桃源落花:2


●●●●●
 
「ここは」
 転移の到着地点にて、周囲の景色を確認したリスカは、一言つぶやいたあと茫然と立ち尽くした。
 見晴らしのいい場所ではなく、どこか堅牢な建物の内部だと察しがつく。問題は、いったいなんの建物なのかだ。その謎はすぐに解明された。
 遙かな昔、王都に設立された法王公認の術師養成所――ツァルとともに夜逃げ同然にして飛び出し決別した、炎に彩られた暗い過去が眠る重力の塔。まさに重き力の集結する場だった。
 国を動かし未来を操るすべを知る、異能を有した特殊な者が住まう砦。
 リア皇国に籍をおく魔術師たちの、随一と謳われる学びの場だ。
 
●●●●●
 
「ジャヴ、ここ」
 リスカはかすれた声を上げ、無意識にジャヴの袖をきつく握りしめた。なにかにすがらねばとても自分の身を支えられず、情けなくも腰を抜かしてへたりこんでしまいそうだったのだ。
 もはや言葉がでない。まばたきすら自由にならない。
 リスカたちが現在立っているところは手狭感を抱かせる黒石造りの通路の途中だ。時間帯が時間帯なために照明のたぐいはすべて落とされ、大気は冷たく、よそよそしく、ひたすら侵入者を拒絶する重い沈黙が満ち満ちている。古代文字や演算記号を記した右手側の壁には大きくくりぬかれた楕円型の大窓がずらりと並んでおり、そこからさしこむ青白い月光の束と明滅する星の輝きがなければ、おそらく足元さえまともに見ることはかなわなかっただろうと思われる。そして、通路の石面にものものしく等間隔で刻まれた塔の紋章もまた、見ずにすんだはずだった。
 今のリスカが最も足を向けたくない、ある意味において禁域にも等しい場所がこの塔だ。衝撃的すぎて、仮病でもなんでもなく急激に気分が悪くなり、目もくらんで意識が遠退きかけた。まったく想像だにしなかった場所だったのだ。
 心臓の動きはいつ破裂してもふしぎはないほど激しく、炎のように熱い汗が全身から噴き出る。あえぐようにして大きく息を吐き出さないと、瞬時に身体が燃え尽きてしまいかねないほどに不愉快な熱が腹の奥でとぐろを巻いていた。
「暗いが、あまり明るくしてはいけないからね」
 リスカの異変にまだ気づいていないらしく、ジャヴが窓の外をうかがいながらささやき、自らの指にはめていた指輪のひとつを外してふっと息を吹きかけた。するとそこに小さな淡い紫色の火が生まれる。火はすぐさま、燃える羽虫へと変化し、かすかなはばたきの音を立てて中空に浮いた。通路の奥に広がる濃厚な闇のすべてまで払うほど強い輝きではないが、歩くだけならじゅうぶんな明度だといえる。
「ジャヴ」
「あまり大きな声を立てないように。いまや私も不法侵入の身だ」
 少し陰鬱な、しかし心の大半を押し隠した平淡な声音でジャヴが言い、苦笑した。羽虫が薄い煙をたなびかせてリスカたちの周囲を回り、そのたびに、互いの姿を順番に闇の中へ隠した。真実と嘘の顔が星の明滅のように浮かんでは消えている、リスカはそう錯覚した。腹の奥の熱がふたたび蠢いた。
 予期せず舞い降りたしばしの沈黙が、耳鳴りに化けて頭の中を掻きまわし、理性を無尽に踏み荒らす。耳鳴りは秋に鳴く虫の凄まじい音に変化し、やがて恐怖という醜い卵を全身にすきまなく産みつけた。充溢する恐怖。足元から寒気が這い上がった。
「おいで」
 歩き出そうとしたジャヴを、リスカは袖をつかんだままの手でひきとめた。いや、制止を願ったのではなく、ただ身体がいっさい動かなかったために自然と引き止める形になったのだ。
「リル?」
 ジャヴが振り向き、怪訝な顔でリスカを見下ろした。羽虫がふわりとリスカの肩にとまった。その白い輝きが、不意に自分をいつも励まし慰めてくれる稚いシアと重なり、そこでようやく息をすることを思い出した。せき止められていた感情が嵩を増して激しい奔流となり、リスカを負に覆われた余裕のない行動へと走らせる。
「どうした? 転移の影響がまだ去らないのか」
 気遣いを含んで顎に触れる指を、リスカは叩き落とすように払った。
「嫌です」
「リル」
「こんな場所」
 吐き捨てる声が、闇を震わせるほど鋭い。ジャヴが一瞬驚きを浮かべたが、間をおかず、顔をしかめて目尻に厳しいものをのぞかせた。
「こら」
「帰ります」
「どうやって帰るんだ。君一人では転移がかなわぬだろうに」
「それなら歩いてでも帰ります」
