わたしたちは石榴の中・1

 あなたの死は、無駄じゃない。
 そのキャッチコピーが全国に広がったのは、十年も前のことだ。
 一年後、死の概念を塗り替える森林資源有効利用法の改正及び、未来環境プログラム推進法が施行された。
 
 
「環境省自然環境保全対策局 地方環境対策事務所和歌山支部 和歌山市特殊環境企画管理局 特別調査官 遠藤千秋さん。……すっごい、呪文みたいに長い肩書きね」
 白井小夜子は眉をひそめてつぶやいた。
 千秋が差し出した名刺を食い入るように見つめている。
「白井さんの樹木化完了まで、私、遠藤がサポートいたします」
 千秋は穏やかな口調を心がけた。
 事務的に聞こえないよう、怯えさせないよう、柔らかく。ただし必要以上に依存されないよう注意しなければならない。相手に親しみを抱けば、その分あとで苦しむはめになる。
 千秋は、膝に置いたタブレットを見下ろす。画面に表示させているのは、『未来環境プログラム推進法』適用者の対応マニュアルだ。
 小夜子にはすでに封書での事前通知を実施し、企画管理局からもスタッフを送って、プロジェクトスケジュールの相談や推進法適用登録の意思確認を済ませている。
 だが、ことは自身の生死に関わる問題である。適用申請が承認された途端、激しい拒絶反応を示す、なんていう状況は決して珍しくない。対象者の多くは現実を受け入れられず、予測不能の行動を取る恐れがある。
 依存に注意とはいうものの、どこまで干渉すべきか、その見極めは難しい。推進法適用者本人やその家族に対するサポートについては、管理局でもいまだ方針が定まっていない。臨床心理士も手探りでメンタルケア対策に取り組んでいる状態なのだ。
 千秋が樹木化対象者の調査を受け持つのは、今回で五件目。執行手続きや付帯契約書の作成も完了済みであり、あとはそれらの最終チェックとサンプル用経過データの取得のみとなる。
 先ほどまでは、小夜子の家族もこの場に同席していた。
 本当なら各種書類のチェックもすべて終わっている。
 しかし小夜子は、まるで初めて聞くと言わんばかりに何度も説明を求めてくる。それでこうして同じ話をいちから繰り返しているのだった。
 三度目の説明を始めたあたりで、小夜子の家族は悲しげに顔を伏せ、居間から出て行った。小夜子に気にした様子はなかった。
 せがまれて、四度目。彼女はさっきまでの時間をリセットしたように、千秋の名刺を凝視する。呪文みたいに長い肩書き、という言葉を聞くのも四度目。
 会話をすることで気持ちを落ち着かせているのかもしれない。それならいくらでも付き合うつもりだ。今は、小夜子が顔を上げるときを静かに待つ。
 千秋はタブレットの画面をスライドさせ、次のページを開いた。舌打ちを堪える。目薬を差してくるのを忘れた。タブレットの操作時間が長いせいか、最近は一日中、目がひりひりする。
 テーブルの向かいに行儀よく座っている小夜子は、まだ熱心に名刺を眺めている。その小さな白い紙札に、とても重要な言葉が刻まれているとでもいうように。
 
