桃源落花:11


 ジャヴが星型の板をリスカに手渡したあと、暖炉へと近づいた。
 そこには黄金の輝きを秘めた炎がゆらめいている。もとは悪魔のすべであった火。今は人に豊かさをもたらす火。
 ジャヴが魔術を行使した。低い声で呪文を紡いたあと、虚空へと手を差し伸べる。彼の手の先にぽわんと透明の大きな雫が生まれ、やがて卵の殻を叩き割るように、内部から、手のひらほどの体躯を持つ小さな水の精霊が飛び出した。
 精霊が蝶と同じ形の羽根をめいっぱいはばたかせ、周囲を楽しげに巡った。ひとしきり飛び回って満足したのか、笑顔でジャヴに一礼したのち、表情をひきしめてふうっと勢いよく暖炉の炎に息を吹きかける。吐息は霧と変じて、炎を見る間に圧していった。余熱さえも消し去るように、しばしのあいだ霧を吐き出し続ける。
 きっちりと暖炉の内部を冷まし、仕事を終えた精霊は、その姿を徐々に霞ませた。途中、放心のていで見守るリスカに気づいたらしく、笑みを浮かべて小さく手を振る。
 リスカも反射的にふりかえしたが、そのときにはもう精霊は完全に姿を消していた。
 ジャヴが彼らしくない性急さで床に膝をつき、ためらいなく暖炉のなかにもぐっていった。
 いや、もぐるといっても成人男性の身体が丸々おさまるほどの広い空間は設けられていない。上半身をむりやり差しこみ、そして空へと伸びているだろう煙突の上部に顔を向けている。
「リル、さきほどの星を」
「これですか」
 慌ててリスカは駆け寄った。
 暖炉に上半身を突っこんだ状態で手だけをこちらに向け、ひらひらさせているジャヴに星を握らせる。
「術の痕跡がある。なにかを守る小結界だ。暖炉の火が、結界の存在を隠していたようだ。この星が、術を解除する鍵だと思う」
 暖炉内で作業をすすめながらジャヴが説明してくれた。リスカはうろうろとおあずけをくらった獣のように暖炉周辺を忙しなく歩いた。
「ああやはりね。あった。この、左横の上部の石は偽装で、こちら側に星をはめこむと解除の術式が浮かぶんだ。いや、術式じゃないのか。……目と手、足がそれぞれ二つあり、だけど尾は二つない魔物の名前……? 子ども向けの、なぞ? なぜこんな問題を解除の設問に」
 訝しげな声とともに石をこするような音が聞こえ、ややしてなにかを発見したらしきジャヴが身体を暖炉から引き抜いた。
 美意識に大層こだわりのある彼らしくない姿になっていた。髪は乱れ、衣服や両手でだけはなく白い頬にも煤をべったりつけている。けれどもジャヴ自身はまったく気にもとめていない様子だった。片膝を立てて暖炉の前に座り直したあと、リスカに手を傾けて発見物を見せる。
 リスカも無意味にうろつくのをやめて、彼の正面にいそいそと座りこんだ。
 ジャヴが暖炉のなかから発見したのは、片手におさまりそうなくらいに小さな長方形の木箱だった。なんの細工もされていない、じつに素朴な飴色の木箱だ。
 リスカにも中身が見えるようにして、ジャヴが木箱の蓋をそっと開けた。
 そこには、折りたたんだ紙と――。
「樹涙」
 リスカは思わずつぶやいた。虫の甲羅のようにまろい色をした小粒の宝玉。つい最近、これと酷似した宝物をリスカは手に入れているのだから、見間違うはずがなかった。
 ジャヴは貴重な樹涙よりも折りたたんである紙のほうに注目した。
 木箱をいったん膝の上に置き、ぎこちない手つきで紙を開く。
 しばらくのあいだ、ジャヴは紙を凝視したまま硬直していた。あまりに長い自失ぶりだったので、様子を見守っていたリスカは心配になってきた。声をかけるのは不粋だと重々わかってはいるが、それでもジャヴのこの表情はどう判断するべきなのか。感情が欠落したように、喜びも怒りも失意もうかがえない。ただひたすら彫像と化している。
「ジャヴ?」
