she&sea 02

 目が覚めて、周囲の光景を見た瞬間、笹良は気絶した。
 本当にあった怖い話に投稿できるに違いない。
 
 神様、これは何の試練だろうか。
 確かにお正月しかあなたの存在を意識しないし、あとの364日は眼中になかったけれど、この状況は、あなたに対してつれない態度をとってしまった笹良へのけっこう悪辣な嫌がらせ、あるいは天罰、はたまた悪趣味な悪戯心か、一種の挑戦と受け取っていいのだろうか。
 だからって。だからって、ね。
 笹良は現実の中に、悪夢を見た。
 いや、悪夢を現実に体験してしまったというべきか。
「ここ……どう見ても幽霊船じゃん!」
 
 落ち着け、落ち着くんだ、笹良。だてにシビアな十四年を生きちゃいない。
 笹良はまず目の前の光景を一切無視する努力をして、我が身の安全を確認することにした。
 とりあえず外傷はなし。着ている服は、さっきまでのものと同じ。黒のタンクトップにだぼだぼした緩めのズボン。完全な家着だ。靴は履いていない。それはそうだ、だって笹良はさっきまで家の中にいたんだもの。
「ていうか、この格好とこの場所、落差と違和感ありまくり」
 つい、景色を視野に入れてツッコミを入れるが、勿論返答はない。
 いや、むしろ答えがある方が嫌だ。絶対答えてほしくない。
「何、これ? 船? 船じゃん。って、めちゃ汚ねえ! ぼろい! 死にかけてるって」
 ありえねぇ! という叫びが虚しく宙に溶けた。
 人間、極度に混乱惑乱狂乱すると、言葉使いが著しく乱れるものらしい。だが、ここには笹良の乱暴な言葉を注意するものが存在しなかった。
 何だこの恐ろしい光景は。
 笹良は我に返って、ぐるりと周囲を窺った。
 目の錯覚かも、なんていうかなり期待をこめた楽観的な願望は一秒を待たずしてあっさり斬り捨てられる。そりゃもう辻斬りのような鮮やかさで。
 どう見ても幽霊船だ。
 薄汚れた雑巾のようなぼろいマストの帆は、それこそ電柱の影に立つ幽霊が着ている白い服のように怪しげに垂れ下がっているし、甲板は誰かが瓦割りの代用としたみたいに至る所穴が空いていた。そこらに放置された壊れた樽や木箱は既に風化の一歩手前、足が折れた椅子は横倒しになって時々風に動かされ、キイキイとやたら不吉としかいいようのないサムイ音を立てている。
 ちなみに船首の方は怪物にでも齧られたのか、ぱっくり抉れていたので、両手を広げてタイタニックの再現をするのは不可能だった。蛇足だけどさ。無論、やりたくもない。いや、一緒にやってくれる相手がまずいない。
 いやいや樽が転がっていようがマストの帆布がいかに汚かろうが、甲板に錆びた剣が突き刺さったままになっていようが、そんなことは些細な問題ではないか。そう、たとえ笹良のすぐ横に、本物としか思えないような人間の頭蓋骨がちょこんと置かれていようとも。ええい、こんなもの、理科室の片隅に佇む寂しげな人体模型の最新版と思えば怖くない。そう、最新版だ。ニューモデルだ。リアリティの究極表現だ。ある意味リアルを追求しすぎて超越している気がしなくもないが。
 笹良はそんなことよりもさ。
「船、揺れてるじゃん……」
 ぼろいくせに。半壊してるくせに。
 嗅ぎたくもない潮風。ぴちゃんぴちゃんと滴る水の音。船が浮かぶ場所といえばただ一つ。
「……海の上……」
 笹良はとにかく、海とプールは苦手なのだ。鬼門なのだ。
「嘘……嘘……嘘……」
 嘘って百回言ったらホントになるかも。
 笹良はパニックを起こしそうになった。
「な、なんで、笹良、こんな場所にいるの……」
 幽霊でもいいから答えてほしい、とちょっぴり思った。真心こめて。
 
