花下凍土:3


●●●●●
 
 静寂が満ちていた。
 リスカはゆるゆるとまぶたを開き、顔をあげた。
 気がつけば、すがるように強いちからでリスカを抱きすくめていたはずの男が消えていた。ぎらつく凶刃で男を切り刻んでいた略奪者たちの姿もまた、見当たらない。
 周囲はやはりあいかわらずの青い薄闇に彩られた雪景色が広がっているが、それでもリスカの目前に限定していえば大きな変化があった。
「――」
 リスカは立ち上がろうとして失敗し、その場にちからなく座りこんでしまった。
 目の前には息をのむほど巨大な樹木があった。天から墜落した蛇神がいくつもの尾を地に打ちつけ、激しくもがいているかのよう。その荒々しい身のうねりのいっさいを残したまま、一本の樹木に変貌してしまったのではないか。畏伏せずにはいられない猛る姿。神々しかった。そうとしかいえない厳かさがあった。樹皮という鱗におおわれた太い幹の胴に、今にも大地を震わす凄まじい脈動を見せ、嵐をおこし、大気を脅かして、ふたたび空へ駆けあがるのではないかと、一概に愚昧とは否定できぬあざやかな妄想にとらわれる。
 リスカはぎゅっと汗ばむ手を握り締めた。一瞬たりとも目をはなすことができない。なぜなら、樹木の脅威のほかにも、身を凍らせる要因があった。
 葉のかわりに、宙を貫くその枝々に積もるのは柔らかな白い雪。そして、果実のかわりにつり下がっているのは――いくつもの白骨死体!
 癒せぬほど人生に疲弊した人々が来世を夢見、一斉に首を吊って集団自殺でもはかったのかと戦慄を覚えたが、ちがう、枝先こそが意思をもって幾重にも白骨の首にからみついているのだ。だとするならば、これはまさしく木がもたらした断罪の証なのではないか。
 ごつごつとした太い幹の肌面には無数の切り痕がつけられている。だれかが刃物を用いて乱暴に幹をえぐった痕跡で間違いなかった。
 そこまで理解した途端、霧が晴れるように謎がほどけていき、リスカは腰が抜けそうになった。これはあやまたず神の木だ。遙かを生きる貴き神木なのだ。
 そうだ、この恐るべき樹木は、幹に深い傷をつけてなにかを奪い取ろうとした略奪者たちに憎悪し、沈黙をぬぐいさって、容赦なく反撃をしたのだ。略奪者の蛮行の末路が、枝につり下がる白骨死体なのだろう。
 底のない泉のようにわいて出る盗人たち。傷がひとつ増えるたび、怒りに狂い、追って、殺し回る。咎人を決して許さぬ木。
 
 ――おれの身が荒らされるばかりが定めなのか!
