恋愛推理 :後編

 少女はバッグの中から、携帯電話を取り出した。どこか忙しない様子で操作を始める。
 無断で他人の携帯を使うつもりなの、と内心でぎょっとしたときだ。
 視線に気づいたらしい少女が、不意に私のほうへと顔を向けた。
「……なに?」
「えっ」
「じろじろこっち見んなよ、感じ悪い」
 もう一人の少女のものである携帯電話を手にしながら、その子が警戒と苛立ちをあらわにしたきつい目で私を睨んだ。彼女の身体から溢れ出る悪意みたいなものに、私は気圧され、馬鹿みたいに口をぱくぱくさせるしかできなかった。
「聞いてんの? 見んなっつってんのがわかんない? 頭おかしんじゃねーの」
 悪意がそのまま罵声に変化し、私を刺す。その子の、まだ幼さを残した肌理の細かな白い頬が、ふいにぴくりと一瞬引きつった。すぐに、彼女が故意に浮かべたせせら笑いで覆われる。単なる生理的な痙攣だろうか。私に目撃された緊張感から生まれた痙攣だったんだろうか。
 私の目に、頬を歪ませたその痙攣は、背筋をかすかに冷たくさせるような動きに見えた。
 無垢な白い肌のなかに閃く、どこか卑屈で狡猾な大人の反応。脈絡なく、ひき肉を思い出した。ぐにゅりと指のあいだからはみ出る、脂ぎった肉だ。そんな連想をしてしまった自分自身が、とっさに髪をかきむしりたくなるほど、嫌になった。
「なんなの? マジでおかしいわけ?」
 少女がいらいらを募らせた様子で舌打ちした。
 なにも言い返せなくて、私は足が痛いのをこらえ、立ち上がった。
 彼女の視線を背中に感じながら歩くうち、次第に、余分な力みが取れていくのがわかった。
 さっきまで頭にあった、薄暗い無人の廊下を覗いたときのような——寒々しい思考もすぐに霞んでいき、純粋な、という言い方も微妙だけれど、ともかく、わかりやすい怒りまで湧く。
 感じ悪いのはどっちなの。無断で友達の携帯を使おうとしていたくせに。私に目撃されて後ろめたかったんでしょ。そうじゃなきゃ、あんなに攻撃的に突っかかってくるはずないし。
 自分より年下の少女に胸中で八つ当たりしながら、私は公園の入り口へと向かった。
 居心地が悪くてその場に残る気分には、とてもなれない。
 最近の子って本当に……、などと改札口で割り込んできた男性が口にしていたような、いやらしい非難をしてしまう。
 でも、悪いのは、あの子だもの。
 もしかしたら日常的に携帯を貸し借りしている仲なのかもしれないけれど、それでも一言断っておくとかすればいいのに、とまた繰り返し、内心で少女を責めた。携帯って個人情報とか登録しているものじゃないか。私だったら勝手に覗かれるのは嫌だ。
 それに、とあの子をなじる範囲が広がっていく。
 見ず知らずの、さっき二、三、言葉を投げかけられただけの、あの子に対して。
 そんな醜い怒りにとらわれる自分を、どこかで嫌悪しながらも、とめられなかった。
「それに、言い方って、あるじゃない。——もう一人の子だって、あの子がきついせいで」
 もっと優しい言い方をしてあげていれば、もう一人の少女だって遠慮なんかせず、早い段階でトイレに行けてたんじゃないの。
 あんなにきつい口調だから。
 皆が皆、あの子のようにきっぱりとした態度を取れるわけじゃない。感情のままに、なんでもぽんっと口にできるなら、どれほど楽か。そんなこと、できっこないよ、普通は。他人の感情を、慮るなら、できるはずない。
「嫌な気持ち……」
 無意識にこぼれ落ちた言葉は、自嘲なのか、それともまだあの子に対する憤りがくすぶっているせいか。
 今日は本当に、散々だ。嫌なことばかり起きる。
 
●◎●
 
 足も痛い、心も痛い。
 知らない少女に「感じ悪い」と言われた。
 私だって彼女たちの事情はなにひとつわからないけれど、それはお互い様じゃないか。
 だけど私は、言葉に出したりしてない。だれにも攻撃なんかしていない。
