桃源落花:1
「弟子よ、学びの旅にいこうか。学問とは、まさに見果てぬ楽園のよう」
さあおいで。
師たる魔術師はそういって花盛りの美女すらうつむかせるほどの完璧な麗しい微笑を浮かべ、唖然とするリスカに優雅な仕草で手をさしのべた。
ちなみに、談話室でぬくぬくとだらけつつシアとともにセフォーの毛づくろい…いや、髪をいじり、ひそかに編みこみなどもして遊んでいたときだった。
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「学びの旅?」
突然の提案に、リスカはこっくり首をかしげた。仕草をまねてか、セフォーの頭に乗り小さなくちばしで編みこみの手伝いをしてくれていたシアまでもが「ぴ?」と頭を横にかたむけ、つぶらな瞳でジャヴを見つめる。
防寒に優れていそうな身幅のたっぷりとした厚手の外套に身を包んでいるジャヴが、美麗な微笑みをその顔にとどめたまま重々しくうなずいた。リスカは、誰はばかることなく堂々と惰眠を貪っているセフォーの長い髪からいったん手をはなし、ぼんやりとジャヴの姿を観察した。裾のみに濃灰の飾り毛をあしらった上品な深草色の外套。頭部をすっぽり覆っているふさふさした毛足の長い帽子とその裾はそろいであるらしい。あきらかに外出着だった。実際、どこかへ行こうと誘われている。
「これからですか?」
リスカは難色を示すいうほどではないものの、それでも従順に諾とは即答できず、おどおどとジャヴにたずねた。
なぜなら外界は一段と暗さを増し、そろそろ就寝の刻をむかえようかという頃合い。どんな旅なのかはわからないが、外出に適した時間帯ではない気がする。夜間はとくに冷えこむし、睡眠は十分とったほうがいいし、うむ。
などという小狡く消極的な気配を鋭く察したのか、ジャヴがおもむろに腕を組み、生真面目な表情を見せた。いったいなにを言うつもりだろうとリスカはひそかに身構えた。なにしろこの人は平然とあくどいことをやってのけるのだ、警戒せずにはいられない。
「リル」
「はい」
「時間とは永久そのものだ。しかし時間のなかで生きる命というのは永久ではない」
「え?」
「むろん我らは魔術師、禁忌に挑み条の鎖を踏みにじる者。厳然たれと定められし有限の法則すら、都合よく書き換えることをためらわぬ業深き外道にちがいないのだが――たとえ永遠だろうが限りあろうが、時間というのは絶対的に過ぎていくものだ。肉体の時間をとめたとしても、外界の時間は流れゆく。いや、内も外も等しく時間を凍らせようが、思考まではとめられない。この場合は逆説的に、変化のなさが思考を老いに至らしめる。ゆえに思考にはいつでも養分が必要だ。暴論だとは承知の上だけれどね、大雑把にいうと認知こそが理念の基盤であるからして、森羅に渡るあらゆる現象の明確化、言語化をはたし、まずは無階域の個の源となる軸を構築するわけだ。そして認知は常に鏡面の性質を持つ。高められた意識は初期概念を形成し、多角的変態を経たのちに新領域へとめざましい飛躍を見せる。やがて空想論理による高度な変革などの刺激により、さらなる未知階域へと細分化を――」
「は、はあ」
「たやすくいえば、日々自堕落に過ごすか、自己を磨くよう努力するかで未来は大きく変化する」
「はい…?」
「人とは究極のところ、楽をしたくてたまらない生き物だからね。先天的堕落気質は人ならではだ」
「ええと、はあ」
「つまり未来において怠惰に、享楽的に遊び暮らしたいのであれば、今、脇目もふらずに励み、礎となるものを手っ取り早く確実に築けという意味だよ」
「は」
突然の提案後の、唐突な論説に、リスカは目を丸くした。なんの話だろうか。
まともな反応を返せずひとえにぽかんとしていたら、なにやら照れ隠しなのだろうか、ジャヴが帽子を脱いでぐいぐいとリスカの頭にかぶせてきた。しかも日中着ていて片付けるのを忘れたままそこらに放置していたリスカの外套までめざとく発見し、強引におしつけてくる。
「ほら、だらけていないで行くよ。私はきちんと弟子を育てるつもりだから」
