恋愛虚実:01

 今日は朝からツイていなかった。
 目覚まし時計の電池がタイミングよく切れたらしく、セットした時間になってもベルが鳴らず寝坊してしまった。
 急がなくてはいけない日に限って空模様は荒れ、大粒の雨が降っている。近道だからと水たまりの多い道を選び駅まで走ったために、足元が濡れて嫌な感じだった。おまけに雨のせいで、いつもより電車が混んでいた。寝坊した分、遅めの電車に乗ってしまったというのも混雑理由の一つじゃないかな。
 ようやく電車から降りたあとで、傘を車内に置き忘れてしまったと気づく。座席の手すりに寄りかかったついでに、傘もそこに掛けていたのが失敗だったんだ。
 駅から学校までは少し距離がある。雨の勢いが強いため、傘をささずに行けば、学校へ到着するまでに制服がびしょ濡れになってしまうだろう。私服の組み合わせを考える余裕がなかったので、迷う必要のない制服を咄嗟に着てしまったんだよね。
 傘を買うため駅付近のコンビニに寄った時、自動ドアの前で会社員らしき男性とぶつかってしまった。その人もなんとなく急いでいて、時間的にも気持ち的にも余裕がなかったようだった。私が謝罪の言葉を口にするより早く、わずかに視線を下げたあとで迷惑そうに舌打ちしたんだ。朝から暗い気持ちになるなんて、最悪だと思う。
 気持ちを切り替えようと思ったのに、不運は続いた。
 慌てて家を飛び出したために、お財布を忘れてきたんだ。
 定期入れとお財布は別々だったから、電車を乗る前に気がつかなかった。定期は鞄の外ポケットに入れっぱなしだしね。お財布の方も、ちゃんと中に入っているはずと思い込んでいたんだけれど、そういえば昨日の夜、少しお金を足しておくため鞄から出してしまったんだった。多分、自室の机の上に置いたままになっているんだろうと思う。
 なんだか立て続けという勢いで小さな災難に見舞われた気分になり、雨空の暗い色を重ねたように憂鬱度が増した。
 どれか一つだけであれば、たまにはこういう失敗もあるって前向きに考えられるけれど、連続するとかなりの打撃となってしまう。
 コンビニに寄り道したため遅刻してしまったことも、憂鬱を更に深めた。傘は買えなかったのにな、と理不尽な八つ当たりをしたくなった。
 あと五分早く学校に到着していれば、ぎりぎりHRに間に合ったはずなんだ。
 どうせ遅刻決定なら雨脚が少しでも弱まるまで、どこかで時間を潰せばよかった。制服、びしょ濡れでもう本当、やんなるよ。
 しかもあれほど強かった雨は二時限目が終わる頃には止んで、きれいな青空が見え始めたんだ。何か損したという思いを抱き、深く溜息をついてしまった。
 三時限目の英語は不意打ちの小テストだったし、今日ってとんでもない日だ。
 もうこれで小さな災難の訪れがストップすればいいなと祈らずにはいられなかった。
 ところが、ささやかな希望にとどめをさすような、最後の災難が昼休みに待っていた。
 
●●●●●
 
「冴ー元気出しぃな」
 妙な節をつけて、イリちゃんが慰めの言葉を口にした。
 一方私は、真っ黒な不幸の暗雲を背負いつつ、両腕を投げ出して机に突っ伏している。
 ちなみに今は、放課後だ。さっきHRが終わったばかりなのでまだたくさんの生徒が教室に残り、友達と談笑している。
「冴ちゃん冴ちゃん、秘蔵のプチチョコあげるから」
 前の席に、後ろ向きに腰掛けてこっちを覗き込んでいたイリちゃんがふと思いついたようにポケットを探ったあと、ささ食いなされ、と透明な包み紙にくるまれている可愛いプチチョコを両手で恭しく差し出した。
「ありがと……」
 うう、イリちゃんの優しさが身に染みる。
 私はのそのそと上体を起こし、泣き笑いの情けない表情を浮かべつつありがたくプチチョコをいただいた。
「よしっ背中の暗雲、二割減少だ」
 イリちゃんがにかりとお日様みたいに明るく笑って力強く拳を握った。あぁイリちゃんてイイ子だなあ。
「イリ様」
「冴殿」
 私達はお互いの名前を呼んで友情を再確認したあと、がしっと手を握り見つめ合った。ありがとう、地の底まで沈んでいた気持ちが少し浮上したよ。
「うーん、私も混ぜてほしいな」
 熱い思いを抱いて目を潤ませていた時、突然第三者の声がかかった。