「さあなぁ……」
 
 そう思ったらマジに答えた奴がいた。
 でも、期待通りの幽霊じゃなかった。
 明らかに――
 
 
 そいつは死神だった。
 
●●●●●
  
 なんというか、その死神は微妙に半透明だった。
 死神の定番に違いないその容姿。この際はっきり表現してしまおう。
 黒い。
 全身黒い。
 いたるところブラック・アンド・ブラックだ。そのくせちょっぴり透けている感じが心憎い。
 しかもさりげなくホラーなお顔立ちをしている。
 輪郭が曖昧な骸骨さんのくせに、髪だけはふさふさだ。蓬髪だが。
 半透明具合は幽霊。全体像と衣装の黒さで死神。そして鋭利な三日月鎌を持っている。そこはかとなく全体は曖昧なくせに、三日月鎌だけは明瞭だった。
 七対三の割合で「死神」という方に笹良は賭けた。
 いや、やはり幽霊と死神のハーフかな。
 まあ、どっちにしても不気味じゃん。
「……死神?」
 分からないことは聞けば良いのだ。
「生きている奴にとってはそうだろうな」
 死神はその容姿からは全く想像できないほどの美声の持ち主だった。低く穏和で心地が良い。この姿でこの声は国家レベルの犯罪、最大級のありえなさ。余計なお世話か。
 そんなことはともかくとして。
 笹良は、死神に駆け寄った。
「……こ、怖いよぉ!!」
 そう言って、死神に抱きつこうとしたら、そのまま身体の中を突き抜けてしまう。3D画像のようだ。
「……私が怖いと言いつつ、なぜしがみつこうとする?」
「違う! あんたは別に怖くない。死神でしょ」
「死神だな」
「そう死神。きっと別の場所だったら笹良だって絶叫するけど、今はそれどころじゃない」
 死神が笹良を見下ろした。
「海だよ、海! 笹良は海が嫌いなの。駄目なのよ、この揺れ加減とか水っぽさとかが!」
「海が嫌というのに、なぜ、船にいる?」
「なぜなの! 笹良が一番知りたいよう!」
 ううっ、と笹良は呻いて、その場にうずくまった。頭痛がする。眩暈がする。海の匂いがする。
「私に会って、ここまで驚かぬ人間は二人目だな……」
 いや、状況が状況なら、マイメモリーファイルのナンバー5に入るくらいミステリーな出会いだろうが、はっきりいって海の上という事実の方が笹良にとっては比重が大きい。
 だが、笹良の乙女な心情などさっぱり分からぬらしい死神は、明らかにがくりと落胆していた。そうか、死神は美声を誉め称えられるより、容姿の不気味さに恐怖してほしかったのか。
「ううう、ごめんね、今から怖がろうか。そのかわり笹良を陸へ戻して」
「嬉しくないし、不可能だな」
「なんで。死神のくせに」
「私は首を刈るしかできぬなあ」
 使えねえ、と笹良は内心でやさぐれた。その思いはきっと五十パーセント未満で目に表れただろう。
「じゃあさぁ、ちょっと気を紛らわせてよ」
 死神は「こいつ頭は大丈夫か」という気味悪そうな雰囲気を漂わせている。その雰囲気自体というか存在自体が既に気味悪いが。なんたって半透明生物ならぬ半透明死物だし。
「だからな、私は生きている者の首、あるいは死者の魂魄を刈るという……」
「分かったから、とにかく! 美女の懇願受け入れなさいよ。ちょっとくらい側にいて慰めてくれてもいいじゃん」
「死神なんだが……」
 笹良はうるうると目を潤ませて死神を見上げた。目薬じゃない。自前の涙だ。海風が目に染みるのだ。
「それに美女というのはどうだろう。年齢的にもその他の事情においても無理がないか?」
 ツッコミ入れる死神もどうだろう。
 大体、その他の事情って何だ?
「うっ、うっ、もう駄目。泣いてやる、海ができるほど泣いてやる。死神なんて溺れてしまえ」
 というわけで、笹良は泣いた。
 堤防を切る濁流のごとく号泣した。
 
