わたしたちは石榴の中 2

「それでは、明日から樹木化に向けてのお薬を服用していただきます。一日三回、決められた時間に必ずお飲みください」
「ご飯も勝手に食べちゃだめなんだっけ」
「今後は食事も管理局の支給品のみに制限されます」
「お菓子もだめだよねー」
「すみません」
 小夜子は少し不満そうな顔をした。菓子の他、酒も煙草ももちろん禁止だ。
「以前ここに来た係員の人に、一ヶ月過ぎたあたりで変化が出てくるって聞いたけど」
「はい、多少の個人差はありますが、だいたいそのくらいの期間とお考えください。一度変化の兆候が現れたあとは、瞬く間に生長が進みます」
「生長」
 その言葉を繰り返した彼女の目の奥に、緊張が走る。
 千秋は動揺を悟られないよう、ゆったりと微笑んだ。怖いことではない、つらいことでもないのだと、そう伝えるために。
「腕の内側や太腿から、にょきにょきと芽が出てくるわけ?」
「いいえ、動画をご覧になったというお話でしたので、生長過程につきましてはおおよそご存じかと思いますが、まずは手足の先端から変化が始まります。いきなり皮膚を突き破って発芽することはありません」
「だよね? それはいくらなんでも気持ち悪いし」
 小夜子は小さく笑った。
 芽が出ている場面を想像したらしい。自分の指先をじっくりと見つめる。
 かと思うと、ふいに千秋へ視線を移す。探るような目つきだ。
 千秋はその瞳を見つめ返した。なぜかここで、蝉の死骸を思い出す。夏の熱気のみを閉じこめた、永遠の闇……。
「あー、あっつい!」
 糸をはったような緊張した空気を先に断ち切ったのは小夜子だ。
「遠藤さん、ここへ来るまでって大変だったでしょ」
 そう言って、にこっと笑う。
「うちって市街から離れた場所にあるし、バスの数も少ないしさぁ。あ、ごめんなさい、なにも出さないで。麦茶持ってくるからちょっと待ってて」
 おかまいなく、という言葉は、さっと立ち上がって居間を出ていく小夜子の背にはね除けられた。
 手持ち無沙汰になったので、再びタブレットへ視線を向ける。
 画面に表示されている「樹木化」という言葉をタップする。
 次の画面に、樹木化についての解説文がびっしりと並ぶ。
 この法案が可決された表向きの理由は、かつての豊かな自然環境を復活させ、人々の暮らしをより質の高いものへと導くため、とされている。
 当然ながら、そんなありふれたスローガンなど誰にも見向きされるはずがない。
 人の心を動かすのは、手の届く範囲で起きる強烈な出来事だ。例を挙げるなら、殺人や強盗、強姦といった犯罪事件。猟奇的であればあるほど、より暗い感情が突き動かされる。
 他人の不幸と悲劇を嗅ぎ分ける能力は、人間だけの特権だと千秋は思う。
 ことの発端は、孤独死の現場を担当した、ある特殊清掃員のブログの一言だったという。
 彼は仕事の様子を時々ブログに書き綴っていた。
 どれほどつらくきつい仕事か、吐き出さずにはいられなかったのだろう。
 今日の現場は、寂れたアパート。狭い六畳間はごみの山。綿のような分厚い埃が壊れたレンジを覆っている。床に捨てられている牛乳パックからは百足が這い出てくる。冷蔵庫の中はどろどろ。壁紙は破れ、灰色の染みが広がっている。黒ずんだ鍋の下敷きにされている古い電話帳は、湿気で倍以上の厚さになっている。カーテンは色褪せ、近づくたびにぷんっと饐えた臭いが漂う。なにもかもが汚く、新品のものはひとつもない。つい魔が差して盗みたいと思ってしまうような物もない。
 そんなふうに孤独死の現場の様子が説明され、最後にこう締めくくられていた。
 
 今日片付けた老人の遺体にきのこが生えていたんだけどさ。
 あれって食べられるんだろうか?
 