 
 ふいに、ガラス戸を開け放している縁側から葉のさざめきが聞こえた。
 庭を、強い風が通り抜けたようだ。一瞬雨音かと勘違いする。
 千秋はそちらへ視線を向けた。庭を圧迫する櫟や小楢の木の中に、黒鉄黐が混ざっている。秋になれば真っ赤な果実が木々を鮮やかに彩るだろう。
 枝葉の隙間から、ちらちらと陽光が漏れている。
 視線を戻すと、ニスが剥がれた傷跡だらけの縁側に、歪な光の穴がいくつも開いていた。それが葉の動きに合わせて水面のように揺れる。午後の光のまばゆさに、少しくらりとする。
 また、ざあっと葉擦れの音が響く。風がやむと、途端にむっとするような緑の匂いが立ちこめる。遠くの森林から漂ってくる深い匂いだ。
 千秋は、子どもの頃に嗅いだ蝉の死骸の匂いを思い出した。
 熱気で揺らめくベランダの真ん中に、蝉の死骸がいつのまにか転がっていたのだ。タイルの色と同化していたから、あの時、空を横切る飛行機に気づいて動きをとめていなければ、きっと踏み潰していたに違いない。
 当時の千秋はなにを思ったか、ティッシュをつまむように、蝉のぼってりした胴部分を親指と人差し指で持ち上げ、鼻に近づけた。最初は無臭に思えた。一旦息を止めて勢いよく吸いこむと、やっとかすかに乾涸びた腐葉土のような匂いを嗅ぎ取ることができた。ぴくりとも動かない蝉は、ひどく軽かった。振ったら、からからと小気味よい音がしそうに感じられた。だが実際にそれをためしても、なにも聞こえやしなかった。茶色の胴体は、飴の皮を連想させた。指先で潰したらぱりっと簡単に砕けて飛び散りそうだった。
 蝉の腹には空洞があるのだろう。あの日の出来事を頭の中に蘇らせながら千秋はぼんやりとそう考える。むっとするような熱気だけを閉じこめた一握りの小さな闇。それは完璧な、永遠の夏だ。過ぎ去ることも後戻りすることもない。
 その後、死骸をどうしたのだったか。記憶がない。
 子ども特有の飽きっぽさで、ベランダから捨ててしまったかもしれない。
 いや、おもしろがって胴体もばらばらにしたか。
 今なら蝉の死骸を発見しても、もう素手では触れないだろう。
 気がつけば大半の虫が苦手になっている。てんとう虫や蝶であっても触れない。
 年月は、人を利口にも臆病にもする。
 