「ああっ冴殿の運命の方ではありませんか」
 イリちゃん、その表現は何かな。
 私は一瞬意識を飛ばしそうになりながらも、よろめく演技をして切なげに吐息を落とすイリちゃんに必死な視線を送った。
「こんにちは、入江さん」
 机の横に立った水屋先輩が、上品な笑顔でイリちゃんに挨拶をした。どうぞどうぞ、とイリちゃんは頬を赤らめつつ近くの椅子を一つ引きずってきて私の横に置いた。水屋先輩が笑みを深めて、その椅子に腰掛ける。久能先輩はどうしたのかな、とちらりと考えけれど、いつも必ず一緒に行動しているってわけじゃないみたいだ。それに安心してしまうのか、寂しいのか、自分でもよく分からなかった。
「今日も恰好いいですね、先輩」
「そうかな。西田さんを落とせるくらい恰好いいかな」
「落とせますとも先輩なら」
「無理矢理押し倒すのはアリだと思う?」
「うーん、せめて海辺で優しく押し倒してあげてください」
「そうかそうか」
 二人とも、何の話!
 私は奇妙な唸り声を発してしまった。イリちゃん達の意気投合に悪寒がしたよ。
 おたつく私に、イリちゃんと謀を巡らせていた水屋先輩が視線を向け、明らかに『からかいます』という楽しげな表情を浮かべてぱちりとウインクした。
 どうやら水屋先輩のクラスもHRを終えたらしく、鞄を持ってこっちの教室にきている。
 確かにイリちゃんの言葉通り、先輩は今日も格好よかった。薄手で細身のカーディガンとダーク系のデザインパンツ、よく似合っている。ベルトやブレスもお洒落だ。というか先輩、本当に益々男装が板についてきてませんか。男性用アクセを実にさりげなく身につけてます。
「それで西田さん、どうして落ち込んでいるのかな」
「……バレバレですか?」
 情けない思いで訊ねると、先輩は小さく笑い、バレバレですよ、と答えた。
「この時間まで水屋先輩に会えなかったから、冴は落ち込んでいるのかもしれません」
 お願い、真顔で変な説明をしないでイリちゃん。
「可愛いことを言ってくれるじゃないか、西田さん」
 いえ、言ったのはイリちゃんです!
「ねえ、テイクアウトいいかな?」
 私を指差して、イリちゃんに聞かないでください。
 そしてイリちゃんも、爽やかな笑顔で親指を立てないで!
「テイクアウトは後の楽しみとして、一体なぜ私の子猫ちゃんは切なげな顔をしているの」
 その台詞にどこから突っ込むべきですか。
「それがですねー、事件が発生したのですよう」
 再びぐったりと机に突っ伏した私をうかがいながら、イリちゃんが代わりに説明してくれた。
 私も顔だけ上げてぼんやりと視線をさまよわせつつ、昼休みの出来事を頭の中で再生した。
 スケッチブック消失事件。瞼の裏に、そんな文字が流れた。
 
 
 ――事の始まりは先週の金曜日だった。選択科目である美術の授業で、木炭で描く静物画をその日までに仕上げなくちゃいけなかったんだけれど、どうしても終わりそうになかったため、先生に頼み、持ち帰って仕上げることになった。
 来週の火曜日――つまり、今日の昼休みまでに必ず提出しろと言われ、私は頷いた。
 美術の神田先生は、期限にうるさい。ちなみに以前は木下という先生がいたんだけれど結婚を機に退職し、その代わりに神田先生が来たんだ。四十代の先生なんだけれど、とても真面目でちょっぴり怒りっぽいんだよね。
 どんなに下手であっても、期限内に提出しなければ長く嫌味を言われる。生徒達の間では、名前の神という字をもじって、ガミ先生と呼ばれているんだ。すぐにガミガミ怒るから、という意味もある。
 実は私、以前描いた油絵の時にも提出期限をのばしてもらっている。そのため、今回も、とお願いした時、なんとか了承はしてもらえたけれど、はっきりと分かるくらい不機嫌そうな顔をされてしまったんだ。
 ガミ先生の額に浮かぶ青筋をこれ以上増やしたくなかったし、そもそも提出しなきゃ自分の成績が下がるから、私はスケッチブックを持ち帰ったあと、静物画を仕上げるべく必死に描いた。
 ちゃんと完成させて、実は昨日のうちに学校へ持ってきていたんだよ。けれど昨日、ガミ先生は風邪のため学校を休んだ。その時私はこう考えた。提出期限は明日までなんだし、今日、別の先生に預けるより直接渡した方がいいだろう。もし提出日にもガミ先生が休んだら、その時こそ別の先生に預かってもらえばいい。