 閲覧者の「不謹慎だ」というもっともな指摘で、そのコメントはすぐに削除された。
 ほどなくブログも消えたが、清掃員の言葉はいつのまにか他のSNSで拡散されていた。
 だがその時はさほど大きな問題にはならなかった。
 やがて話題は下火になり、もっと刺激的な情報の渦に飲みこまれていった。
 ところがある日、その話題が再びひょっこりと浮上した。
 きのこ第二弾。別地区の古びたアパートでも、きのこの生えた遺体が見つかったのだという。
 そちらもやはり孤独死だった。皮肉なことに、大家の息子が悪ふざけでネットに晒した画像のおかげで、身元が判明したのだ。
 二弾目の騒ぎはそれなりに長引いた。というのも、狭苦しいアパートの一室で餓死していたのは身寄りのない寂しい老人ではなく、二十代後半の女性だったからだ。
 彼女の父親が菌類学者だったことも、皆の暗い好奇心を刺激する要因の一つになった。実の娘が最後の親孝行としてきのこを残したんだと、おもしろおかしく噂された。誰がどうやって調べ上げたのか、数日後には、父娘の希薄な関係の理由がネット上にまとめられていた。
 娘が幼い時に離婚。母親が親権を取り、それきり会っていなかったという。
 これ以上なく不幸な再会だった。
 娘は、短大卒業後に恋人と同棲を始めていた。以来、母親とも連絡が取れなくなっていたらしい。母親の再婚相手と折り合いが悪く、以前から衝突していたそうだ。
 彼らの間に子どもが生まれてからは尚更、関係が悪化した。菌類学者の父親のほうも、離婚から数年後には別の女性と再婚しており、一男一女をもうけて平和な家庭を築いていた。
 娘の死は「かわいそう」という言葉を独占した。彼女のためだけに作られた言葉であるかのように、皆が口を揃えて囁いた。
 子どもの頃から親の愛情に飢えていたんだ。ネットではそんなもっともらしい意見が大半を占めていた。
 孤独死ってさあ、無駄死にじゃない? 娘への同情で賑わう中、誰かがSNSに公開した軽はずみなその一言が、運悪く父親の目にとまった。
 数日後、彼は妻子も孫も家も、全部捨てて行方をくらました。
 だがこの事件も続報が入らなくなると、別の話題に押し潰されていった。
 そして二年後。一本の動画が配信された。
 失踪した菌類学者の父親が発信したメッセージだ。
 彼は、自身の異様な最期を記録した。
 二ヶ月をかけて、藤の木に変わっていく自分の姿を。
 
「私は心臓を患っています。もう長くは持ちません。ですが、死は無駄じゃない。孤独であろうと無駄ではないのです。孤独とは自分を知る最良の手段であり、人の根源です」
 
 失踪後の彼が心血を注いで打ちこんでいたのは、植物寄生菌のゲノム情報の解読だった。
 寄生植物の発芽誘導を行う植物ホルモンとその細胞内におけるシグナル伝達経路の構造解析に取り組み、抗体のメカニズムを明らかにするという研究だ。
 だが、そこで彼が目指していたのは抗体医薬の開発ではない。その逆だ。抗体産生を抑制させる寄生菌エキスを精製し、遺伝子操作を活発に行う薬を作りたかったのだ。
 最終的に着目したのは、漢方でもなじみのある冬虫夏草の菌糸体だった。
 彼は執念通りに、宿主を乗っ取り、生長を促進させて遺伝子レベルから作り替える薬を完成させた。もちろん、彼一人の功績ではない。神経学者や植物学者など、数多くの専門家の手助けがあったと言われている。企業からの極秘の資金的援助や研究設備の提供もあったという。
 きのこと黴にまみれていた娘の死は決して無駄ではない。死は孤独であっても、新たな始まりだ。娘の無惨な死に取り憑かれていた彼は、それを証明すべく、自身を実験の第一号にした。

