桃源落花:12
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リスカは内心激しく動揺しつつも表面上、冷静な態度をとりつくろって広間へ入った。
「ぴ」
暖炉前にこんもり盛られた毛布の山の頂きに陣取って毛づくろいしていたシアは、扉から現れたリスカを見て羽を広げ、大層元気よく鳴いた。リスカは愛らしいその姿にかなり癒され、幾分緊張を解いてそちらへ足を向けた。ところが。
「ぴっぴぃー、ぴぴー」
シアは、わざとらしく身をくねりとさせ、えらく小憎らしい鳴き方をした。翻訳するなら「こっのこのー」と肘でつつかれ、からかわれているような。
そんな疑念を抱いてしまったせいなのか。シアの丸い目もこころなしか、にやにや笑いを意味する三日月型に見える。
その、実に憎々しい三日月型の目が、リスカと、陣取っている毛布の小山を何度も往復した。
さらにだ。羽根で口元を覆うようにし、「ぴふっ」と奇妙な鳴き声まで上げる。たとえるならば「くふっ」と含み笑いした感じだ。
「シア?」
思わず剣呑な声を出してしまう。愛らしさが台無しですよ、どこぞの雑貨屋兼情報屋をやっている禿頭筋肉親父的いやらしさですよ、とリスカは内心で毒々しく呟いた。
するとシアは、本当に小鳥なのかと突っ込みたくなるくらい人間的な身悶えを見せたあと、「ぴ、ぴぴっぴぃー」と意味深な鳴き方をして宙に飛び上がった。今の鳴き声を解読するならば、「むふん、ごゆっくりー」というまこと下世話な言葉の気がする。しかもどこへ飛んでいくのかと思いきや、うっすらと扉の隙間からこちらを覗き見していたツァルのほうへ向かったではないか。
こらツァルっ、とリスカが猫のように毛を逆立ててお叱りの顔を見せると、シアを頭に乗せたツァルは慌てた様子で扉をしめた。まったくこの人たちは。
ふー! と両手を腰にあて、ふんぞり返りつつ盛大に息を吐いたあとで、状況をようやく把握した。
シアたちの態度から推測するに、きっと暖炉前の小山のなかに、閣下様が埋もれているのだろう。その証拠に、髪がひとふさ、毛布の隙間から飛び出ている。
リスカは恐る恐る接近し、小山の前で両膝をついた。うむ、閣下は背が高いほうだ。その閣下が完全にもぐれるほど毛布やふっくらした座布団のたぐいがそこら中に散乱しているわけで、これは確かにフェイがぎょっとして当然かもしれない。人様の屋敷でやりたい放題である。
あとで、傍若無人なセフォーたちにかわり、フェイに謝罪することにしてだ。
「セフォー?」
呼びかけてみた。いらえはない。
「閣下様」
飛び出ている毛を軽く引っ張ってみた。やはり反応はない。
「セフォード」
リスカはぺたりとその場に座った。セフォーの髪を人差し指に巻きつけたり、撫でてみたりする。ついでに、毛先が痛んでいないか、扇形に開いて確認もした。……意味のない行為であることは、十分わかっている。ふううう、と知らず知らず、大きな溜息が口から漏れた。
たぶんいつもであれば、意固地なまでに返事をしないセフォーの様子に微苦笑したり、報復におそれおののいたりと、それなりに余裕を持って対応できるだろう。
しかし、今は気力がわいてこない。ジャヴのことを重く引きずっているからだ。
行かないでほしいと必死に懇願したのに、受け入れてもらえず、置き去りにされてしまった。結局リスカは、彼を繋ぎ止める力にはなれなかった。ずいぶん自分は軽い存在だ、そして今はセフォーからも無視される。
自分の身が、食べ残しの果実に変わった気がした。瑞々しさを失い、ぎゅっと縮んで、乾涸びている。皿の上から転がり落ちて、埃塗れになりそうだった。そのうち黴もはえるだろう。
がくんとリスカは項垂れた。ねえセフォー、ワンスに会ってしまいました。彼はなにかよからぬ思惑を抱えていました。タデゥゲルという男にも会いました。シエルを大変苦しめた元凶の男です。それから樹涙を発見しました。だけど白紙の手紙も発見しました。喪失感に涙するジャヴを、支えてあげられませんでした。私は手を離されてしまった。本当、愛ってなんでしょうね? 以前と違って、まったく理解できないってわけではないんですよ。噛み締めたことはなくとも、こうして何度も他者の愛を見ていれば、朧げながらわかってくる部分があります。すごく面倒で悪辣で、ただ人を苦しめてむやみに泣かせるだけの不愉快なものです、そうでしょう?