 
 耳の奥にこだまする悲愴な叫び。神木の声。
 あの男が、ただの人間ではないと薄々察してはいた。ゆえに、捕縛にためらった。
 永久にも似た長い歳月を生きる神木を、人が身勝手な思惑で縛するなど、ばかばかしいにもほどがある話だ。
 リスカはようやく立ち上がり、とまどいを多分に残しながらも片手をこわごわ幹に押しつけた。芯まで冷えている樹幹。物悲しさが心にわきあがる。ふと、老いた龍が傷ついてうずくまっているようでもあると感じた。
 冷たくかたい表皮を何度も撫でながら、思考をめぐらす。
 さきほどまでの出来事は、この神木が見せた過去の光景だったのか。いや、神木の領域に許可なく迷いこんだリスカを盗人と誤解し、悪夢めいた幻を見せてとり殺そうとしていたのかもしれない。だけども。
「殺さず、私を逃がしてくれたんですね」
 同じ匂いがするといっていたのはきっと、命の属性のことだろう。リスカの命運は花の蔓にまかれているからだ。これは悪魔も認めるところだった。というより、悪魔が確認してくれたのだが、いやいや、やめよう、はっきりと思い出すのは。
「でも、あんまりですよ、いくら気高き神木とはいえ、私も一応女性なので、顔貌を露骨にけなすというのは…」
 と、胸に満ちる形のない悲嘆から目をそむけるため軽口を叩いてみたが、残念なことに成功したとはいえなかった。それはこの場に満ちる静けさが途方もなく寂しく、寒々としているためであり、孤独にすぎたからだった。
 ふと思いついてふところをさぐり、治癒の花びらを取り出す。
「私、この術が一番得意なんですよ」
 うむ、しかし実際に商品として売れ行きがいいのは断然媚薬系なんですけれどね世知辛いものですよね、などとどうでもいい個人的商売情報を内心でつぶやいて、さきほどまでの愁情とはまたべつの憂いに襲われつつ、治癒の花びらをそうっと樹の肌に押し当てる。
 ふんわりと淡い光を放って消える花びら。しみこませた魔力が樹幹に溶け、そうしてゆるやかに癒しをもたらすのがわかった。
 とはいえ、樹幹には古い傷も多く、花びら一枚程度の魔力では快復というわけにはいかなかった。もう一枚使おうか、と再度ふところに手を入れたときだった。
 治癒しきれなかった幹の傷痕、その隙間のひとつから、涙のようにひとしずくこぼれるものがあった。慌てて手をさしのべる。
「これは」
 小粒の珠だった。爪のさきほどしかない大きさだ。全体はつるりとまろやかに黒く、一部分、刷毛でさっとはいたような薄黄色の筋が走っている。
 きょとんと目の位置にまで掲げ、直後、リスカは驚愕した。
「――樹涙?」
 …もしや。
 神木の樹涙?
 この宝玉にまつわるあれこれをリスカは怒濤の勢いで思い出した。不死を可能とする、奇跡を凝縮させた珠。
 まさか、みなが奪おうとしていたというのは、この――
 なんだか頭が真っ白になってしまい、あたふたした。思わず珠を幹の隙間に押し戻そうとする。王族から魔術師まで、あらゆる階層の人々が求めてやまないという幻の宝玉、のような気がひしひしとして狼狽せずにはいられない。
「あああのですね、私本当に道に迷っていただけで、あなたの宝を奪いにきたわけではないんですよ、誓って本当です、いえ決して欲しくないわけではなくて、だけどもあなた、こんなに傷だらけじゃないですか、私は誠実ではないけれど極悪人でもありません、これはお返ししますから、というか今の私にはとてもふさわしくない希少な宝で、いえまさに宝の持ち腐れ…と自分でいうのは虚しいな、とにかく! だめですだめですって、私の理性と忍耐を壊さないでください!」
 すでに自分でなにをいっているのかわからない。挙動不審である。
「その、ですので、もしいつか、本当にくださるつもりがあるのなら、私がもう少しましな人間になってから…」
 と諦めきれない本音そのものの小狡い願いを口にしてしまうリスカだった。俗物である。
「それに、私、今一番ほしいのは帰り道であったりと」
 ある意味、生死に直結する切実な望みだ。
 なんとも鈍臭いというか洒脱さからかけ離れている自分自身に遠い目をしかけたとき、ひと吹き、強い風が起こり、リスカの外套をはためかせた。
 ささめ雪が舞う。青い大気に流れる天の川。
 しゃらしゃらと、美しささえ感じてしまう繊細な音を立てて樹枝に垂れ下がっていた白骨死体が揺れ、リスカは背筋を寒くした。そうだった、聖なる神木のそばといえば普通は心も休まりそうだが、それだけではなく、たくさんの白骨に包囲されているような不気味な状態でもあるのだった。
 さらにもう一風。
 逆巻く強い風に煽られるだけ煽られ、白骨が次々と落下する。雪の地面に埋まり、ずぶずぶと沈んでいき――
「わ、うわわ」
 目を疑わずにはいられない。
 神木までもが風化するかのように、朽ちていく!