「ここはまがりなりにも魔術師の塔だ。三重の守護結界がはられているんだよ。私は不規則に移動するその結界の穴をぬって転移をはたした。だが、なんのそなえもなく徒歩で門など通過してごらん、すぐさま夜勤の術師が――リル?」
「ここにいたくありません。嫌です、私は帰りたいです」
 リスカは猛烈に、それこそ盲目的というほどまでに強く後悔した。こんな人を師だなどと思うのではなかった。余計な欲をかかずセフォーの言葉に従い、あのまま談話室に残っていれば、これほど心が過去の茨の中に落ちていくような酷い思いを味わわずにすんだだろうに。
「君がなにを嫌悪しているのかはおおよそわかるが、私だとてここは長居をしたい場所ではとてもない」
「だったらなぜ」
「図書室に行きたいだけだ。探したい本がある。それが見つかればすぐにこの場から離れる」
「私は行きません」
「わがままをいうものではない」
 頑是無いとでも思い、呆れたのか、ジャヴが不機嫌な顔を見せ、億劫そうにため息を落とした。リスカはその瞬間、頭に血が上った。
「なにがわかると? あなたにわかるはずがない、なにもわかるはずがない。ここで亡霊だった私のなにが」
「リル、静かに!」
「いやです、帰ります。よりによってこの塔に私を連れてくるなんて」
「わかった、わかったから、声を静めなさい」
 なにかからかばうような仕草で腕を強く引っ張られたが、襲いくる過去の光景と妄念に目をくらまされているリスカにはその意味がとっさにはわからず、ただただ堪えがたい拒絶の念に突き動かされるまま乱暴に振り払ってしまった。
「あなたなどやはり私の師ではない、師など!」
「リル!」
 とまらねば、冷静にならなければ。そう理解していてもやはり嫌悪と恐怖はいっかなおさえられず、思考にも狂気が滑りこんでくる。魔術師は平静を保つために心に枷を持つが、不具の魔力しか宿さない自分にはやはりなんの効果もないのだ。
 せめて一言、まえもってこの塔に出向くつもりだと報せてくれたなら幾分かは覚悟も決められただろうし、恐慌状態に陥ってあるまじき醜態をさらさずにもすんだだろう。不意打ちの訪問であったから、いけない。
 現実の塔を目にした瞬間に受けた衝撃はすさまじく、ひたすら圧倒されて愕然とするよりなかった。もう過去を乗り越えられたかもしれないと安易に考えていたため、二重の苦悩を背負うはめになった。
「こんなことって」
 リスカは何度もジャヴの腕を払いのけた。なんて浅薄だったのか。自分の中で、過去は過去にしかすぎないと、そのように未だ解決できていなかった事実が醜悪なまでに浮き彫りとなったのだ。浮ついた自信など薄っぺらな空箱と変わらず、簡単に握り潰せてしまう程度のものだったのに。根拠も意味もなく得意になり、強くなった気でいた。周囲の人々が強いから、傲慢にも錯覚してしまった。
 ふたたび囚われるのか、ふたたび亡霊の面をつけて一人もがくのかと、胸の中で黒い怒声がうずをまいている。
 この不意打ちの訪問は、苦痛も闇も見てみぬふりをすることに慣れきってしまっていた脆弱ながらも狡猾なリスカにとって、地獄に突き落とすに等しい行為だったのだ。
「いやです、嫌いです!」
 叫んだときだった。
 かつかつと、言い争うリスカとジャヴのものとはべつの、まったくの第三者が急ぎでこちらに駆け寄ってくる足音が聞こえた。声の他はなく、しんと静まり返っていたからこそ、近づくその足音が通路に反響し高く響く。そしてその足音の主にも、リスカの叫びは確実に届いたのだろう。
 リスカはさすがに我に返り、表情をかたくした。今、自分はなんていう愚挙に出てしまっていたのか。
「来なさい」
 ジャヴが一言、低く告げ、今度こそ問答無用という強引な動作でリスカを催促した。自分の愚行を知り、悄然としつつも、もつれそうな足を懸命に動かして忍びこんだ先は、ジャヴが当初の目的としていたらしき図書室だ。入室してすぐの広い空間は談話室も兼ねた、魔術師の卵たちでも許可なく閲覧が可能な第一図書室とされている。ここは術関連のものではなくおよそ一般書に近い娯楽的書物が大半を占めていた。
 古き歴史の名残であるような、色褪せた書物と埃の乾いた匂い。突き放した感を滲ませながらもどこか懐かしく、置き捨てたはずの故郷の景色をたぐりよせるような不可思議な空気があった。