 沈黙に堪えきれなくなり、リスカは小声で呼びかけた。それでもやはりしばしのあいだ、反応が返ってくることはなかった。
 もう一度呼びかけるか逡巡するころになってようやく、ジャヴが視線をすくいあげた。
「リル」
「は、はい」
 名前を呼んだきり、黙りこむ。
「あの、いったい何が」
 リスカは困り、言葉を途中でとめた。
 紙は、この木箱を発見する者へ……ジャヴへ託された手紙のはずだ。遺言の類いなのか、それとも樹涙の取り扱い方について書かれているのか。師が唯一の弟子に残した言葉であるならば、他人のリスカが地を踏み荒らすように根掘り葉掘り問いかけるというのはまったく非常識なことだし、心ない行為でもあった。
「なにも」
「え?」
「なにも書かれていない」
 そうかすれた声で告げたあと、ジャヴがぎゅっと眉をひそめ、今にも笑い出しそうな、いや、泣き出しそうな――そういう複雑な顔をして、リスカに紙を見せた。
 彼の言葉通り、表裏どちらにも、文字ひとつ記されていなかった。
「……隠し文字でしょうか?」
「いや、なにもない。真実、なにも書かれていない」
 ジャヴがそう断言するなら間違いないのだろう。だが、疑念は深まるばかりだった。なにも書かれていない紙を、なぜ樹涙とともに木箱へ隠したのか。シエルの真意がわからない。
「なあ、リル」
「はい」
 ジャヴがひび割れた声を出した。血を吐きそうな声をはじめてきいた。
「セフォードでもなく法王でもなく皇帝でもない。タデゥゲルでも魔力の狂気性でもない。ただ私が」
 そこで一度、言葉をとめ、震える手を口許に持っていった。強く目を閉じ、そして開いたとき、ぶわりと大きな涙がその湖のような目に盛り上がった。
 リスカは仰天して腰を上げた。
「私が、師を殺したのだな」
 ぼたぼたと、葉からこぼれる銀の露よりも重たげな涙が頬を転げ落ちていく。
「そうなんだろう、リル。私が追いつめたんだ。ようやくわかった。私が盲目に師を信じて、なにも見ず、なにも聞かず、なにも探らず、ただひたすら追い求め、追いつめた」
 リスカは大層狼狽え、戦きもした。
 ――それが実際に正しい答えではないかと、以前、リスカも似たような考えを抱いたためだ。未来も名誉も振り返らず、殉死さえも厭わない、かぎりなく崇高で濁りない愛情。まばゆい星のようにまたたくその一途な思い。
 だからこそ、おそれた。星が流れていくのを。
 ジャヴがいつか見せるかもしれない侮蔑と失望、そういうありもしない幻影に惑わされたのだ。清らかであればあるほど影は濃い。この神聖ともいえる愛情を通して、シエルは自分の胸にある醜悪の淵を覗いてしまった。そして狂気に犯された。リスカは確かに、これが真理だと結論づけたことがあるのだった。
 とっさに反駁できなかった。身体を強張らせたリスカの沈黙を、ジャヴは肯定と受け止めた。
「疑えばよかった、もっとわがままをいえば、もっと踏みこめば、もっと、もっとなにかを!」
 だけど、わからないんでしょう。もっと、なにかを、と思いながらも。
 そのなにかが、わからないんでしょう。
 リスカはけれども、言えなかった。
 なぜならやはり、ジャヴは根本のところで、とてもシエルを信じて、信じて、信じ抜いている。今でさえ、シエルが大切でたまらないのだから。唯一の王に忠誠を捧ぐ騎士のよう。彼にとってシエルは万能だ。たとえ大罪を犯してさえも、万能だ。そんな状態でどんなわがままをシエルに言えるだろう。どんな疑念を抱けるというのか。
「ああリル、どうしようか。私は私の道を探すべきだったのか。師の重荷となっていたのか。私が殺してしまった。なんてこと、私が殺したのか」
「ジャヴ、重荷とはちがう、きっとそれはちがいます」
