窃盗レディと百年紳士:3
北原ブラザーと、普通人の看守に連れられて、ああ、千春はとうとう、悪魔達の前に立たされた。
怖ーっ!! と千春は、胸中で絶叫した。
慰問会の開催場所は、学校の体育館を少し狭くしたような部屋だった。というと、実に爽やかな青春グラフティを連想しそうなものだが、窓という窓にはがっしりと鉄格子がはめられており、出入りするための二つの扉には、北原ブラザー達を含めた看守くんが合計六人、見張り番をしている。
っていうか、少ないだろ、六人じゃ! 二十人くらいの体勢で警護してくれなきゃ、俺、安心できない!
千春が泣きたくなるのも当然で、教壇めいた簡易ステージの前には、総勢五十人程度のヤバ系囚人が集められていたのだった。
ああ嘘だこれは神様きっと何かの冗談ですよね、と千春はブッダやキリスト、観音様、シャーロック・ホームズなど、とにかく思いつく限りの奇跡を起こしてくれそうな尊い人々に祈りを捧げた。いや、ホームズはどうかと思うが、犯罪人のあしらいが得意そうな気がしたし。
一見、この光景って学校の行事みたいだよね、そうだそう思おう、と千春は必死だったが、同じ制服であってもこちらは、妄想をかき立ててくれる女子高生のミニスカや目映い生脚などではなく、味も素っ気も色気もないブルーの囚人服。威圧感、恐怖感、目の据わり方、椅子の腰掛け方、身長、体重、野性的オス度、心のどす黒さ、邪悪さ、危険度など、その他諸々、全てにおいて天と地ほど、学校の生徒達とは差がありすぎた。
大体、噂の百年囚人って、どいつだよ!?
そいつにだけは絶対関わらないでおこうと千春は誓っているので、まずは目標物の特徴を知っておきたく、さりげなさを装い、囚人達を見回した。わ、分からねえよ、どいつもこいつも凶暴そうな気配に満ちている。すげえ、これほど澱んだ空気を体感したのは生まれて初めてだ。
ああ、いいのか、こいつら、ヤンキーっぽく姿勢を思い切り崩して椅子に腰掛けているじゃねえか。少しは注意しろよ、看守達。
千春が恐れていた通り、丸刈り、唇ピアス、鼻ピアス、タトゥー、筋肉馬鹿がよりどりみどりだった。最早ここは日本じゃない。駄目だ、俺は間違いなく死ぬ。そんな危機感を容易く抱かせる。
千春は半泣きの目で、扉の前に立つ北原ブラザーを見つめた。くそっ、笑いかける前に、俺を救出しろ!
千春は音を立てて唾液を飲み込んだ。思いっきり震えまくる脚で、教壇的なステージに上がる。もう何て言うか、手と脚が一緒に動く。ぎくしゃくとステージに立った千春に、普通人的な看守が近づいてきて、マイクを渡してくれた。
「堂々と。怯えた態度を取ると、なめられますよ」などと忠告してくれたが、傲慢な態度を見せて逆上されたら、どう責任取ってくれるんだ。
というか、舐められるという言葉に含まれる意味って何だい、既に視線で全身舐められているのは俺の気のせいか、そうだよな、と千春は虚ろな目をした。
千春がステージに立っても、拍手の一つさえない。今にも爆弾が落ちそうなほど緊迫した空気に包まれていて、誰も口をきこうとしないのだ。何だよこのえらく寒々しい殺伐とした雰囲気は。
千春の精神は、限界を越えた。恐怖のバロメーターが、理性にサヨナラを告げてふりきれたのだ。
ぷつっと平常心からの交信が、絶えた。
千春は、マイクの電源を入れた。
ジーザス、天国で会おうぜ。
「――こんにちは」
誰が喋っているんだ、いや、俺ですとも、ええ神様。
「皆サーン! お元気ですかぁ?」
こうなったら――俺のキャラは、キャピキャピガールだッ!
千春は某漫画のように、千の仮面を持つことにした。
「ハァーイ! アタシ、チハルって言いまーす! ヨロシクねっ」
ウインク決めて、ギャルポーズでご挨拶だ畜生。
目覚めろ、俺の中の女優魂。このミニスカや化粧は、そう、いうなればスパイダーマンの衣装と同様さ!
