむごい光景が迫っているのにもかかわらず。
略奪者たちが大きく掲げる刃が月を隠し、男の背につぎつぎと振り下ろされた。どこにも容赦はなかった。ざくりと裂く音。ざくざく、とまらない。リスカは目を閉じることも忘れ、その痛烈な瞬間を全身に焼き付けた。
こんな、こんなに馬鹿なことが、許されるのか――
激しい衝動が突き上がる。けれどどうしても動けない。身のうちで確かに燃える魔力も、願いに添って発現することはない。どうしてなのか、どこまでこの魔力に裏切られるのか。理由を問うて、なぜ、答えは返ってこないのか。
リスカは歯を食いしばった。そうするしか、できなかった。これ以上の無力感と諦念が身体から溢れでないようにするには、もはや言葉のすべてを胸底に封じるしかすべがなかったのだ。
だがそのとき。
切り裂かれた男の背中から、まるで血糊が飛び散るように、漆黒の影が勢いよく噴出した。
宙に放たれた影はまるで樹木の枝のようだった。愕然として逃げることも忘れた様子の略奪者たちの身を、刃と化して貫いた。
樹枝は地を這う蛇のように略奪者たちの命をたやすく散らし、脈動して、雪の空へと広がった。リスカの視界は黒い樹枝に覆われた。ああ、と感嘆なのかそうでないのか、わからない小さな吐息がもれ、ようやくリスカは目を閉ざすことに成功した。