 なのにどうして、私だけがこんなにも我慢しなくちゃいけないんだろう。
 改札口で横入りされたとき、本当はちゃんと自分の口で注意したかった。
 道でぶつかった通行人にも、あなただって余所見していたじゃないかと言いたかった。今だって、今だって。
 最悪な日だ。
 頭を抱えたくなる。
 靴を捨てたい。こんな靴。
 お財布、忘れた。
 寝坊した。
 全部巡りあわせ。自分が選んだ先にある運命。
 小さな災難、なんにも、これっぽっちも、笑えない。
「——西田さん?」
 はっとした。
 我に返ると、私はいつの間にか公園を出て、向かい側の歩道にまで来ていた。
「危ないよ、道路を渡るときはちゃんと見ていないと」
「先輩」
 格好よくてきれいな先輩が私の側にいた。余裕のある微笑を浮かべている。いつだってきれいな人だ。男装しようがそうでなかろうが、人の目を簡単に奪うほどきれいだ。
 毅然と注意して大人の男性から理不尽な攻撃をされてしまった先輩。年下の子に見下されて理不尽な攻撃をされた私。
 結果は同じでも、全然違う。こんなにも違う。
 だけど、皆が皆、先輩みたいに凛ときれいに立ってなんかいられない。
 突然、苛立たしさが爆発しそうになった。私はぐっと両手足に力を入れ、必死に苛立ちの衝動を封じようとした。
「もしかして迎えにきてくれた? 足痛いでしょ、待っててくれてよかったのに」
 待てって?
 あの子のいる場所で?
 どうしよう、おさえきれない。かあっと喉の奥が熱くなってきて、視界がにじむ。
「先輩、遅いです」
「ん?」
「先輩、戻るの遅いから! 自販機の所まで行くって言ったのに、なんでこんなに遅いんですか」
 誰のために飲み物を買ってこようとしてくれたのか、私はこのとき、忘れていた。
 ただ自分が味わった屈辱的な感情だけを吐き出したくてたまらなかった。
 先輩がずっと側にいてくれれば、あの子に睨まれなかった。
 小さな災難を満喫しようだなんて、そんなの他人事の問題にすぎないから、軽々しく言えるんだ。
「ごめん、遅くなったね」
 私は顔を上げた。
 先輩は真面目な顔をしていた。いつものようにからかいを含んだ奇抜な台詞を口にしなかった。媚も躊躇も怒りもない、すごく真摯な謝罪と眼差しだった。
「あ」
 急に血の気が引いてくる。私、なにを八つ当たりしているんだろう。
 苛立たしげに友人を促していたあの女の子の姿が自分に重なる。声高に責められたら、ごめんとしか答えようがないとわかっているのに。言われた子も、言葉で相手を傷つけ返さないようにと、なにも反論しなかったんだ。
「……すみません、私、帰ります」
 もう駄目だと、とにかく思った。今日は最悪な日だ。これからもっと小さな災難が降り掛かってくるかもしれない。そのたびに苛々して先輩に八つ当たりしてしまうだろう。
「西田さん、さっきの場所でなにかあったの?」
 帰ろうとする私の腕を取り、先輩はガードレールのほうへと近づいた。その柵に腰を預け、私にも座るよう促したあと、心配そうな表情を浮かべた。
 私は少しのあいだ、沈黙した。今日は快晴で、本来なら気持ちのいい、楽しい日になるはずだった。時折吹く風も優しげで、日差しもきつくない。どこからか誰かの笑い声が響く。車道を車が走り抜ける。穏やかな日だった。世界で今、苛ついているのは自分だけのような気がした。
 名のわからない白い小鳥が空を渡っていた。私はその一瞬を目にやきつけたあと、重い口を開いた。
 先輩には、全部言わなきゃダメだ。そうしなきゃいけない責任が私にはある。
「さっき、感じ悪いって言われちゃいました」
 なんでもないことのように明るく話そうと思ったのに、今の気分ではうまくいかない。
「知り合いに会ったの?」
 先輩は焦りのない口調で緩やかに先を促した。
「いいえ、違うんです」