……と、ここまで決意したというのに、ものっ凄く冷え冷えとした強烈な沈黙が降りた。大気を凍らす静寂だった。囚人に冗談は通じないのか、はたまた千春が実は男で女装していることがばれたのか。一応、裏声で喋ったのに俺の苦労はあっさり気泡と化したのか? ああ王子さま、人魚姫は儚く自害して海の泡と消えるんだよ。でも俺だったら間違いなく自分を助けるために王子を始末するね。っていうかその前に、声を出せないっていうんなら、色々と誤解を生むより早くボディーランゲージで滅茶苦茶自己アピールして、王子を落とすさ。
何を考えているのか自分でも分からなくなってきた。世の中はクレイジーだ。
「やーん、チハル、刑務所って初めてでぇ、キンチョーするぅー。おねがーい、仲良くしてネ」
寒い。心も身体も足元も寒すぎる。俺に一体、何が憑依したんだ?
「お返事してくれなきゃ、チハル、嫌っ!」
必殺、拗ねて甘える上目遣い攻撃だ。
……なんて、両手で頬をはさみ、唇を尖らせた時、がたっと誰かが立ち上がる音が聞こえた。千春は素で青ざめ、ざざっと身構えた。殺・さ・れ・る。
「ひー! ごめんなさいごめんなさい、殿様、大統領っ、平にご容赦を!」
なぜか時代劇混じりの謝罪を千春はした。土下座してもいいっていうほどプライドが霧散した。
「――最高だ!!」
「ひいっバラバラ殺人だけは……っ……え?」
視線がかちあっただけで心臓の悪い者なら卒倒するだろうと確信してしまうような凶悪的ご尊顔の囚人がふるふるっと拳を握り、溶岩並みの熱い眼差しで千春を見据えていた。なぜか次々と、囚人達が感極まった様子で椅子を蹴倒し、立ち上がる。
な、何だ?!
「最高だッ、チハルちゃん!!」
「は…?」
「可愛い、くそう、生脚か!?」
「天使だ、ラブエンジェル降臨だ!」
チハルはぽかんとした。突然、ライブコンサートのような熱狂の渦に包まれる。濃すぎるぞ、お前ら。
「仲良くしようねチハルちゃん!」
したくねえ。
「俺のスリーサイズ、聞いてくれっ」
聞いてどうするよ?
「ハゲ専とデブ専、どっちが好みなんだ!?」
究極の選択はヤメロッ。
「ズランドルハー神の名のもとに二人で愛の誓いを交わし、神聖な裸の儀式を……」
どこの神だ、それは。
「好きだ。ゲッチュー」
一秒以内に顔洗ってこい。
「ヤラセロッ!」
俺が、殺・ラ・セ・ロ・ッ!
「チハルちゃん、二人で野性に戻ろうや!」
お前の顔は十分、原始人の部類だ。それ以上、人間性を失うな。
囚人達のあまりの濃密さ、室内に充満する妄想的熱気に、千春は絶句していた。餓えている、こいつらは間違いなく、様々な欲望に餓えまくっているじゃねえか。
怖すぎる。看守の存在があってもなくても、ヤバ系プレイに巻き込まれそうな明確な危機感が募った。っていうか、おいそこのお前、なぜ俺の生脚を見て前屈みになっているんだ。嫌だ! 同じ男として、それが一体何を示すのか分かる分、えらい嫌悪というか悪寒めいた虫酸が走る!