「そういうものですよね?」
だけども、どうしてこんなに胸を打たれるのだろう。気にせずには、いられなくなるのだろう。
他者がかわす愛情を、傍からただ見るだけでも、こんなに心を揺り動かされるのだ、もしもそんな厄介なものが自分のなかに生まれてしまったらどうなるのか。揺さぶられすぎて、身体が破裂するのではないか。しかし、愛で肉体が崩壊した、なんて話は現実に聞いたことがない。
老いも若きも飽くことなく繰り広げる、千差万別な愛憎劇。死ぬまで、解放されないものなのか。
「よくわかりません、やはり……」
ずしずしと落ち込む自分をとめられない。心が埋め立て地と化し、しまいに苔むしそうになった頃だった。
毛布の山が鳴動した。いや、振動した。いや、激動、いやいや、つまり、山が割れた。
小鳥の住処になりそうなほど髪をもしゃくしゃにしたセフォーが顔を見せ、不機嫌そうにリスカを見た。……あのうセフォー、頬にうっすらと、寝あとがついてますよ。
「セフォー」
「うるさいです」
「ひ」
そ、そんな磨いた直後の刃のような声音って。
「なぜ」
「は」
「わかりません」
「ひふ」
「私で」
「へひ」
「師」
「ひ?」
「なにが」
「く」
「もう」
「うひ」
これは……今回はいつも以上に難解な端的言葉だ。それでもできるかぎり解読してみると、こうではないか。「なぜそんなに落ち込んで帰ってきてるんですか。そもそも余計なことをせずとも、師が欲しいなら私でよかったのでしょうに、あなたときたら。なにがだめなんです、許せない人ですね、もうあんまり鬱陶しいとそろそろ本気で惨殺しますよ」とかなんとか。いや、最後は少し違うだろうか。違うと信じたい。身の安全のために。
とにかくご立腹であるのは激痛を感じるほど理解した。それでも、セフォーの機嫌を変えられるような、うまい抗弁が出てこない。
「すみませんでした」
リスカは力なく答え、再び頭を垂らした。セフォーは、微妙にとまどう気配を見せた。
「リスカさん」
「は」
「気を」
「ぃひ」
「血」
「うひ」
「誰」
「はひ」
「なにを」
「ぅひっ」
「それ」
「くひ」
「やはり」
こ、これはなにやら不穏な端的言葉の気がする。急いで解読してみよう。「リスカさん、どうして落胆しているんですか。そういえば戦い時のような荒い気をまとっていませんか、血の匂いもしますよ、いったい誰と対峙したのです。なにを隠しているんですか、早く白状しなさい。あなたが落ち込んでいるのはそれが原因なのでしょう。いえ、やはり、ごたごたした説明は結構です、面倒な者がいるのなら、さっさと首を刎ね飛ばしてしまえば」といったところではないか。
ちょ、ちょっとお待ちください閣下様!
恐怖と血の色をした大仰な予想は、恐ろしいことに、あながち間違いではなかったらしい。セフォーはやけに据わった目をし、もつれる髪もそのままに、さらには着崩しまくった衣服もそのままに、ゆるりと立ち上がった。
かか閣下様、その御手にさげていらっしゃるのは身の毛もよだつ殺戮剣……いえいえいえ私はとても極めて至上最高に気力充実、元気ですとも!
おかしい、毎度毎度、命を搾り取られるほどの苦悩や悲嘆が、こうも見事なまでに抹消されてしまうなんて。
私つい先ほどまで真剣に我が身の無力さを恨み、号泣しそうなくらい絶望していたはずなんですが、なにか間違っていませんか。というより桁外れすぎませんかセフォーの威圧感。人類滅殺、世界撃滅という言葉が脳裏をよぎりましたよ。
「あの、待ってください!」
今はとにかく、空前絶後の大量惨殺事件を未然に防がなければ、という切迫した危機的感情がリスカを突き動かしている。遠退きそうな意識をなんとか保ちつつ腕にしがみつくと、セフォーは切れ味比類なしと断言できる尖った眼差しをリスカに向けてきた。ひ!