 室内は書物保護のため、常時、少し肌寒いと感じるくらいの温度に保たれており、ここで長時間を過ごすときには膝掛けなどが必須だった。そういう他愛ない記憶がよみがえり、また、図書室独特の古びた埃の匂いにも胸をゆさぶられ、リスカは息がつまりそうになった。それは確かに哀愁であり柔らかな追懐だった。暗澹たる感情を呼び起こす不実な記憶ばかりではなく、ほろ苦くもあたたかな――罪のない過去だとて当然ながらあったのだと、不意に理解したのだった。
 腑抜け状態になったリスカを導きながらジャヴが、いわば入門書など初歩的な訓などをおさめた書物が並ぶ第二図書室への入り口へ近づいた。背よりはるかに高い書棚のわきに設けられた、扉のない通り口である。そこを抜けて第二図書室へ逃げ込むのかとぼんやり思ったが、なぜかジャヴはリスカを書棚の隅にできた狭い空間に押しこんだ。そういえば昔はこの場所に、人を模したのだか魔物を模したのだかよくわからない奇怪な造形の置物があったな、と無意味なことを思い出した。奇怪すぎて不評だったから、リスカが塔を去ったあとにでも撤去されたのか。……などと、そんなことは今どうでもよろしかった。
「ジャヴ」
 小声で名を呼び、行動の意図をたずねたら、し、といさめる目を向けられた。蛇足だが、宙を飛んでいた灯りの羽虫は光を最小限にまで弱めてジャヴの肩にひっそりとどまっていた。
 ジャヴが冷静な目を、通路へと続く第一図書室の扉へ向けた。リスカもつられて、そちらへ視線を向ける。
 残念なことに、さきほど聞こえた第三者の足音はこちらへ正しく向かってきていた。ごまかすことはできなかったらしい。ジャヴが言っていた夜勤の術師とやらなのだろうが、もしこんな場面を発見されたら大変なことになる。塔出身の魔術師とはいえ、いまやリスカたちは完全に部外者で、なおかつ不法侵入中だ。一般向けに開放されている警備のゆるい公共施設に潜りこんだのとはわけがちがう。機密をも含んだ、未来の異才たちを守る学問所。言葉による厳重注意のみでむろんすむはずがなく、へたをすれば長い年月、投獄の憂き目にあう。
 ならばこんな狭い空間に二人して隠れるよりも、べつの安全な場所へ移動するか転移をするかして逃げたほうがいいにきまっていた。
 あ、とリスカはすばやく考え直した。軽々しく転移はできないのか。今し方ジャヴが守護結界の穴を狙って転移をしたと説明していたのだ。となると。
 絶体絶命ですかしかも全面的に騒ぎ立てた私が原因、とリスカは返す返すも自分の失態、そして弱々しい精神と愚かさを悔いたり恨んだりし、ひっそり涙目になった。
 こうなったら自分が囮となり、せめてジャヴだけでも逃がしたほうがのちの後悔が少なくてすむ。事態の責任を取るべくそう悲壮な決意を抱き、ジャヴの外套を軽く引いたら、なぜかさらにずずっと狭い空間の奥に押しこめられ、しまいには背中が壁にくっついた。もう動けない。
 リスカは目を点にした。あの…、これで本当に逃げ道がなくなったんですけれども。
「ジャヴ?」
「し」
「いえ、でも」
「しー」
「え、ええ?」
 さきほどまでの妄執の影をしずめて普段通りに挙動不審な態度をとるリスカを見、ジャヴがふと肩から力を抜いたようだった。表情が安堵をたたえたのを知る。リスカは唐突に、なにかを言うべきだと焦った。だが実行するより先に、ジャヴの声が耳をくすぐった。
「――じつは、一度でいいからこういう普通の学徒たちのような真似事をしてみたくてね。昔、友人たちから自慢された時は興味のない顔をしたが、本音では少し羨んだものだ」
「……はい?」
 リスカがますます目を丸くしたら、くくっと悪の笑いを見せられた。さきほどまでとはまったくべつの嫌な汗が一気に流れる。なんだろうか、今の笑い。全力で謝罪したい気持ちになったが。
 しかしこの、壁にまで押しこめたリスカを抱えるようにして近距離から見下ろすという体勢、誤解やら自意識過剰やら錯覚やらでなければあれだ、昼夜問わず学徒時代に塔の至るところで目撃した若い恋人たちの、ある意味定番王道かつ決して外せぬ青春の一幕なのだろうあやしげな逢い引き場面、とかなんとか……なっなんですってそんなまさか、投獄か否かの瀬戸際という極めて危機的状況にそんなまさか、いやでも暴露しますと昔のリスカも少し羨望を……ではなく、ジャヴ、遊んでないで逃げましょう!
