she&sea 01
何を隠そう、笹良は泳げない。
だから海もプールも大嫌い。
プールが好きなんて、FOOL。
海は平気なんて、COOLな顔は絶対無理。
笹良のルーツは海じゃなくて、きっと陸。
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憎み憎まれ、憎まれ憎み。
太古の昔より、惨劇の幕は骨肉相食むのご指摘通りに、キョーダイ喧嘩から切って落とされる。
この身体を構成する遺伝子が、似ているようで似ていない肉親を前にして、問うわけだ。
さあどうする?
愛するか、足蹴にするか?
笹良は勿論、心のままに答えるのだ。
できるものなら気の向くまま、ぶん殴って鎖巻いておもりをつけて、荒れ狂う海の底に沈めてやりたいと。
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笹良は実の兄が大嫌いで大苦手だ。
かの者の御名は秦野総司、御年二十歳。笹良とは六歳も年が離れている。
頭も顔も身長も上等。反比例して、性格悪し。ただし、笹良限定といおうか。
悪魔の所業にも等しい卑劣な嫌がらせの数々、きっと大人になっても忘れないと思う。
わざと笹良を見下すために、無理難題を押し付ける馬鹿。それが我が兄、秦野総司。
で、今も難題を押し付けられている。これは比喩じゃないのだ、言葉通り、超難問の高等数学をやれって命令されてしまった。
できるか、そんなもの!
まだ中学も卒業してないのに、社会人でも解けないようなハイレベル数学やらせてどうする。
「馬鹿だな、笹良。本当に馬鹿」
馬鹿馬鹿言うな!
ぐっとシャープを持つ手に力をこめ、怒りを堪えた。解けない。こんな難題、質問の意図すら解読不可能だ。
麗しきご尊顔のお兄様は、笹良のベッドの上でだらしなく寝転びつつ、冷めた笑みを浮かべている。
くそっ、なんて可憐な乙女にあるまじき下品な言葉が喉元まで出かかった。
お母さん、こんな鬼畜にどうして笹良の勉強を見てやれなんて、滅茶苦茶余計な頼み事をしたんでしょうか?
お父さん、いくら結婚記念日だからって、愛する妻と二人きりの甘い時間を過ごしたいからって、どうして笹良にこんな悪魔を押し付け……じゃなくて、どうしてこんな陰険男に笹良の面倒を見ろなどと、言わなくてもいい大きなお世話! な発言をしたのでしょうか。
笹良は一人で平気だったのだ。
本性悪魔か魔王か、ってな奴と二人きりですごすくらいなら、一人で留守番していた方がましだったのだ。
むしろ一人の時間を恋焦がれる乙女のように切望していたのだ。
総司は、外面だけはいい。
実の両親に対しても、恐るべき愛想のよさを発揮する。
「お前の馬鹿頭に付き合うと、疲れる」
うるさい、うるさい。こっちだって胃潰瘍になりそうなのだ。
「まだ一問も解けてないのか」
解けるはずがないと最初から分かっているくせに、笹良のノートを覗き込んで顔をしかめている。やな奴。
「いいか、俺は出かける。お前はこの問題が解けるまで、部屋から出るな。出たら殴る。分かった?」
殴る!
愛情の欠片もない言葉に、笹良は心の中で号泣した。
「まあ天地が引っくり返ってもありえないだろうけれど、万が一、この問題が解けた場合は、携帯に電話するんだ。家に戻ってきてやる」
お兄様は赤の他人が見たら恍惚となるような目映い笑顔で、問題解くよりも天地が引っくり返る方が先だろうがな、と腹立つ台詞を口にした。
笹良は、魔王が部屋を出て扉が閉まる音がするまで、必死で机にしがみついた。
それから約十分、魔王が夜遊び用の衣装に着替えて、玄関を出て、バイクの音が響くまで、更に耐えた。
胸が切なくなるようなバイクのエンジン音。
魔王がようやく、笹良の手が届かない場所へ移動したのだ。
「あああぁぁっ、もう馬鹿! 馬鹿、馬鹿っ!!」
笹良は勢いよく椅子から立ち上がり、問題集を投げ捨てて、愛しきぬいぐるみの群れを蹴散らした。
忍耐に忍耐を重ねていたけれど、もう限界。
絶叫せずにはいられなかった。
お前、お前、夜遊びしたいがために、笹良に高等数学押し付けた! 笹良に、勉強はちゃんと教えたっていう体裁、一応整えて、遊びに行った!
「そういう姑息なところがっ、腹立つの!」
もう涙目になる。
慈愛、って言葉、総司の心の辞書にはないの?