「セフォー、どどどちらへ?」
「嫌いです」
「は」
「あんな男」
だらだらぼたたぼたたたと冷や汗が流れた。あんな男とはジャヴのことをさしているのだろうか。もしや私が落ち込んでいるのはジャヴが原因だと思っておられますか。いや、確かにジャヴが原因といえば原因なのかもしれませんが、しかし、罵詈雑言をぶつけられたとか敵対しているとかではなくてですね、とリスカは内心で色々弁解した。
「いえいえいえ! セフォー、ジャヴとはにこやかに健全な師弟関係をですね、もちろんつつがなく続行中でして、ええそれはもう、私とても溌剌ですよ、あっ私ただいま戻りました!」
元気よく挨拶してみたリスカだった。だが残念なことに支離滅裂だった。
「あなたなんて」
蒸発しそうなリスカを睨み、セフォーは実に物騒な口調で吐き捨てた。これは解読するまでもない、「あなたなんてもう知りません、ばかっ!」であろう、きっと。
「えっと、すみませんでした」
とりあえず謝罪してみた。するとセフォーは手に提げていた剣を消してはくれたが、魔王も裸足で逃走する無敵の気配をさらに強め、荒々しくその場に腰を下ろした。あぐらをかき、じいっと凶刃の目でリスカを見据えている。リスカはもじもじと正座した。
「なぜ」
うむ、この片言、「なぜ私をとめるんですか。虐殺のかぎりでもつくさなければ、到底この苛立ちはおさまらないのに」とかなんとかだったらどうしよう、世界残酷史の最たる事件として後世に語り継がれてしまうやも、ひ。
「いえ、その、ええ、うん、大虐殺事件だけはやめ……いえ! なんでもありません!」
危ない、心の声が漏れかけてしまった。
「大虐殺」
「ひぅえ」
「いいですね」
「は……ひっ!?」
「しましょうか」
なななんですって? なんですって?
磁力のような眼差しに、血の気が引いてきた。しましょうか、って閣下様? 閣下様!?
「リスカ、つけあがりすぎです」
「ひ!!」
冷や汗どころか絶望がとまらなくなってきた。
「私、我慢しすぎです、最近」
「くう!」
死神に手錠をかけられた気分になった。うなじに鎌をかけられている気もした。そもそもセフォーの異名こそが、死神閣下だった。
「だからあなた、増長を」
「ちち違」
意識がかすんできた。これほどの拷問、かつてあっただろうか。こうなればタデゥゲルとの一戦さえも罪のない遊戯に思えてくる。
セフォーは、苛々した様子を隠さず、自分の膝の上で指先を忙しなく動かした。
「私が優しいと、リスカは慢心する。ならば、そんな気に二度となれぬようなにか殺」
「閣下様、伏して謝罪します天地神明にも誓います慢心なんてとんでもない、もう決して逆らいません、だから類を見ない大虐殺とか町中血祭りにするとか一国崩壊させるとかだけはどうか」
途方もない恐怖にひきずられて口を滑らせすぎるリスカだった。セフォーは嫌そうに唇を曲げ、頬にかかる髪を払った。ふて寝のしすぎでもつれまくる髪に今、気づいたらしい。さらに狂暴な顔を見せる。
「セフォー、わわ私、よよよろしければ、かか髪をとととかしましょうか」
決死どころかもはや斬首も覚悟の悲壮さで名乗りをあげると、溶岩のごとき激しい憤りのまざった目で睨まれた。あ、意識があと一手で永別を告げそう、とリスカは儚くなりかけた。
「私をうち捨てたくせに」
と憎々しげに言われ、リスカは卒倒しそうになった。
「謝罪ごときで許されるとでも?」
窓から身投げしたくなってきた。どうせ散る運命なら、果てしない拷問の果てに殺されるのではなく、普通に死にたい。
「ここまで女に軽んじられたことはありません」
とも言われ、いよいよ、ひゅうっと魂が抜けかけたのだが、絵巻物にできそうなほどの壮大かつきらびやかな恐怖とは別に、胸のなかがなにやらよくない感じにけぶっていくのがわかった。閣下様の憎まれ口が、どうも気に障ったらしい。
…軽んじられたことはないが、重きに置かれたことなら数多にあると?
