窃盗レディと百年紳士:4
「冗談じゃねえ、俺が命令しているんだよ、土下座しろとな! 女が大事なら、犬のように這いつくばってみろや」
前田くんは意気込んで、がうっと吼えた。
こう言っちゃなんだが、気違いじみた坂本と比較すると前田の台詞の方がまともに聞こえるあたり、悲しいものがある。こいつは逃げようなんてさらさら思っていないもんな。坂本に屈辱を与えて恨みを晴らすことが目的なんだし。
「うん、それもそうだね」
と、坂本も眼鏡を指で押し上げつつ、真面目な顔で納得した。お前が敵の意見に賛同してどうする。
「僕の白雪姫が傷つくのはイヤですし。うん、傷を与えるのは僕だけで」
「ごちゃごちゃ言うな! さっさとやれ!」
「えっ、ヤレ?……犯れ!? こここれはその、ギャラリーの前で犯れと」
うつけ者ッ。その「ヤレ」は、意味が違う。
ほら見ろ! 前田くんの額に怒りのマークが浮かんだぞ。
「犬のように這いつくばるってことは、つまり、ひひひ一人プレイでありますか」
坂本の台詞は変態専門の線路を全速力で駆け抜けていた。恐らく機関車トーマスもかなわない速度だ。
坂本、お前を一度生き埋めにしたいと心底思わずにはいられないぞ。
あはん那智くんどうしよう、僕、ギャラリーの前で一人プレイは初めてでありますよ初物でありますよ、と歓喜の悲鳴を上げつつ那智の肩を揺さぶり始めた坂本を眺めている内に、千春は自分の純粋な心が邪悪な色に染まっていくのをめっきりはっきりと感じた。
自分の危うい状況を忘れて前田に「ヤッチマイNAッ!」と言えたらどんなにスカッとするだろう。
「てめえ、調子に乗ってるんじゃねえ。この女殺す」
と、前田くんの目が怒りと殺意の色で濁った時――
「土下座でいいの?」
坂本は前後の脈絡を吹っ飛ばし、けろっとした顔で平然とたずねた。
はっ?
どこか噛み合ない二人の会話――いや、坂本の穢れた受け答えが原因なんだが――に、千春は仰天した。
坂本が首を捻り、何でもないことのように頷いて、えらく気軽な足取りで千春に近づき、抵抗も見せずに両膝を折った。
何のこだわりも感じさせない坂本のさらりとした態度に、展開をわくわくと見守っていた全員が呆気に取られた。
坂本はあっさりと土下座したのだ。殿様にへつらう家臣のようにハハーと。
男のプライドはないのか坂本、と千春は自分の身の危険も忘れて叱咤したい気分になった。
さっきの、かかってこい、という挑発は一体何だったんだ。あばらの一、二本、折れるのを覚悟し少年漫画のごとく人間離れした跳躍を見せてバトルにもちこんだらどうだ!
「……犬になれって命令しているんだ俺は!」
何つーか、実はやけくそというか予想外の展開に驚いているだろう前田は、それでも何とか坂本に恥辱を与えようと必死に頑張っていた。あ、何か俺、「世は無常」っていう鐘の音が聞こえた……。
「犬かー。うー、わんわん」
さ、坂本……、いいのかお前の人生それで。少しは恥じらえ苦痛を感じろ悔し涙をのめ! というかお前は本当に噂の百年囚人なのか?! 千春の心は九割ほどダークサイドに寄っていた。いや、この一瞬だけは、前田の味方であると断言してもよかった。
そもそもお前、全然へこたれていないというより、むしろ玩具を手中にした子供のように楽しげなのはなぜだ。
室内は異様な空気を漂わせて凍り付いていた。犬の鳴き声を工夫して喜んでいる坂本以外に口を開こうとする者はいない。外でも勃発しているらしい暴動のざわめきが微かに聞こえて、「あっちは緊迫感溢れる正常な戦いが繰り広げられているのね……」と、もの凄く虚しい気分になる。
「ああ、あとは何だっけ? 泣いて謝って欲しいのでしたか」
ちょっと待って、と坂本は健康食品のCMに出演できそうな、すこぶる爽やかな笑顔で言った。そして、なぜかいきなり忙しなく瞬きをし始めた。
「んはーん、ごめんなさいー」
と坂本は、瞬き連発という荒技で涙を流すことに成功したあと、にこにこしながら誠意の欠片もない謝罪の言葉を口にしていた。
坂本、お前の態度はある意味、壮絶に前田を侮辱している。
それよりもなぜお前は俺を見上げて頬を染めているんだっ。見るなら前田にしろッ。
イヤだ、お前の目は間違いなく「女王様、次の命令、いや、罰を与えてぇーん」ってな意味合いに染まっている!