 必死に「逃げよう」と合図する哀れなリスカを、ものすごく意地の悪い顔でジャヴが見つめている。
 ともたもたしているあいだに、夜勤術師らしき者が第一図書室に到着してしまい、室内を探る気配を感じた。手にしているのだろう手燭のあかりがゆらゆらと床に映っているのがジャヴの背越しに見える。もうだめだ、見つからないはずがない。一巻の終わりである。
 そう観念し、罪人として裁かれ自分の手足に縄がつけられるという絶望的な姿をえらく具体的に想像した時、ジャヴが片腕をリスカの顔のわきについた。ぎょっとしたが、それが第三者からリスカの顔を隠すためであることに気がついた。
「――だれだ、そこでなにをしている!」
 灯りが迫った。すぐに厳しい誰何の声が上がり、耳にざくっと突き刺さる。リスカは反射的に身をすくめた。顔の脇に置かれたジャヴの腕は、リスカからも第三者の姿を隠してしまっているためになにも様子をうかがえず、やきもきせずにはいられない。
 ジャヴがわずかに顔を後方へ傾けた。ただし、相手からはっきりとは見えぬ角度を計算してだ。
「だれとは、恐れ入る」
 笑い含みの、作った低い声に焦りはなく、冷や汗が増しそうな艶やかさと楽しげな響きがあった。なんですかその余裕。
「なんだと? おい、なにをしている、おまえ――」
「気がきかない。この状況で、他の何をしているように見える?」
 などと遠回しに淫らな発言をして楽しんでますがジャヴ、実際に他のなにかを目的としてきたんですよね私たち、とリスカは胸中でひそかに反論した。
 しかし、事情のしらない夜勤術師は素直にというか、おおいにうんざりとしながらもジャヴの言葉を信じたようだった。
 繰り返しいうのもなんだか虚しいが、塔に在籍していた若かりし頃、昼夜問わず至る場所で、情熱をおさえきれない学徒たちのこういった秘密の逢い引きを目撃したことがある。察するに、今も変わらない光景が頻繁に繰り広げられているのだろう。うむ、歴史は繰り返す、とはよくいったものだ。名文である。
 警備の厳重な塔内部に部外者が犯罪目的で侵入をはたしているのかとうがってみるより、またしても不真面目な術師たちが欲望のおもむくまま遊び耽っていると判断して当然なのだった。ありがちだからこそ、疑わないのだ。
「すでに就寝の刻を回っている。なのにずいぶん悪びれぬものだ」
 不快感をたっぷり含んだ術師の言葉に、つい同意しそうになったリスカだった。ええまったく、私も昔、目撃したときは、互いしか目に入らぬ恋人たちの大胆熱烈な様子を本当に羨やみ妬みを抱……、……、目の覆いたくなる風紀の乱れように、大変憤慨したものです。けしからぬ。
「見逃せ」
 と、えらく高圧的にジャヴが言い放った。態度が大きすぎますよジャヴ、この場はもっとしたてに、無害であることを婉曲的に主張しつつ控えめな微笑で警戒心をとりのぞき、相手が喜びそうな言葉で適当に賞賛してじわじわとけむにまいたほうが、などとリスカは弱者の知恵による卑怯な追及のかわし方を伝授しそうになった。
「なんだその態度は。衛部に突き出してやる、来い」
 衛部とは塔内設備の防衛などを主に担う中位以上の術師の役職名であり、または集団そのものの意味合いも持つ。簡単にいえば自警団だ。リア皇国において魔術師の塔は特殊の最たる場所であるため、内部で発生した不祥事や事件についてはよほどの事情がないかぎり隠蔽される運びとなり、外への公開はなされない。よっていかなる災い事にもすばやく対処できるよう、塔内に犯罪者を独断で裁く自警団が編成されている。噂によれば塔の地下部に牢があり、そこに隔離されている術師が実際に存在するのだとか。おそろしい。
「おまえこそ、だれに向かって横柄な態度をとっている。私を知らぬのか。塔に招かれて日が浅いようだな」
 と応酬したジャヴに、リスカはびっくりした。気配的に、夜勤術師も驚いているようだった。