「苦しくありません。痛みもありません。なんていうのでしょうか、ぬるま湯の中を漂っているような感覚です。とても穏やかで、心地がいいです。私は生まれ変わり、大地と一つになるのです」

 動画の彼は、いつも微笑んでいた。
 やがて肌の皺が消え、若返ったように透明感が増した。手足の変化が始まると、うとうとする時間が多くなってきた。意識の混濁も始まったようだった。

「嫌悪感や恐ろしさは、ありません。薬を投与する前よりも今のほうが落ち着いています」

 繭のように、徐々に細い根にまかれて変わっていく彼の姿は、グロテスクでもあったし、どこか幻想的でもあった。
 彼の表情は聖者のように静かだった。無理をしている様子はなかった。

「もう長く起きていることができません。きっとこれが最後の記録となるはずです。どうかわかってください、私は自殺を望んでいたのではありません。命から命への循環を夢見たのです。さようなら皆さん。私は一本の木となり、地に無数の根を伸ばすでしょう。花を咲かせ、種を落とし、いつか枯れます。また芽を出し、生まれ変わるでしょう。人が地へ還るのは当然の摂理です。妻や子どもたちと、あなた方と、あなた方の愛する人々と、果てしなく繋がっていくのです。命は巡るものです。死は決して終わりではないのです」
 
 わずか二ヶ月。彼は人の姿を失い、枝をうねらせた藤の木になった。
 重たげにたっぷりと垂れ下がる花は圧巻だった。実生から開花まで本来なら十年以上かかるところを、幹枝は彼の血肉を養分にして驚異的な生長を果たしていた。
 養分をすべて吸い上げたあとは、通常の藤と同様の生長に戻ったという。
 画像が公開されたばかりの頃は、誰もがフィクションに違いないと信じた。映画の宣伝だと決めつける者もいた。
 しかし数ヶ月後、都心の老人ホームがいきなり桜の園に変わるという事件が起きて、人々を驚かせた。いったいなにがあったのか、なぜ突然大量の桜がそこに咲き始めたのか。
 すぐに原因は明かされた。入居者たちの遺書が見つかったのだ。
 世間から忘れられてどうせ一人寂しく死ぬくらいなら、最後に一花咲かせるのも悪くない——そんな言葉が綴られていた。
 しばらくのあいだ、すべてのメディアが桜色に染まった。
 桜事件を皮切りに、あちこちで樹木化現象が頻発した。桜、梅、銀杏、コブシ、ハナミズキ、楓、樫。次々とその画像が公開された。
 菌類学者の動画は、磁石のように孤独な人々を引きつけた。家族や友人のいない者、職を失った者、とにかく生きる希望が見えない者。ただし、肯定があれば、その反対もある。
 人道的ではないという激しい批判も噴出し、世論は真っ二つに割れた。
 支持派の多くは身寄りのない高齢者や、余命わずかな者たちだ。
 彼らが賛同した理由のひとつに、薬の投与後一切の痛みがなく、ある種の多幸感が持続するという点があった。これは重要な問題だった。死を覚悟する者が、痛みも覚悟できるとは限らないからだ。
 人から木へ。その変化の兆候が現れた後は、本人が不安を覚える前に睡眠時間が増え、意識が曖昧になっていく。つまり「死ぬ時は苦しむことなく、眠るように安らかに」という、大半の人が抱く願望に沿っている。
 なによりも、変身期間が短く、その最中でさえ目を背けるほどには不気味じゃないこと、むしろ不思議な美しさがあるというところが支持派の気持ちを強く引きつけた。
 菌類学者が自らの命をもって証明した「孤独であろうとその死は無駄ではない、人は皆、自然へ還るのだ」というスローガンも、彼らの心を動かすきっかけのひとつになった。人類は地球を痛めつけてきた代償を払うべきだし、狭苦しい墓に入るよりずっといいと。
 やがて国中を巻きこみ、政治家たちによる樹木化賛否論争が始まった。
 一時は違法投薬の取り締まりが強化されたが、それでもどこで薬が出回っているのか、樹木化現象は収束しなかった。気がつけば町に緑が増え始め、桜の園となった老人ホームにガラス張りの研究施設が建ち、複数の支援団体が設立された。
 そして菌類学者の動画配信から十年後、多くの批判を浴びながらも未来環境プログラム推進法が制定されたのだ。
 反対派の意見をねじ伏せるため、法に抜け道が用意された。
 この法律は国民全員に課せられた義務ではない、という一文だ。
 臓器移植法同様、登録申請は基本として任意であり、個人の意思が尊重される。たとえば余命宣告を受けた者や脳死状態の者、六十五歳以上の者等、本人、あるいは家族が役場に意思表示カードを届けておくことが前提となる。その後、特殊環境保全推進委員会の適応判定を経て、正式な手続きへと移行する形を取る。
 