「え、え。あの、ええ?」
 朽ちていく神木の残骸……それが伸縮性のある液体のように伸び、黒い手へと変貌してリスカをつかんだ。というより抱きしめた。既視感どころではない。神木のかりそめの姿である男に抱きしめられたとき、これと酷似した漆黒の影が切り裂かれた背から噴き出ていたではないか。
『ともに、楽土に』
 葉のさざめきに似た低い声が頭に響く。むろん、神木の声に相違ない。だが、楽土とは。
 もしかしなくとも私、いや私たち、ずぶずぶと雪の中に沈んでいませんか、楽土ってまさか冥府、いえいえいえ! 私生きてますよ元気にじくじく生きていますよ、気に入ってくださったのは嬉しいですが死者の門を生きたままくぐるのは生者的にどうなんですか、とリスカは青ざめた。はからずも絶体絶命である。相手が血に飢えた悪党ではなく清らかとされる神木なだけに手出しのしようがない。拒否するほうが誤りなのか、この場合。
 いやでも楽土にちょっと興味が、生活に不自由せぬ豊かな場所であるなら住んでみたいと思わなくも、最低限衣食住は保証してくれるんですか、と頭の片隅で妙に現実的なことをちらっと考えてしまうあたり、生活苦が薄くにじんでいる気がする。
 そんな物悲しさを見かねたわけでもないだろうが――ふいに、大気が鳴動した。
 たとえるならば、結界を外から揺さぶられているような。これは言い得て妙だったらしい。神木が微苦笑する気配が雪夜に広がった。
『そうか。おまえ、帰る場所があるのだなあ。しかたがない。おまえを殺さないと言ったのはおれ。ゆけ。おれがおまえのものになってやるから』
 風が一斉に、かな切り声を上げ、大気を裂いた。その凄まじさに、リスカはこらえきれず耳を塞いだ。
『ああ寒い、寒くって仕方がない。いったいいつになったら、この寒さは――』
 
 
「リル――起きなさい、リル!」
「……んん」
「こら、起きなさい」
「うう、うーん」
「まったく、こんな場所でよく熟睡できるね。凍死したいのか」
 呆れた声が降ってくる。知っている声だ。さらりと冷たくて、美麗な声。覚醒をうながすように肩をゆすられている。
 少しだけ待ってください、すごく寒いせいか身体が動かないし、まぶたもいっかな開かない。いっそこのままにしてくれませんか。
 そうすればきっと、あたたかな場所へ行ける――楽土へと。
「リル?」
 呆れに、困惑をにじませた声。ため息。
 それから、とさりと、なにかが隣に置かれた音が聞こえた。いや、だれかが座った?
「リル、いったい――」
 声音が少し変わり、懸念を帯びた真剣なものになる。直後、まるで火のような熱いものが頬に触れ、輪郭をなぞった。指の動きみたいだった。
 次の瞬間、身体が火に包まれたようにあたたかくなった。燃え盛る火にぎゅうっと抱きしめられている。すぐさま火の熱が息苦しさを呼ぶほど身体中に流れ渡って、確かな覚醒をもたらした。リスカはやっとまぶたを開いた。
「……ジャヴ?」
「気がついたのか」
「うう、んん?」
「動くな。今の君、氷のような冷たさだ」
 間近な場所にジャヴの憂慮の顔があった。澄んだ湖面を思わせる神秘の瞳も今はどこか硬質で、一層つくりものめいている。せっかくこれだけ端正な顔をしているのだから笑みでも見せてくれたらいいのに、と勝手な願望をいだく。
「ここ、どこですか? どうしてジャヴが」
 まだ思考が正常な具合に働いていないのか、質問がいまひとつ定まらない。
「どこと言われてもね、道から外れた一画としかいいようがない場所なんだが。散策中、君の気配を感じて寄ってみたら、これだ。君って人は、死にたいのか? 凍死だなんて魔術師としてあるまじき不覚ではないか」