「自愛、って言葉しかないんだろな……」
独白して、虚しくなった。
まあいい。
なんであれ、魔王が目の前から消えただけで、笹良の心の安寧は舞い戻ってきた。
どうせこんな数式、読み解けない。
遊んでやれ。
といっても、家から出るのは、魔王にばれた時、非常にやばい。
漫画は全部読んだし、面白いテレビはやってない。
そう思ったところで、昨日、魔王がDVDをレンタルしていたのを思い出した。
それ、観よう。
笹良の部屋にはテレビがないので、リビングに行かなきゃならない。確かDVDはキッチンのテーブルの上に投げ出されていたはずだった。
部屋を出て、キッチンに向かうと、記憶通りDVDはテーブルの上にあった。
「ON THE SEA」なんていうけったいなタイトルに、魔王の心根の醜さを再確認できた。
浜育ちだけど笹良は泳げない。救いようのないカナヅチなのだ。
ゆえに海が憎い。プールが怖い。
ちょっと足を水に浸すだけで、金縛りに襲われる。
あの水の広さと青さに眩暈がする。掴まるものがない、溺れてしまうって、まるで暗示のように思い込んでいる。だから、このDVDを観るのも、すごい躊躇った。
実は、映画でも、水もの系は苦手。
ほら、昔、鮫が人間を襲う映画がヒットしたらしいけど、あれは絶対怖くて観れない。
うむむむ、なんて知らず知らずの内に唸ってしまう。
きっとこのタイトルからして、海もの系の映画なのだろう。
あー、きっときっと魔王ってば、笹良に対する嫌がらせのためにこんなDVDをわざわざ借りてきたのだ。
であれば、先に観て、内容を確かめておくべきだ。
あいつは正真正銘のサドで、笹良が怯える様を見て狂喜乱舞する。
誰が喜ばせてやるものか。
予備知識さえあればもう一度無理やりこれを観せられても、受ける衝撃は最小限に抑えられる。やばいと思う場面は、さりげなく目を逸らせばいいのだ。
よし、観よう。
固い信念を持って、そのむかつくタイトルのDVDをデッキにセットした。
ついついソファーの背もたれにすがり、クッションを盾代わりにしてしまう。
やっぱり海系の映画だ。
映像よりも字幕の文字を追うことに意識を集中させた。
だって出だしから、海、海、海なんだもの!
これ、海賊映画だ。
こう評価してはあんまりかもしれないけど「パイレーツ・オブ・カリビアン」のパクリみたいな映画だ(総司にパイレーツを観ろと言われて、観た)。海賊映画の海賊版、なんて洒落にもならないことを思った。
海賊達が呪いに苦しむ映画。
海賊船を追跡する海上騎士団。さらわれる美しき姫君。ここポイント。
まあ、海賊が登場する映画なんて、どれも似たような内容になるのは当然だ。
笹良は正直言って、海系映画というだけで、感情移入できない。
仕方なしに、少し目線を下げつつ観てはいるけれど。
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一時間は経過しただろうか。
普通の映画って、大体、九十分前後の時間で終わるものが多い。
総司の説明によると、大作以外はコスト削減のために放映時間を短くしてしまうんだって。
もう一つの理由が、長時間映画が一般的にあまり歓迎されなくなったってこと。短くて軽めな映画が、もてはやされる時代だ。結構映画マニアな総司は大いに不満みたいだけど、いい気味だと思う。勿論、中には例外もあるだろう。芯のある映画だって作られているだろう。
ただ、この「ON THE SEA」に関しては、残念なことにB級駄作映画ってだけで。
水もの系ってだけで、駄作、駄作!
もう途中から完全に観る気が失せて、メール友達の響ちゃんに携帯でメールしてた。
響ちゃんは一歳上だけど、友達だ。
どこで知り合ったかは……内緒。大人には言えません。
見た目、華奢で繊細なのに、考え方がすごく凛々しい。うん、武士道を連想させる響ちゃん。毅然としているのだ、見習いたいくらい。
顔も可愛い、性格もいい。最高!
総司いらないから、響ちゃん、姉に欲しい。
映画を流しっぱなしにしたままメールを打ちつつ、そんな妄想を抱いて、ちょっと幸福に浸っていた。
だから、我が家の方に、聞き慣れたバイク音が接近していたのに、気づくのが遅れたのだ。
え、総司?
なんで?
なんで、こんな早くに帰宅?
ソファーから飛びのいて、慌ててテレビに駆け寄った。DVDをしまうためだ。
まずい、まずい。
殴られる、って焦りばかりが頭の中でぐるぐる回っている。
慌てている時って、普段絶対にしないような失敗をしてしまう。
間違って一時停止ボタンを押してしまったのだ。
しかもちょうど荒れ狂う海の場面。
その映像に寒気を感じつつ、ちゃんと停止ボタンを押そうとした。
いや、押したのだ。
今度こそは間違いなく。
「え?」
画面は動かない。逆巻く白い波が映ったまま。
「壊れたのかよ、こんな時にっ」
乱暴な口調で、テレビを叩く。
昔のテレビは叩けば直る、って近所のおじいちゃんが言ってたのを思い出したが、今のテレビは反抗期真っ只中らしくて、愛想の欠片もない。直らないじゃん!
接近したバイクのエンジン音が切られたことに、笹良は恐怖していた。
つまり、家の前に魔王降臨、の証だった。
かちゃり、と玄関の鍵が開けられる音。
「早く、早くっ」
がんがんとテレビを叩き、停止ボタンやら、取り出しボタンを押したけれど、画面はフリーズしたままだった。
「意地悪!」
そう叫んだ時――
テレビの中から、大量の水が溢れ出した。
まるで水槽のガラスが割れたように。
笹良は泳げないのだ。
――溺れてしまうよ。
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