 私は正直に、さっき体験した小さな災難についてを白状した。二人の対照的な少女。なにか急いでいた様子。一人の子がトイレに行ったこと。そのあいだにもう一人の少女が友人の携帯を勝手に使おうとしていたこと。じっと見ていたら睨まれたこと。
 そこでようやく思い至った。確かに、じろじろと相手を見つめるなんて非常識だったんだ。これじゃあ罵られる原因を作ったのは結局のところ自分じゃないか。罵られて当然だろう。
 話し終えたあと、私はまた俯いた。今日は何度こうして俯き、自分の靴を見つめただろう。怒りや苛立ちは全部消えてなくなったけれど、そのかわり、猛烈というほどに後悔が生まれる。同時に、自分がどれだけ我が儘で、嫌な子だったのか、めまいがするくらいに思い知る。
「西田さん」
 ぽん、と頭に手が乗った。
 その手が優しく撫でるような動きを取る。
 恐る恐る顔を上げると、手つきと同じくらい先輩は優しい目をしていた。きれいな表情だなあとまた思った。それがまた、胸を刺す。
 全部やり直したい。今日という日を、最初からやり直したい。そうしたら、同じ失敗なんかせずに——。
 私はそこで、瞬いた。同じ失敗を、本当にせずにいられるだろうか。
 だって今日という日に怒った小さな災難の連続、あのスケッチブック事件の朝とよく似ていたのに。
 私は先輩から顔を背けた。動きにあわせて、大げさなくらい髪の毛が揺れた。
 その髪をくぐるようにして、水屋先輩が手を伸ばし、少し強引な動きで顎をとらえて「こっちを向くように」と促す。意固地になってその手に抵抗していたら、水屋先輩はわざわざ私の前に移動し、アスファルトの上に直接あぐらをかいた。おたつく私の太ももに両腕を乗せ、なんだか企みに満ちた、柔らかい微笑を浮かべている。
「西田ちゃん」
「なっ、なんですか」
「根拠のない推量、というものをしてみようか」
「……え?」
 なんの話だろう、と私は首を傾げた。
 先輩は、楽しげに私を見上げた。
「西田さんと別れて、公園の入り口に向かったあとのことなんだけれどね。自販機の所まで行ったのはいいんだが、その前に二人の少年がいたんだよ。なにも買う気がないのなら、早く自販機の前からよけてほしいなと思った。けれど少年の一人がそこで電話をしていて、動く気配がない。さて、早くどけろと脅すか、まあ他にも自販機はあるから探すか、と迷ったとき、その少年が電話に向かって叫んだんだよね」
「叫んだ?」
「そ。『ええ! なんで十五分遅れていかなきゃいけないんだよ!』って」
 先輩は途中で顔をしかめ、少年の口ぶりを真似してか、素っ頓狂な声を出した。
「他人の話なんかに興味はないからね、特に気にせず、別の自販機を探そうと思ってすぐにその場から離れたんだけれどさ」
「あの……」
「さてさて、根拠のない勝手な推量を始めよう。探偵の気分でさ」
 先輩はますます楽しげな顔をしたあと、どこか演技かかった仕草で「フム」と厳めしく唸る。
「あのさ、大抵の人って、誰かと待ち合わせをするときは、キリのいい時間に決めるよね。たとえば二時きっかりとか、二時半とか。十五分、二十分、というのも、まあ、あるか。だけど十七分とか二十二分という半端な時間にはしない」
 それはそうだよね。分かりやすい時間に待ち合わせするのが普通だ。
「西田さんと別れたあと、私は腕時計を見たんだ。二時ジャスト目前だった」
「そうなんですか?」
 先輩は、なぜか、してやったりという笑みを見せた。
「さっき西田さんは、二人の少女は時間を気にしているようだったと言ったよね」
「はい」
「彼女たちは誰かと待ち合わせをしていたんじゃないかな。その誰かとは、たとえば、私が自販機前で会った少年たちとかね」
 先輩は、ふと立ち上がった。探偵さんの演技なのか、両手を後ろに回し、背筋を伸ばして、紳士みたいな動きで私の前をうろうろする。再び青い空を、名前の知らない小鳥がよこぎった。