 え、私なんだか理不尽な理由で叱責されてませんか、そもそも魔術師としてふさわしい死に方とはいったい、とリスカは普段の調子を取り戻していろいろと反論した。胸中のみで。
「なぜこんな場所で眠りこけている」
 眠りこけているとはあんまりだ。こう見えて私も大変だったんですよ、神木と問答したり求婚まがいの告白を受けたり楽土にさそわれたりとなかなか充実した時間を…、とまで考えたとき、記憶が一気によみがえった。慌てて身じろぎしようとしたら、なにか温度を有するものが身体にまきついており、動きを封じられてしまっている。リスカはぱちぱちと忙しなくまばたきした。そういえば、ジャヴの顔がとても近いと思ったばかりだったが、どういうことなのか。
「落ち着きなさい。身体が氷のようだと言ったばかりだろう。弟子が凍死するなど師たる者の管理不足ではないか。私の美意識に反する」
 やけに渋い声で叱られた。やれやれ美意識の基準がまったくわかりませんよ、と他愛のない悪態をつこうとして、現状を正確に理解する。外套のまえを広げたジャヴの胸にすっぽり包まれながら、雪をかぶった地面に直接座りこんでいるという体勢だったのだ。
 さきほどまで火だと勘違いしていたのは、彼の体温そのものであったらしい。さらには多少の外気遮断の小結界……要するに保温の術でも使っているらしかった。ちょっぴり雛鳥気分を味わったリスカである。
 ジャヴくらいの力量を有するならば、この場にとどまってわざわざ保温の術を行使するよりも転移したほうがはやいだろうに、なぜ屋敷に戻ろうとしないのか、としごく当然な疑問がめばえた。やはりセフォーが問題なのか、それとも他になにか原因が。
「エジと言い争いでもしたとか」
 リスカの推測もとい独り言はしっかりとジャヴの耳に届いたらしい。美貌台なしと揶揄したくなるほどの見事なへの字口と眉間のしわに、あやうく笑いそうになった。どうやら言い当ててしまったらしい。ジャヴは本当に騎士のエジと相性がよくないのだろう。たがいを毒蛇か猛獣扱いしているのだ。
「あれの名を出すな。不快だ」
 とうとうあれ扱い。高確率でエジも似たような表現を用いているにちがいない。
「君、無駄な推理を組み立てて不細工に笑むよりもまず、私に多大なる感謝をしめしたらどうなのか? 凍死しかけの君をこうして親切にも発見し、救い、あたためてあげているのはだれだと思う。私の姿が見えぬのか。使えない目だね。もうずっとふさいでいなさい」
 と濃密に立腹された。厄介な人だ。
 しかも言い募っているうちに怒りも増えていったのか、実際にてのひらでリスカの両目をおおうという暴挙に出た。これはたぶんに八つ当たりもまじっていると思われた。
 奇怪な術でも仕掛けられてはたまらないと、リスカはわたわたジャヴの手をつかみ、目元からおろした。無言で威圧されたが、のんきに遊んでいる場合ではない。いったい神木はどうなったのか、それにすでに夜が到来していたはずだというのに、周囲の暗さはようやく薄闇がおとずれたばかりのように見える。地に落ちたあの白骨死体の数々もどこへ消失したのか。疑問ばかりだ。焦燥感に駆られながらリスカは周囲の様子に注意を向け、そこで硬直した。
 ちょうど背のがわに、枯れ木の残骸があったのだ。神木とは似ても似つかない死した木。雷でも直撃したのか、それとも他の自然災害にあったのか、残っているのは地面にがっちりと食らいついている根元のみで、そこから上部は引きちぎられたかのような荒い断面を見せて失われていた。むろん、根のまわりには、白骨死体のかけらも存在しない。どういうことなのか。リスカは雪霞の中、長い夢を見ていただけなのか。
 すべては、道の途中で迷い、疲れて休憩しているあいだに見た、ただの夢?