うむ、その一言で理解した。ご機嫌なのをひた隠しにしているらしい美貌の魔術師様は、なんやかんやと意味深そうな説を披露しつつも要するに、どうやら初めてもった不出来な弟子を教育したくてしたくてたまらないらしい。たとえるならば、初孫をもった祖父。かまいたくてしかたない、なんでも与えてやりたい、という図だ。
本当に祖父であるならじつに微笑ましい話だが、無念なことに相手はいろいろと凶悪な前科をもつ師なのである。転移地点を間違えたりとかなんとか。笑みがこぼれるよりもまず警戒心なり危機感なりを抱いてしまうのはリスカのせいばかりではないだろう。
「立ちなさい、はやく」
渋い顔でせかされ、リスカはきょときょととまばたきした。ええと、理解はしたが、いったいどこへ連行されるのか。ちょっと恐ろしさを感じなくもないが、いやいやこの人は一応リスカの師となった人なわけで、だとすればいくらなんでもかわいい初弟子をそう危険な場所へ追いこんでいたぶるはずが――と楽観的に考えようとしたところで、冷や汗が一筋、背中をつたった。そういえばジャヴは術を学び始めの頃、ずいぶん過激で奇天烈な教育を師であるシエル殿から受けていたような気が。確か、緋眼を開かせるために魔物の出没区域で数ヶ月の野宿を強行した、とか。まさか。
だらだらぼたぼたひたひたひたと冷や汗の流れる速度が一気に増した。
「あああの素敵に慈愛深い我が師よ、胸にしみる、しみすぎるご配慮はとてもありがたいのですが、今日の私はゆっくりたっぷり睡眠を取った後、シアとそこらを散歩し、花酒つくりにもひそかに勤しみ、なおかつツァルたちと戯れるという勇猛な使命が」
妄想を膨らませすぎた結果、全力でおそれおののき、つい余計な発言をしてしまうリスカだった。
「君の言い訳こそが勇猛だよ。いいからさっさとこちらへ来なさい」
しびれをきらしたらしきジャヴが、怖じ気づくリスカの腕をつかみ、むりくり身を起こさせた。気分は陸揚げされた魚である。ああ焼かれたらどうしよう私のように繊細な者なんてすぐ焦げちゃいますよあんまり急かすと、などとらちもないことを考え、幸福だったすばらしき堕落時間に濃厚な未練を残しながらもそっと別れを告げるリスカだった。
「ほら、歩きなさい」
「ひ」
「ぴ」
それまでなりゆきを見守っていたシアまでもが慌ただしく飛び上がり、リスカの髪に着地した。どうやらついてきてくれるらしい。友情とはいいものだ。
しかたない、今日のところは愛すべき師のために言うことをきいてあげよう、私ってよくできた弟子ですよねまったく、と内心得意ぶりつつ表面上はおとなしくジャヴに追随しようとしたときだった。
「――ならぬ」
低く、抑揚なく、じつに短い片言が耳に届いた。たった一言だというのに周囲を震撼させ暗黒の底に突き落とすこの驚異的威圧感、もはや神業、比肩も比類も許さない。切れ味はまさに絶望を呼ぶ死神の鎌と匹敵するだろう。実際、死神閣下様だ。うむ、恐怖のたとえがまったくたとえになっていない。むしろ軽く超えそうでおそろしい。
ジャヴに続いて談話室を辞去しようとしていたリスカとシアは、首をすくめつつ戦々恐々とふりむいた。
今まで膝掛けやら毛布やらの山に埋もれて静かに転寝していたはずのセフォーがのっそりと、緩慢ながらもどこか獰猛さがにじむ獣じみた仕草で上体を起こし、髪とおなじく上等な銀の目をリスカに注いだ。寝起きのため、いつも以上に凶悪さがおびただしいが、さきほどリスカが髪をこまかく編みこんだりしていたので、少しばかり怪しい雰囲気である。
「セフォー?」
「だめです」
セフォーがちらりとジャヴに氷の視線を投げたあと、リスカにふたたび短く告げた。端的言葉を解読すると、これはもしかしなくとも「ジャヴと一緒に修業に行くなど許しません」というお叱りの意味なのだろう。
するとジャヴが、さりげなくリスカを盾にして身の安全をはかりつつも作為がすぎるほどに友好的な声を発した。
「君にひきとめる権利が? 私は彼女の師であり、彼女は私の弟子となった。嘘だと思うのならきいてみるがいい。君の主人たるリルに」
リスカでさえ気づいた、その台詞ににじむ優越感と――隠された深い憎悪に。
