恋愛虚実:03
話はまだ終わらなかった。
「あの、どうして小沢先輩も一緒に来たんですか」
イリちゃんがひどく警戒する声でぽつっとたずねた。
中上先輩と小沢先輩は元クラスメイトらしいけれど、今回の件に関しては何も繋がりなどないように思える。
「俺も――西田君に謝りたい」
心臓がはねる。小沢先輩との関わりは盗撮事件についてだけだ。でももう済んだ事だし、今更どうして謝罪の必要があるんだろう。生真面目で憎めない人、だから何度も謝罪なんてしなくていいと思ってる。そもそも盗撮事件の真犯人は水屋先輩のはずだった。
そういえばさっき、中上先輩に誘拐される直前、呼び止められたんだ。
「ずっと言おうと思っていたのに、言えなかった。でも今、中上の話を聞いて、やっぱり黙っているのは卑怯な気がした」
「卑怯って」
「君を撮ったのは、会長に頼まれたからじゃないんだよ」
イリちゃんが目を剥き、「お前もか小沢っ」と小さく呟いた。イリちゃん、この人達、先輩だよ。
「俺が勝手に会長の言質を取った」
小沢先輩も、さっきまでの中上先輩と同様に硬い表情を浮かべて言った。
「言質?」
もう何度目になるだろうか、私とイリちゃんは再び同時に声を出し、首を傾げた。
「俺が写真部なのは知っているよね」
こくこくと私達は頷いた。
「部の後輩にさあ、すごく上手く撮る奴がいるんだよ。悔しいけれど、俺よりうまくてね。ある日、その後輩に俺が撮影した写真を見られた時のことだった。『先輩の写真、表情ないですね』って言われたんだ。『ちょっと押し付けがましいっていうか』とも言われた」
驚きと悔しさで硬直する小沢先輩の姿と、顔のぼやけた後輩の姿が脳裏に浮かぶ。
「その後輩は別に、俺をけなそうとしたわけじゃないんだよ。単なる感想というか、思ったことを単刀直入に述べただけだった。でも、だからこそ、俺はたまらない」
小沢先輩は足元を見つめた。今朝、濡れた足元を見て顔を歪めた私の姿とそっくりな気がした。
少しだけ小沢先輩の気持ちがわかる。明確に批判されれば、たとえ開き直りであっても案外立ち向かえるものだもの。けれど、さりげなく事実を指摘された場合、この胸の濁りをどうすればいいのかと、分からなくなるんだ。
「俺、写真撮るの好きなんだよね。プロになれるなんて思ってはいないけれど、本当に好きでさ。だから、なんでそんな感想を言われなきゃいけないのかと思った。でも、後輩のいうことは正しい。俺の写真って悪い意味で緊張に満ちている。人工的っていうのかな。それで、人の表情を撮りたいと思ったんだ。風景よりも掴みやすいと思ってね」
小沢先輩が壁に背を預けたまま、ずるずると屈んだ。足元を向いていた視線は天井の隅へと移っていた。私もつられて天井の方を見てしまった。薄汚れていた。
「会長――水屋とは一年の時、同クラスだったこともあって、よく話をするんだ。それに彼女は色んな部室に顔を出すし。表情を撮ろうと考えた時、真っ先に水屋が浮かんだ。ほら、やっぱりさ、髪ばっさり切って、服装も変わって……結構インパクトあったから」
た、確かにインパクト大でした。
私とイリちゃんはこの一瞬だけシリアスな状況を忘れ、しみじみと納得してしまった。
「水屋に頼んでみたんだけれど、あまり写真を撮られるのは好きじゃないようで婉曲に断られた。後輩に指摘されたばかりだったから、またここでさりげなく拒絶されるのかと、かっとしたんだ。恥ずかしながら」
小沢先輩はたどたどしく見えるような仕草で片膝を抱え、ぼそぼそと続けた。
「何だか色々と八つ当たりしていたのが、最後には相談しているような感じになってきたんだよね。さすがは生徒会長っていうのか、面倒見いいよ」
イリちゃんの「確かにソトヅラいいですよね水屋先輩……」という聞いてはいけない心の声を耳にした気がする。
「その時、ふと水屋に言われた。『撮りたい、撮りたいって思うだけでは、駄目なんじゃないか』と。意味が分からない。撮りたいものを撮らなければ、写真じゃないだろ。どういうことか聞いたら『残したい、と私なら思う』と言われた。何を残したいのか、聞いたよ」