違うぞ坂本、前田はそういう意図で屈辱や恥辱をお前に与えたかったわけじゃないんだ、正気に戻れッ。
……駄目だ、こいつは完全に羞恥プレイと勘違いして悦んでやがる。
可哀想に、前田くん。俺は全力で同情するぞ、相手が悪すぎる。こいつは狂人と悪人のエキスをどろどろに配合した、そう、究極の変(態)人だ。
と、折角憐憫の情を抱いてやったのに、我慢の限界に達して逆上した前田は咆哮したあと、千春の頬を手の甲で思い切り殴打しやがった!
千春はその衝撃で激しく左肩を床に打ち付けてしまった。痛みで一瞬、目の前が白くなった。
ぎゃー! 痛え馬鹿野郎ッ。
――そう叫ぼうとした時。
千春が悲鳴を上げるよりも先に、尾を引くような凄まじい叫び声が聞こえた。
「……あ?」
千春は中途半端に起き上がった状態で、視線を周囲に投げた。
坂本は土下座した体勢のまま、動いていない。
けれども。
千春は放心した。いや、目を疑った。
坂本はいつの間にか両手に何かを握っていて、それを前田の足の甲に突き刺していたのだ。右も、左も。
何だ、あれ?
千春はゆっくりと瞬きした。
細く長いもの。
――箸?
二本の箸が、前田の両足の甲に、深く突き刺さっている。
「まじっスか……?」
千春は呆然と呟いた。
坂本は晴れ晴れとした笑みで、千春を振り向き、こう言った。「まじっスよ」と。
「勝負あり〜」と那智がつまらなさそうに言った。毎度あり、と八百屋の親父が言うような口調でだ。
きらきらと輝く坂本の目には、不思議なほど引力があった。
こいつは決して美形とか格好いいなどという褒め言葉は似合わない。ぱっちり二重とはいいがたい奥二重だし、髪型はやばい上、若白髪もあるし、見るからにひょろっとしていて脆弱そうだし。全体的に薄口なつくりなのだ。
しかし、美貌とは異なる意味で、なぜかひどく端正な顔立ちに見えてしまう。その理由に千春は気づいた。坂本の顔は、左右対称なのだ。まるで絵に描いたような精巧な整い方をしている顔貌なのだった。千春は寒気がした。こいつは引力の塊だ。
「よーし! 今日のテーマは吸血鬼なのであります!」
突然坂本が高らかに宣言した。
やっほぅー! と坂本は歓声を上げた。そして身軽に飛び上がり、くぱっと口を開けて、痛みにもだえる前田の太腿に本気で食いついたのだ。前田は目が飛び出すほど仰天して裏声混じりの凄まじい悲鳴を響かせた。
もうそこからは怒濤の展開だった。
前田の手下らしき囚人達とその他の囚人達が怒声やら雄叫びやらを発しつつ、乱闘を開始したのだ。千春は床にへたりこんだまま放心しながら、嬉々として殴り合う囚人達を目に映していた。那智がぎゃはははと心底愉快そうに笑い、飛びかかってくる囚人を素手で殴り倒してとどめに回し蹴りを食らわせていた。それまで静観の姿勢を保っていた看守達もようやく動き出し、警棒を振り回して事態を収拾させるべく動き始めた。オンボロスピーカーからは、是非とも空耳と思いたいが『そこだ、やれっ!』と興奮した所長の声援が聞こえた。
ああ俺ってばマジで悪魔が乱舞する魔窟の中にいるのね……と千春は麻痺した頭の片隅で虚ろに考えた。とても無事に外の世界へ生還できるとは思えない。いっそ俺もやっちゃうか、この乱痴気騒ぎに参加しちゃうか? と自分自身に問いかけた。
泣き喚く前田を突き飛ばした坂本の口の周りは、グロテスクなくらいに真っ赤な血で汚れていた。こいつはマジでいかれてる。実はお前の正体、吸血鬼なんじゃないだろうなと千春は真剣に怯えた。
坂本は恍惚とした表情を浮かべ、掌で淫らに口元の血糊を拭った。どこか酔い痴れた顔で手に付着した血を見つめ、それを甘い蜜のように丹念に舐めていた。
千春は常軌を逸した坂本の行動にびびりまくっていて、逆に目が離せなかった。ふと坂本がこちらへ視線を投げ、この場でしか浮かべられないような完璧な微笑を見せた。
やべえ! と千春は本能で危機を察した。食われる、身体中の血液を吸われる! と千春は全身をがくがくと震わせた。誰か銀の十字架アンド杭を持ってきてくれ。
っていうか、杭代わりの箸で前田の足を貫いたこいつが救世主なのか。吸血鬼は前田の方とか。いや、血をうまそうに舐めているのは坂本だ、などと千春は激しく混乱した考えを抱いていた。というより最早、坂本を人間扱いしていない千春だった。
はっと気がつくと、血に汚れた坂本の顔がすぐ側にあった。
え? え? え? と千春は疑問符を全世界へ向けて一挙に放った。
「チハルちゃん、いただきます」
うがぁ!? と千春が叫びかけた時、坂本にぐいっと腕を引かれた。そして。
ちうっ、と。
やたら錆びた気味の悪い血の味がダイレクトに流れ込んできた。
「――――――!!!!??」
視界がぼやけていますハインライナー提督、我々の艦は転覆します! と千春は頭の中に突然誕生した、金髪碧眼四十代の精悍な総司令官に訴えた。
ぎゃあああー!! と千春は内心で魂が消滅するほど凄絶な悲鳴を上げた。実際にも絶叫したかったが、それができない恐ろしい状況に立たされていた。
がっちり押し倒された上、背中をもぞもぞと撫で上げられ、更には呼吸を奪うように、くむっと唇が、唇がッ!!
