恋愛虚実:02

 さっきまでとは別の意味で脱力し項垂れる私を、意気揚々とイリちゃんが引きずり教室へと向かった。
 ああそんな、私の記憶ってどうなっているの。白昼夢でも見たの。
 自分の頭が信じられないなんて、悲しすぎる。
「冴、落ち込まないで。私は冴のそんなうっかり加減が好きだよ、面白くて」
 イリちゃん、最後の言葉に本音が混ざっているよ。
「そういえば冴ったらこの間も、移動教室に教科書忘れてきてたもんね」
「言わないで……イリちゃんお願いだから言わないで……」
 くしし、とイリちゃんが女子高生らしくない悪人顔を作って笑った。
 どうせ私は粗忽者で、ど忘れが多いです。
 そうか、私ったらいつもの癖で意識しないままスケッチブックを棚に入れてしまったのかもしれない。でも、別クラスの棚に入れてしまうあたり、もう本当、救いようがないっていうか。
「西田さん、悪いね。生徒会室にちょっと寄ってく。テイクアウトは明日ね」
 廊下を歩いている途中、水屋先輩が不意に足を止め、困ったように微笑んだ。
 生徒会の用事だったら私も行った方がいいのかな。
「んー大丈夫、西田さんまで残らなくていいよ。途中で放置していた過去ファイルをしまうだけだから」
 そういえば、この間から過去ファイルの整理をしていたんだ。
「手伝います」
「もうちょっとで終わるからいいよ。ほら、ファイルの整理だしね、別棚に入れられたりしたら……」
 と、水屋先輩がわざとらしく目を開き、言葉を濁してにやりと笑った。
 私は床に頭を打ち付けたくなるくらい自分のうっかりさを嘆いた。なんて役に立たないんだろ、私。
「ほらほら項垂れないで。一緒に行きたい? 私の膝の上に乗せるけど、いい?」
「うぐふっ」
 怪しい手つきで私の顎を撫でないでください。
 というかイリちゃんも、頬を赤らめないで!
「じゃあね、いい子で帰るんだよ」
 ひとしきり過剰なスキンシップで私に泡を吹かせたあと、先輩はそう言って、頭を優しく撫でた。子供扱いされる私って何だろう。……自業自得か。
「……先輩?」
「ん」
 先輩はとても優しい、きれいな微笑を浮かべていた。時々こういう、普段の過激な態度が嘘のように、儚い繊細な微笑を見せるんだ。
 少し見蕩れてしまったみたいだった。私の様子に気づいたらしき先輩が、今度は女王様めいた不遜な笑みを作る。
「もしかして接吻の合図ですか子猫ちゃん」
「ぐふぅ」
 接吻って言い方は何ですか、先輩。
「もしかして一秒でも私と離れたくないとか。なんだ、そんなことだったらいつでも密室に連れ込んであれやこれやと。やはり過去ファイルなど放置してしまうか」
「駄目ですっ」
 廊下で危険な発言をしないでください。というか、ファイルを放置しないでください。
「はいはい」
 水屋先輩はくすりと笑ったあと、私たちに手を振ってから生徒会室の方へと去っていった。
 極彩色の嵐が通過した気分でぼんやりと先輩が消えた方の廊下を見ていた時、隣に立っていたイリちゃんがぽつりと呟いた。
「先輩が変だ。いつもよりも冴に対する絡みが少ない」
「イリちゃん」
 それはどういう判断なの。
「もっと周囲を昏倒させるほど凄まじい台詞を繰り出してくれなきゃ、イリは満足できません。足りない、いつもの水屋先輩じゃない。けしかけずにはいられない!」
 イリちゃん、友情に今ひびが入ったよ。
「よし! 先輩を尾行しよう!」
 イリちゃんが再び刑事ドラマのノリで、毅然と宣言した。
「尾行?」
「うん。絶対先輩は変だった。私の勘は当たるのですよ。日々ディープで危険な兄さんと戦い、鍛えられているから」
「博司さんと……?」
「いや、聞かなかったことにして。そ、それはともかく、やりますことよ冴殿」
 こうして私達は、にわか探偵へと変身した。
 
●●●●●
 
 私達は生徒会室へ向かった。
 イリちゃんがこっそりと中を覗こうとした時、いきなり内側から扉が開いたんだ。
「うぎ!」
「……西田。と、その友」
