恋愛推理:前編

 人間とは、反省しないイキモノだ。
 イリちゃんいわく、「知力にすぐれながらも、それを有効活用できないオロカなイキモノなのである。そして、コトの原因を知り、破滅の未来を見通していても、正しい道を選べぬ悲しいイキモノでもあるのです!」ということだ。その後に続いた「いつになったらダイエットに成功すんのさ私……!」という苦痛と怒りと絶望にまみれた切実な嘆きは、聞かなかったことにする。
 
 本当、人間って反省しないイキモノだ。ううん、反省が長くは続かないイキモノだ。時間の経過が、忘却を呼ぶ。
 だから、『二度あることは三度ある』って言葉を、後悔とともに死ぬほど噛み締めることになるわけで。
 私ってば、またしても! 同じ失敗を繰り返してしまったんだ。
 
●◎●
 
 ある日の下校時。休日デートをしよう、と水屋先輩に誘われた。
 すごく動揺しておたつく私に気づいた先輩は一瞬目を見開き、困ったような緩い微笑を作った。その後、ただ遊ぼうと誘っているだけだからそう深刻にならずに、と優しく言い添えて、動揺継続中の私の頭を撫でてくれた。
 混乱を抱えたまま帰路をたどり、自室のベッドにばふりと仰向けに倒れ込む。そこでまた、混乱。
「デート……」
 じゃなくて、ただ遊ぶだけ。その違いってなんだろう。
 同性って意味で考えれば、一緒に出掛けたり遊んだりするのって、なにもおかしなことじゃないよね。
 たとえ相手が異性であっても、友達という関係なら、深い意味なんて考えず気楽に会うだろうし。うん。
 ——とってつけたように、つい力説してしまった。
 なぜ自分に言い訳しているのか、理由を考え始めると目眩を起こしそう。唐突に羞恥心が生まれ、制服がしわになるのもかまわず、ベッドの上でごろごろし、顔を覆う。
 私のなかで水屋先輩という人は、とても判断しにくい複雑な位置に立っている。あくまで私のなかでだけ。
 実際の水屋先輩は……私がいうのもなんだけど、潔すぎて気絶しそうになるくらい明確な立場を取っている、と思う。私のこと、恋愛的に「好き」なんだって言う。
 私はその告白をどう受け止めていいのか、ずっとずっと悩んでいる状態だ。そもそも告白自体が驚天動地だったんだけれども……、うん、それはともかくとして。仮に先輩の気持ちを絶対受け入れられないっていうんだったら、思わせぶりな態度はやめてきっぱり拒絶するべきなんだろう。
 そう、思わせぶりになんてしないで、だ。
 ちくりと、とげが刺さったように、小さく胸が痛む。先輩のこと、決して嫌いじゃない。きれいで聡明で格好いい。でも、本来なら確実に感じるだろう近寄りがたさを、見事に全部ひっくり返しちゃうくらい、言動が奇天烈だったりする。さほど親しくなかったときよりも、今の先輩のほうが、いいなって思う。だから、本当に、嫌いじゃない。
「嫌いじゃない」ってすごくズルイ表現だ。受け入れず、拒絶もしない、曖昧な言い方。どこか優位に立っているような表現だとも思う。
 どうしていいのかわからない。先輩との縁を完全になくしちゃうのは嫌で、だけども、恋愛的につき合えるかと言えば、やっぱり躊躇う部分のほうが圧倒的に強い。よりリアルなことをいえば、遊びの範囲として面白がっているうちはいいけれど、そこに真剣さが付加されたとき——世間体ってものが、重く重くのしかかってきそう。
 世間体、という言葉の中身がどういうものか、実はまだ、正確には理解できていないんだけれど、それでもなんだか、萎縮してしまうくらいの恐ろしさが詰まっている気がする。友達や両親になんて言えばいいのかも、わからない。
 なにもかもが、わからないよ。
 ……って、こんなふうに苦悩せずにはいられない時点で、たぶん、先輩をかなり意識している証拠になるんだろうと思う。