「ちがわないんだよ、私、以前に何度も師から白紙の手紙をもらったことがある。あの方が塔の仕事でしばらく屋敷をあけ、私が留守番をしたとき。安否を伝えるための手紙のはずだったのに、なにも書かれていない。だからお戻りになられたあとで、たまらず理由をおたずねした。そうしたら、言葉が見当たらなかったと。どんな言葉もおまえにふさわしくないような気がしたから筆が動かなかったのだと。意味がわからなかった、だけど師はまるで愚者のように、私の頬を恭しく、本当に恐れながら、さすった。私はそれだけで有頂天で、もう意味を考えることすらやめ、シエル様に笑いかけた。今度は私も連れて行ってください、師よ、いいでしょう、一緒に行かせてください。そう叫んだら、悲しげに、曖昧に微笑まれた。ねえ、それが、塔を追逐されるわずか一年前のことだ。私はまったく子どもだった、あの方の回りをひたすら稚魚のように巡るだけだったんだから。当時、他国から勧誘もあった、宮廷魔術師の次団長として王宮に仕えないかと、そういう招請もいくつか舞いこんでいた。どれも一蹴した、興味などなかった。だって私は、魔術の世界で立身したいなどとひとかけらさえ望んでいなかった、そんなもの、頬をさするシエル様のあたたかな指に比べたら!」
 ジャヴがぎゅうっと引きちぎるような強さで自分の髪を握った。
「重荷でしかたなかったのだろう、だけど言えなかったのだ、シエル様はお優しいから、私を傷つけまいとして、言葉を封じられたのだ。だけどもとうとう我慢しきれなくなったのだろう、私が諦めないからだ、世界のすべてをシエル様の背に乗せてしまったから――本当は、薄々考えていた。けれども認めたくはなかった、だから、直接手をくだしたセフォードを憎悪するのは、私にとって安らぎですらあった」
「ジャヴ」
 リスカは、髪をかきむしるジャヴの腕をひっぱった。嫌がるように彼は首をふった。
「ちがいます、重荷だったのではない。あなたを守りたかっただけでしょう、シエル殿は自分自身の狂気からも、あなたを守りたかったんでしょう」
 なにも聞こうとしない彼の耳に、むりやり言葉を吹きこむ。
「傷つけまいと言葉を封じたのではないです。その逆です、言葉のほうが、あなたに負けるとわかったからです。そうでしょう、そういう方だったのでしょう?」
「なにを証拠にそういう!」
「なんてことですか、シエル殿自身を疑ってはいないくせに、自分に向けられる感情をはき違えるなんて。シエル殿がもし本当にあなたを重荷と感じていたら、そもそもこんな稚い仕掛けをほどこしてわざわざ樹涙を探させたりしますか? あなたをいつまでも、見た目がどれほど立派になっても、昔と変わらずに、かわいい子どものように思っていたから、楽しませようとしてこんな仕掛けをしたんでしょう?」
 もしかしたら、樹涙をこうして隠す頃にはもうすでに死期を悟っていたかもしれない。それでもあえて子どもじみた仕掛けをほどこしたというのなら、思惑はわかりやすいほどではないか。いつまでも、狂い死にしたとしても、ジャヴがただ一人の弟子であるとそう伝えたかっただけだ。だから樹涙を託している。法王へは戻さずに。すごい話ではないか、タデゥゲルにそそのかされて盗んだ宝玉を弟子に託すなど。シエルのなかで、ジャヴの地位は法王よりも皇帝よりもはるかに上、不動の王座なのだから。恭しく触れもするだろう、かわいい弟子であり、天上人でもある相手なら。
 ふとそこまで考え、シエルの最後の思考に首を傾げたくなった。たしかにジャヴの盲愛が軽蔑へと変化するのを怖れ、狂いはじめたのだろうが、いったいそのきっかけはなんだったのか。ここまで健気に一途なジャヴの姿を見ていれば、どれほど疑い深い性格をしていても、そう簡単には曖昧な恐れなど抱かぬだろうに。王都追放がはじまり? いや、追放に重なるようにして、さらに精神を軋ませる要因があったのではないか。その原因さえもタデゥゲルたちがつくったのか?