つまり、「今までは、かしずかれるほど、女性の方々からもてはやされるのが当然だったのに」と遠回しに訴えたいんですか、セフォー。へえええ、ふううん、はああん、とリスカは半眼になった。無意識とは恐ろしい。
「私など、眼中にもないんですね」
「……言いたいことはそれだけですかセフォー」
地面を抉るような低い声で思わず反論すると、セフォーが怪訝そうに眉を寄せた。
リスカは、深く深く、息を吸った。そして。
「眼中にないですって? あなたみたいに一から十まで凄まじい人をどうやったら視界の外に置けるんですか、そんな神業的方法があったらぜひ知りたいです、そもそも今日の私は色々あったんですよ、会いたくない人とも会いました、戦いなどもしてしまいました、それを乗り越えたと思ったら今度は自分の無力を痛感したり、師を支えることもできなかったり、休む間もなく次々と困難やら危機やら悲しみやらが押し寄せて、ろくに眠ってもいないんです。このうえなく平和とお酒と書物を愛する一般人な私に、この驚天動地な出来事の数々! それなのにセフォー、あなたまで私を突き放すなんて。私がどんな気持ちでいたと思うんですか、あなたと離れて、なにも感じずにいたとでも。だったらなぜ私は師を悲しませてまで抵抗をしたんですか。なぜ積極的に強くなりたいと思うようになったと。私は拷問されて喜ぶような特殊趣味は持ち合わせていないんです、本気で会いたくなければ、あなたみたいに人間凶器もかくやという激烈凄烈非情無情な残虐帝王のところにこうしてのこのこと戻ってきたりしません!」
先ほどのセフォーの言葉が発芽のきっかけとなったのか、いやいや、日頃の鬱憤が爆発したらしい。息荒く言い切ったあと、一気に冷静さが戻り、リスカは再度青ざめた。セフォーは、ものすごくびっくりした顔でリスカを凝視している。絶句しているようでもある。こんなに感情豊かなセフォーの表情は初めてというくらいだ。
いいいい今、わわ私ったらなにを、残虐帝王ってあわわわあばぼぼひひばばば、と言語がもろく崩壊した。むろん、思考も意識も徹底壊滅、荒野化寸前だった。
これぞ史上最大の危機ではないだろうか、いや本当に常識内の残虐死ですむだろうか、泡をふいて髪が白くなるくらいの凄絶なむごい殺戮方法で始末されんじゃないだろうか、手足もがれた状態で熱湯にぶちこまれるとか自分の臓腑を口につめられるとか。妄想が先走りしすぎて気分が悪くなってきたリスカだった。
「リスカさん」
もう答える気力というか理性はなかった。
「自分がこれほど健気だったとは」
ひ。
今、誰が、誰を健気だと? リスカは思わず目を剥き、耳を疑った。健気と対極の位置にある傲然とした閣下様の口から、まさかその謙虚な言葉が漏れたんですか、言葉の使い方が著しく間違っていますよ、と真顔で指摘したくなった。
「あなたに弄ばれている気分です」
と不満そうにいわれたが、むしろ翻弄されている気分なのはリスカである。
「リスカ」
「ひ」
「もう一回」
「は」
「会いたい? 私に会いたかった?」
ぎゃあとリスカは羞恥に襲われ、叫びたくなった。
「そんなこと、破廉恥な!」
「許してあげます、全部苛立ちを流してあげます。私を不安にさせないのなら」
不安? セフォーが?
「この私が、不安などと口にする」
セフォーは自嘲のような独白を落とすと、急にリスカを引き寄せた。抵抗する間もない。
深く抱き込まれ、息がつまった。毛布の中で十分ぬくんだ硬い身体が、暖炉の火とはまったく異なる、甘く、こもったような温かさをリスカの肌にもたらした。制御などできない。壊れたように勝手に体温が上昇していく。
逃げようとするリスカの腰に右手が回った。左手は後頭部。髪を指に絡めるように。どこか乱暴ながらも狂おしげな束縛で、これはいけない、ますます熱が上がろうというものだった。
「リスカ、あなたは私よりも悪人です、悪たる私を堕落させたのだから、もっと悪」
「堕落」
それは絶対に違う、堕落したのはきっとセフォーではない。
「燃やしてしまいたい、すべて燃やしてしまいたい、ああリスカ、あなたはその身で私をしずめるべきだ、私にすべてを許すべきだ」
リスカの耳に唇を押しつけるようにして、熱風のような言葉を吹き込む。束縛する腕は強く、骨が軋みそうだった。顔がつぶれそうなほどこの熱い胸と密着していて、今にも燃え落ちてしまいそうなのはリスカのほうだ。
「私を不安にさせるな、あなたは絶えず、私の腕の中に」
「せ、セフォ」
「出ていくな、いなさい」
もがくことも許してくれない腕だった。なのに、それは命令ではなく、懇願に聞こえた。卑屈な意味合いではない。この体温のように、こよなく狂おしいものだ。
めまいがした。生きていて一番甘いめまい。
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あんまり急激なめまいだったせいか、リスカはぐったりした。
そのまま意識を失いかけるリスカに気づいたらしく、セフォーはいつになく丁寧な仕草で身体を横たえてくれた。
そして、ぎこちなく、恭しく、リスカの頬を撫でる。指先で、節で、手の甲全体で。
だからリスカは墜落するように意識が黒く染まったあと、夢を見た。
まるで王座のような金の肘掛け椅子に、美貌の青年が座っている。彼の前には、深くかしずく一人の男。
豪華な冠を頭に乗せた青年は、幸せそうに男を見ている。触れることを許可するように白い手を差し伸べる。
男が恭しくその手を取り、顔を上げる。
その顔は――真っ黒だった。
(第四章・桃源落花END)