 もうもう、私の心、いったいどうなっているのかな! 自分のことなのに、どうしてこんなに見えにくいんだろ。女心と秋の空、っていう言葉があったっけ。心って本当、天気みたいにくるくる変わって、落ち着くことがない。曇ったり晴れたり。静止しない。
「先輩、どうしよう。私は、私がわかりません……」
 先輩は自分の心に疑問を持ったりすること、ないのかな。私への感情が恋愛的なものだと、どうして思うようになったのかな。
「好き、って、なんだろう?」
 根本的なことからわからなくなってきた。
 私が水屋先輩に向ける好意。友情の延長というだけなのか、単なる憧れなのか、それとももっと別の、違う色を持った感情が隠されているのか、悩んでも悩んでも、一向に答えを出せない。
 こんなことばかり考え続けていたせいかな。
 休日デート当日、朝から不運の連続となったんだ。
 スケッチブック事件のときと、そっくりに。
 人間ってまったく、反省が身に付かないイキモノだよね、イリちゃん。
 
●●●●●
 
「ほらほら、落ち込まずに」
「……すみません」
 慰めてくれる水屋先輩の顔を正視できず、私はがっくりと項垂れ、謝罪の言葉を絞り出した。本当、無理やり絞り出した声だから、出がらし的というか残り滓的に掠れてしまった。
 場所は公園。この地域に暮らす人々の散歩コースにもなっている場所で、敷地が結構広く、緑も多い。中央にちょっとした広場と噴水があり、いくつかベンチが置かれている。その一画を取り囲むようにして桜の木などが植えられ、散歩道が作られている。
 休日のためか広場には家族連れやサッカーをする少年たちの姿が多く、ベンチも新聞を広げる人やペットを連れている人が座っていて、空きはなかった。
 というわけで私たちは、広場の手前にある、奇妙な形をしたオブジェの台座をベンチ代わりにしている。円錐型を作るようにして上空へと伸びる螺旋状の輪に、いくつもの球体がくっついたオブジェだ。全体的にすごく大きいから目印になるし、オブジェを支える台座もちょうどいい高さにあるため、ここはよく待ち合わせポイントにされているらしい。公園の入り口から来ると、この巨大オブジェはいやでも目に入るしね。
「んー、憂い顔も大変好みではあるんだけどね、西田さん。俯いてはほしくないな。あ、甘く切なく虐げてほしいというなら、話は別だよ」
「ぐふっ」
 私は思わず呻いてしまった。
 台座に腰掛ける私の前に立った水屋先輩が、にやりとやけに楽しげな表情を見せて軽く身を屈めた。
 なんですか、甘く切なく虐げるって!
「嫌だな、西田さん。なにも暴力を振るうという意味ではない。精神的に優しく追いつめて可愛がるという、ひとかけらの曇りもない純粋な欲望です。いやー、うちの近所にある書店、先週から澁澤龍彦特集をやっていて、つい私も読みふけり」
「先輩っ、ここ公園です、子どもたちの姿もある健全な公園です……!」
「新たな境地を見出したいというその勇気と冒険心に感服するね。いいとも子猫ちゃん、愛のためにひと肌脱ごうか。いや、一枚一枚楽しみつつ脱がしていきたい所存だけれどね、ところで今日は勝負下着ってやつデスカ? 西田さんだったら……清楚なパステルカラー系? ミント色とか? 透け感絶妙な総レースだったりしたら私は自分を制御できない自信があるけれど、ぜひそのあたりを克明に聞かせてほしいな。わざとワンサイズ小さめのを選んで、こう、胸元をきゅっと。…………。……西田さん! そんな小悪魔なイケナイこと、心から望むところだとも!」
 魂が風に吹かれて消えそうです。先輩先輩先輩、妙に色気がだだ漏れです! というよりその思考、すでに女性のものではありません!