せせせめて初々しくバードキッシングにとどめてくれー!! と千春は溶解した意識の中で間違ったことを考えていた。
ぞわっと一瞬で鳥肌が立ったのは当然の反応だったが、衝撃的すぎて抵抗できなかった。嘘だ神様、こんな現実あるもんか、と千春は自分の繊細な精神を守るため現実逃避しかけた。
「んー」
と幸せの絶頂にいるかのような坂本の吐息に、遠退きつつあった千春の意識が浮上した。
五秒! 五秒もすりゃ十分だろッ、と千春はじんわり涙を浮かべた。ああ最悪だ。離せ変態、悪魔、吸血鬼、痴漢!
「んくっ……!」
あぁっ、それはまずい。角度を変えるなっていうか動かすなっていうか、くく口を開けようとするなっ!
んぐぐぐ、と千春は喉の奥で呻いた。柔らかな薄い唇が執拗に押し当てられて逃げ場がなかった。初めは冷たかった唇が次第に熱くなり、目眩のような刺激に変わりつつある。これで次の深みにはまって変に音とか立てられたら、千春は多分気絶する。
坂本の前髪がはらりと千春の額に触れた。顎を掴むなー! と動揺した瞬間、強引にキスの角度を変えられて、口をねじ開けられた。あ、気持ちいい……、じゃねえッ! 飛んでいく、理性が!
お前はどーしてこんなに手慣れているんだ!
道を踏み外すよ孔子様……! と千春はなぜか昔の偉人に切なく訴えた。
という痛切な千春の祈りが届いたのか、血の匂いが漂う悪夢のような口づけは深さを増す前に、突然中断された。
絶望と脅威を感じて息が乱れていた千春の視界に、北原兄によって引き離される坂本の姿が映った。
「あああっ、眼鏡! 眼鏡落ちました!」
いきなり引きずられたため、坂本の眼鏡がふっとんだらしい。お前は漫才師かと突っ込みたくなるほど、おろおろと坂本は眼鏡を探していた。
「――大丈夫ですか!」
と、先程前田にぶん殴られた看守が、魂を飛ばしている千春の腕を掴んだ。
全然大丈夫じゃないです、むしろ死にかけ。どうせ助けるならもっと早く救助してくれよ、と千春は世界の全てを呪い恨んだ。
ふと見ると、那智が人間離れした強さを発揮して、囚人達をなぎ倒していた。殆どの囚人は那智の力に恐れをなして大人しくなっている。どうやら乱闘は喧嘩好きな那智の活躍で鎮圧されつつあるようだった。
「チハルちゃーん」
あ、何か悪魔な囚人の声が聞こえた……。
がっちりと北原兄に捕獲されている坂本が、千春を再度混乱、恐怖、「貴方の知らない怪奇世界」へ突き落とすかのように、気障に投げキッスを寄越してきやがった。殺る、こいつはいつか必ずかっさばく、と千春は心に強く誓った。
こうして千春の慰問会は、ストロベリーテイストならぬブラッドテイストな囚人の口づけで幕を閉じた。
●●●●●
その後、千春は二人の看守に警護されながら、医務室へと移動した。
念のために検査を受けることとなったが、千春の疲労度、悲しみ、怒り、絶望などがあまりに色濃く漂っていたためか、所長が気を利かせて軽い診断だけですむようにとりはからってくれた。
千春は放心状態だったため、この時の記憶が殆ど残っていない。
ようやく事実を直視する勇気と理性を取り戻したのは、まさしく悪の巣窟である刑務所を出て、迎えにきた北原刑事と対面した時だった。
ああこいつが、この刑事が諸悪の根源、元凶なんだ……と千春は怒りに震えた。
殴る、こいつをけちょんけちょんにしないと俺の心はいつまでも青空を忘れたままなんだッ、と千春は拳に力をこめた。
だが。
「おや。赤い口紅かと思いましたが、唇に血がついてます」
萎えた。
「意外に紳士的だったでしょう、噂の百年囚人。皆、彼に会うと想像していたのと違うって驚くんですよねえ」
一気に怒りが消し飛んだ。
「う……」
「はい?」
不思議そうに北原刑事が首を傾げた。
千春はキッと顔を上げ、そして――
うわぁあああぁあぁぁーあん、と盛大に男泣きした。
誰が何と言おうと、男泣きだ。
●●●●●
で、それからどうなったかというと。
とりあえず、北原がビジネスホテルに部屋を取ってくれて、そこで着替えやら刑務所内での出来事について調書を作成する手伝いやらをした。
んでもって、北原がトイレに立った瞬間に――千春は、逃亡した。
冗談じゃねえ、二度と化け物が跋扈する刑務所の慰問会になんか行くものか!