「お前ら、静まれ。チハルちゃんが怯えているだろうが」
ぞくっとする低い声がして、一気に室内が静まり返った。
ぎょえっ! と千春は後ずさった。赤裸々な欲望に燃える野郎共の中で、やたらと貫禄のある声だった。
「――よお、チハルちゃん」
馴れ馴れしく声をかけてきたその男を、千春は戦々恐々と見つめた。長い脚を組み、腕組みまでして、更には完全悪役のニヒルな微笑を唇に浮かべつつレーザーを発しそうなえらく据わった目で、千春を見返すガタイのいい奴。三十代前半あたりか? 苦み走ったイイ男かもしれんが、どうしようもなく真っ黒な悪の気配を醸し出している。
「あ、ああああ、あなたサマはもしや噂のひゃ、百年囚人様……?」
千春は混乱するあまり、余計なことを聞いてしまった。
あたりはしんと凍り付いている。
男は一度、呆気に取られた顔をしたが、なぜか盛大に笑い出した。腹を抱えて大爆笑している。椅子から転げ落ちそうな勢いだったので、隣にいた妙にひょろっこいパシリ的もやし男が心配そうに見つめていた。こっちは間違いなくオタクボーイだ、その前髪の垂れ具合や色白さを見る限り。
悪魔の親分的な男は、しつこく笑いつつ、椅子から立ち上がった。でけえ! お前、身長百九十センチ以上あるだろ!?
そいつがこっちに近づいてきたもんだから、千春は「ぎゃええええ!!」と怪獣並みの悲鳴を上げて後退りした。
自分がステージに立っているという事実はすっかり失念していた。ちなみにこのステージ、壁際にぴったりくっついているもんじゃなくて、あくまで臨時として室内のほぼ真ん中あたりに設置されたものだ。といわけで、当然、後退した千春はステージから落っこちかけた。まあ、三十センチも高さのないステージなんだが。ただ、ミニスカの時にはスッ転びたくないよねってな心境ではある。
「ひー!」
「……っと」
ひっくり返って、あとちょっとで背中が床に激突するという時、抱きとめられた。ああっそれはイヤッ。男のアップなんて、うざすぎる。
蒼白になる千春に、そいつはにやっと獰猛な笑みを見せた。ら、ライオンくんだ!
「俺が噂の百年囚人サマ、って言ったら、どうする?」
耳元で囁かれて、千春は死にかけた。ああ、俺、どうしよう……。
「そら、チハルちゃん、楽しませてくれな」
百年囚人サマは、棒のごとく硬直している千春をステージに戻してくれた。
――その後のことは、殆ど記憶にない。
ただ、なんとなく自分が浜崎○ゆみやら大○愛やらの歌を熱唱し、挙げ句、どこかの某ドラマに出てくる極道の女教師みたいに「いいか、おめえら、友情ってのはな!!」などと囚人相手に説教した覚えが、微かにある……。
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地獄の、いや、嵐のステージがようやく終わった。
熱唱したため、千春は完全燃焼していた。燃え尽きて、真っ白になった気分だ。
俺、やっと猛獣達から解放されるんだな、と千春は内心で涙を流しつつ歓喜した。こうなると現金なもので、笑顔の一つや二つサービスしたくなるものだ。千春はにこやかな微笑を顔に張り付けて、意気揚々とステージを下りた。
だが、天使は千春を見放したようだ。
ステージを下りた瞬間、いかにも「問題事が発生しちゃったよ、ソーリー!」ってな感じの耳障りな警報が刑務所中に響き渡ったのだ。
千春は笑顔のまま、固まった。何ですか、波乱の訪れを予感させるこの不吉なサイレンは。
「チハルさん、こちらへ」
唖然とする千春の腕を、厳しい顔をした看守の一人が掴んだ。ざわざわと囚人達が騒ぎ、なぜか実に興奮した様子で色めき立っている。
北原兄が笛を鳴らして囚人達を静めた。
その時だ。
囚人の一人が、どういうわけかこっちへ向かって突進してきたのだ。
はあっ? と愕然とする千春の視野に、血走った目をした囚人が映った。瞬きするよりもはやく、千春の腕を掴んでいた看守が、接近した囚人に渾身の力で殴り飛ばされていた。
おいおいおい暴力反対だ、ラブアンドピースの精神はどこへいった!
千春は思わずホールドアップの体勢をとり、自分が無害であることを全力で主張した。俺は無抵抗、武器も所持していない善良な市民で、尚かつベジタリアンな平和主義者だ!