 今日はいつにもまして男らしさに溢れていますよね。
 なんだかすごく恐ろしいことを決意していそうな表情で腕を組む先輩を、そうっとうかがう。
 今、私たちは休日デート——デートって響きにどぎまぎしちゃうんだけれど!——の真っ最中だったりする。まだ午後をちょっと回ったあたりで、日も高い。
 どうしてここで休憩しているのかというと、原因は私だった。
 無理して、慣れない靴をはいてきてしまったため、足が痛くてたまらないんだ。キレイめな色のワンピースに合わせて、ややヒールの高い靴を選んだのが大失敗だった。爪先がじんじんと痛いし、くるぶしのところも皮膚がこすれて真っ赤、ふくらはぎもはっている感じだ。
 今日は本当に、朝から失敗ばかりだった。なんだか既視感を覚えずにはいられない失敗の連続。
 緊張して眠れなかったせいで、思い切り朝寝坊してしまい、慌てる羽目にもなった。目覚まし時計が鳴っているにも関わらず眠り続けていた自分が一番悪いんだけれど、お母さんもひどいとつい恨みたくなる。休日だからという理由で、私を起こしてくれずに目覚ましをとめたんだよね。
 結果、待ち合わせに十数分遅刻してしまった。先輩は全然気にしていない様子で笑って許してくれたけれど、時間にルーズなのってあまりいい印象は持たれないと思う。
 その後も、痛い失敗が立て続けに起きた。
 朝食を抜いてきたのを見抜かれ、「なにか胃に入れないと具合が悪くなる」と穏やかに諭されて、水族館へ直行するはずだった予定を変更し、まずは軽く食事を取ることになったんだけれど……ああもう、折角気遣ってもらったというのに、自分の間抜けさが辛すぎる。
 寝坊して慌ただしく家を飛び出したため、お財布を忘れてきたという情けない事実に、このとき気づいたんだ。
 水族館へ行ったあとに寄るはずだった演劇のチケットは、お財布の中に入っている。穴があったら入りたいような心境だ。
 一旦家に戻ってチケットを持ってくるしかない。でもそうなれば、時間的に余裕がなくなり、水族館へ行く予定をキャンセルにしなければならなかった。
 自分のだらしなさというか、どうしようもなさに絶句してしまう。落ち込むのを通り越して失神しそうになる私を、呆れもせずに水屋先輩は慰めてくれて、それが更に申し訳なくて言葉が見つからない。
 しかも、これだけじゃ終わらなかった。
 ふらつきつつ歩いていたとき、前方から歩いてきた通行人とぶつかってバッグを落としてしまった。持っていたミニバッグは、チャック式で開閉するものではなく、マグネットタイプだ。ぶつかった拍子に簡単に開いてしまって、中身が歩道に散乱した。その上、ぶつかった通行人には睨まれて、踏んだり蹴ったりの状態だった。
 ほんと、既視感ありすぎる出来事に、くらくらする。あの日——スケッチブック事件の朝を、再現してるみたい。
 そしてまだ、不運は続く。
 チケットを取りに戻るため、最寄り駅の改札口に足を運んだときだ。すごく機嫌の悪そうな男性に、強引に割り込まれたんだよね。肘で乱暴に押しのけられる形になって、ただでさえ不安定な靴をはいていた私は転倒しそうになった。
 水屋先輩がとっさに支えてくれたので、スカートで転ぶという情けない姿を晒さずにすんだのだけれど、もう本気で絶望してしまった。今日の星座占い、絶対に最下位だ。
 水屋先輩はきりりとした表情で、無理やり割り込んできた男性に注意をした。だけどその男性はわずかに頬を紅潮させて水屋先輩に掴み掛かりそうな素振りを見せた。
 今日の水屋先輩は、うん、なんていうか、恰好いい青年風のスタイルをしている。全体にクラシカルな色合いでまとめているので、いつもよりも大人っぽい感じだ。すらりとした奇麗な顔立ちの先輩は、性別のラインを超えて際立っている。女性目線でいえばうっとりしてしまうような容姿なんだけれど、男性からすればちょっと面白くないのかもしれなかった。
 私にぶつかった男性は、周囲の人にも聞こえるような大声で嫌味を言った。まったく最近の若いやつは礼儀を知らない、割り込んできたのはお前たちだ、ちゃらちゃらと調子に乗って中身がない。