意外にも勘の鋭いセフォーが察せぬはずがない。ぞっとするリスカのまえで、思ったとおりにセフォーが寝起きの倦怠感を拭い去り、冷徹どころではない非情のまなざしをジャヴにさだめた。
「リスカさん」
「うぐ」
たったしかにはい、この悪辣な魔術師は私の師となってくださったようですが、だからといってセフォーに逆らうつもりなどつゆほどもありません、と胸中で力強く弁解するリスカだった。ただし本当に声にした場合、ジャヴの命はないだろう。
そもそもジャヴは、リスカならばセフォーの暴走をとめられると高をくくっているからこそ、あのように無防備すぎると叱りたくなるくらいの挑発的な台詞を口にしたのだ。もしかすると…あまりいい考えではないが、ジャヴがだれよりもリスカを弟子とすることにこだわったのは、セフォーをどんな形でもいいから打ちのめし、一矢報いたいと復讐の念を抱いたためかもしれなかった。もちろん、それが最大の目的ではないとわかっているけれども。
リスカは逆に、償いの意味もあってジャヴを認める形となったのだが、決してセフォーを無闇に制し苦しめたいわけではなかった。
会う人会う人、リスカを鈍いと酷評するが、そこはかとなくではあってもいくらか理解しているつもりだ。セフォーがずいぶんとリスカを気にとめ、ありえない許容を見せてくれていると。当人の口から直接、リスカのためにいろいろ我慢している、と打ち明けられてもいる。
とても参った展開になった。今のリスカには、比重のちがいは無意識のなかでやはりあるのだろうが、どちらかだけを全面的に支持することができない。ジャヴについては不名誉な塔時代から心にとめていた憧憬対象であり、セフォーは――リスカにとって最大かつ最高級の謎である人だった。
第一、二人ともリスカの日常生活に肉薄しすぎている。また、過去の事件がリスカたちに幾重にも絡みつき、切り捨てることができない。
ゆえにどういう形であれ三人ともが顔を合わさずにはいられないだろうし、またそうせねば、もしかするとセフォーが忍耐を捨ててジャヴを手にかけるかもしれない危険があった。セフォーがすすんで凶事を引き起こすのではなく、こんなふうに、ジャヴがふいに負の感情を投げつけたときが契機となる。リスカがそばにいて歯止めとなるしか、今は方法がない。
そうか、ジャヴもまた重すぎるほどの我慢を強いられているのだった。あの毒薬事件はもともとセフォーやリスカが発端となったのではなくどちらかといえば巻き込まれた側なのだが、それでもシエルの死はジャヴの心に深く突き刺さっており、抜こうとすればまた新たに血が流れてしまう。
「師? おまえが?」
リスカの当惑を、ジャヴの放った言葉の肯定と受け止めたセフォーが、はっきり険しい目をしてつぶやいた。すっすみません髪の先まで灰になりそうな重圧感ですよ崩れ落ちそうですよ私! とリスカは本気で震えた。
「そう。君には無理なことだ」
ジャヴが薄く笑う。冗談ではなくセフォーを挑発するのは本当にやめてください、あなたまで殺されたらいかな私でも冷静ではいられない、とリスカは震えに震えた。
「リスカ」
「はっ、はい!」
刃物そのものの声音で呼ばれ、飛び上がるリスカだった。
「ないでしょう」
「は」
「くだらない」
「ひ」
「いいかげんに」
「ふ」
片膝を立てて座り直し傲然とリスカをみやるセフォーの片言を、必死に頭のなかで解読した。たぶん、「私よりも弱い師なんて必要ないでしょうに。そんなくだらないことに時間をかけるつもりなのか。いいかげんにしなさい。これ以上面倒臭い会話を続けるならすべて叩ききりますよ」といったところではないだろうか。確認はとてもできないが、あながち外れてはいないだろう。
そしてどうやら、ジャヴまでもがセフォーの端的言葉をおおよそ解読したらしかった。突然、小さく笑ったのだ。
すみませんすみません私がいくらでも平伏して誠心誠意謝罪しますから今回だけはこの無礼千万なジャヴのふるまいを見逃してくれませんか、と必死に哀願の目をむけるリスカだった。いつジャヴの首が飛んでもおかしくない。
「君は変わらないな。リスカをただ力で守ればいいとしか考えていない」
「ジャヴ!」
この人はもう、なんてむこうみずな!
