の朝[1]

 愛しきは、罪の微笑。
 恋しきは、君の微笑。
 
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 全ての民は、砂の世界の申し子だ。
 シャル=ディスクは、無限に広がる砂の世界を睥睨して、嘲笑した。
 
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「シャル」
 ある晴れた朝。
 いつものごとく煉瓦造りの壁の隙間に入り込む砂を払っている時、仕事の誘いがかかった。
 シャルは嫌な顔をして、その声を無視した。獣の毛で作られた刷毛と箒を使い分けて、丹念に壁の隙間や煉瓦のつなぎ目を埋める砂を払う。毎朝こうして掃除をせねば、家が砂に食われるのである。決して比喩ではない。放置すればほんの数日で、砂の中に家が埋没してしまうのだ。
「無視をするな」
 シャルを呼んだ男は盛大な溜息をつきつつ、わざわざ視野に映るよう移動してきた。シャルは嫌々ながらも刷毛を持つ手をとめ、壁に寄りかかる長身の男を見上げた。
 この男、シャルと同様、寄獣狩りを専門とする剣士である。
「キリム、他を当たってほしい」
 シャルは渋面を作って、ふい、と横を向いた。早朝から不吉な寄獣狩りなどご免被る。
 寄獣。
 白い砂漠の国――白苑の国には、住民達にとってまさに命の泉である貴重なオアシスを食い荒らす、厄介な悪しき魔物が存在した。泉を枯渇させ、緑を穢し、人まで食らう醜悪なこの魔物を、ジグマという。
 ジグマは他の砂漠国には存在せずなぜか白苑のみに出現し、その上、人に寄生して無数の卵を植え付けるので、シャルを含む白砂漠の住民達は、この魔物を最も忌み嫌っていた。しかも寄生には潜伏期間があり、卵が孵る直前まで普通の民は気がつかぬ。幼獣の内はまだよい。成獣が相手となる場合、寄獣狩りの集団、クルトの徒であっても数人で対峙せねば敵わない。
 こんな早朝からクルトの徒に属するシャルが呼ばれるということは、大抵、ジグマ退治と決まっているのだ。他の魔物が出現した時には、それが余程の大物でない限り、シャルは指名されぬ。
 シャルは、剣に関しては、然程の技量を有しているわけではない。
 だが、他者にはない希有な能力を身に備えている。
 父が呪術師であったためか――風を自在に操れるのである。
 今は失われし太古の力。
 ゆえにシャルは、か弱い女の身でありながら、男でさえ忌避する危険な魔物退治に度々駆り出されるのだった。
 ――シャルとしては、魔物狩りなどに心血を注いで己の人生を血腥いものにする気は微塵もなかったのだ。生命が脅かされるほどの危険を伴う仕事などには、本音を吐露すれば誰だって全く従事したくないだろう。まあ、真っ当な精神を持つ者ならば当然だと思う。寄獣狩りに志願する者は大概、過去に事情があったり、はたまた奇々怪々な性癖の持ち主であったりするのだが、シャルはといえば、このような日常生活の中では殆ど役に立たぬ力なぞが我が身にあるため、ほぼ無理矢理クルトの徒として籍を置く羽目になってしまったわけだった。
「シャル」
 キリムが諭すように、名を呼んだ。
 この男、シャルが頷くまで、絶対に離れないつもりだな。
 強い真紅の瞳にいつまでも凝視されるのはたまらない。シャルは不承不承頷いて、家の中に戻った。勝手知ったる他人の家という態度で、キリムまでついてくる。余談だが、一見優男のキリムは奇々怪々な性癖の一人として、クルトに名を連ねている。
 シャルは内心不平不満を最大に零しつつ、のろのろと仕事の準備を始めた。長剣二本を両腰に下げ、短剣一本も差し、更には魔物の鱗で作られた鞭も用意し、障気を払う腕輪をはめる。身にまとう衣服は特に替える必要はない。シャルは普段から、ひらひらした華麗な女物の衣装を着込んではいないのだ。動きやすく金がかからないという、いやに実用的かつ現実的な理由により、味も素っ気も色気もない質素な剣士の装束をいつも身にまとっている。
 武器を装備して、水筒と、万が一のための僅かな金銭と薬草などをつめた小さな鞄を腰の帯にくくりつけ、髪をまとめたあとに砂避けの布で顔を覆えば、それで準備完了だった。
「それで、どこに?」
 支度を終えたシャルが問うと、いつの間にか戸口の前に立っていたキリムが、視線で「来い」と合図しながら外へ出た。
 シャルも続き、家の裏手に回って、柵の中に繋いでいた従寄という獣の縄を外す。従寄は砂漠で暮らす者には欠かせぬ貴重な獣である。性は大人しく従順、砂漠特有の激しい寒暖の差にも適応し、長期間の移動を可能とする上、非常時にはその肉と血を食すことができる。
 シャルはひらりを身を翻し、従寄に飛び乗った。シャルの従寄は美しい漆黒の毛を持つ。灼熱の太陽であっても、従寄の毛を色褪せたものに変える事はできない。
 既に騎乗の人となっていたキリムは、シャルが隣に従寄を寄せるまで沈黙を守り通した。
「――イスティーを覚えているか?」
 従寄を走らせつつ、キリムは一度、シャルへ鋭い視線を投げてきた。
「イスティー? あの、歌姫の」
 シャルが暮らすこのタルドの町では有名な歌姫だ。容姿は艶麗で、すこぶる声が美しい。確か、隣町に城をかまえるどこぞの大富豪に見初められたという噂話が流れていたが。
「知らなかったのか? イスティーは、この数ヶ月、行方不明になっていたのさ」
「行方不明?」
「それが、今朝、オアシスで姿を発見されたと」
 シャルは途轍もなく嫌な予感がした。
 つい、己の予感を否定したくて、問うてしまう。
「まさか」
「そうさ――間違いなく、寄生されているだろう」

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