「来い!」
ぎょわわー! と千春は女装していることも忘れてごつい悲鳴を上げた。接近した凶暴なはげ頭の囚人に骨が軋みそうなほどの馬鹿力で腕を掴まれ、引きずられたのだ。
「来るんじゃねえ!」
近づきかけた北原兄に、ラブアンドピース精神溢れる千春を人質に取った卑怯卑劣な囚人が口角から唾を飛ばして叫んだ。借金取りが一般市民を相手に恫喝する時のようなえらい迫力があり、千春は本気でびびった。こいつの身体から、悪霊のごとき黒々とした恐ろしい邪悪なオーラが放たれている! 悪魔降臨か?!
「こいつの首をへし折るぞ」
まままさかお前のいう「こいつ」って俺のことか、そうなのか!? と千春は青ざめた。何をしてもいい、お前が誰を呪い殺してもかまわん。ただし俺を巻き込むな、条件はそれだけだ!
ふっと千春は意識が遠ざかりかけた。恨む、恨むぞ、繊細な俺をこんな悪魔の巣にぶちこんだ北原刑事。
このはげ頭の仲間らしきいかつい囚人数名がなぜか、そう、なぜか! 出入り口に椅子やら何やらでバリケードを築き封鎖しやがった。おいおい、この異様な展開はなんだ。「僕らの○日間戦争」でもやるつもりか? どっちかといえばリアルを通り越してシュールな空気すら感じる監獄版バトルロワ○ヤルか?
待てよお前達、普通こういう時はさあ、清く正しく王道的に脱獄を企むもんじゃないか。それがなぜ篭城に走るんだ。
「外で暴動を起こしたのはこのためか?」
やたらと余裕しゃくしゃくな百年囚人様が、そんな訳の分からんことを聞いてきた。
えっ、ミニスカガールな俺を拉致るため? と千春はまったくどうでもいいずれた勘違いをした。
「みみっちいな、お前のやることは」
馬鹿野郎、単純凶悪なはげ頭を煽ってどうするんだよ! こういう単細胞な奴は、嘘に嘘を巻いたような美辞麗句でヨイショしまくってだまくらかすのが一番だろうに!
「だ、駄目ですよぅ、そんなことを言ったら……チチチハルちゃんが人質に取られていますぅ」
意外や意外、パシリ的オタクボーイな風貌の囚人が黒ぶち眼鏡を指で忙しなく押し上げつつ恐る恐る百年囚人様の袖を引っ張り、ちらちらと千春を心配そうに見ながら、蚊の鳴くような声音で至極まっとうな台詞を口にした。
偉いぞひ弱君! 見直した、俺の味方はお前だけだ!
しかし、はげ頭は、決死の覚悟で牽制してくれたパシリ君の努力を鼻で笑い、床に唾を吐くような勢いで不快極まりない暴言をまき散らした。
「うるせえ黙れ。おい、この女、お前の女だってなあ? お前が女会いたさに看守を手懐けてこの場を設けたんだろ?」
聞き捨てならんぞ、はげ頭。
俺が、だ・れ・の、オンナだ!
怒り狂ったはげ頭が、捕獲前の野兎のごとく怯えるパシリ君と薄笑いを顔に張り付けているガタイのいい百年囚人様を、交互に睨みつつとんでもなく見当違いな言葉を発した瞬間、ギャラリーの囚人達が雨上がりの空に架かるレインボー的に様々な反応を見せた。
他人の不幸と揉め事が大好物な野次馬と化した囚人達は口笛を鳴らして喜び、看守達はなぜか見守る構えを取り、肝心の百年囚人様は爆笑した。ちなみにオタクボーイは挙動不審に狼狽しつつも、俺と百年囚人様とはげ頭とその他大勢を順番に眺めていた。
「お前の前で真っ裸に剥いて犯してやろうか、この女」
やべえよそれは!! 第一俺は男だぞ。
というか、何なのだこの素っ頓狂な展開は。
俺が推測するに、つまりこのはげ頭は脱獄のチャンスをふいにしても気にもならんほど百年囚人様に恨みつらみがありまくりで、どんな汚い方法でもいいから貶めてやりたいってな感じだろうか。
それが俺を強姦……に結びつくのかよ、おい!