 今回の小夜子も、事前にカードを役所へ提出している。その直後に完治の見込みがない病にかかっていることが判明し、法適用の運びになった。
 
 千秋は、タブレットから顔を上げた。小夜子の戻りが遅い。
 迷った末に立ち上がり、引き戸を開けて台所のほうへ向かう。昔ながらの古い家屋で、狭い通路は歩くたびにきしきしと物悲しい音を立てる。ずいぶん埃臭い。
 小夜子は流し台の横に置かれている戸棚の前に立っていた。高さは彼女の腰あたりまでしかない。桶や鍋といった調理器具がその上に乱雑に積み上げられていて、隣にポトスの鉢植えが置かれている。大半の葉が変色して枯れかけている。
 戸棚の上部の壁には大きな窓が設けられており、強い光が差しこんでいた。
 小夜子はぼんやりと、光にさらされているポトスを見つめていた。氷を入れた麦茶のグラスを手に持っていて、それをゆっくりとポトスの葉に注いでいる。わざと葉にぶつかるようにしているのか、麦茶の雫が葉先からしたたり、戸棚の縁まで濡らしていた。
 白井さん、と千秋は小声で呼びかけた。
「水をあげないと、枯れちゃうでしょ?」
 小夜子は振り向きもせず答えた。
 グラスからこぼれた氷が次々と茶色の葉を打つ。弱っていた葉は氷の重みを受け止めきれず、ちぎれてしまった。
 落下した氷が床を転がり、ちぎれた葉を巻きこみながら回転して、千秋の爪先の前で止まる。茶色の葉を見下ろして、ふたたび、昔ベランダで見た蝉の死骸を思い出す。あの景色が一瞬、現実に重なった。過去からの熱気が、むうっと押し寄せてきたような気がした。
 小夜子は、空になったグラスを鉢植えの隣に置くと、身体ごとこちらに向き直って、品よく微笑んだ。窓から差しこむ光が、小夜子の輪郭をきらきらと輝かせていた。きれいにまとめられている髪もパールパウダーをまぶしたみたいに見えた。
 千秋は胸の奥がちりちりと焼けつくような、奇妙な歯痒さを覚えた。視線は確かに合っているのに、見られている感じがしない。一方で千秋のほうも、彼女の姿をしっかり見ることができていない気がする。
 ここにいるのは昨日の彼女が残した影にすぎないのではないか。
 あるいは、昨日よりもっと前の。季節を飛び越えるくらい過去の。
「私、この頃どうしてなのか、昔のことばかり思い出すのよね。まあ、昔っていうほど生きてないけど」
 彼女は乾いた声で言った。ピンク色の舌が、蛇のようにちろりと上唇を湿らせる。
 返事を求めているわけではないとわかったので、千秋は無言で彼女を見つめた。
「小学生の夏休みに、友達とサイダーでアイスを作ったこととか。一人でレストランへ入った時のこととか。自転車で坂道を下りて曲がり角にさしかかった瞬間、タイヤが石の上に乗って、その勢いでぽーんと身体が浮いたあと地面を転がったこととか」
 小夜子は、手の甲が反るほどピンと力を入れ、跳ね上がる様子を伝えた。それから指先をくるくると回して転がる場面を表現した。
「なんていうかさ、つまんない経験しかしてないんだよね。額に飾りたくなるような、これだ! っていう特別な記憶がないの。本当、きれいさっぱりっていうほどないの。そういう感覚、わかる?」
「……ええ」
「誰かに記憶を洗い流されたみたい。私ってば今までなにして生きてきたの、ってびっくりしちゃう。寝て食べて起きて、学校行って帰ってきて。それだけ」