 まるで悪いのは私たちのほうだと言わんばかりの嫌味で、茫然としてしまった。周囲には、ちょうどその男性と同世代辺りの人が多いせいか、誰も私たちに味方してくれず、冷ややかな目を向けてくる。
 水屋先輩は私を庇ってくれただけなのに、嘘で塗り固められた汚い言葉で罵られてしまった。きれいな人が穢されたように思えて、今日一番のショックを受けた。
 水屋先輩は真っ向から反論するような真似はしなかった。ここで意地になり揉めた場合、駅員がやってきて大事になる恐れがある。周囲の反応も冷たいため尚更不利だと悟ったんだろう。
 ただ冷静な眼差しをじっとその男性に向け、毅然と立っているだけだった。貫禄とは種類の違う迷いのない凛とした態度に、だらだらとしつこくこっちを批判していた男性は、怯んだようだった。とびきり汚い捨て台詞を一つ残して、さっと改札口の向こうへ去っていった。
 だけど、私の心を占める重い感情は、ひとつも去ってくれなかった。
 私のせいだ。寝坊なんてしなければ。ちゃんと財布を持ってきていれば。こんな靴をはいてこなければ。
 なんて日だろう。
 すごく緊張するし動揺もしたし対応に困ったりもしたけれど——休みの日に先輩と遊ぶこと、実は表情が綻ぶくらい楽しみにもしていた。
 私と一緒のときはかなりの頻度で過激な言葉を披露するけれども、基本の基本の基本は常識的な人だ。親しい相手にだけ、少し意地悪な顔を見せたりからかったりする。
 悩みはつきなくても、それ以上に一緒に遊びたいなって思う——色々な意味で、特別な人。
 でもここまで台無しにしてしまったし、嫌な思いもさせてしまったから、もうきっと誘ってくれないだろうな。面倒な子だと内心で溜息をついているかもしれない。そう考えた途端、目頭が熱くなってきた。自業自得なのに、恥ずかしさや辛さをおさえられない。嫌われることを真っ先に恐れて泣きそうになる自分は最低だった。
 ちゃんと気持ちを込めて謝らなきゃいけないのに、言葉が喉の奥で詰まっている。口を開いたら、涙も一緒にこぼれてしまいそうだった。
 次々と失敗を犯してしまうような、こういう間の悪さ、生きていれば必ず何度か経験するものだろうけれど、なぜそれが今日なんだろう。
 巡り合わせってこんなもので、過去の失敗がなんにも役に立っていない。でも、悪い巡り合わせのきっかけを作ったのは私なんだ。この靴を選んだのも自分、お財布を忘れてきたのも、ふらふらと歩いていたのも、他の誰かじゃなくて自分だった。少しの注意力があれば、全部回避できたのに。学習能力のない自分に失望しちゃう。
 改札口を通るのが急に怖くなった。悪い巡り合わせの出発点にまた戻ってしまうんじゃないかという子供じみた不安を抱いてしまい、最初の一歩が踏み出せなくなっている。
 俯いて泣きたい思いを必死に堪えていたとき、ふわりと肩に手が乗せられた。
「戻ろうか?」
「……え?」
 肩に乗せられた手にそっと力がこめられ、私はくるりと方向転換させられた。先輩はそのままエスコートするように、駅の出口へとゆったりした動作で歩く。戻るって、どういう意味? どこに?
「あ、あの、でも、チケットが」
 家に戻らないとチケットがない。今日観劇予定の舞台は指定席だったから、チケットが必要だ。
「いいよ、いいよ」
 先輩はまるで歌うようなかろやかさで言った。私の肩に触れたまま、軽快に町中を散歩する自由な猫めいた目をして、小さく笑っていた。
「演劇も楽しいけれどね。とある女優がこう言っていたよ。人生こそが舞台だって! 私はこういう芝居がかった表現が好きだな。なんだか華やかで、気持ちが浮き立たない?」
 楽しげに笑う先輩に、驚いてしまった。だって私、迷惑をかけているのに、とことん台無しにしてしまったのに、どうしてそんなふうに、ぱっと明るく笑えるんだろう。
「ねえ西田さん、すごいと思わない? この数時間のあいだに思いもよらない小さな災難が次々とね、起こるなんて。まったく不思議だよねえ。だったらほら、この小さな災難を満喫しようじゃないの。次にどんな驚きが待っているのか、それを考えたら楽しくなってきたよ」
 た、楽しいんですか?