 
 どれだけ時間が経過したか分からなくなって、果てしなく疲労感が増したが、死神は笹良の側にいてくれた。
 ようやく泣き止んだ時。
「慰めたくても、触れないので抱きしめてやれぬなあ」
 そんな死神の言葉に、再び泣けてしまった。
 
●●●●●
 
「……それは難儀な」
 なぜか死神と酒盛りしつつ、笹良は我が身に降りかかった不幸を切々と話した。
 ちなみにここは、船内の一室。
 成り行きで死神と熱く語り合っているが、我に返った時が恐ろしいと思う。
「そっちも大変だねえ」
 そっちも、というのはこの半透明な死神のことで、なんと彼は群れとはぐれてしまったらしい。いや、群れではなく仲間なのだが。で、その仲間を探しつつ、海の上をふらふらと行き来していた時、幽霊船で喚く笹良を発見したそうだ。死神も迷子になるのかという謎についてはこの際目を瞑ってやろう。
「ま、そろそろ見つかるとは思うがなあ」
 呑気な死神だ、と笹良は呆れた。
「笹良、これからどうしようかなあ」
 一体どうすれば海の上から脱出できるのだろう。笹良は木杯についだ妙にアルコール度の高い果実酒を舐めつつ、吐息を落とした。この果実酒は船内の隠し棚の奥にしまわれていたものだ。
 探し当てたのは死神だが、彼は人間のように飲食ができる身体ではないので、恐縮だが笹良一人で芳醇な香りと味を楽しんでいた。いや、実は一口で結構酔っ払いそうになり辟易していたのだが、笹良を元気づけるために酒を発見してくれた死神の好意を足蹴にするわけにはいかないので、こうして少しずつ舌に乗せているという次第だ。
 だが、笹良はまだ未成年なんだけどな。
「物事には流れというものがあるだろう」
 死神は、三日月鎌を、だらだら長い袖で軽く拭いていた。
「……どうやったら死神の仲間入りできるの?」
 死神が怪訝そうに手を止めて、必死に平静を保とうとする笹良を見た。酒で頭が回りつつあるのだ。
「なぜそのようなことを聞く?」
 そりゃ、魔王ならぬ馬鹿お兄様の首を刈り取ってやりたいためだ、などと答えたら、この死神はなんて言うだろう? そもそもことの発端は我が兄が原因なのではないだろうか? きつい香りの果実酒のおかげで記憶がふらふら揺れてしまいタイトルが思い出せないが、あのDVDを総司がレンタルしてきたせいでこんな目にあっているのだ。そうに違いない。
「くそ、総司の呪いでも受けたのかな」
 お祓いするべきだろうか、などとぼんやりとした頭の片隅で思った。
「なあお前、酔っているだろう」
「酔っていないと言う人間に限って酔っている。だから笹良は、酔っている、って言う」
「じゃあ、酔っているんだろう?」
「うるさい、死神。これが酔わずにいられるか」
 酔わなくたって同じだろう、と死神が苦笑交じりに口答えした。
「ねえ、死神」
「何だ」
「もし笹良が家に帰れなくて、信じたくないけど、もし、もし、ここで餓死なんてしたりしたら、死神が迎えにきてね」
「私に迎えを頼むのか」
「知らない天使より、知ってる死神の方が安心」
 奇妙な娘だ、と笑われたが、そんなに悪い気はしない。顔は怖いが死神の声音はとても穏やかだ。
「だって、だって、返事してくれたじゃない……」
 ああ、もう駄目だ。意識が遠のいてしまう。
 限界を悟った笹良はまだ酒の残っている木杯を放り出して、埃塗れのぼろい寝台にぽてっと寝転んだ。身体をそこへ投げ出した拍子に白い塵芥がふわりと舞ったが、払う気力は既になかった。
「死神、勝手に消えないでよ……」
 笹良の声が聞こえなかったのか、死神は返事をしなかった。
 
 お前の首は刈りたくない――そんな声を、笹良は夢の中で聞いた。

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