あぁまだ唇に、奴の、悪魔の、ぎゃー!! としか言えない感触が残っているのだ。何が嬉しくて野郎とキスしなきゃいけないんだよ。絶対に、あんなイカレタ慰問会はもう嫌だ。
次に行ったら間違いなく操を奪われること確実だ。「あの化け物共、俺の豊満な身体が目当てなのねッ」って一瞬思ってしまった自分が少しだけ憎い。北原刑事に関わると、人生を狂わされるとよく分かった。恐ろしや。
このまま遠くへ逃げちゃえ。
曲がりなりにも千春はプロの窃盗犯。住所は不定期に変更しているし、携帯は使い捨ての足がつかないやつを使用しているし、本気で逃げようと思えば北原の目を誤魔化すことくらい朝飯前だ!
今まで軽犯罪的な仕事しかしていないけれど、腕前のみは怪盗ルパンにひけをとらないと自負している。ただちょっとその、いつも最後に手抜きをして、捕まってしまうんだなこれが。
よぉし、今回は気合いを入れて逃げようじゃないか。金輪際、女装はしたくないしな。
千春は固く決意しながら上着のポケットに手を突っ込み、雑踏の中へ消え――ようとして、足をとめた。
ポケットの中に、なぜか折り畳んだ紙が入っていたのだ。
千春は凄まじく不吉な予感を抱いた。俺のシックスセンスが覚醒した……と、千春は呟いた。その紙から途轍もなく邪悪な気配が漂っている。駄目だ、この紙を見てはいけないぞ、早く投げ捨てるんだ! と千春の中で訴えるもう一人の自分がいた。しかし、見なければ見ないで、更なる凶悪な事態がぱかっと口を開いて千春を飲み込むのではないかという恐れに苛まれること間違いなしだった。どうする、捨てるか、見るか。
好奇心は、千春の未来を殺した。
戦々恐々と開いた紙には、次のような内容が記されていた。
『東條さんへ
うーん、この紙を見ているってことは、あなた、やっぱり逃げたんですねえ。
でもね、東條さん、私があなたを易々と逃がすようなへまをすると思いますか。いえ思いませんよね。あなたの行動なんてお見通しなんですよ。
さて。
あなたを私の手で蹂躙……ではなくて、あなたに戻る意思を与えるには、この方法しかありませんね。
ねえ、東條さん。
実は私、女装したあなたの姿を隠し撮りしました。
っていうかぁ、お約束のナマ着替えですよ。撮らないはずがない!もうバッチリエロなショットで撮らせていただきました。
たとえば後ろ向き半裸とか。ミニスカで微妙に屈んでいるところとか。その他、あーんな姿や、こーんな姿態を激写!
いやいやいや、エロリズムなチラリズムですか、実に男心を落としてくれますよねえ。
あ、ちなみに隠しカメラも設置してました。いやあ、現代のハイテク機器、素晴らしいですね。あらゆる加工も大量生産もお手の物です。
いいですか、東條さん。
戻ってこないと……。
あなたの写真、オカズにしますよ、私』
読み終わった瞬間、千春はその場にがくりと膝をついた。
更に、追記があった。
『囚人達に、写真、売っちゃおっかナ〜』
千春は街の人間全員が振り向くほどの大音量で、絶叫した。
千春はこうして月に一度、とある刑事の脅迫により、無敵に過激なレディに変装するという運命を背負わされることになった。というか、逃げたくても逃げられないおぞましい罠に引っかかってしまったのだった。
未来はたぶん、別の意味で薔薇色だ。
■窃盗レディと百年紳士 END■
(倉庫TOP) (戻)