 小夜子の唇が歪む。
「でも、まあ、つまらなくったって仕方ないよね。たった十七年しか生きてないんだもん」
「ですが、つまらなくはないと思います。他愛ない出来事の積み重ねが生きるってことではないでしょうか。なにも思い出せないのは、それだけ今を生きることに必死だからでしょう」
「すごーい。模範解答って感じ。人生とはなにか、二十字以内で答えよ。『他愛ない出来事の積み重ねが生きるってこと』みたいな」
 優しい表情を浮かべているのに、ひどく皮肉な口調だった。
 そのちゃかした態度に千秋は、既視感を抱く。少し考えてから、ああと納得する。
 母に対する祖母の態度に似ているのだ。
 祖母は、菩薩のような顔をしながらまったりとした柔らかな毒を吐くのが得意だった。
 あれはまだ千秋が小学生の時だったか。夕食の支度をする母の顔を祖母は斜めから覗きこんだ。あのね真奈美さん、廊下の電球がまた切れているわよ。嫌ねえ、何度買い直してもすぐ切れちゃうわねえ。ええ、ええ、真奈美さんのせいじゃないけれどね、でもあなた、不良品ばかり買ってくるなんてよっぽど運が悪い人なのかしら? 今日中にちゃんと買い替えておいてね。まだ電気屋さん、開いてるでしょ、ね。——真夜中、千秋はトイレに行きたくなり、部屋を出た。すると、きゅ、きゅ、きゅ、と廊下から、蛇口をきつく閉めた時のような奇妙な音がする。千秋は暗く淀んだ通路に目を凝らした。闇が動いていた。
 その闇は、やがて人間の形を作った。脚立代わりの丸椅子に乗った祖母が、精一杯背伸びをしながら天井へ手を伸ばし、電球を取り替えていた。翌朝、祖母は包みこむような微笑を浮かべて母にこう言った。真奈美さんたら仕方のない人ね、また壊れた電球を買ってくるなんて……。
 なのに、祖母と母は、とても仲がよかった。二人だけでよく出掛けていた。千秋や父が一緒に行こうかと言うと、二人は露骨に迷惑そうな顔をしていた。
「ね、もしかして怒った?」
 小夜子は媚びるような甘い声で尋ねた。
 脳裏に浮かんだ祖母の微笑を消し、千秋はかぶりを振った。
「いえ、余計なことを言って申し訳ありませんでした」
 途端に小夜子はつまらなそうな顔をする。千秋の足元に転がっている氷に気がついたらしく、眉をひそめた。だが千秋のほうへ視線を戻した時には、その顔に明るい笑みが浮かんでいた。氷のことなど一瞬で頭から消えたようだった。
「家の中にいると、なんだか憂鬱だわ。ねえ、外で話さない?」
「はい、かまいませんが」
「じゃあ、今から行こ」
 小夜子が近づき、笑顔で千秋の腕にしがみついた。
 千秋は戸惑った。暗記するほど彼女に関する資料に目を通してきたが、実際に会うと印象はまるで違う。小夜子という人物を正確に掴みきれない。やけに人懐っこい面があるかと思いきや、スイッチが切り替わったように突然冷ややかな悪意を滲ませて千秋を見据える。話し方も、急に早口になったりのんびりしたりと、ころころ変化する。
「早く」
 華奢な外見には似合わない強い力で腕を引っ張られた。
 爪先で、氷を蹴飛ばしてしまう。溶けた水を踵で踏んでしまい、それがじんわりと靴下に広がっていく。


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