「今日は、近場を歩こうよ。疲れたら休んで、話をして、別れるときに一体いくつの小さな災難を体験したか結果報告しましょうよ」
 先輩は空を仰いで目映げな表情を浮かべた。私の好きな、きれいな横顔だった。
「そうすればさ、次に同じような状況を迎えたとき、『お、これは以前の罠と似ている、回避しよう』と思えたりね」
「……はい」
 できるかな、次こそは、この失敗を、いかすことができるのかな。忘れずに、写真みたいにはっきりと覚えていられるだろうか。
「西田さんが忘れていたら、私が教えてあげる」
 空を見ていた目で、先輩は私を見つめた。
 落ち込んで動けなくなった私の背を押すために気遣ってくれたんだと思う。それでも『なんてことないよ』と笑ってくれるのが嬉しかった。
「……あの、次、ありますか?」
 また遊んでくれるかな。同じ失敗をしそうなとき、そばにいてくれるんですか。
 先輩はなんだかチェシャ猫を連想してしまうような笑みを浮かべた。
「おぉ、いいなー。私を誘ってくれるの? 私の子猫ちゃんも随分大胆になったものだ。私はイロイロとこだわり派なほうだから、その際にはぜひとも西田さんに着用してほしいものが。ボンデージって人類史上ベスト100に入る偉大な発明だよね」
「ふぐぅ」
 先輩、大人の世界すぎます、それ!
「いやぁ実はね、さっき見せた西田さんの苦しげな顔もなかなか美味しいと感心していたりね。背徳って、いい響きだなあ。そうそう、昔こういう名言を残した犯罪者がいるんだけれど。『悪業こそが我が信念』って。わかる、わかるよその気持ち。私も誠心誠意、西田さんに悪いコトをしたいのです。栄えよ、堕落の都……」
「踏みとどまってください先輩!!」
 先輩、歩きながら私の腰に手を回すのはなぜですか。
 平常心ではとても聞けない怪しい言葉を、水屋先輩は楽しげに紡いだ。私は青ざめたり赤面したり唸ったりしながら、先輩と一緒に、駅を出た。暗い場所から、抜け出すように。
 ——そして、この公園に辿り着き、オブジェの台座をベンチ代わりにしたわけで。
 軽く食事を取ったあとでその辺を散歩しているとき、足がどうにも痛くなり、ぎこちない歩き方になってしまった私の様子を見て、水屋先輩が少し休憩しようとここに座らせてくれたんだ。
 喫茶店でも入ろうかって気遣ってくれたんだけれどね、そうなるとお金の問題が出てくる。お財布を忘れたのは、本当に痛い。さっきの食事代も、水屋先輩が払ってくれている。もちろん、明日にでも、すぐ食事代を返すつもりだ。
 先輩は、こういう配慮を見せるときだけ私を後輩扱いして、大人しく奢られていなさい、って笑う。甘やかせ上手で、気配りのできる先輩が羨ましいな。小声でぼそりと「身体で返してくれてもいいよ」と言われた気がするけれど、それは幻聴と思っておきます。
 どうしたら先輩に迷惑をかけずにすむだろう。まだ歩けるから大丈夫って言っても、先輩は器用な笑顔と過激な話術でさらりと受け流してしまう。あ、もしかして私の意識をそらすためにわざと、過激発言をしてます!?
 溜息を堪えて、自分の靴を親の仇のような思いで睨んでいたら、先輩がくすりと笑った。
「そんなに靴ばかり見ないで、私を見てくれないかなあ」
 子供相手のように、先輩がぽんと片手を私の頭に置いた。
「ははあ、わかった。嫌だな西田さん。靴に嫉妬させたいとか? それともここで私に靴を脱がせ、そのまま衣服も脱がせてほしいと……」
「ちっ違います!」
「じゃあ靴ばかり見ちゃ嫌だ」
 どうして先輩はごく普通にそんな怪しい言葉を紡げるんですか。
「靴盗人になろうかな。私の西田さんを靴はどこまでも運んでしまうんだからね。歩けないように盗んでみるか」
 呼吸が乱れ始めてきました。ぞくぞくがとまりません!