俺は無関係な人間だぞ畜生。
「馬鹿だねえ、わざわざ復讐のために暴動を起こして時間稼ぎをしたってか?」
馬鹿だ、馬鹿すぎる。もっと言ってやれ。
「てめえらをぶち殺すために決まってるだろうが」
「ははー、成る程。こっちの仲間を引き離して多勢に無勢で責めようという、肝の小さい馬鹿たれが考えそうな何とも阿呆らしい浅薄な仕返しネ」
百年囚人様は腕を組みつつ、ははんとわざとらしく頷いた。
千春は胡乱な眼差しを周囲に投げた。囚人の半分ははげ頭派、残りの殆どは中立派って感じだな。百年囚人様の子飼って感じの奴はせいぜい数人という程度だ。
どうでもいいが看守ども、お前達は全く役に立ってないじゃねえか。不測の事態にも対応できるよう、普通は拳銃とか所持してないのかよ。このはげ頭の額、ぶち抜け。俺が笑顔で許可する。
と念じて北原兄を睨んだ時、視線があった。北原兄は唇を動かし、声には出さず「静かに」と千春を牽制した。
何だ、どういうことだ?
千春は少し驚いた。よく考えれば、ここは腐っても監獄内。監視カメラが設置されているのだから、暴動の発生を知った監視員がこの場へ応援を寄越したりなどの迅速な対応が取られたりするものではないだろうか。
第一、喧嘩はからきしな、千春という清く正しい一般市民が危険に巻き込まれているのだ。しかるべき処置があるはずではないのか?
千春は咄嗟に顔を上げて、入り口と後方の天井に設置されている監視カメラを睨んだ。誰でもいい、気づいて応援を寄越せ。
――と。
『チハルちゃん、その顔、そそるよー』
いきなり室内の片隅に取り付けられていたオンボロスピーカーから、そんな間の抜けた声が響いた。
はい? と千春は放心した。
ねえ今、俺が監視カメラを睨んだ直後にアナウンスにあるまじきとぼけた声が、聞こえたような。
ってことは。
――しっかりこの場を観察している奴がいるんじゃねえかよッ!
「いやぁー、困った所長だなあ」
などと、のうのうと漏らしたのはどこまでも能天気な百年囚人様だった。
待て、待てよ、そうだ確かに今の声、あの馬鹿明るい所長のものじゃねえか。
『はっはっはっ照れるじゃないか、むしろもっと褒めてくれ』
馬鹿だ、ここの所長は正真正銘のお馬鹿さんだッ。むしろも何も褒めてねえし!
「な、何だ、どういう事だ!」
突然聞こえた暢気な所長の声に、はげ頭は激怒した。俺も倣って喚きたいぞ、状況が許すならな。
「さてねぇ」
人をくった返事を寄越すのは無論、百年囚人様だ。
「前田ちゃん、いいのか? 早くアクション起こさないと、時間切れになるんだが」
頼むから、はげを煽らないでくれっ。というかこの凶悪面のハゲ、前田っていう名前なのか。
「余計なことを抜かすんじゃねえ、この女、むしるぞ!」
むしる? むしるってどういう意味だ。
『むむむむしるって、キミ、千春ちゃんの服をか!? 引き裂いちゃうのか、ビリッと勢いよく?』
所長、スピーカー越しに口を挟むな。その前に何だ、やたらと期待溢れたお前の動揺は。
いや、室内のあちこちからえらく興奮した視線がこっちに向けられる理由は何だ。
千春が発狂しかけた時、喉にぐっとアイスピックに似た凶器が押し付けられた。ひっ。
ま、前田くん、どこにそんな凶器を隠し持っていたんだよ。
「泣いて謝れ、俺に土下座しろ。てめえの前でこの女、死ぬほど犯してやる」
ぺろりと耳朶を前田に舐められ噛まれた瞬間、周囲から雄叫びめいた歓声が上がった。千春はおぞましさ恐ろしさ、それにちょっぴりの怒りと屈辱に震え、青ざめた。
「やめとけ前田ちゃん、最終的にはお前が泣いて犯される」
百年囚人様が組んでいた腕をほどき、呆れたように言った。
「うるせえ!――てめえに言ってねえんだよ、どけ!」
何? と千春は一瞬、前田の言葉に疑問を感じた。
だが次の瞬間に、千春の疑問は、前田の居丈高な命令によって霧散した。
「余計な動きをしてみろ、この女の喉をかき切ってやる。――お前ら、やれ」
前田一派の囚人達が進み出た。こいつらの手には、それぞれ色々な形状の小さな凶器が握られていた。
「なあ前田ちゃん、お前はどこまでも懲りねえし薄汚い野郎だな。一対一でやり合おうという気概すらねえのか」
「うるさい!」
「まあ、そんな矜持があったら、こんなことにはならんわな」
どこか同情を含む目をする百年囚人様の様子に、前田はキレた。
「さっきから邪魔なんだよ、てめえは引っ込んでろ、那智!」
千春は顔を上げた。
那智?