「この木…」
「どうした?――ああ、イベリーか」
 はい? とリスカは首を傾げた。ジャヴの視線をたどろうとしたが、しっかり抱きしめられているため、体勢的にそれがかなわない。身をねじろうとしてもジャヴに阻止されてしまう。
「木のそばにイベリーが咲いている。たしか君は今朝方、あの異形の一人からイベリーを受け取っていなかったか?」
 なぜそれを! とびっくりした。
「ああ、なるほど、それでイベリーを探しに散策していたのか。術に使えそうなのかね」
 と、得心し、なおかつ、術の錬成のため探索に赴くとはずいぶん勤勉なことだとひどく感心した様子のジャヴと、至近距離で視線がかちあった。リスカはおもわず速攻で視線をそらしてしまった。もはや暴風の勢いで後ろめたさが膨れ上がる。見返せない、ジャヴの目を。
「はい、そう、そうです、術です、術のため」
「リル」
「うん、術というのはなんて奥深く、終わりがないのか。いやはや」
「リル?」
「ひ」
「君はまさか」
 錯覚だと思いたいが、ジャヴの声が地に沈むほど低くなったような。
「イベリーは花酒でも有名だったな」
「ぅひっ」
「ありえないと思うが、花酒をつくりたいがためにイベリーを?」
「とっととっとんでもないそんな不真面目な思惑を勉学一筋なこの私が持つはずが! 根拠のない疑いで私を愚弄するなどひどい話では」
「君という人は、情けないにもほどがある理由で凍死しかけたというのか!」
 全面降伏した。異議はない。
 ないはずといいたいが。
 すみませんすみません出来心です、しかし花酒はとろけるくらいに美味なんですよ一度飲んだらそれはもうやみつきに、とリスカは口にしたら百万の怒りとなってなだれこんできそうな弁解を心の中で吐き出した。
「信じられぬ、心から信じられぬ…ああ、信じられ…」
「お願いですからそんな天を仰いで嘆息しないでください苦悶もやめてください虚ろな目もしないでくださいっ」
 いろいろと自覚があるため、絶望しているジャヴの胸にすがりついて必死に頼みこまずにはいられなかった。なんなのか、この、えもいわれぬ罪悪感。
「それほど貴酒を味わいたいのならば騎士殿に頼めばよかろうに。騎士といっても、無粋で不躾なあれのほうではなくフェイ殿だよ。彼なら、どんなにめずらかな酒でもすぐさま喜んで用意してくれるのではないか。たとえ君に色気や美貌や地位や財や勤勉さが皆無で、凍死も辞さぬほどに堕落した酒乱であっても。まったく恋情とは魔術より奇なるものだね。きっと千年経ってもこの奇怪さは解明できないだろう。フェイ殿も天を呪わずにはいられないだろうな。同情の念を禁じ得ない」
「私を渾身の力で蔑んでませんか!」
「らしくもなくなかなか勘がいいじゃないか、肝心なときには発揮されぬその無意味な鋭さに敬意を表して、いっさい否定はしないよ。さらに精進しなさい、酒など飲まずに」
 真っ向から睨み合ってしまった。なんて憎々しい舌鋒の魔術師なのか。悪魔と舌を交換でもしたか、呪詛でもかけられたにちがいない。
 なんですか私だってけっこうたおやかな部分もあるんですよあなたのようにひねくれ加減が優秀さを上回る魔術師からそうまで罵倒されると傷つくんですからね、とリスカは内心で切々とうったえた。しかし、大半は自業自得であると理解しているので、外に漏らすことはしなかった。
 だいたい、フェイを引き合いに出すとは卑怯ではないのか。かの騎士とは今現在、ちょっと、かなり、だいぶん、どう接していいのかわからない微妙な状態だというのに。
「あ、セフォーやツァルは今、なにをしているんだろう」
 ジャヴとエジも不仲だが、セフォーとフェイも険悪な状態に見えた。破天荒ながらも人の機微に聡いツァルが仲裁してくれるだろうから最悪の事態は招かずにすむだろうがいくばくかの懸念はやはり残る。
「君はこの私をまえにしておきながら、よくも軽々しく他者に気を向けるな。それに感謝はどうしたのだ。謝罪と反省、そして禁酒の覚悟は」
 なにか色々と増えてますよ要求多すぎませんか、特に最後の禁酒って、それはあなたから皮肉言葉を丸ごととりあげるようなものですよ無理に決まっています、とついあげつらいたくなったリスカだった。しかしこれを口にすれば、雷雨のごとき罵声が降るにちがいなかった。