暴言しか繰り出さぬ厄介な口を縫いつけてしまおうかと怒りを覚えつつ振り向いたときだった。ジャヴがとどめのような嘲りの言葉を発した。
「守ることなど、君にできようはずもないのに。無責任な」
「――」
「セフォー!」
とっさのリスカの判断は、まちがいなく正解だったと思う。つまり、ジャヴが言い終わるまえに、身を起こしたセフォーに飛びついたのだ。
わずかに視線を落とし、全身に鳥肌がたった。怒りに満ちてこわばったセフォーの腕の先には、骨さえ綿のように軽く斬ってしまう殺戮剣。リスカがぶつかるようにしてとめなければ、本当にジャヴに致命的な一撃を与えていただろう。
以前にもこうしてセフォーをとめ、ジャヴを救ったことがある。どうしてジャヴは懲りないのか。
「どきなさい、リスカ」
「だめです、こっちを見て。私を見てください」
しがみつきながら懸命に見上げ、うったえてもみたが、セフォーの険悪なまなざしはジャヴをとらえたまま離れない。いけない、これは。リスカがわずかでもためらいを見せた瞬間、ジャヴを嬉々と殺すだろう。
「だれより君は強い。だからたやすく、力で守れば安泰だと考える。ところが、その強さに、まわりがつり合わない。君はその不均衡さえも力で覆せると考えているようだが、それはまったく愚策きわまりない。弱さとはなにか。知ろうともせぬのだからしかたがない。君がどんなに強く、徹底した守護をかためようと、弱きものは不意に死ぬのだ。あらゆる条件下で」
ジャヴが声音を変え、ゆるく囁くように告げる。思わず聞き入ったのはリスカだけでなかったようだ。剣を手放しはしないが、セフォーの気配がどこか怪訝そうにうかがうものへと変わっている。
「だからこそ、リルは学ぶべきだ。君が学ぼうとせぬなら、リルが学ぶしかない。つりあわない強さについてを。言っておくが、その対処法は君のためなどではないよ。まったくもってリルの命を守るものだ。君の油断と浅慮が、リルをいずれ追いつめるから」
声音はまた変わり、厳しく糾弾するものになった。だけども――
ふっとセフォーの身体からちからが抜けた。ジャヴの声に気を取られていたリスカが慌ててもう一度見上げると、そこには、思わぬ表情があった。セフォーがびっくりしたような顔でリスカを凝視していたのだ。
「私が守るのに」
セフォーがぽつりとつぶやき、その後、唇をきつく引き結んだ。少し、混乱しているように見えた。
「セフォー」
「私が守るのに?」
同じ言葉を、今度は動揺めいた感情をにじませながらセフォーが発した。
「わ、わわ」
ふいにぐっと、セフォーの両腕がリスカの背に回った。抱きしめるというより抱きつく、もっといえば縋りついているような腕の強さでリスカをとらえる。爪先が地からわずかに浮いてしまい、胸も圧迫される形となって、かなり息苦しい。
「稚いことだ。腕のなかに囲っていればすむとでも? ものいわぬ人形相手ならばそれでいいだろうけれどね」
皮肉なジャヴの言葉に、セフォーが少し眉をひそめた。
「見ているがいい、君の強さではリルを守れぬ」
「ジャヴ!」
彼の身の危険よりも今はセフォーの混乱をふせぐため、リスカは制止の声を上げた。すると、それすら嫌がるようにセフォーが深く抱きこもうとする。セフォー、こんなときになんとも間抜けなのですが、あんまり腕にちからを入れられると私の胴体がくびれそうなんですが、とつい頭の片隅で考えてしまうリスカだった。
「リスカさん」
「はい」
最近の閣下様は、だんだんと他者の声に耳を傾けるようになってきている。そしてその言葉が正しい忠告であるのか、ただの戯言や根拠のない悪言にすぎないのか、吟味しようと苦心している。すぐに殺意が湧……ではなく癇癪をおこしてしまうのは、他者を受け入れる行為にほとんど慣れていないためだ。悩んでも悩んでもうまく咀嚼できないから苛立ちがとまらず、思考を混乱の中に落としてしまう。
「だめなのですか?」
あ、閣下様がもしかすると、不安そう、に見える。
急に頭を撫でたくなった。
「これは私が我慢すべきことなのですか?」
嫌、という心の声をせいいっぱい態度と雰囲気で伝えながらも、リスカの声を聞こうとしている。
痛みとは異なる、胸がきゅうっとすくむような衝動が生まれた。今のセフォーの表情を見逃してはいけない、いつまでも忘れてはいけないと思った。人が、人として立ち上がる瞬間を目にしていると、そう感じたからだ。
「私が守るとこれだけ言っているのに、信じないのですか」
ちがう、セフォー。