違う、千春が聞いた百年囚人はそんな名前では――
「てめえが俺をはめたせいだ、よくも」
呟く前田の視線を、千春は恐る恐る追った。
「あのねえ、君が僕の目の届くところで馬鹿な商売をするからでしょう? 困るんですよ、そういうの。市場を勝手に荒らされますとね」
前田の言葉にはなぜか――パシリ君が答えた。
千春の頭の中には、ハテナが渦を巻いた。
もしかして、もしかして。
「ブタバコにだって、ルールはあるんです」
くすくす笑う、パシリ君の姿。長く繊細そうな指でぼさぼさの黒い髪をかきあげている。
見るからにひ弱でオタクで、根性、体力、気力その他、欠けていそうなのに。
目が合った瞬間、千春は戦慄した。
てっきりパシリ君だと思い込んでいた囚人の黒ぶち眼鏡の奥に見える目は、きらきらと獣のように餓えた輝きを持っていた。
「そういうの、逆恨みって言うんですよ、前田君」
「黙れ黙れ、てめえ一人に牛耳られてたまるか!」
「だって僕が一番頭が良いのだから仕方がない」
パシリ君は、ずっと千春を見据えながら前田と言い合っていた。
――要するに、刑務所内の縄張り争いで前田は敗北したって話のようだ。監獄映画でよく見られるように、パシリ君は囚人達相手に煙草やちょっとした生活用品などを提供する売人達の元締めで、ルール違反を犯した前田へ何らかの制裁を与えたため逆恨みされているという図式だろうか。
「でもいいです、今回だけは特別に、君にチャンスをあげましょうね。一対一でやりましょうよ。君が勝ったら僕が管理している市場を全て、譲ります。でも僕が勝ったら、殺します。かったるいのは嫌いなんだ」
束の間、周囲がしんと静まり返った。
『……いや、坂本くーん、殺してしまうのは少し困るなあ』
えへへ、と取り繕う所長の声がスピーカーから響いた。
――坂本!
十人以上を惨殺して、刑期が百年あるという残虐な囚人の名前。坂本次郎。
ここへ連行される途中に北原刑事に百年囚人様の名前を聞いたのだが、稀代の悪人でありながら実に平凡な名だな、と驚いたのだ。
この、見た目はどう考えてもパシリでしかないもやし君が、坂本!
「あああの、さ、坂本、って」
つい千春は口を挟んだ。
さっきまで、こいつが百年囚人様に違いないと勝手に思い込んでいたガタイのいい男が、千春の引きつった顔を見て、ぷっと笑った。
「あー、言っておくけれど俺の名前は那智ね。こっちがチハルちゃんのお目当ての百年囚人、サカモトサマ」
那智は唇の端を釣り上げて、ほわわんと笑っている坂本を指差した。
分かった、なぜステージで歌う前に皆が笑っていたか。千春が坂本本人のいる前で、那智を百年囚人と誤解したためなのだ。
こいつら、俺が間違ったのを知ってて喜んでいたな!
千春は思わずカッとして、パシリ君――いや、坂本を睨んだ。こいつが本物の、百年囚人?