「西田さんの話では、おっとりした女の子はトイレに行きたいのに、なぜか我慢をしていた。それをもう一人の強気な少女が早く行けと急かした。わざわざバッグをひったくってね。その後、無断で友人のバッグから携帯電話を取り出した。でもその前に、彼女は自分のバッグを確かめていたんだよね? じゃあ最初は、自分の携帯を使おうとしていたんじゃないのかな」
 あっと思った。苛ついて全然少女の行動に意味を見出せていなかった自分に気づく。
「たとえ友人といえども、携帯を無断で使うなんて後ろめたい。それでも、あえてマナー違反を犯してどこかへ電話をかける必要があった」
 わかった。
 わかった気がする。
「強気な少女はちょっとキツイというくらい、早くトイレに行けと急かした。その理由は、少年たちが現れる前に電話をかけたかったからだとすれば。そして、バッグをわざわざ預かったのは、友人の少女に、携帯で時間を確認させないためだとしたら」
 先輩は気取った仕草で、くるりと人差し指を私に向けた。
「強気な彼女は自分のバッグの中を確認するまで、携帯を忘れてきたことに、気づいてなかったのかもしれない。誰かさんが財布を忘れたみたいに」
 私は赤面してしまった。
「そして友人の姿が見えなくなった直後、急いで電話をかけようとする。でもじっと見つめる西田さんに気がついた。勝手に友人の携帯を使おうとしているから、すごく気まずいし、後ろめたい。そういうときの人間は、つい逆ギレ状態になる。なじられたくはないだろうね、自分がよくないことをしていると理解していれば。ということで、西田さんは睨まれ、牽制されてしまった」
 私は両手で口元を押さえた。脳裏に、厳しい目をした少女の姿が蘇った。
「彼女は、少年たちにいったいどういう電話をしたんだろう。こんな推量はどうかな。『ねえ、今どこにいるの?』」
 先輩は目に見えない携帯電話を自分の耳に当てて、可愛い声を出した。
「そして相手が答える。『もう公園前にいるよ。待ち合わせ時間、二時だろ。なんだよ、一、二分遅れるかもしれないけど、それくらいいいだろ』」
 きっと今度は、少年の真似だ。
「で、少女はこう言う。『あと十五分! お願い、あと十五分遅れてきてよ!』電話相手は驚くわけだ。『ええ! なんで十五分遅れていかなきゃいけないんだよ!』」
 先輩が自販機前で会ったという少年の言葉が、きれいに話の流れにおさまった。
「少女は必死に頼み込むんだね。『お願い、なにも言わずに十五分遅れてここに来てよ。それでもって、わたしがこう頼んだのは内緒にして。待ち合わせ時間に遅刻してきたことにしてほしいの。今度なにか奢るから!』少年は不思議に思いつつも、こう答えるわけだ。『まあいいけどさあ、なんかあったのかよー』『それは女の子の秘密!』とかね」
 先輩は両手を広げ、にっこりと笑った。
「休日に待ち合わせして遊ぶくらいなんだから、お互いに悪感情は持っていないだろう。可愛い女の子の頼みとなれば、断れないのが男だよ。私も西田さんの頼みなら断れないね」
 せ、先輩は女性じゃ。
「十五分あれば、公園の奥にあるトイレに行った女の子も、少年たちが来る前に戻ってこれる。でもなぜ、強気な彼女はそんな電話をあえてかけたんだろうか。トイレに行くのは、人間だったら当たり前だよね。でも、もし、少年のどちらかを、おっとりした少女が好きだったなら」
 ふふっと楽しそうに口元を綻ばせる先輩を、瞬きも忘れて見つめてしまった。
「中学生くらいの女の子なんだよね。だったら、好きな男の子に、お腹が痛くてトイレに行っていましたなんて、知られたくないかもしれない。おっとりした少女は、消極的で恥ずかしがり屋なのかも。じゃあ、単純に、トイレに行っていたとは言わないで、待ち合わせ時間に遅刻しただけだと説明したらどうだろうか。十五分くらいの遅れなんて、男の子は全然気にもとめないだろう——けれど、女の子はどうだろうか。たとえ十五分でも、時間にルーズな子だと思われるのは、切ない」