星屑を閉じこめた美しい目で、セフォーがリスカを見つめ返す。ゆらゆら、不安そうに瞬く星屑。
ちがうんですよセフォー、信じているんです、疑ってはいないんです。ただ私が、あなたに近づきたいだけなんです。つり合わないのは百も承知、その峻烈たるちからに並び立ちたいなどというのはおこがましいことだ、けれど手を伸ばしたい。そうしたら、きっとなにかに近づける。言葉よりも先に、触れた指が大きな感覚を目覚めさせてくれるだろう。そう思いませんか。私はいつからか、そう思うようになってしまったんです。だってそれは、セフォーが教えてくれたことなんだと思うんです。
リスカはもぞもぞ身じろぎし、おそるおそるセフォーの背に手を回す。手始めとして、あなたのちからで引き寄せられるのではなく、自分から歩み、踵をあげて、その目を、激烈だけどもきれいな目を、近くで見てみたいのだ。
だから学びたい。自分のちからで駆け寄り、強き人に振り向いてもらうために。
「リスカ」
とても、真剣に嫌だと伝える目だ。その豊かになった心の動きを、ずっと見ていたいと思う。腕のなかに囲まれているときは、なにひとつ恐ろしいものなどないから。だけども、恐ろしいことも知らねばならない、知らぬふりなんてできない。
「…すぐに戻ってきますからね」
「リスカ!」
裏切られた、という目をされた。ちがう、ちがうんですよセフォー。
「あなたは私に殺されたいのですか」
「ぅひ」
セフォー、そんな強硬手段的脅迫をされても私は、ええ、もちろん凛々しくきっぱりと即座に無条件降伏を……ではなく、だめだめ、ジャヴが言っていたように今この瞬間、努力をしなければ。だれより強いセフォーのそばで生きるために――そうとも、あの高貴なる悪魔の問題も残っている。生涯再会することはないかもしれないし、数刻後に対面する可能性だって否定できない。なにせどういった推測も及ばぬ存在なのだから。せめて新たな術のひとつでも覚え、万が一の事態が到来したときにはきちんと自己防衛が可能となるよう切磋琢磨すべきだろう。
「リスカ」
リスカが引かないことを知って、セフォーはぎゅっと眉間を寄せた。今度は視線による脅迫。そそそんな顔をささされてもいいいけませんよ、とリスカは内心がくがくと半壊しつつも意志を貫こうとがんばった。
というよりセフォー、なんだか妙なほど大げさにとらえていますが、しかも私までだんだん深刻さにつられてしまってますが、実際はただジャヴとどこかへ出掛けるだけでべつに失踪するわけでも戦地へ赴くわけでもないのですが。……そ、そうですよね、師よ?
いささか不安を覚えつつもリスカは「すぐに戻りますから、待っていてくださいね」と気弱な笑みを作り、セフォーに告げた。
微妙にしゅんとしたかに見えたセフォーが腕の力をゆるめる。あ、一緒についていこうかな、と今思いましたねセフォー。
未だ混乱の最中にあるらしいセフォーの背を、ゆっくりと撫でた。こわばりがとれるまで、繰り返す。
セフォーが諦めたように小さく吐息を落とし、その後、すばらしく意固地になった凶悪な目をしてリスカを睨んだ。ひ!
「もう知りません。行けばいいでしょう」
つんっと顔を背けられ、なおかつ押しのけるように手を離された。
「あの、本当にすぐ帰ってくるんですが」
「知りません」
「セフォー」
「勝手にすればいいんです」
なんだろうか、仕事の都合で長期間家を離れることになった旦那を責める妻の図、みたいな錯覚を抱いてしまったが、うむ、気のせいだろう。
セフォーが完璧に機嫌を損ね、わかりやすい乱暴な動作で毛布の山に戻り、ふて寝した。
困ってしまったリスカだが、一応はこの状態、リスカの外出を認め、なおかつ暴言を吐きまくった生意気なジャヴを許してくれたと判断していいのだろう。セフォー、大人の階段を着実に登りはじめているんだなあとしんみり感嘆しつつもなぜか一方ではうら寂しい感情をいだいてしまう複雑なリスカだった。
「ぴぴ」
最初は同行の姿勢を見せていたシアが、心ゆくまでいじけ中のセフォーを慰めるためか、いやいや八つ当たりと称して屋敷の人々を皆殺しにせぬよう見張るためか、リスカの髪をちくちく引っ張って合図をしたあと、銀色の毛がはみだしている毛布の山へと飛んでいった。
ちょっと逡巡したあと、なぜかもう一度セフォーに触れたくなり小山へ近づこうとしたリスカの腕を、ジャヴがとめた。
セフォーの気分が変わることをおそれているのか、すぐさま転移の術がつむがれる。
リスカは視界が一変するまで、じっと小山を見つめた。ぴぴぴ、と頼もしく鳴くシアの声が、長く耳に残った。