 唸りそうになるのを必死に我慢していると、先輩は私の頭に置いていた手をもう一度、ぽんぽんと軽く動かした。
「ちょっとここで待っていなさいね。なにか飲み物を買ってくるよ」
「えっ、待ってください、私も行きます」
 慌てて立ち上がろうとしたら、やけに妖しい視線を向けられてしまい、硬直した。
「もう西田さん、そんなに私から離れたくないと」
「先輩、あの」
「清純派な小悪魔ちゃんめ。私も離れたくないというかむしろ襲いたいんだけれどね、自販機までは近いよ。確か公園の入り口前にあったから、すぐに戻る」
 恐ろしい言葉を混ぜて私をすぱっと黙らせた先輩が、その隙にさっと身を翻して行ってしまった。
 ああもう、気遣ってもらってばかりだ。
 台座に座り直して、大きく溜息を落とした。できることなら膝を抱えてどっぷりと落ち込みたいくらいだった。
 楽しくないよね、先輩。水族館にも演劇にも行けなくなって、ただ近所を歩くだけなんて。
 今頃先輩も、溜息をついているのかな。私の前では落胆を見せまいとして、一人で自販機のほうへ向かったとか。
 後悔がたっぷり詰まった考えをいくつも巡らせていたとき、少し慌ただしい感じで二人の女の子がこっちに寄ってきた。
 なんとなくだけれど、その子たちは、このオブジェの前で誰かと待ち合わせしているんじゃないか、という印象を与えた。
 二人は私から少し離れた位置で足を止めた。中学生くらいかな。なんだか対照的な少女たちだ。一人は恰好からして勝気そうな、溌剌とした感じ。もう一人の子はふんわりと穏やかな雰囲気だった。
 けれど、温和な空気を持つ女の子の顔は少し青ざめているような気がした。
「ほら、ここで待っててあげるから!」
 勝気そうな少女が少し苛立たしげな口調でそう言った。盗み聞きする気はないんだけれど、距離も近いし、彼女の声も大きいため、会話が耳に飛び込んでくる。
「行ってきなよ、もたもたしてないでさ」
「で、でも、もう時間が」
「馬鹿っ、そんな場合じゃないでしょ」
「でも……」
 なにかに躊躇う素振りを見せる子が俯き、持っていたバッグをぎゅっと握り締めた。
「いい、私、我慢できる」
「もー、なに言ってんの。お腹痛いんでしょ」
「……大丈夫、平気」
「なにが平気なの。だからさっき行っておけって言ったのに」
「うん、ごめんね」
「っていうか、なんでこんなことで、そんなに恥ずかしがるわけ。おかしいって」
「……ごめん」
「あのねー、あとで言われたほうが困んの! 謝るくらいなら早くしなよ」
「でも」
 勝気そうな少女が焦れたらしく、びしっとその子を指さした。
「わたしここで待ってるから、早くトイレに行ってきなって!」
 ト、トイレに行きたかったのかあ。
 どうも勝気そうな少女に遠慮してしまい、トイレに行きたいっていうのをぎりぎりまで言い出せなかった様子だ。なにか彼女たちには急ぐ理由があるみたい。映画の時間に遅れるとか。
 腕を組むようにして立っている勝気そうな少女を見て、少しきつい子だな、と私はぼんやりと余計なことを考えた。
「ほら早く! 公園の奥にトイレあったでしょ」
 厳しく言われて、温和そうな少女はしばしのあいだ、もじもじとした様子で公園の入り口を見たり、公衆トイレがある奥側に顔を向けたりしていた。
 それから自分のバッグを見下ろす。と、突然勝気そうな子が彼女のバッグをひったくった。
「バッグ持っててあげるから」
「うん、ありがと。ごめんね」
 温和そうな子は、恥ずかしいのか泣きそうなのかわからない顔を見せたあと、ようやく決心したらしく、公衆トイレの方へと足早に向かった。
 残った少女はふっと吐息を落としたあと、私の位置から約二人分くらい離れた台座のはしにとすんと腰を下ろした。
 私はつい、彼女の行動を見つめてしまった。
 その少女は、トイレに向かった子の姿が見えなくなったのを確認したあと、おもむろに自分のバッグをいじった。
 特に深い意味もなくぼうっと見つめていたんだけれど、彼女の次の行動に驚く。
 自分のバッグを確かめたあとで、なんと。トイレに向かった少女のバッグにまで手を入れたんだ。
 えっいいのかな。
 呆気に取られながらも、少女の様子を眺める。たとえ仲が良くても、他人のバッグを勝手に開けるなんてよくないんじゃないのか、と動揺してしまった。

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