 私も、寝坊したと分かったとき、すごく焦った。
「たかが十五分、されど十五分。もし彼女たちがもう少し大人であれば、もっとうまく立ち回れただろう。でも、多感で複雑な年代だ。ちょっとしたことが、死にたくなるくらい恥ずかしくて、ひどく繊細で、なにもかもが手探りで」
 なんだか、目の前にきらきらとしたきれいななにかが見えた気がした。
 それはとても脆く、儚い美しさを持つ幻だった。雪の結晶みたいな。
「おっとりした少女は最初、我慢しようとしていた。強気な彼女は無理矢理促した。長く迷い、その後トイレにいったら、少年たちが到着してしまう。戻ってきたときに『どこに行っていたの?』と聞かれたら、おっとりした子は理由が理由なだけに狼狽してしまうかもしれない。そうしたら少年たちは悪気なく少女をからかうかもしれない。仮に今我慢して、少年たちと遊んでいる最中に苦しむことになるのは可哀想だ。強気な彼女は内心ですごく焦る。大切な友人が困っている、なんとかしなければ、でもどうしたらいいだろう? そうだ、まだ少年たちは来ていない。友人がトイレに行っている間に電話をかけて遅れてきてもらおう。少年たちには内緒にしてもらわないと。彼らが遅刻してきたことにすれば、友人は気にやまずにすむ。言い訳を考えずにすみ、ほっと安心するに違いない。ああしまった、わたしの馬鹿、携帯を忘れてきちゃった。どうしよう、こんなときに限って忘れてくるなんて。悪いと思うけど、すぐに切るから、他の操作はしないから、今だけ電話を貸してね。あっ知らないお姉さんに見られてる、やだ、なにか言われたらどうしよう——」
 諳んじるようにそう言葉を紡ぎ、最後に先輩は、笑いながら私を睨んだ。「じろじろ見ないでよ、感じ悪い!」と楽しげに叫ぶ。
「なあんて、こんな根拠のない推理、どうでしょう?」
「——」
 どうしてだろう、「感じ悪い」という台詞が、とても弾んだ、気持ちのいい言葉に聞こえる。もう、心を貫く、悪意の言葉じゃない。それどころか。
 今日耳にしたなかで、とびきり鮮やかな、目映い言葉になってしまった。
 地面から広い空へと、ぱっと飛び立つみたいな言葉じゃないか。
 すごく胸の奥が熱い。苛立ちゆえにではなく、ただただ、歓声を上げたいような感情が生まれて、熱いんだ。
「先輩」
「今の話は、私が勝手に想像した出鱈目にすぎないよね。西田さんが会った少女たちと、私が会った少年たちは、実際にはまったく繋がりなどないのかもしれない。その少女はただ暇つぶしのために、友人の携帯を使ったのかも。けれど、そういう事情は、私たちに関係がない。—−それでもさ」
 先輩は笑った。明るく、優しく、楽しそうに。
「事実なんてわからなくても、見えなくても。想像ひとつで不幸を幸福に変えられるよね」
 なんだか、とても、すごい、と思った。
 毎日を当たり前に過ごしていく、そのなかで、大半の出来事や記憶を忘れていく。数日前の夜ご飯のメニューがもう思い出せなくなっていることと同じ。でも、この今、この時間って、すごく……すごく、大事なものじゃないか。五年後にも、十年後にも、繰り返し思い出して、ふと微笑みたくなるような。
 そういう気持ちをもったこと、先輩に伝えたい。だけど、どう言えば、伝わる? 適切な言葉が思い浮かばない。私もあの女の子たちと同じで、まだまだ大人みたいにうまく立ち回ることなんてできないんだ。だからこんなに簡単に、ぶっきらぼうになったり、悲しんだり、落ち込んだり——喜んだりする。
 じれったい、胸が熱くて、言葉にならなくて、どうしよう。
 でも、これでいいんだよね? 悩んで、悩んで、そして「前向きに考える、想像する」っていうことを学んでいる最中の年頃なんだもの!