そしたら、と告げたあと、小沢先輩が眉を下げて小さく笑った。
「部室の窓から、校門の方が見えるんだ。その時、西田君が下校する姿が見えたんだよね。西田君、その時、なぜか一瞬足をとめた。空を仰いだのかな、気持ち良さそうに身体を伸ばしてたんだよ」
ええっと私とイリちゃんは仰け反った。まさかここで自分が登場するとは思わなかった。
「水屋がさあ、急に嬉しそうな顔をしたからびっくりした。ちょっと言葉は違うけど、こんな感じのことを言われたんだよ。たとえば誰が見ても感嘆するほどきれいなものではなく、日常の中に、大抵の人が見逃してしまうようなありふれた中に、圧倒的に豊かな表情が隠されている。その一瞬を見出して切り取るのが、写真では。私ならその瞬間を、残して手元に置きたい――水屋がそう言いつつ幸せそうに、西田君を見ていたから」
「そ、それで小沢は、……いえ、小沢先輩は、冴を盗撮……いえ、密かに撮ろうと?」
イリちゃんがなにげにむごい言葉を言い換えつつたずねた。
「そう。だって水屋が笑っていたから。西田君にはそんなに撮りたい表情があるのかと思って。だけど実際の西田君はいつも怯えているようだったし、なかなか思うように撮れなかった。焦れて何枚も撮っていた時……」
「私達が頼んだ久能先輩に成敗……いえ、拷問……いえ、連行されたんですね」
イリちゃん、だんだん本音がこぼれてきているよ。
「恥ずかしかったんだ、後輩を見返したい一心で隠し撮りしていたと正直に言うのが。だからつい、咄嗟に水屋の名前を出してしまった」
それで小沢先輩は、私達や久能先輩に問われた時、あんなに青ざめていたのか。別の意味で、水屋先輩を恐れていたんだろう。一旦断られたあとで、今度は私を隠し撮りしたから。
私はその時のことを回想した。
確か、久能先輩、イリちゃん、私、小沢さん、水屋先輩とで図書室に行き、話し合いをしたんだ。
真っ先に口を開いたのは――水屋先輩だった。
誤解だ、ってそう言った。そして、自分が依頼したことであるかのような発言もした。
水屋先輩は随分過激な台詞で、小沢先輩を脅していたと思う。でも本当は「こっちの話に調子を合わせろ」という意味での脅しだったんだ。
それに、厳しく言いながらも、水屋先輩はさりげなく小沢先輩を庇っていた。『盗撮とは人聞きの悪い』って言っていたもの。
あぁ小沢先輩は水屋先輩の話に合わせながらも、色々な意味をこめて、あんなに丁寧に謝罪していたんだ。
「水屋先輩って、ウマいですよね。一歩間違えば軽蔑されることなのに、怒濤の台詞で笑い話に変えましたもんね」
イリちゃんのちょっぴり悔しそうな声で、我に返った。
そうかもしれない。たとえ変な目的のためじゃなくても、盗撮していたことを真顔で謝罪されていたら……悪いけれど、かなり引いたと思う。
私が追い込まれないように、小沢先輩を傷つけないように、奇天烈な台詞を繰り出して笑い話に変えたんだ。ちょっとだけ弾けすぎた熱意、という感覚で軽く終わらせ、誰の侮蔑も引き出さなかった。
水屋先輩っていつもそうだ。明宝戦の時も、何か隠されていることがある場合は大抵、こっちの気をそらすためにすごい過激発言をする。何が何だか、冷静になれないうちに主導権を握られて、気がつけば飲み込まれている。
「これ、ずっと渡したかったんだよ」
小沢先輩がごそごそとポケットを探ったあと、私に何かを差し出した。
端がちょっとよれているそれは、翌々日、皆で撮影した写真だった。撮影者は小沢先輩で、中庭の樹木を背景に、私とイリちゃん、水屋先輩と久能先輩が映っている。
「この一枚だけなんだ、西田君が楽しそうに笑っているの。なんでもない写真だけど、すごく君たちが嬉しそうな顔をしていて、いい構図だと思うんだ。俺、少しだけ分かったような気がする。俺の意識の中からじゃなくて、ありのままの中にある表情を、見つけなくては駄目だったんだよな。撮りたいものを現実に重ね、その通りに撮ろうとすると、自分の意識ばかりが先行してしまう」