 なにかまだ根本が見えていない気がする。リスカが自分の起源の罪を探し当てられないようにだ。
「リル、私はばかだ。私がシエル様を殺したも同然なのに、お会いしたくてたまらない」
 ジャヴがリスカの腕を引き寄せ、肩に額を乗せた。
 ふと、もうひとつの可能性も思いつく。ジャヴがこれほど慕うように、シエルもかわいがりすぎたのではないか。先ほど、シエルのそばを離れるのが嫌で他国からの誘いにも興味を示さなかったとジャヴが言った。それは師の立場からみれば、決して認めてはいけないものだ。弟子の活躍と栄華をなにより望むのが正しい師の姿であるはずだ。けれども、シエルもまた、いつまでも手放したくなかったのだとしたら。もしかすると、そういう相反する感情による苦悩もまた狂気の一因だったのかと思う。話を聞いていると、現在の極悪皮肉具合が嘘のように、塔を去るまでのジャヴはその才能に比べてずいぶん幼いような気がした。それこそ無垢な子どものようにシエルを慕っている。確かに塔時代にリスカが彼を見たときも、生真面目で純粋な気質を感じたものだ。むしろ今のひねくれ具合は、急ごしらえの仮面ではないか。考えてみれば――今でさえ、素の態度はどこか幼く見えるのだから。
 魔術師の世界は基本、閉鎖的だし、不死はともかく寿命をいくらかは術で操作できてしまう。これが案外の弊害となり、精神的な発達を遅らせてしまうという厄介な面がある。シエルはさらに自分の存在が弟子の足をひっぱり、成長すら阻んで、栄誉も遠ざけていると危惧したのかもしれなかった。
「私は樹涙を探していた。死でもって解放されたシエル様のため、私は不死を得たかった。だけども本当は、見つけたくなどなかった。はやくシエル様にお会いしたいのだ。なにより愚かなのは、私の願い。シエル様が生き返るならば憎まれても忘れてもいいと、そう誓いたいのに、誓えない。蘇ったあとも私を選んでくださらねばだめなのだと思わずにはいられない。それなら、私からシエル様のところへ会いにいく」
「だめです、行こうとしないでください。私はあなたの弟子です、師よ、お願いです、私のために思いとどまって、どうか狂わずに。私は重荷となりますか?」
「君もばかだ、私は心がちぎれそう、君を置いていけず、シエル様も忘れられない。私がそばにいたら、君もやがて殺してしまわないだろうか?」
「自慢じゃないですが、自他ともに認める鈍感弱小術師ですよ、繊細さとは無縁ですから簡単に死にません。行かないでください、それにシエル殿を殺めたのは、私とセフォーです。たくさん恨んでください。セフォーは強いから恨みたいだけ恨んでもきっと壊れない、私は弱いけれど、あなたとセフォーがいるから、きっと壊れない」
 お願いです、お願いですから。そう囁き続け、そして朝を涙で迎えた。
 
●●●●●
 
 そしてリスカは手を離された。
 フェイの屋敷へ転移したあとだ。
 どんなに言葉を重ねて引き止めても、ジャヴはうつむいたきりで、少し一人で考えたいとそう拒絶を示した。
 自害しない約束だけはなんとかもぎとった。
 どちらにせよ、今回の事件の後始末があるから、しばらく顔を見せには来れないと言われ、最終的に引き下がるしかなくなった。
 落ちこむだけ落ちこむリスカの様子があんまり気がかりだったのか、転移で一人姿を消す前に、そうっと頬を撫でてくる。彼が昔、シエルにそうされたとき、有頂天になったのだと言った。痛切に、その意味がわかる。顔に触れられるということは、まるで心をとろかすことだ。安らぎに満ちている。
 そして指先から伝わる体温は、彼の気遣いが確かに滲んでいる。ごまかしようもない感情だ。そうだ、だからこそ当時のジャヴも簡単に思考を手放した。シエルの愛情をきちんと受け取ったから、不安をじゅうぶんに解消できたのだろう。