 飄然としたハセ先輩が、扉の向こうに立っていた。もしかして、気配でバレたのかな。
「中へ入りたいのか?」
「い、いえっ、その!」
 などとイリちゃんと二人でばたばたしつつ、ハセ先輩の身体を盾にして、生徒会室を覗いた。
「あれ?」
 私は首を傾げた。水屋先輩がいない。
「あの、水屋会長は来ましたか」
 無表情ながらもなんとなく愉快そうな目をして私達を見下ろしているハセ先輩に、イリちゃんが恐る恐るたずねた。
「何十分か前に一度来て、菓子を強奪していったが」
「えっと、この数分の間には?」
「来ていない」
 私達は顔を見合わせて、クエスチョンを飛ばした。
「ファイルの整理は?」
 私とイリちゃんは声を揃えてたずねた。
「親を探すアヒルの子……」
 とハセ先輩が意味不明な呟きをもらしつつ、私達をやけに温かい目で見た。
「ファイルの整理は俺がした。もう終わってる」
 私達は謎を深めた。じゃあ一体水屋先輩はどこへ行ったんだろう。
 探そう! と元気よく促すイリちゃんに頷いたあと、ハセ先輩にぺこりと頭を下げた。
 頑張れアヒルの子達、とハセ先輩に応援されて、私達は再び捜索を開始した。
 
●●●●●
 
 次に水屋先輩が向かう場所といったら……まず思いつくのが教室だった。
 それで私達は、緊張しつつも三年生の教室が並ぶ廊下に来ていた。
 下校する生徒達の数がさっきよりも少なくなった分、三年生の廊下を歩く私達の姿は目立つ。一つ年が違うだけなのに、三年生って随分大人っぽいんだ。
 水屋先輩のクラスの前に到着したけれど、前後両方の扉がぴったりと閉まっていたため、なかなか覗く決心がつかなかった。通路でうろうろする私達ってかなり不審かもしれない。
 思い切って、というか、覚悟を決めて扉を開けてみようとイリちゃんと勇気を出し合った時だった。
「西田君?」
 突然声をかけられ、私達は大仰なほど飛び上がった。
「小沢!……いえ、小沢先輩」
 イリちゃんが慌てて言い直した。
 背後から声をかけてきたのは、いつかの盗撮騒ぎで知り合った小沢先輩だった。ちょっぴり強面で大柄なんだけれど、実はとても繊細な芸術肌の人だ。
「ちょうどいいっ、小沢先輩、頼みがあるんですが」
 イリちゃんと私は、びっくりしている小沢先輩を連れて、一旦廊下の角にまで移動した。
「頼みって?」
 ちょっぴり不安そうな顔をする小沢先輩に、イリちゃんと二人で交互にお願いする。
「あの、お願いというのはですね」
「水屋先輩のクラス、分かりますよね」
「教室の中に水屋先輩がいるか、見てほしいんです」
「あっ、もしいた場合、私達のことは内緒で!」
 小沢先輩は目を白黒させていたけれど、最後には笑って頷いた。
「よく分からないんだけれど、とにかく会長が教室にいるか、確かめればいいんだね?」
 はい、と私達は勢いよく頷いた。
 水屋先輩のクラスに向かう小沢先輩を、私達は廊下の角から見守った。端から見れば、私達ってすごく怪しくて目立っているだろうけれど、なんとなく探偵気分で隠れたくなってしまう。
 数分もしないうちに、小沢先輩が戻ってきた。
「いなかったよ」
 私とイリちゃんは、その報告を耳にしたあと、うーんと腕組みしつつ唸った。
「ありがとうございました、小沢先輩」
「いや、これくらいは。……何か、困ったことでも起きたの?」
 強面だけれど小沢先輩は意外に優しい人らしい。あの盗撮騒動は驚いたけれどね。
「いえ、大丈夫です」
 まさか探偵やってます、とは言えないので、私達は笑って誤摩化した。
 小沢先輩にもう一度頭を上げたあと、私達は再び水屋先輩を探しにいこうと踵を返した。
「あ……あのさ、西田君」
 数歩歩いた時、遠慮がちな声で小沢先輩に呼び止められた。
「はい?」
 振り向くと、すごく逡巡している様子の小沢先輩と目が合った。途方に暮れた子供みたいな表情だ。
 何だろう。そう思ってもう一度小沢先輩の方に近づこうとした瞬間――
「見つけた!」
 えっ?