 
「遠藤さん」
 小夜子のかしこまった声に、千秋は現実に引き戻される。目を瞬かせ、遠い夏の記憶を頭から振り払う。
「これからよろしくお願いします。なにかあった時は、遠藤さんに相談すればいいってことよね」
「はい。ご要望をうかがったのちに必要な処置をさせていただきます。白井さんにはこの二ヶ月を安心してお過ごしいただけるよう、私も誠心誠意お手伝いいたします」
 千秋は、ほっとしながら答えた。
 樹木化の選択は任意によるものだとはいえ、そうたやすく覚悟を決められるはずがない。
 癇癪を起こしたり泣き出したりした場合を考えて、いくぶん緊張していたのだが、四度目の説明でも彼女が大きく取り乱すことはなかった。
「それではさっそく、白井さんよりお預かりした各種変更承認申請書とご負担いただく接種費用について、また、このたびの未来環境プログラム推進法適用に関する契約要項について、間違いがありませんか、こちらでご確認いただきたいと思います」
 千秋は契約書の画面を表示し、タブレットを差し出した。
「あわせて和歌山地区の特殊環境政策に附属する制度的保障の詳細、それから特殊環境保全事業に対する私どもの取り組みにつきましても、お確かめいただければと思います」
 はい、と小夜子は細い声で答えた。小枝のような細い指で画面をチェックしていく。
 タブレットの上を滑るたどたどしい指。なぜか悩ましい動きのようにも見え、急に後ろめたさを覚える。
 千秋は妙な感情から目を逸らし、自身の横に置いていた鞄へ手を伸ばした。
「ご家族の方をこちらへお呼びしましょうか?」
 鞄からパンフレットを取り出す手を止め、念のために尋ねる。
 十六歳未満の未成年者の場合は保護者同伴が原則だ。小夜子はその年齢をこえているが、少し特殊なケースとなる。
 といってもこの説明も既に四度目なのだ、とっくに家族への確認は済んでいる。単に彼女を刺激しないよう問いかけたにすぎない。
「いいえ。私はもう大人ですから全部自分で決められるし、いまさら嫌がったりなんかしません。父や母も、私がしたいようにするのが一番いいって言ってくれてるもの」
 小夜子はやや高い声で言った。子ども扱いしないで。そう非難するような冷たい目で千秋を見つめる。
「失礼しました。では次に、あらためて未来環境プログラム推進法についての基本的な説明をさせていただきます。推進法運用までの流れと自治体や提携企業の具体的な活動内容に関しましては、以前お送りしたガイドブックにも要約されておりますので、そちらのほうでご確認をお願いします」
 千秋は、パンフレットの第一章にある文面に視線を落とす。
 小夜子がテーブルに肘をついて、軽く身を乗り出した。
 これもとうに説明を終えている内容だが、やはり彼女は初めて聞くというような、好奇心たっぷりの表情を浮かべている。
「遠藤さんが二ヶ月間、私の介護をしてくれるってことなんでしょ?」
「介護という表現を私たちは用いません。現実的にその必要がほぼないという理由もありますが、私たちはあくまで、新たな命へ生まれ変わる白井さんのお手伝いをさせていただくという立場にすぎないのです。その際ご提供いただく経過データは、次の適用者へ向けての重要なメッセージとなるでしょう」
 薬の投与後は、一時的に対象者の基礎体力が復活する。医師や介護士の付き添いが不要となるのはこのためだ。
 まあ、一番の理由は、圧倒的な人員不足のせいだが。
 千秋たち調査官は万が一のことがないよう適用者の監視を行う。
「今回白井さんはご自宅での投与を希望されましたので、私がこちらへ定期的に訪問させていただく形になります」
「ふうん」
 未来環境プログラム推進法。
 簡単に言うと、自然環境復元の一環として『人間の死』をリサイクルする制度だ。
 主に死を迎える間際の人を自然へ還す——木々へと変えてしまうという驚異の法。
 他の先進国同様、日本においても、環境規制の強化と対策は優先して取り組むべき重大な課題の一つとなっている。
 全国的に広がる急激な都市化、資源開発の際の土壌浸食や森林破壊、水資源の枯渇、工場廃棄物の不法投棄や環境公害など、問題は山積みだ。
 昭和時代に勃発した大戦後の経済成長に伴い、もはや自治体任せの育林や植林作業等の地道な支援策では環境汚染の拡大を止められず、生態系バランスにも深刻な狂いが生じるようになってしまっている。具体的なところでは、関東から中国地方の養蜂場で立て続けに発生したミツバチの消失と大量死。学者たちは各地で頻発する異常現象に強い懸念を抱き、何年も前から自然共生型社会の見直しを提唱している。
 だが、彼らの地道な呼びかけがきっかけで未来環境プログラム推進法が制定されたわけではない。
「——ねえ、遠藤さんは気味悪くない?」
「なにがでしょう」
「私の変化を観察するんでしょ。樹木化なんか気持ち悪いって嫌がる人も、たくさんいるじゃないですか」
「制定から数年の間、批判も激しかったのは確かです。でも現在では神聖な選択だとおっしゃる方のほうが多いんですよ」
 時々、変化期を迎えた適用者の姿を町内で見かけることがある。動けるうちに、希望した樹木化指定地区へ移動してもらう必要があるからだ。
 このプログラム推進法は、否定派の間で老人処理法とも揶揄されている。
 高齢化社会を若返らせるため、政府は非情な措置を取ったのだと。
 介護をする若者は減り、一方で頼るべき者のいない老人が増えていく。それが今の日本社会の真実だ。どこの地域でも福祉サービスが限界を迎えつつある。
「私ね、第一被験者の動画を見たんですよ。人体の神秘っていうのかな、とにかく驚いて何回も見ちゃった」
 小夜子はテーブルの上で指先を小刻みに動かした。タブレットを操作する時とは違って、ピアノの鍵盤を叩いているかのように滑らかだ。鼻歌の代わりに、指を踊らせているみたいだった。
「ずっと見ているうちにね、被験者の男性をとても身近に感じたんです。自分の片割れを見つけた気分っていうか。……あ、今、夢見がちって思ったでしょ」
「いえ、とんでもないです」
「変な顔をしたじゃないの」
 困った。小夜子の言うような意味で表情を変えたわけじゃない。
「言っておくけど、その男性に見惚れたとか格好いいとか思ったわけじゃないから」
「はい」
「あの人って、父よりずっと年上でしょ。そういう軽い感情じゃなくて、なんていうのかな、共鳴? 純粋に惹かれたわけ。私、あの動画に影響されて、推進法の登録申請カード出したんだもん」
「そうなんですか」
「うん、まさか自分がすぐに対象者になるとは思わなかったけど」
 小夜子は指の動きを止めると、達観しているような不思議な表情を見せた。
 それは一瞬のことで、がらりと人格が入れ替わったように、目尻に皺ができるほどの明るい笑顔を作る。
 意識してそんな表情を浮かべたのだろう。友人でも家族でもない、赤の他人の千秋一人に見せるためだけに。
 いや、千秋は小夜子にとって最も近い他人になるのだと、ふと思い直す。
 こうして彼女と出会い、死の変化を見守るのだ。


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