私は写真を見た。
私とイリちゃん、変なポーズを決めている。
久能先輩はちょっと苦笑するような感じだ。
水屋先輩は、優しく微笑んでいた。
この笑顔を知っている。
美術室を出て廊下で別れた時、私の頭を撫でてくれた時、なんてきれいな儚い微笑を浮かべるんだろうと思ったんだ。
嘘つきで、優しい先輩。
なんてきれいで狡い人。
「うわ、わたし不細工な顔……って、冴ぇ!」
イリちゃんがぎょっとした声をあげた。
私はなんだか泣けてきて、ぼろぼろと涙を落としてしまった。
ささやかな事件だった。その中に、色々な気持ちと嘘が隠されていた。
やっぱり涙がこぼれた。
●●●●●
二人の先輩と別れたあとのこと――
「神田先生!」
夕焼け空の下、私は神田先生を呼び止めた。
教師専用の駐車場に止めている車に近づいていた神田先生が、怪訝そうにこっちを見た。
ちなみにイリちゃんは校門のところで待っていてくれている。
「先生、これ」
と言って、私は喉飴を先生に差し出した。
「あの、保健の先生にもらったんです」
私は嘘をついた。本当はさっき、急いで買ってきたものだ。……イリちゃんに、三百円借りてね。
「先生、風邪ひいてるから。飴、食べてください」
神田先生は不思議そうに眉をひそめた。
「今日、すみませんでした。今度からちゃんと期日までに提出します」
すみませんでした、ともう一回言って、頭を下げる。
「風邪、治してくださいね!」
先生に無理矢理喉飴を持たせ、突き返される前に、私は背を向けた。
「こら、西田」
うわぁ呼び止めないでください、先生。
恐る恐る振り向くと、先生が苦笑して手をあげていた。
「気をつけて帰れよ」
「はぁい!」
思わずジャンプして、友達にする時みたいに大きく手を振ったら、先生に笑われてしまった。
イーゼルに置かれていた絵と同じ、優しい眼差しだった。
きっと今が、いつまでも残したいと思う一瞬なんじゃないかと思った。
●●●●●
校門で待っていてくれたイリちゃんの所へ戻り、二人でのんびりと帰り道を歩いた。
なんだか夕日を目指して歩いているみたいだと、建物の向こうに沈みゆく赤い太陽を見つめながら考えた。
「イリちゃん、眉間に皺が寄ってるよ」
「寄せてるんです。眉毛も寄せて上げての時代ですよ」
「それは怖いよ……」
イリちゃんは難しい表情を崩さなかった。
あんまり鈍臭い私に愛想がつきたとかだったらどうしよう。
「あの、イリちゃん、ごめんね。私がちゃんとしていれば」
「どうして冴が謝るの。悪いのは水屋先輩だし、元凶は中上と小沢ですことよ」
中上先輩と小沢先輩を呼び捨てにしているあたり、イリちゃんの中で彼らの順位関係がはっきりしている気がする。
「冴、腹立たないの?」
イリちゃんががつがつと踵をアスファルトに打ち付けるようにして歩いていた。
「ちょっとだけ、怒りたいよ」
「ちょっとだけ?」
半眼で見つめてくるイリちゃんに頷く。
「リトル、くらいの量で怒ってるかな」
「リトル?」
「スモール」
「スモール?」
「12分の1ダース」
「ダース?」
「ええと……」
「ネタ切れかいっ」
なぜか漫才みたいなやりとりをしてしまったと気づき、イリちゃんと顔を見合わせてしまった。
「じゃなくてぇ! もう冴殿ったらいつからネタを振りまく不良娘になってしまったの」
イリちゃん、どんどん話がずれていってるよ。
「中上と小沢は既にイリ特製ブラックリストに入れたからいいとして、当事者に事実を隠していた水屋先輩は許せないでしょ」
ブラックリスト入り決定なんだ、先輩達。
「そうだねぇ、ちょっと許せないかも」
「ちょっとって。冴殿、甘い! 甘すぎて口の中が溶ける」
「砂糖?」
「シュガーガールだよ冴」
「英語でいうとなんとなく恰好つくけど、日本語に直すと、砂糖少女かぁ」
「微妙ですわ」
「あんまり呼ばれたくないかも」
「同意なり」
「塩だったら?」
「ソルトガール」
「胡椒は?」
「ペッパーガール」
「ごま」
「セサミガール……って、何の話だったっけ?」
「あれ?」