 知らない男子生徒の大声が響いた。
 瞬きする間にその男子生徒が接近し、がしりと腕を掴まれてしまう。
「えー!?」
 私は驚き、悲鳴を上げた。
「君、西田さんでしょ。二年の。ちょっと来てくれよ!」
 やけに切羽詰まった声で言われ、問答無用に引っ張られてしまった。
 呆気に取られていたイリちゃんが、連れ去られる私とその男子生徒を凝視し、「誘拐……!」と呟いた。
 助けてイリちゃん!
「小沢っ、ぼんやりせずに冴を救出しないと!」
「えっ、あ、ああ、はい」
 えーんイリちゃーん!
 ――というわけで、なぜかいきなり誘拐劇が始まった。
 
 
 ……んだけれど、開始して十分も経たないうちに幕を閉じた。
 私をさらった男子生徒は、人気のない階段下で立ち止まったんだ。
 追いついたイリちゃんと、ようやく自由の身となった私は、下から三番目あたりの段に縮こまって座った。巻き込まれた小沢先輩は左の壁、誘拐犯の男子生徒は右の壁に寄りかかって立っていた。
「か、かかカツアゲデスカ、婦女暴行目的デスカ」
 イリちゃんが私の腕にしがみつきつつ、ぎくしゃくとした片言でたずねた。
「いや、違うから。俺犯罪者じゃないから」
 誘拐犯の男子生徒がぎょっとしたように言って、大きく手を振った。
「じゃあなんで冴を誘拐したんですか、身代金目的ですか」
 イリちゃん、本当に刑事ドラマが頭の中に流れているよね。
「や、そうじゃなくてさ」
 男子生徒が心底困ったという顔をして、ぎこちなく制服のポケットに両手を突っ込んだ。
「だ、だって! 私は本日、あなたを目撃しました。五時限目が終わった直後、教室の近くにいましたよね」
 イリちゃんが『真犯人はあなただ!』のノリでびしっと男子生徒を指差した。
 というか、本当に?
「中上、西田君を知っているのか?」
 小沢さんが、強面な顔に弱々しい表情を浮かべて、硬直している男子生徒にたずねた。
「小沢、知り合いなのかっ」
 とイリちゃんが驚きの声を上げたけれど、既に敬称というか、敬語を忘れているよ。
「まさか小沢も共犯なの」
「ち、違う! 俺は誘拐なんて!」
 おろおろと小沢先輩が狼狽えた。イリちゃん、真面目な小沢先輩をからかっている気がする。
「中上とは一年の時、同じクラスだったんだよ」
 そうなんですか?