「ひどいです、その、大半は私が悪いんですが、いえ、ほぼ確実に私の非であるのですが、それにしたってかわいい弟子が凍死の危機にあったんですよ、まずは優しさを惜しみなく注いでくれるのが師というもので」
 リスカは少しふてくされつつもじつに姑息な責任転嫁を試みて、この上なく居丈高な態度のジャヴの反応をうかがった。するとどうしたことか、予想外の表情を向けられてしまった。
 てっきり倍以上の皮肉か罵りとなってかえってくると覚悟していたのに、ジャヴは渋面を浮かべたあと、どう見ても拗ねているとしか思えない暗い言葉を落とした。
「…どうせ都合のいいときしか師扱いしないくせに」
 はい? なんと言われましたか、今。
「私にも真心がある。その心を差し出し、目を向けているのだとは思いもしないんだろう」
「ジャヴ」
「いいよ、べつに。君には無益な話だ」
 めずらしく鬱々としている。たいていの場合「べつに、いい」という類いの一見対話の続行を拒絶したかに思える短い台詞は、じつはまったくよくはなく、むしろここで見逃したり曖昧なまま終わらせたら相手側のしこりとなって後々、化けに化け、青ざめずにはいられないほど大変な言い争いの種に――という役にも立たない説明は脇におくとして、角度を変えてみれば、ジャヴが鬱情を隠さず見せるということは信頼による甘えなのではないか。冷淡に拒絶していない証拠にリスカを未だ抱きこんで、凍りついたこの身体に熱を分け与えてくれている。体勢についてはつきつめると気恥ずかしいものがあるのであまり深く考えないようにしていたが。
 困ったことにこの魔術師は厄介で小憎らしいばかりではなく、時々かわいげのある人なのだ。
 そして、嘘偽りなく、きらめくような純粋さで師弟というものに夢を見、固執している。
 頑固な様子で口をつぐみ、視線を落としている美麗な魔術師をまじまじと見つめた。ところが、リスカの視線に気づいているだろうに、顔を上げてくれない。
「こっちを見てください、師よ」
 一瞬ジャヴのまなざしが揺れた。
「わざとらしい。戯言などに気をよくして振り向くとでも」
 とねじくれた口を叩きつつも、白い頬はやけに寂しげだし、伏せた目は置き去りにされたこどものようだし。
「私は不具といわれる半端な術師で、あなたに魔術の操り方を教えていただいても、ただのひとつさえ活かすことはできません。花がなくては足手まとい。どんな方陣も、方式も、私の術となりえない。不出来以上に、手間のかかる面倒な術師です」
 あ、眉間のしわが濃くなった。言葉よりも雄弁なその極悪表情、なんとなくセフォーっぽいですよ。
「でもきっと、あなたは多くの術式ではなく、意地悪でひねくれていて屁理屈と不条理に武装されたあくどさ上限なしの不遜な性格……いえ、鋭利な才知と多彩な魅力で、弟子たる者を導くんでしょうね」
「なんだって?」
 本音をまぜた言葉をもって顔を上げさせることに成功したが、えらく胡乱な目を寄越されてしまった。ややともすると憎悪さえまじっていた気がする。しかし、さきほどジャヴだって散々リスカをこきおろしたのでは。うむ、人間とはふしぎなもので、自分があげつらうのはかまわないがそれを同じように他人からやりかえされると、過去の所業などどこ吹く風で本気で腹が立ってしまうらしい。
「私は今、君を凍死の危機から救ったことを心底後悔しつつあるんだが、どうしたものか。善行のはずが悪行であったらしい」
「善行です善行ですとも」
「悪と酒欲を煮詰めたら、君という魔物が生まれるのでは」
 へらず口に磨きがかかってきていませんか。そのくせまだ、あたたかな術はとかないでくれている。
 リスカは小さく笑った。
 以前ジャヴがくちにしたことがすこしだけ見えてきた気がする。人とはかけがえなく素晴らしい。心が心である限り、なにもかも、夢見ることが許される。
 でもリスカの言葉に変えるなら、人というのはきっと――多彩で巨大な謎のかたまりだ。わけもわからず、大切にしたくてたまらない。どんなに腹が立ち、面倒に感じても、ちからいっぱい抱き込まずにはいられない。その衝動には、なんという名前がつくのだろう。正しい言葉が見当たらない。リスカのなかには未だ刻まれていない未知の言葉であるためなのか。謎で、謎で、しかたがない。
 いや、これこそが『感情』そのもの?