 まさかジャヴ様、本気で自分の名前とか立場とかをこの術師に明かすつもりですか、しかしそうすればなおさら問題が深刻化するのでは、とリスカは内心でおどおどとたずねた。しかし、傲岸な態度を取りつつもはっきりと術師に顔を見せようとしないあたり、ものすごく演技を感じますよ。
「…あなたは、いったい?」
 あまりにも堂々としたジャヴの虚言に惑わされたらしく、術師の言葉が微妙に改まり焦りさえ滲みはじめている。
「まだ詮索するか? 馬鹿者め、私の立場で未熟な学徒に手を出していると知れたらどうなる」
 などと質問をかわし、夜勤術師を逆に叱責しているが、師よ、あなたの台詞はまったく誇れるものではありません、むしろ厚顔極まりなく、本来なら自戒して恥じ入らねばならぬのではないですか。まさかとはおもいますがなんだかんだと言いつつも塔時代、こんな不埒な真似をよくしでかしていたのでは、とつい懐疑心にかられ胡乱な目をしてしまうリスカだった。手慣れすぎているのが悪い。
「まったく不粋な闖入者のおかげで私のかわいい弟子が怯えているではないか、ああよしよし案ずるな。すぐに慰めてやろう」
 などと甘い声音で囁かれ、なにやら首筋をするすると撫でられたが、ジャヴ、あなた実は今、夜勤術師を追い払うための即興の演技とはいえ、本心からこの悪役というか、無垢な学徒に手を出す破廉恥な上級魔術師の役を楽しんでいるでしょう。顔を盛大に引きつらせてしまうリスカだった。
 しかし、人間とは厳しい上下関係のなかで生きている。たとえどれほど理不尽で荒誕不稽な叱責であろうとも、上司らしき立場の者の不興をかっては将来が閉ざされる。出世街道とは茨道の別名だとだれが言ったのだったか。まこと、世知辛い。
「申し訳ありません。出過ぎたまねを…」
「よい。もう行け。他言はするな」
 どこまでも高慢一徹という返答をし、うろたえているらしき術師に向かってジャヴがひらひらと鬱陶しげに手を振った。演技とはとても思えぬ悪役ぶり。うむ、見習いたくはないが、見事なけむの巻き方だ、とリスカは意識を半分霞ませつつ感嘆した。
 これ以上、立場が上らしき高位の術師を不機嫌にさせてはまずいと判断したのか、術師は追及をやめ、もごもごと謝罪の言葉をくちにした。
「それからおまえ、しばしこちらへは立ち寄るな。弟子は繊細なのだ、楽しもうにも頻繁に他者の気配を感じれば、落ち着かなくなる。まあ初々しい様子もたまらぬが。なあ?」
 とさらに好色な言葉を図々しくつけたしつつ、リスカの顔やら髪やらをいじり回した。私、いまだかつてこれほど威風堂々とした態度で不純行為にいそしもうとする人物をみたことがありません、と思わず演技だというのも忘れ、全力でつっこみたくなった。
 だが弱肉強食の掟の怖さを知る夜勤術師は、自分の明るい未来を守るためにだろう、いっさいの反論なく受け入れ、すばやく離れた。はたしてそれでいいのだろうか。警備が警備になっていない。慌ただしく遠退いていく足音をききながら、リスカは本気で塔の行く末を憂えた。だめだ、きっと。
「……あの、師よ。そろそろどいてください」
 というかこの人はいつまで演技を続行しているのか。リスカの声など聞こえぬ様子で髪をすいたり耳を撫でたりと、好き放題にしている。
「ジャヴ、きいてますか」
「どうせね、私など師として不適格なんだろう」
 リスカは惚けた。空耳か、怨念でもこもってそうな皮肉な言葉を耳元でささやかれた気が。
「反抗だけではなく、嫌いだのなんだのと、ふうん。そう、君の本音がよくわかったよ、私など師とも思っていないのだな」
 幻聴だと信じたい。またしても恨み言を憎々しげにつぶやかれた気が。いや、すべての咎はリスカにある。この怪しい体勢と、異様に不貞腐れた表情を目にするとどうしても反言が口をつきそうになるが、我慢、忍耐。弱肉強食。
「ごめんなさいすみませんでした、あれは言葉のあやといいますか、だってほら、私にも切実な悲しい過去というのがありまして、あなたがなんの説明もなくこの塔に転移なんてするから混乱して、いえ、その、私が全部悪いです、先ほどの非難はすべて取り消しますから許してください」