「会長も同クラスだったし」
 へえ~と私達はなぜか感心した。
「それで……中上は三年になっても会長と同じクラスだよな。俺だけ、別クラスになったんだ」
 中上と呼ばれた男子生徒が、小沢先輩の言葉にぎこちなく頷いた。背の高い、温和な顔立ちを持つ人だ。
「まずは、ごめん。ほんとごめん。マジごめん」
 突然中上先輩に謝罪された。しかも、大きく頭を下げてだ。
「えっあの、どうしてですか、私、えと、ごめんなさい、先輩のこと、知らないです」
 だって初めて会う先輩に謝罪される理由が分からない。
 私が慌てると、中上先輩は本気で困ったという顔をして、乱暴に自分の頭をかいた。
「スケッチブックのことだよ」
 
 
「スケッチブック」
 私とイリちゃんが、同時に呟いた。つい顔を見合わせてしまう。
 どういうことかと視線で促したけれど、中上先輩はすぐに説明してくれなかった。どうやら私以外の人――イリちゃんと小沢先輩の存在が気になるようだった。
 でも正直言って、よく知らない先輩と二人きりになるのは不安だ。イリちゃんは私の心細さを察してくれたらしく「動きません」という顔をしてくれたし、小沢先輩もどうしてなのか去ろうとしなかった。
「あの、スケッチブックって?」
 しばらく沈黙したあと、私は恐る恐るたずねた。
「実はさ――」
 中上先輩はようやく観念したという目で、ぽつぽつと事の真相を語った。
 ――スケッチブックの消失は、私の記憶違いではなかったんだ。
 
 
 美術室に向かった私は、確かにスケッチブックを窓際の机に置いた。その後、何も持たずに準備室へと入った。
 曖昧になっていた記憶が再び明瞭になる。
「俺ね、昼休み――君が準備室に入ったあと、美術室に来たらしい」
「私のあと、ですか」
「そう。それで、俺が君のスケッチブックを取り、すぐに美術室から出た。多分、その間、三十秒くらい」
「え?」
「君が準備室に入る姿は見ていなかった。だからその時、準備室にいるのはガミ先生だと誤解したんだよ。それで、慌てて逃げたんだ」
 ちょっと待ってください、とイリちゃんが両手を突き出し、ストップをかけた。
「肝心の問題が明かされていません。なぜ冴のスケッチブックを盗んだんですか」
 中上先輩は一瞬絶句したあと、うわっという勢いでその場に屈み、頭を抱えた。
「いや、マジでごめん。盗むつもりじゃなかったんだよ。君のものだと思わなかったんだ」
 私とイリちゃんは再び顔を見合わせた。
「俺は、自分のスケッチブックを取りにきたつもりだったんだ。君がスケッチブックを置いていたあの席、美術の授業で俺が座る席だったから」
 私がスケッチブックを置いたあの席が?
 じゃあ、つまり。
 中上先輩は屈み込んだままの姿勢で、自分の顔を両手で撫でた。困り果てたような表情を浮かべている。
「今日の四時限目、俺のクラスね、美術だったんだ」
 中上先輩は、私の反応を気にかけながらも回想するような目をした。
 中上先輩が語った内容は、こんな感じだった。
 美術の授業中、体調のまだ優れないガミ先生は生徒達に、静かにデッサンを続けるようにと言って、準備室に長い時間こもったらしい。多分、身体を休ませるつもりだったんじゃないか。
 既に前の授業でデッサンを終わらせていた中上先輩は、暇つぶしのため、スケッチブックに悪戯絵を描いた。
 その絵とは、ガミ先生をモデルにしたものだった。
「モデルっていってもさ、リアルに描いたわけじゃないんだ。いや、別の意味ではリアルなんだけれど」
 要するに中上先輩は、ガミ先生を少し馬鹿にするような絵を描いた。
 小柄で細いガミ先生。それを漫画みたくコミカルな三頭身にしてヒゲを生やしたり、ええと、下着姿一枚にしてポーズを取らせた絵にしたんだという。
 なんとなくその絵を想像してしまい、私は目を伏せた。
 以前の私であれば面白がり、噴き出してしまったかもしれない。けれど今は笑えず、少し悲しい気持ちになった。
「で、それをさ、他の奴に見せたんだよ。大ウケしたんだ」
 中上先輩は、ちょっぴり情けない笑みを見せた。