私達は一瞬立ち止まり、夕日に向かって「はて?」と首を傾げた。
「冴ー! ボケないでよ、つられるでしょ! そうじゃなくて、ちょっとはガツンと言わな!」
「あっ言わせて」
「まさかっ」
「がつん」
「ウワッ言うと思った! 今絶対『がつん』を言うと思った!」
イリちゃんは意味不明な叫び声を上げて、頭を抱えた。イリちゃん、通行人がこっちを見ているよ。
ひとしきり騒ぎ合ったあと、私達は話を元に戻した。
「だってさあ、冴は結局、ガミ先生にそそっかしい生徒だと誤解されたままでしょ」
「そうなんだけれど、結局は自分が原因だと思うんだ」
「どこが」
不満そうなイリちゃんに、私は笑いかけた。
「提出日、のばしてもらったから。最初の期限にちゃんと間に合わせていれば、こんなことにならなかったんじゃないかなって」
「あのね、冴。それを言ったら『そもそも私が生きていなければ』という深刻かつ危ない思考に辿り着く」
イリちゃんは拗ねた顔をして、鞄をぶんぶんと振り回した。振り向くと、アスファルトの上で、黒い影も勢いよく鞄を振り回していた。
「私ねー、今日、朝から嫌な事たくさんあったんだ。寝坊したし、傘を電車に忘れたし、雨に濡れるし、お財布忘れたし」
いきなり私が話題を変えたので、イリちゃんは振り回していた腕をとめ、面食らった顔をした。赤い夕日の色に包まれた街に、どこかの店から響く軽快な音楽が広がっていた。
「それでね、すっごく苛々してたの。だけど、よく考えたら、どれもこれもあともう少し自分がちゃんとしていれば防げたことなんだ」
イリちゃんはまた眉間に皺を寄せた。
「私、本当に鈍臭いよねー」
「冴。それ、なんか違わない?」
イリちゃんがきりっと顔を引き締め、私を睨んだ。
「だって先輩は傍観者じゃなかった。ただ秘密にしていただけなら責められないけど、事実に細工しているんだもん。冴が鈍臭いからって、嘘ついていいわけない。クラスメイトや知り合いのためだからって、簡単に真相をごまかしていいわけない。狡いよ水屋先輩。あっちにもこっちにもいい顔するの。冴を騙して掌で転がすような真似、お姉さんは許しまへん」
私はふと、水屋先輩の優しい微笑を思い出した。何でも隠してしまう整った微笑だ。
真実を伝える義務などないと思ったのかな。本当のことに気がつかない私のせいと言えるんじゃないか。ふとそう考えた。
「それで、誰かが傷ついてもかまわずに、自分の思い通り状況を動かすの? 何ですかそれは。一切合切、あちこちに手をつけて美味しいどこ取りをして。いらなくなったら振り向きもせずに、ぽいと捨てる。人の心、置き去りにしてる。そんなのは最低だ」
イリちゃん。
「ねえイリちゃん」
「傲慢じゃないか、あんまりにも。そういうの、強さって言わない。都合よく何でも動かせるなんて――」
「イリちゃん」
私は足をとめて、イリちゃんの腕を強く引いた。
イリちゃんがはっとしたように目を見開き、立ち止まって、私の方へ顔を向けた。
「私ね、誰だって隠し事して当然だと思うの。知られたくないから隠す事――隠されると寂しいけれど、逆に暴かれた人の方も傷つくんじゃないかって。だけど」
まじまじと私を見るイリちゃんに、そっと笑いかける。
「大事な人のことなら、知りたいよね。一緒に悩んで困って、眠れなくなりたいよね」
「冴?」
「イリちゃん」
聞いていいのか悪いのか、まだこの時でも迷った。聞く事で、イリちゃんを傷つけないだろうかと心配になる。
「博司さんと、何かあった?」
「え?」
「前にね、博司さん、すごい目をしたことがあるんだよ。イリちゃんのこと話した時。単純に、妹を見る目じゃないと思ったんだ」
イリちゃんは口をぱくぱくさせたあと、一層気難しげな顔をした。それからよろっとよろめいて、頭をおさえた。
「イリちゃん……博司さんのこと、好きだよね?」
私がぽつりと呟くと、イリちゃんはまるでこの世の終わりがきたかのように「ぎゃー!!」と絶叫した。
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