 言葉で傷つけ、体温で溶かす。この呆れた矛盾。憎たらしいほど、うっとりする。だれもが感じる思いなのだろうか。不安になる。正しいことだと、背中を押してもらいたくなる。師のように。
 そう、道標となる師のように。
「感謝を見せるどころか、罵倒するとは何事だ。私のどこが意地悪く不遜だと」
「あなたっていう人はもう、途方もなく尊大で偏見も多くて基本怠惰でよく見れば欠点のほうが多い気がしますが、それ以上にこどもっぽくてあたたかで、自己の憎しみよりも他人を選んでしまう。本当に欠点多すぎですね。容姿に美点がすべて渡ってしまったんでしょうか、困ったことです。とても困ってしまいます」
「リル。君…、見た目に反していい度胸じゃないか」
「これほど欠点と皮肉ばかりで構築された優しい魔術師、きっと私のように不出来という以上に酒乱な弟子が全身で足手まといにならないと、先読みしすぎるあまり、足元を見ることも忘れて崖から落ちてしまう」
 ふ、とジャヴが息をとめたのがわかった。
 リスカは笑って、遠慮なしに、師の胸に寄りかかった。暖をとるためにだ。
「どうしましょう、私の護衛はこの世で最強の剣術師、そして師は、この世で最高の上位魔術師。あれ、もしかして私、不運なほどに幸運な気がします。どう思いますか、師よ」
 不具の術師だから、生涯において師など得られないと思っていた。だから知識ばかりを貪った。結果、心臓はずたずたになり、醜い小石と成り果てた。もう自分では癒すすべなどないとも思っていた。
 けれども、信じられないことに本日、冗談だったはずの他愛ない関係が確かのものとなり、きらとした火の心を持つ宝石みたいな師を手に入れてしまったようだ。――確かな現実だと、リスカが本心からそう口にしてもこの人は否定しないのだと、気づいてしまったから。
 そして遠慮せず、図々しく寄りかかって暖をとることが、当然のように許されるのだろう。また、その気安さこそを望んでくれる人なのだろう。
 醜い石さえ溶かす火。本来は悪魔の術であるはずを、人が人のものとした。人のもつ美しさに変えてしまった。きっとこうして触れなければ、いつまでも燃やし尽くすばかりの悪魔の術にすぎないと思い違いをしていただろう。
「お師匠様、寒いから、一緒に帰りましょう?」
 ささやくと、とても戸惑うように、とてもおそれるように、あたたかい腕がもう一度背中に回された。
 やはり、寒さよりもあたたかさがこころよい。
 
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 そうしてジャヴの転移術によって屋敷にやっと戻ることが叶ったのだが。
 というより、二度も転移地点を大きく間違えられ、あわや死にかけるという壮絶な恐怖を味わったあとでのことだが。術の精巧さには定評がある魔術師だというのに、どうしてなのか。師とする人をまちがったかもしれない、おそろしい。
 いやもっと恐ろしいのは、屋敷の談話室にて顔を合わせるはめになった天敵のエジに、なぜかジャヴのほうから譲歩の姿勢を見せ、晴天のごときにこやかさで会話する様子を目撃してしまったことだ。なんだろうか、この急な人当たりのよさは。