「調子に乗りすぎて、スケッチブックからその絵を破くのを忘れたんだ。もしあんな絵をガミに見られたら、殺される」
 殺されはしないけれど、確かにもし見つかったら、ひどく叱責されるだろう。
 自分を題材にした悪戯描き――先生だって傷つくんじゃないだろうか。人格を否定するようなものじゃなく、他愛ない悪戯描きであっても、やっぱりいい気分はしない。
 中上先輩は、教室に戻って昼食を食べている時にふっと思い出し、青ざめたらしい。しまった、スケッチブックにあの絵を残したままだ。もしガミが生徒達のデッサン状況を確認しようと考えてスケッチブックを覗いたら。そう推測して、焦ったという。
 ――そこで中上先輩は、大慌てで美術室に向かった。混乱のあまり、授業終了後にスケッチブックをちゃんと棚に戻したのかどうか、咄嗟には思い出せなかったらしい。だから美術室に入った時、自分が授業で座っている席の机に、スケッチブックが置かれているのを見ても、それほど不審には思わなかったそうだ。四時限目に授業を受けたのは自分達で、その後は昼休みだ。誰も美術室を使うはずがない。だとすればあのスケッチブックは棚に入れ忘れた自分のものだろう。
 手に取った時、準備室の方から物音が聞こえた。やばい、準備室にガミがいるんだ。こそこそしている姿を見られたら何を言われるか――疾しい気持ちもあって、ろくにスケッチブックの背表紙に書かれた名前を確かめず、脱兎のごとく美術室から逃げた。
 教室に戻る途中で、念のためにあの絵を処分しようと思い、中を見たそうだ。
 そして、愕然とする。自分のものではない。
 確認すると、見知らぬ生徒の名とクラスが書かれている。他人のものを持ってきてしまったと気づき、再び美術室に戻った。
 ところが――美術室から怒鳴り声が聞こえた。
 身を屈め、わずかに開かれた扉から室内を覗き見すれば、女生徒がガミに説教されているのが分かった。スケッチブックがなくなったと狼狽えながら説明する女生徒の言葉に、血の気が引いた。まずい、まずい。女生徒が言っているのは、自分が持っているスケッチブックのことだろう、と。
 仮に今、誤解をとくため自分が教室に入った場合、どうなるだろうか。
 なぜ他人のスケッチブックを持ち出してしまったのか、当然ガミに聞かれるだろう。平静でいられる自信がなかった。自分の物と間違えたと説明し、へたに注意をひいて、万が一にも「お前のスケッチブックを見せろ」と言われた場合、どれほどこっぴどく叱られるだろうか。
 名乗り出ることができなかった中上先輩は、私のスケッチブックを部室のロッカーにとりあえず隠したあと、ふらふらと教室に戻った。先輩はバスケ部に所属しているらしい。教室に持ち込まなかったのは、もし友人に「もう一回見せて」と言われた場合、困ると考えたためだった。
 ――中上先輩は、水屋先輩と同クラスであり、選択科目も同じだという。
 つまり水屋先輩も四時限目に美術の授業を受けている。
 教室に戻って水屋先輩の姿を見た時、ここで初めて、ガミに怒られていた女生徒が誰か分かったそうだ。水屋先輩の劇的変化の原因となったらしい下級生だと。
「……冴、そんな意味で有名に」
 話の途中でイリちゃんが呟き、涙を拭う真似をした。
 うん、私も少し泣きたいかも。
「本当はさ、俺、このまま密かにスケッチブックを捨てようかと思っていたんだ。で、五時限目が始まる直前にもう一度自分のスケッチブックを取りに行こうかとね」
 けれど、間違って持ってきたスケッチブックの持ち主が私であることが災いした。水屋先輩が気に入っている下級生だ。捨ててしまうのはさすがに後ろめたい。
「……それに、ガミのやつ、あれからずっと美術室にこもってて、自分の描いたあのヤバい絵も破けなかった。気が気じゃなかったよ、いつ見られるかと」
 罪悪感も手伝って、ガミに叱られていた私の様子が気になった。五時限目が終わったあと、こっちの教室付近に足を運んだらしい。その時、イリちゃんが目撃したんだろう。
「結局放課後まで待つ事になって――。ガミもその時間になれば職員室に一度は戻るだろ。HR終了後にすぐ行けば、バレる事なく美術室に入れると思ったんだ」