「私が一切の邪念なく素直に許す者に見えるのか?」
「うひ」
「まったく」
「く」
「許しがたいが、状況が状況だから、今は許す」
 おかしいな、リスカは確か、ほんのわずかまえまでは胸がやぶれて血があふれそうなほど真剣に、過去の記憶に苦悩していたのではなかったか。それがなぜ今、こういった奇妙な焦りや虚しさをいだいているのか。
 私の葛藤はどこへ、とつい遠くを見つめてしまいそうになるリスカだった。
「私は親切だな。師で嬉しい?」
「は」
「嬉しいか?」
「は、あ」
「光栄?」
「ひ」
「身に余る光栄だろうな」
「はいもちろんです異論などかけらもありません嬉しすぎて涙が」
 あれ本当におかしいな、胸をよぎるこの乾いた切なさはいったい。リスカは今後の平安を守るため、自分の心から目をそむけた。
 そうだろうそうだろう、というようにようやく機嫌を直して嬉しげに微笑するジャヴを見あげているうち、まあいいかとうっかりほだれてしまう単純な自分にもなにか大きな問題がある気がした。きっと賢いシアがいたらいろいろととめてくれただろうが、あいにくとこの場にはジャヴとリスカしかいなかった。
「あの、ところで、どういった書物を探しにここへ?」
 まるで化かされたかのような勢いで過去に対する深い苦悩が遠ざかり、平静を保てるようになったので、リスカはごく当然の問いをくちにした。冷静になれたのは喜ばしいことだが、その理由が今のやりとりのおかげというのはなんともいやいや、などと多少複雑な気持ちになる。
「ああ、そうだ、忘れていた」
 と、完全に目的を忘れていたらしいジャヴが目をまたたかせ、リスカから身を放した。というかまさか本当に忘れていたとは。
「見たい書物がいくつかあったのだが、塔への侵入を君は嫌がるだろうと思っていた。それで転移するまで黙っていた。予想通りに暴れられたが」
「今の言葉は色々と問題を生みましたよ。私の反応をわかっていての転移ですか」
「しかたないだろう」
「なにがしかたないんです」
 真っ向から睨み合ってしまう二人だった。
 どうも最近、ジャヴにつられて子どものような喧嘩をする回数が増えている気がする。嘆かわしい。
「私だとて長居したい場所ではないと言った」
「はい」
「だから、君をつれてきたのは、それが理由だ」
「はい。…はい?」
 そっぽを向くジャヴを、まじまじと見つめた。
 理由は、それだけ?
 学びの旅と称したのもほぼ九割は体裁を保つためであり、実際はただ自分一人だけで塔に侵入するのはなんとなく落ち込みそうで嫌だったから弟子のリスカを巻き添えにした、とか、まさか。
「……」
「……」
「あの」
「なんだ」
 文句があるのか、と言いたげな目だった。
「書物、探しましょうか」
「ああ」
 賢明にも、リスカはなにもきかなかったことにした。自分の明るい未来のために。世は弱肉強食、身をもって味わった。
 予想外の理由ではあったが、客観的に見れば、リスカよりもジャヴのほうがこの塔に対して強い悔恨を抱えているだろうし、苦渋もより深いにちがいなかった。それをおしてきたのだ、弟子たる自分が支えねばどうするというのか。また、リスカを巻きこもうと考えたのは、そのくらいに存在を認め、かつ受け入れてくれている証でもある。きっと不安やぎこちなさを包み隠し、手探りで距離をつかもうとしているのだろう。彼は師弟の関係を最優先というほどに大切にしているのだから。
「師よ」
「なにかね」
「すみませんでした」
 しんみり告げれば、ふてぶてしいながらもきまり悪げに目をそらしていたジャヴがかすかに驚きを映した表情を浮かべた。
 そして、慈しみをたたえた、穏やかな微笑を。
 この人がいつか、自分を弟子にしたことに失望しなければいい、とリスカはひそやかに願いをたくした。

小説TOP)(花術師TOP)()(