 それで翌日――今日の昼休み、教室に置いていたスケッチブックを持って美術室に向かった。
 最初に職員室へ向かったら、ガミ先生は今日はちゃんと来ていて、美術室にいるだろうと他の先生に言われたんだ。
 美術室は三階にある。どの教室よりも一番遠い場所だ。
 到着した美術室に、先生はいなかった。他の誰もいない。
 窓が開いていて、雨の匂いを含んだ柔らかな風が入り込み時折カーテンをそっと膨らませていた。私はちょっと考えたあと、窓際へと近づいた。スケッチブックをすぐ側の机に置き、窓から少し身を乗り出して深呼吸したあと、外の景色を眺める。今朝はすごい雨だったのに、こんなに晴れるなんて詐欺だ、などと子供っぽい憤りを抱いた。でも、カーテンを揺らす風は気持ちよかった。
 そこでふと考えた。先生はもしかして美術準備室にいるんじゃないかな。
 準備室とは名ばかりで、この美術室と続き部屋になっているんだ。そこへ繋がる扉が、黒板の横にある。私は一人、ぽんと手を打った。そうだった、ガミ先生はよく準備室にこもって絵を描いているんだった。
 気づくのが遅いと自分に呆れたり照れたりしながら、準備室へと続く扉をそっとノックした。でも、返事がない。
 少し躊躇ったあと、私は扉をゆっくりと開き、中へ入った。準備室には、生徒達のスケッチブックや油絵道具を置いた棚、様々な作品を並べている棚、デッサン用の彫刻を収納している棚などがあり、結構雑然としている。そして部屋半分は、ほぼ自室状態となっているガミ先生の領域だ。一応仕切りみたいのがあって、生徒達にいたずらされないようにしている。
「先生?」
 絵の具独特の匂いを身体に取り込みながら、私は小声で言った。
 コロンみたいに甘く香しいわけじゃないけれど、部屋に深くしみ込んでいるこの乾いた匂いは好きだ。セピアを連想させる匂いには、ふっと目を閉じて静寂に耳を傾けたくなるような穏やかさがある。
「先生」
 私はもう一度呼びかけたあと、思い切って仕切りの奥をうかがった。
 やっぱりいない。
 でも美術の先生なんだから、ここにいればきっと来るだろう。昼休みなのでまだ時間に余裕もある。
 仕切りの奥には、先生が普段使用している飴色の重厚なテーブルなどがあり、その横に描きかけのキャンバスを乗せたイーゼルが置かれていた。廊下を歩く生徒の画だ。堅物と言われているガミ先生の絵は、意外にもほんわりとあたたかくなるような柔らかい色彩を持っていた。先生、いつもしかめ面であまり笑わないけれど、本当はこんな優しい心で生徒を見ていたのかな。影で、怒りっぽいと評価し『ガミ』という渾名で呼んでいることが途端に後ろめたくなり、意味もなくこつこつと踵を鳴らしてしまう。
 少しの間、先生の絵をじっくりと眺めてしまったようだった。遠くからかすかに、生徒達の笑い声や走る音などが聞こえた。私は目を閉じ、先生の絵を瞼の裏に描いた。
 不意に美術室の方から、誰かの足音がかすかに響く。
 私は慌てて準備室を出た。
 気難しげな顔をして机の間を歩いていたガミ先生が、準備室の扉から出てきた私に視線を向けた。どことなく不機嫌そうなのは、まだ体調が戻っていないせいなのかもしれないと思った。
「西田か。持ってきたのか?」
 私は、はい、と頷いた。先生の声が少し掠れている。やっぱりまだ風邪が治っていないんだ。そういえばイリちゃん、飴持っていたよね。あとでもらってきて、先生にあげようかな。でも、学校にお菓子なんて持ってくるなと叱られるかも。
 そんなことをつらつらと考えながら、私はスケッチブックを置いたはずの机に顔を向け――。
 
 
「スケッチブックが、なくなっていたんですよ」
 イリちゃんまでもが私同様、渋い顔をして首を傾げた。
 水屋先輩は緩く足を組み、考えに沈むような表情を浮かべて耳を傾けていた。
「それで、冴、すごく混乱しちゃったようで。嘘! ってムンクのポーズを取り、思わず叫んだそうです」
「……神田先生は、どう答えたの?」
 イリちゃんの視線が私に移り、まるで泥水をかぶったような表情を作って嘆息した。
「先生、風邪で調子もよくなかったこともあるし、冴の説明がしどろもどろだったこともあって、すっごく不機嫌になったそうです」