 中上先輩の思惑は当たった。無事に自分のスケッチブックから問題の絵を破き、教室に戻ったらしい。私のスケッチブックは処分することもできず部室のロッカーに隠したままだった。スケッチブックはそれなりに大きいので、持ち歩くと人目をひく――別に生徒がスケッチブックを持っていたところで誰も奇妙には思わないだろうけれど、この時の中上先輩は後ろめたさを隠していたために、少し考えすぎてしまったようだった。
 教室に戻ったあと、自分の席に座り、しばしの間放心していたのだという。
 なぜこんなことになったのか、そう考えていた時に、水屋先輩が来たらしい。
「そうか、水屋先輩、気づいたんですね。放課後、私達の話を聞いたあと、生徒会室だけじゃなくて中上先輩がいる自分のクラスにも寄ったんだ」
 イリちゃんの言葉に、私も遅まきながら納得した。
 スケッチブック消失事件のあらましを聞いたあと、水屋先輩はちょっと唐突とも言える感じで私達の教室を出たんだ。
 お菓子を取りに行ったというのは私達の目を誤摩化すための口実にすぎず、中上先輩に会うことこそが本当の目的だったに違いない。
 なぜ水屋先輩は、スケッチブックの消失にクラスメイトの中上先輩が関係していると推量したのか、それはイリちゃんが私の代わりにしてくれた説明の中に小さな接点を見つけたためだろう。
 スケッチブックを置いた席の場所。昼休み。四時限目の美術。ガミ先生をモデルにした悪戯絵。同じクラスだったら、昼休み後中上先輩の様子が少しおかしかったと気づいたかもしれない。
 水屋先輩、まさかという思いで、中上先輩に確かめようとしたのかな。
「先輩、すっごく怒られたんじゃないですか水屋先輩に。冴命だし」
 屈み込んで頭をぐしゃぐしゃとかき回している中上先輩に、イリちゃんはちょっと意地悪そうな声で聞いた。
 渋い表情を浮かべていた中上先輩がふと動きを止め、私とイリちゃんを交互に見たあと、顔を強張らせた。
「いや。責められなかった。ただ静かにスケッチブックのことを聞かれただけだよ。俺、白状しちゃった」
「静かに?」
 イリちゃんの不思議そうな声に、中上先輩は頷いた。
「怒りもされなかったし、馬鹿にもされなかったよ。水屋は真面目なんだ。真面目だけど、堅物じゃない」
 中上先輩はわずかに顔を赤らめた。水屋先輩を信頼しているみたいだった。
「もしかして、水屋先輩の案ですか。冴のスケッチブックを別クラスの棚に紛らせておくっていうのは」
 イリちゃんが不意にそんなことをたずねた。私はどきりとした。
 だって、美術室に皆で向かった時にはもう、水屋先輩は全てを知っていたんだ。
 ガミ先生に対して、余裕のある態度で「別クラスの棚に入っているのでは」と言った水屋先輩の顔を思い出す。
 イリちゃんの疑問通りにもし提案したのが水屋先輩であれば、余裕があって当然だ。
 どうして、と私は胸の中で小さく呟く。
 どうして事実が分かったすぐあとに、教えてくれなかったんだろう。なぜあんな芝居をしたんだろう。
 ちくり、ちくりと胸が痛み出す。
 私の記憶違いだと先生に思わせるため、失敗談を口にしていた。先生もイリちゃんも信じたし、私自身も、最後にはそうなのかと納得しかけた。
 なんか、胸が苦しい。
 あのお菓子、慰めるためじゃなくてただの口実だった。
 変な具合に心臓がどきどきとし始めた。
 水屋先輩――私、今どうしても、騙されたのかなって思ってしまいます。
「そうだよ。水屋が案を出したんだ。言われた通りに、俺が君のスケッチブックを準備室に戻した」
 中上先輩の告白に、一瞬ぐらっと視界がぶれた。
 何を聞きたいのかも分からないまま、心の中で「どうして」の言葉が増えていった。
「言われた通りって、何ですか!」
 突然イリちゃんが大声を出したので、私は驚き、肩を揺らした。
「水屋先輩に嘘をつかせたんですか。冴が好きなのに、可愛がってるのに」
 イリちゃんが怒っていた。私はぼうっとイリちゃんの横顔を見つめた。
 私が好き。
 それは、本当?