千春が険悪な顔つきで睨むと坂本はなぜか顔を真っ赤にし、動揺していた。睨み返されても困るが、その反応も精神的にすごくイヤだ……。
『前田くんよ、君が勝ったら今回の暴動、なかったことにしてあげてもいいよ。ほら、ちゃっちゃとやらんと、外の暴動も収まってしまうじゃないか。そうなるといくら僕でも見逃せなくなるんだよねえ』
ふーっと煙草の煙を吐き出す音を挟みつつ所長がスピーカーを通してそんなやる気のないことを言った。
お前は本当に所長か? 刑務所の頂点に立つ人間としてあるまじきそのいい加減さは何だ? 高みの見物をしていて平気なのか、いや社会人として刑務所を統轄する者としてここは勇猛果敢に立ち上がるべきだと俺は思うぞ。
と千春が胸を痛めていた時、坂本が熱心にこっちを見つめた。
凄く背筋が寒くなった。
「ねえチハルちゃん、僕が華々しく勝利などをおさめましたら、うううちゅっと、その、キスしてくれます?」
……何? と千春は剣呑な眼差しを、一人妄想の坂道を突っ走って悶える坂本に向けた。
「褒美がないと、全くやる気にならんのであります、僕の可愛い白雪姫」
坂本はぐっと拳を握りしめ、馬鹿な発言をした。
アホー!! と千春は人質という立場を忘れて絶叫した。眉を逆立てた前田にぎゅっと凶器を強く押し付けられてしまったが。痛いよーくそ、と千春は心の中で泣いた。
「せせせ接吻、よろしくお願いしても」
「却下!」
千春は即座に坂本の懇願を一蹴した。
「えー。じゃあ僕、やらんのです」
むくれやがった!
『あっ駄目だよ坂本くん! 私は君が勝つ方に賭けてるんだから!』
所長、ぽろっと言ってはいけない台詞を漏らしたな。
『いい、いい。甘酸っぱい【ストロベリーテイスト・キッスゥィング】は私が許可するよ』
するな、ボケッ! ってか、めっちゃ無理無理なそのジャパニーズイングリッシュはどうなのだ。
「イッツデリシャス!! ストロベリー……ッ! ストロベリー……ストロベリ……ストロブ……情熱的にストロング…ッ、いやいっそのことロブスター……」
何だよ何なんだ、S字に身をよじって独白する坂本を誰か即刻退場させろ。というか、最後は何でロブスターに変わっているんだおい、お前はエビか? チハルは一瞬、焦げ茶色のオーラをまといながらグェッグェッと笑う真っ赤な巨大エビを想像して本気で気絶しそうになった。煮込んでやる、今すぐ五右衛門風呂でぐつぐつと……!
『坂本くん、言うなればキミは美しー純潔の乙女を救う銀翼のナイトオブナイト! 恋物語の始まりではないかね! まずは勇姿を見せんと、乙女の心と唇は手に入れられないだろう?』
坂本は、うっと呻き、頬を紅潮させた。
「純潔……! なんスかそれは僕に夢の帳を指し示す誘惑の台詞っスか。つまりそう、甘く香しい秘密の花園で手を取り合う乙女とナイト、行き着く先は黄金のベッドですね、いやはや毛布のごとき柔らかな草原で風に吹かれつつ身も心も解放というシチュエーションの方が僕的には美味しいのでありますが。無論どっちだろうと赤裸々でゴー。愛のベールを一枚一枚はぎとって、時間を忘れて官能パラダイス……これまたよろし! ああ恥じらい微笑む君は、きらり輝く真珠の首飾りに匹敵するのです……これは砂漠のロマンス、真夏の夜の夢……魔法の杖を持った妖精が、めちゃ即効性な催淫剤を三日分ほどばっちり枕元に用意しているのでありますよ。うしゃあ、やるか、やりますです果てしない海原に僕らの敏感な身体を預けて激しく弄り倒……いえ、聖母のような波に優しく抱かれるのであります!」
いひぃー!! という千春の情感溢れる悲痛な叫びを無視して、坂本は切なげに己を鼓舞していた。
おおお前の思考回路、レベルマックスの変態だぞ! マニアの域に達しているというより、最早変態道を軽く極め尽くして既に免許皆伝しているだろ。ホラーやソッチ系のDVDを自室の壁一面にずらりと展示している奴よりもハードな危険地帯的精神構造だ。
「さあ、僕の満ち足りた愛欲含むロマンス成就のため、かかってきなさい前田くん」
そう宣言した坂本……絶望的にイカレている百年囚人様は、にこりと微笑み気障なウインクをした。
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