「不機嫌に」
 先輩が自分の指で唇を撫で、わずかに爪を噛むような仕草を見せながら、ぽつりと独白した。視線は虚空に向けられている。
「はいー。可哀想なんですよ、冴。嘘をつくな、と先生に特大のお叱りを受けたんです」
 私は再びがくっと机に上半身を投げ出した。
 そうなんだ、怒鳴られたし、嘘つきだと思われたし、最悪の状態だ。
 私の拙い説明が思い切り支離滅裂だったというのも疑惑の原因となっただろう。
 だって、普通、ありえないよね。ほんの少し準備室へ移動した間に、スケッチブックが消えていたんだもの。何十分も準備室にいたわけじゃない。ほんの十分か、十五分だ。
 どうしてなくなってしまったのか私本人が全然理解できていないのに、美術室に到着したばかりの先生だって分かるはずがない。
 第一、お財布とかならともかくスケッチブックをわざわざ盗む人なんているだろうか。背表紙に名前とクラスをしっかり書いてあるので間違えようもないしね。はっきりいって、画家でも何でもない私のデッサン画など価値ゼロだ。
 じゃあ誰かが捨てたのかと考えたけれど、それもどうかなあと疑問に思う。購買で手に入れたスケッチブックなんだから、誰が見たって生徒の持ち物だと分かるだろう。
 風に飛ばされて窓の外へ落下……うーん、紙一枚だけならともかくスケッチブック丸ごとなんて絶対ありえないし。
 別の可能性を一つ思いついた。私に対するいじめ、だ。
 けれど、高校生にもなってこんないじめをするだろうか。
 ……する人、案外いるかも。水屋先輩関連で、時々知らない子に睨まれることがあるんだった。
「冴、以前にも油絵を遅れて提出したから、余計に悪い印象をもたれているみたいなんです。くだらない嘘を言って、提出期限を更にのばそうとしているんじゃないかって疑われたらしくて」
 朝から災難続きで疲労困憊状態だったのに、この出来事で最後にぐさっと容赦なくとどめをさされたという感じだ。
「というわけなので先輩、是非冴を心身共に慰めて……あ、あれ? 先輩、どこに行くんですか」
 突然水屋先輩が立ち上がった。
「ん。ちょっとここで待っていてね」
 立ち上がった水屋先輩が、驚いている私の頭をぽんぽんと撫で、すぐに去っていった。
「なんだろ?」
 残された私とイリちゃんは、呆気に取られて顔を見合わせた。
 
●●●●●
 
 水屋先輩が戻ってきたのは、十五分くらい経った頃だった。
「どうしたんですか?」
 戻ってきた先輩に、不思議そうな顔をしてイリちゃんがたずねた。
 水屋先輩は悪戯そうに笑ったあと、背に隠していた手を見せた――生徒室にこっそり常備しているおつまみのさきいかとスナック菓子を持っていたんだ。
「傷心の西田さんに、愛をこめて贈り物」
 スナック菓子とおつまみを見て、イリちゃんが顔を輝かせた。笑顔が目映いよ、イリちゃん。
 先輩、私を元気づけるために、お菓子を持ってきてくれたんだ。
 突然教室を出た理由が分かり、ほんわりと気持ちが軽くなった。
「ありがとうございます」
 イリちゃんも先輩も優しい。本当に感謝です。
 ということで私達は仲良く、お菓子タイムを満喫した。
 二十分くらい経過した頃だろうか。
「そうだ」
 と水屋先輩が不意に何か気づいたという顔をして私達を見た。
「考えていたんだけれど、もしかしてさ」
「はい?」
 きょとんとする私に向かって、うん、と一人納得した様子で水屋先輩が頷く。
「西田さん、私と少し校内デートをしようか」
「あぐふ」
「美術室なんてどう?」
 思わず椅子から落ちかけたんだけれど、先輩の提案場所を聞いて正気に返った。
「えっ美術室ですか」
「そうそう」
 よし行こう、ときっぱり宣言して私の腕を取り、立ち上がらせようとする。
「でででも」
「拒否は却下」
「ええ!」
 混乱する私を心配してくれたのか、イリちゃんも慌てて椅子から立ち上がり、一緒に行きます、と言った。
 水屋先輩は少し沈黙したあと、見ようによっては困惑とも取れる、不思議な優しい微笑を浮かべた。
「私が美術室で西田さんを脱がして泣かせても、見逃してくれる?」
「余裕で見逃します」
 二人とも、爽やかに握手をしないで!