 本当でも、嘘をつく?
 嘘って、当たり前の行為なのだろうか。
 ――その嘘は私のためではなく、中上先輩を守るためのものじゃないのかな。
 自分が一体何について衝撃を受けているのか、深く考えるのが怖かった。
「好きって……でも、女同士だろ?」
 中上先輩が困惑したような顔を見せた。
「何ですかそれ、何なんですか!」
 イリちゃんがはっきりと誰かに対して声を上げ、怒りを見せるのは珍しかった。普段はのほほんとしているイリちゃんだ。
「その方が丸くおさまるって、水屋がさ」
 動揺する中上先輩を見てイリちゃんは、一瞬言葉を失ったようだった。
 私は何かを考えるより早くイリちゃんの手を握った。
「だから、ごめん」
「ごめんって、そんなの」
 イリちゃんが強い口調で言い返した。
 確かに丸く収まった。全部うまくいった。中上先輩は不安を取り除けたし、私も静物画を無事に提出できた。
 ならなぜ、私は唇を強く噛み締めているんだろう。
「入江さん、会長はさ、中上のことを思いやったんじゃないかな」
 それまで静観していた小沢先輩が、ぼそぼそと言った。
「思い遣る? どこがですか。だって冴は怒られたんだもの。嘘をついていないのに、ガミ先生に疑われたんですよ。一度そういう印象を持たれたら、何かちょっとしたことが起きるたびに、『もしかして』と疑われるようになるじゃないですか」
 飄々としているようだったけれどイリちゃんはそこまで考えていてくれたんだ。
 友達って、すごいと思った。
 自分のことのように怒ってくれる。自分のことのように悔しいと思ってくれる。
 私はぎゅっとイリちゃんの手を握る指に力をこめた。張りつめていた気持ちが少しだけ穏やかになった。
「本当のことを言えばいいのに。そうしたら冴はガミ先生にそそっかしいと思われなくてすむもの。なんで言わないんですか。冴はまきこまれただけです。それなのに一番嫌な目にあってる。中上先輩が招いたことなのに、逃げるって狡いです」
「イリちゃん」
 もういいんだ、と言おうとしてイリちゃんの手を引いたけれど、振り向いてくれなかった。
 いつものイリちゃんじゃないみたいだ。
「ここで謝って、それで終わりですか。冴はおとなしいから許してくれるとでも水屋先輩に吹き込まれたんですか。でも私は反論します」
「違う、水屋にはそんなこと言われていないよ。ただ俺が――やっぱり謝りたかっただけだ。それで西田さんを探してた」
「謝る前に、本当の事を先生にいうべきです」
 きっぱりとしたイリちゃんの言葉に、中上先輩は暗い表情を浮かべた。
「俺さ、ガミに目をつけられてるんだよ。普段から不真面目な俺が悪いんだけれどさ。もしこのことがガミにバレたら、他の先生にも伝わるかもしれない。呆れられるだけですむかもしれないけど、中には頭の固い先生もいるだろ。今、印象悪くしたくないんだよ――俺、三年だから」
 三年。
 そうか、大学受験の問題があるんだ。
「俺が二年の時、知り合いの先輩がさ、担任の先生と仲が悪くて、すげえ意地悪されたんだよ。その話を思い出してちょっと焦ったんだ」
 さすがにイリちゃんもくちごもり、鉛を飲み込んだような顔をした。
「水屋は、俺がガミに目をつけられているの、知っているんだよ。同じクラスだしな」