 そのときのエジの驚怖の念にまみれた表情が目に焼きついて離れない。無関係のフェイでさえおののいていた。
 リスカもまた乱れた気をしずめるため、予測通りに暖炉のまえでだらりと昼下がりの獣よろしく惰眠をむさぼっていたセフォーの髪を丁寧にとかしたりシアを撫で回したりなんだりした。セフォーはなぜだか不機嫌そうな顔でリスカを見つめたが、髪をとかしているうち気分がよくなったのか、いや、眠気に負けたのか、ふたたび陶然と目を細め、ごろごろぐだぐだと転寝に戻った。うむ、完全に飼い馴らされた獣状態である。おもしろい人だ。
 せっかく発見した貴重なイベリーを持ち帰らずにきたという事実に気がついたのはその後のことで、またぞろ酒欲が蘇り、性懲りもなくふたたび屋敷を抜け出そうと忍び足で広間に向かったときだった。
 ミゼンと遊んでいたらしいツァルにつかまってしまった。ちなみに今日のツァルは、なぜか妖艶な熟女風の姿をとっていた。なぜだ。本当に人とは謎のかたまりだと思う。
「リカルスカイ君、凍死しかけたところをあの貴石殿に発見されて助かったのだって? 君もなかなか刺激に満ちた楽しい日々を送っているね」
 いろいろと真剣に反論したいが、ここは大人の態度でかわしておこうと思ったリスカだった。
「貴石の魔術師殿、ずいぶんご機嫌な様子だけれど」
 とのツァルのふしぎそうな言葉に、ちょっと笑ってしまったリスカだった。
 じつはかくかくしかじかと説明しようとしたリスカをまえに、一人納得した面持ちでツァルがゆるく小首を傾げた。
「もしかして探し物が見つかったのかな。まさかね」
「……え?」
「私も以前、聞いたことがある噂だけれど。この地域に幻の宝玉が存在するとか。てっきりあの魔術師殿はそれが目的でこちらに来たのだと。でなければ、ほら、さすがにフェイ殿の誘いとはいえ、仇敵の騎士殿と同行してくるはずがなかろうし。しかし、宝玉のかわりに君を拾ってくるとはねえ。うん、しょせん、噂は噂か。人以上の宝はないという教訓かな、これは」
 ツァルが楽しげに笑い、リスカの額を爪の先でつんつんとつついた。リスカは口をつぐんだ。
 幻の宝玉。
 ジャヴがそれを探していたと?
 ではその途中で、寝こけていたリスカを見つけたのか。
 リスカはなんともいえない複雑な――感情を抱えながらふらふらと、あてがわれた客室に戻った。
 勢いよく寝台に倒れこみ、思考を閉ざすようにまぶたもおろした。
 そのとき、懐からなにかがこぼれ落ちたのに気づく。リスカは億劫に思いながらも上体を起こし、こぼれ落ちたものの正体を確認する。
 一枚の金貨と、小粒の黒い珠がそこにあった。
 リスカはしばらくのあいだ、それらを凝視し、逡巡する。
 雪霞。
 老樹のごとき顔をした男の声が脳裏に浮かぶ。おれがおまえのものになるから――ああ、寒い、いつになったらこの寒さは。
 葉のさざめきに似た悲嘆は、青い闇を渡るささめ雪にさらわれていく。
 リスカはひとつ吐息を落とし、迷った末、予備の花びらをつめた小瓶の中に金貨と粒を隠した。
 すべて、幽雅な雪夜が見せた幻とするために。
 
●花下凍土・END●
 
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