 リスカはジャヴが転移で一人去ったあともしばらくその場に佇み、つらつらと考え続けた。いや、こうしてしつこく待っていても、すぐに帰ってきてくれるはずがない。
 寒さに耐えきれなくなり、ようやく屋敷内に入ることにしたが、足取りはかつてないほど重い。自分の背後に伸びる影が巨人ほどの体重を持っているのではないかと思うほど。
 大広間を抜けて、二階へ上がろうとしたときだった。なぜか侍女的恰好をしているツァルが、びっくり顔で階段を駆け下りてくる。
「リカルスカイ君!」
「わ、わわ」
 飛びつかれてリスカは後方に転倒しそうになった。自分よりもわずかに背の低いツァルを支えつつ、なんとか転ばないよう踏み止まる。
「おかえり、友よ」
「はい、ただいまです」
「ねえ、なにかあったの? 今し方、ヒルド殿が突如現れてね、私となかよく歓談していた騎士殿二名を問答無用で攫っていったんだけれども」
 リスカはちょっぴり顔を引きつらせた。後始末があると言っていたし、フェイたちにも報告せねばならないからだろうと察するが、転移で誘拐するとは。騎士たちは蒼白になっただろう。なにげに憐憫の情を抱いてしまったリスカだった。
 ツァルがじいっとリスカの顔の反応をうかがったあと、ふいににやにやと意味ありげな憎らしい表情を見せた。な、なんだろうこの策略顔は。
「んふ」
「なんですその含み笑い」
「だってえ」
「だってじゃありません」
「じつに興味深いことがね、ううんたまらないね、私は自分でいうのもなんだが好奇心を百匹くらい胸に飼っているしいつでも野次馬になれる快楽追求型利己主義だし、ああときめく。甘酸っぱいよ甘酸っぱいよ、たとえるならば青空の下、甘く香る果樹園でしぼりたての果実水を口に含んだときのような魅惑の痺れ」
「なんの話ですか」
「死神殿がね」
「閣下、いえ、セフォーがなにか?」
 死神殿と言われて違和感なくセフォーと断定してしまう自分にどうかと思わなくもなかったが、それは最初に言葉にしたツァルも同罪なので深く突っこむことはやめにしておく。
「君、少しのあいだ、外にいたよね?」
「はい、それがなにか…」
「うん、ヒルド殿が出現して騎士二名を攫ったのに、君がすぐには姿を現さなかっただろう?――あ、ちなみにね、私たちみんな、なんとなくこの先にある広間にいてね、ほら、死神殿が惰眠を貪っている部屋。というのも私と死神殿、あの部屋に毛布とかなんとかめいっぱい持ちこんだだろう。それが騎士殿に発覚してしまって、部屋で寝ろと注意されたんだけれども、ねえ? あそこで寝るからいいんだよ、なんなら騎士殿も一緒に、なんていう誘いをかけていたわけで、そこにヒルド殿が現れたと」
「はあ」
「でも彼と行動を一緒にしていたはずの君は全然現れないだろう?」
「はあ…」
「そうしたらね、んふ」
 リスカはちょっと身を引いた。そういえばツァルに真正面からしがみつかれているのだった。
「熟睡していると思っていた死神殿がね! 突然起き出して広間を出ていった。と思ったらまた戻ってくるし、と思ったらまた出ていくし。落ち着かない様子でうろうろしていたんだよね。気難しげな顔をしてね」
「は」
「で、見守っていると、ほんの少し前に、突然奇行が終了した。また何事もなかった感じで毛布に潜ったんだよ。なんでだろう、そう思っていたら、君がこうして戻ってきたというわけ」
「ひ」
「気配は地獄そのものだけど、かわいいねえ、あの人! 私はもう甘酸っぱくて見ていられない。そら、はやく会いにいってあげなさい」
「ぅひ」
 ツァルが笑いながらくるっと位置を変え、慌てふためくリスカの背を押した。

小説TOP)(花術師TOP)()(