 中上先輩はそこで一旦言葉を切り、首を撫でた。
「そりゃ冗談も言うし明るいけど、水屋って基本は真面目だ。だから――自分にも責任があるって」
「責任?」
 私とイリちゃんはまたまた同時に声を発した。
「美術の授業中、俺が回したガミの絵を見て、水屋も笑ったんだ。他のクラスメイトも笑ったけれどな。自分もそれを見て笑っていたから――だとすれば止めなかった自分にも責任があるって。俺、水屋に頼んだんだよ。バレないようにできないか。なんとかならないか。水屋は協力してくれた。でも君のスケッチブックだけは、ガミが帰る前までに戻すことになった。その点だけは強く言われたよ」
「あの」
 私は思い切って、声を上げた。三人の視線が集中したので、少し心拍数があがった。
「どうしてそんな絵を描いたんですか。ガミ先生、ちょっと厳しいけど、嫌な先生じゃないと思ったから」
 中上先輩は、短い間、じっと私を見た。自分の中の感情と、私の言葉を秤にかけているような表情だった。ややして、何かを背負っているかのように重たげに立ち上がり、深く息を吐く。
「……ずっと前にさ、授業中、居眠りしたことがあるんだよ。部活もそろそろ引退だから必死だったし、勉強もしなきゃいけないしさ。なんか疲れて。その時、ガミにさ、怒られたんだよな。で、俺が居眠りしたこと、担任に告げ口したみたい。あとで担任に「授業中は寝るなよ」って笑われた。別に担任は怒っていなかった。仕方ない奴だなって、次は気をつけろよと、ただそう伝えてきただけだったんだ。だけど、俺はガミに腹が立った。わざわざそんなことチクんなよと思ってさ。――それで、今日の授業だろ? ガミだってサボってるじゃん、準備室にこもってさ。人の事言えんのかよと少しだけムカついた」
 あぁ小さな出来事の積み重ねが、時々一つに結びつき、花を咲かせる。灰色の花だ。
「けれど、分かってほしい。別にそこまで大それた気持ちじゃなかったんだ。そんなに強く、ガミに苛ついていたんじゃない。ただ、ちょっと、ガミを笑いものにすればすっきりするって程度だったんだ。本当に、軽い気持ちだった。クラスの奴と笑って、それで終わるはずだった。それだけのはずだったんだ」
 私は目を閉じた。
 明確な悪意なんてどこにもない小さな出来事。ほんの少しの苛立ちと、きっかけと、偶然の塊で作られたささやかな事件なんだ。
 中上先輩は決して悪人でもないし、意地悪でもない。むしろ皆を笑わせて喜ぶような、明るい人なんだろうと思う。善悪の境だってちゃんと見分けがついているけれど、それでも人間なんだから、たまには憂鬱になったり苛ついたりする。その苛立ちを、他愛ない悪戯書きをすることでリセットしようとしただけだ。ほんの気晴らし。一体誰が中上先輩を断罪できるだろう。悪戯書きくらい皆、経験があるはずだ。
 準備室で見た、ガミ先生の絵画が唐突に蘇る。
 優しい眼差しと色で丁寧に描かれた、生徒の図だった。廊下を歩いている姿。生徒の日常をあたたかい視線で切り取った絵だった。
 私は瞼をおさえた。優しい絵から色彩が失われ冷たくなっていく気がして、くらくらした。

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