 
 
 身の危険を感じて怯えつつ、私は二人と一緒に美術室へ向かった。教室内には私にとって今もっとも会いたくない相手であるガミ先生がいた。美術部の生徒が何人かいて、画材の準備をしている。もう部活が始まる時間なんだ。
 怖じ気づく私の様子を察していながらも水屋先輩は、教壇横の椅子に腰掛けているガミ先生に颯爽と近づいた。
「水屋?」
 目の前まで近づいた水屋先輩を見上げ、ガミ先生は訝しげな顔をした。一重の鋭い視線が私の方へ移動した時、がらりと色が変わったかのように厳しくなる。眉間の皺が、本気で怖いです。
「なんだ?」
 ガミ先生は抑揚のない声で水屋先輩にたずねた。
 そういえばガミ先生、水屋先輩の劇的な変化については全然こだわっていない。中にはあからさまに非難の目を向けてくる先生もいるのに、と不思議に思った。保守的なのかそうじゃないのか、ただ関心がないだけなのか、判断できない。
 違う、判断できるほど、ガミ先生を知らないんだ。
 私はまた不思議な気持ちになった。先生は友達と違って、どこか距離のある存在だと思っていたけれど、こうして同じ空間を共有する一人の人間なんだ。私は今まで先生のことを、『先生』という記号を与えられた機械のようにどこかで捉えていたんだろうか。
「西田さんのことなんですが」
 先輩がそう口火を切ると、途端に先生は嫌な顔をした。
 私のこと?
 美術室デートが目的じゃなかったのかな。
「そうだったな、西田は生徒会役員だったか。だからといって点数は甘くしないぞ。第一、生徒会と個人の授業成績に繋がりはない」
 先生はきっぱりと言った。うう、仰る通りです。水屋先輩はもしかして生徒会長の権限を使い、静物画の提出期限延長などを先生に頼もうとしてくれたのかな。
「いえ、そうではないんです。さっき西田さんの話を聞いたんですよ。提出するはずの静物画を描いたスケッチブックが消えたとか」
 先生ははっきりと「馬鹿らしい」という顔をした。
「消えたのではなくて、準備室の棚にしまったのを西田さんがすっかり忘れていただけなのでは、と」
 え?
 大人びた微笑を浮かべる水屋先輩の横顔を思わず凝視してしまった。イリちゃんと先生も、どこかきょとんとした様子で先輩の顔を見つめている。
 で、でもそんなはずない。私、ちゃんと記憶があるんだ。棚にはしまわなかった。窓辺に寄った時、机においたんだもの。
「水屋、後輩を庇いたい気持ちは分かるがな、それはない」
「そうですか?」
「スケッチブックをしまっている棚は確かめた。西田のものはなかった」
 先生の言葉に驚いてしまった。あんなに顔を真っ赤にして怒っていたけれど、先生はその後、棚を調べてくれていたんだ。
「あの、先輩、もういいです」
 私は小声でいい、先輩の袖を小さくひいた。このままだと水屋先輩の印象までも悪くなってしまう。
「先生は西田さんのクラスが利用している棚だけを調べたのではないですか」
 私の合図に気づいているだろうと思うのに、先輩は悠然とした態度を崩さずそう言った。
 先生が口を閉ざし、値踏みするように水屋先輩をじっと見返す。
「あ、そうか、スケッチブックの棚って、学年別、クラス別に使われていますよね」
 私の斜め後ろに立っていたイリちゃんが、合点した様子で大きな声を出した。
 ええと、確かに棚はそれぞれ分けられている。三年生は上から二番目の列、二年生は三番目、一年生が四番目なんだ。一番上の列には、卒業生が残した作品が置かれており、最下部には重量のある画材道具が押し込まれている。
「西田さんのクラスは、2ーDだよね。間違って他のクラスの棚に入れてしまったのではないかな。Cクラスか、Eクラスか」
 私はぽかんとした。
 そんなはずない、スケッチブックは準備室に持ち込んでいないもの。
「西田さん、少しそそっかしいからね。この前も生徒会室から帰る時、自分の鞄を忘れそうになっていたでしょう」
 そ、それはついうっかり!