 先輩、先輩、ありがとう。手をひいて歩いているように、心をひいてくれている。私に、大事な経験を、させてくれる。
「先輩」
「子猫ちゃん、まずい、まずいね」
「……え?」
「そんな激しくかわいい顔を向けるなんて、小悪魔め。自覚している? 今の西田さん、私が心底好きだと思う顔をしている。最初に、コイゴコロを持たせてくれたときのように」
 コイゴコロ?
「これは私のせいじゃない、純潔を汚しても私のせいじゃない……すべては天使の仮面をかぶった西田さんの誘惑が原因だ。……確か電車で一駅のところにホテル街が」
 先輩、心の声が漏れまくってます。
「いや、駄目だ! 今の私は本気で性犯罪をおかす! 実に惜しいが、くそっ、健全に家まで送ってあげるしかないのか!」
 本気で苦悩している先輩に、ちょっと笑ってしまった。
 それで。
 心のままに、身体が動いた。だって仕方ない、私はまだ、大人じゃないから、きれいな言葉で心に溢れる感情を表現できないんだもの。
 だから、頭を抱えている先輩に、ぎゅうっと抱きついた。
 飛びつくように、ぎゅうっと、ぎゅうっと、抱きついた。
 私を受け止めた水屋先輩の身体がちょっと危なっかしく揺れ、そして、ぴきっと固まった。
「——にっ、西田さん!?」
 ものすごく慌てた水屋先輩の声がした。
「なっ、ななななにしてんの西田さん!? なにしてるかわかってんの?……って、ちょっと!? 公衆の面前で、だっ抱きつくなんて、ハレンチな!! ほほ歩道ですよココ、ちょっと待て私……!」
 混乱している水屋先輩の声に、笑みがこぼれる。
 先輩って、自分から過激で怪しい台詞を言うのは平気なのに、その逆は耐性ない人なんだ。
「——あー、あー、もう! 西田さん!!」
 ぐいっと両手で乱暴に肩を掴まれ、そして身を引き剥がされた。びっくりして見つめると、目尻が赤く染まっている水屋先輩がいた。
「ばかもの! 若い女子が不埒な真似はいけません!」
 先輩、すっごく混乱してますね。
「だからね! あのねえ、人の顔をじろじろ見ない! 感じ悪いよ!!」
 私は思わず、声を上げて笑った。
 悪くない。
 今日という日、なんにも、これっぽっちも、悪くない。
「じろじろ見たいんです」
「だから感じ悪いって!」
「見たいんです、先輩」
「ちょっと我が儘じゃない、君!」
 私はもう一回、心のままに抱きついた。
「コラー!! 西田ー!!」
 先輩の叫び声が、明るい空に広がった。
 私は再び先輩に身体を引き剥がされるまで、声を上げて笑い続けた。
 だけど先輩。
 
 私だって、こんなにこんなに、どきどきしているんです。
 
 
 ●終わり●

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