「更に言えば、副会長に渡す名簿を持ち帰ったり、授業で使っている自分の勉強用ファイルと役員ファイルを間違えて私に見せたり……」
 先輩は面白そうに次々と私の失敗談を暴露した。自分の顔が一気に熱くなる。先生とイリちゃんの呆れた視線が痛い。
「まあ、失敗のあとに死にそうな顔で狼狽える姿が可愛いくて、ついもっと虐めたくなるんだけどね」
 先輩、先生の前で大胆発言だけはやめてください。
 気絶しそうになる私の手を、イリちゃんがぎゅっと掴んだ。
「論より証拠。他の棚を見てみようよ」
「でも、私」
 そんなはずない、でも、まさか。
 確実と思っていた記憶が混乱のためにだんだん怪しくなり、輪郭がぼやけていく。
 愕然としている私に焦れたのか、イリちゃんが引っ張るようにして準備室へと勇ましく連れていってくれた。
 その後ろを水屋先輩と先生がついてくる。
「Cクラスにはありませんねー」
 緊張と戸惑いのために動けない私に代わって、イリちゃんが他クラスの棚をてきぱきと捜索してくれた。
「Eクラスは……って、うわ! あったよ冴!」
「――えええ!?」
 そんな馬鹿な。
 なんで、なんで!?
「どうしてぇ!」
 私は絶叫したあと、きらきらした目でスケッチブックを掲げるイリちゃんにつめよった。
 スケッチブックの背表紙には、正真正銘自分の字体で「2-D 西田」と名前が書かれている。偽物じゃない。
「嘘、嘘! だって私、机にっ」
「冴って、ほんとに……」
 頬を両手で押さえて絶句する私に、イリちゃんがふっとニヒルな笑みを向けた。
 違う、私、そんなそそっかしくない!
 どうして私のスケッチブックが別クラスの棚に入っているの!
「西田、お前ってやつは……」
 先生にまでとことん呆れた目をされてしまった。
 待ってください、こんなこと。
 本当に私の記憶違いなの。
 私の頭って!
「西田さん、諦めなさい認めなさい、自分のそそっかしさを。スケッチブックを持ってきていなきゃ、棚に入っているはずがありませんね」
 水屋先輩の後半の台詞は、先生に向けられたものらしかった。
「というわけでして、先生。期限は昼休みまででしょうが、西田さんの迂闊さに免じて、許してあげてくれませんか」
 ああっ水屋先輩!
「課題は仕上げているんでしょう?」
「えっ、は、はい、それは勿論ですけど」
 私は情けない思いというか、泣きたい思いで皆の顔を見回した。
「先生、冴は本当は、昨日のうちにスケッチブックを持ってきていたんですよ。クラスメイトが目撃してます!」
 イリちゃん、なんだか刑事ドラマのノリだよ。
「西田」
「はい!」
 先生に突然名前を呼ばれ、慌てて返事をしたんだけれど声が思い切り裏返ってしまった。
「今度は気をつけろ。そもそもな、最初の提出日までにきちんと仕上げるべきなんだぞ」
「はい、すみませんでした!」
「返事だけはいい」
 先生、今の言葉、胸に突き刺さりました。
 瓦解寸前の私に、にこやかな顔をしたイリちゃんがこういった。
「よかったねぇ冴、事件解決だ」
 私の心は迷宮入りのままだよ、イリちゃん。

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