の朝[2]

 キリムの先導によって辿り着いた場所は、隣町に暮らす住民達の生活を支える要とされている小さなオアシスだった。
 既にジグマが出現したという情報が周辺一帯に流れているのか、遊び回る子供達や水を汲む娘の姿は見えなかった。
 ジグマの中には人よりも高い知能を有する魔物が存在し、時折美女を攫うことがあった。同種の魔族であっても、人の世と同じく階級があるらしい。
 醜悪な容貌しかもたぬジグマが、人間の基準内においても美女と評される娘を攫うというあたり、笑止千万ではあるが、その力量と被る被害を思うと憎悪や怒りの方が先に立つ。
 なぜならば、シャルの母親と弟は、ジグマに食われたのだ。呪術師であったらしい父親は弟の生誕直後に行方知れずとなり、顔すら記憶にない。だが父を知る者は、シャルの容姿は間違いなく血を受け継いでいる証拠だと口を揃えて言う。砂漠と同様の白い髪に、濃い紫色の目。高い呪力を身に宿す呪術師は大抵、その色を持つという。父親を家族の一員として勘定に入れていないシャルにとっては、はた迷惑な話でしかない。
 父にまつわる様々な噂話を思い出したシャルは、つい舌打ちをした。その苛立ちを、キリムは別の意味に捉えたようだった。
「シャル。相手は成獣かもしれぬぞ」
「まさか、たった二人でジグマの相手を?」
「他に志願者がいないのさ」
 こらこら、とシャルは突っ込みをいれそうになった。
「先日の魔物狩りで、負傷者が続出した。まともに動けるのは少ない」
 それにしたって、たった二人で成獣の相手をせよとはどういう了見だ。犬死にを覚悟しろと言われたも同然である。
「なに、その分、報酬は高い」
「そういう問題では……」
 呆れてものが言えぬ。
 シャルは言葉の途中で気力を失い、溜息を落とした。
 まあよい。どうせ、己が命を散らしても、待つ者は存在しないのだ。
 
●●●●●
 
 小さな楽園の入り口に従寄を待たせて、シャル達は慎重に歩を進めた。
 背の高い木の間をすり抜け、奥へと進むと、炎のように鮮やかな色をした岩壁に突き当たる。その周囲をしばらく巡った先に、うずたかく積み重なった岩石の間を流れる細い滝が存在した。脇には透明な泉がある。
 泉の付近へと足を向けた時、キリムが僅かに身構え、無言ですらりと剣を抜いた。
 直後、ぱきり、と地面に落ちている枝を踏んだらしい微かな音が耳に届いた。
 ――魔物か?
 シャルも警戒して、両腰に差していた剣へ手をかける。
「――イスティー」
 張りつめた気配を消したキリムの苦々しい声に、シャルは瞠目した。
 日の差さぬ岩陰の間から、ふらふらとさまよい出た女の姿が目に映ったのだ。
 シャルは絶句して、剣の柄に手を預けたまま立ち尽くした。
 ――孕んでいる!
 大きくせり出した腹は臨月を迎えているのか、ひどく重たげに見えた。なのに、赤子を宿すイスティーの身体はふくよかとはとても言い難い。げっそりとこけた頬に、艶を失った金色の髪。枯れ枝のような手足。まるで亡霊を見ているようだ。
「参ったな」
 焦燥を微かに含んだキリムの声に、シャルは表情を引き締めた。
 イスティーの異様な肢体。これはどう考えても、ジグマの卵を腹に抱えているのだ。
 卵を産む前に母体を殺すしか、被害を食い止める方法はない。
 非道と言われようとも、イスティーを救済する術は最早存在しないのだ。人々の安全な生活を守るべく結成されたクルトの徒は、時として人でなしの集団に変わる。非情にならざるをえないという厳しい現実が存在するために。
 ある意味、成獣を相手にするよりも躊躇う光景と直面している。己の中にある何かを試される瞬間でもあった。正義や良心などといった普段は軽んじている言葉に、強く、深く心を貫かれるのだ。真っ当な人間ならば、罪悪感のみでは量れぬ激しい苦悩に苛まれる。
 ああそれで、誰も今回の仕事を引き受けたがらなかったわけか、とシャルはようやく得心した。怪我が問題ではなかったのだ。キリムもどうやら仲間に厄介事を押し付けられたと気がついたらしく、荒い仕草で髪をかきあげている。
 ――殺すしかない。
 シャルは人間らしい感情を押し殺して、冷静に判断をくだす。
 ここで逡巡すれば、更に面倒な事態を招いてしまう。
 ジグマの卵は恐らく、イスティーの体内に数百眠っているだろう。それが一度に孵ると想像するだけで、寒気が走る。
「シャル」
 シャルは音もなく剣を抜き、イスティーに視線を定めて接近した。キリムはいい腕を持っているが、いかんせん女子供に甘いのだ。男にはえらく辛辣であるのに。
 シャルは女でも男でも、躊躇わぬ。
「待って。待って。違うの」
 シャルが手の届く場所までイスティーに近づいた時、弱々しいが存外まともな声でとめられた。
「この子、違う。夫の子」
 顔には出さなかったが――シャルは内心、眉をひそめた。夫の子?
 つまり、ジグマに卵を産み付けられる以前から、子を宿していたということか?
 もしそうなのであれば、さすがにシャルでも戸惑ってしまう。赤子を殺すのは、何より嫌なものだ。
「お願い。助けて。あたしはどうなってもいい。この子だけは」
 懇願されても、困るのだ――。
「名前は、もう考えているの。アヴラル。男の子でも女の子でも、どちらでもいい名でしょう」
「……シャル。聞くな」
 そっと背後からキリムが囁いたが、シャルは静かにイスティーのきらきらと輝く目を見つめていた。
「ねえ。お願い。あたしの命、あげるし」
「……その子は、魔に冒されているよ」
 シャルは静かに諭し、首を振った。
「いいの。それでも、あたしの子」
「よくはない。魔の子だ」
「あたし、こんなふうに生きたけれど、この子だけは。ようやくまともな人間になれると、思ったの。子供と夫と、幸せで穏やかな毎日を」
 決して叶わぬ悲痛な願いを、シャルは聞き流すより他にない。
「産みたいっ。せめて、産ませて。それだけは、どうか」
「あなたの身体は、もたない」
「死んでもいい。お願い、それだけの願い、他に何もいらないから」
 シャルが苦渋の色を顔に浮かべ、答えようとした時――。
「シャル!」
 静止していた時を動かすかのように、木々の間から巨大な影が飛び出した。
 
●●●●●
 
 ジグマの成獣。
 灰色の三枚羽を持ち、宝石のごとく固い肌を持つ魔物。濁った三の目は絶えず血に飢えている。裂けた獣の口は異臭を放ち、長い六本の手足は奇妙な俊敏さを見せる。岩山のような巨大な体躯。恐るべき魔物。
 何より深刻なのは、その醜い邪眼が大きな魔力を有しているということだった。
 眼差しの威力で、人の動きを封じるのだ。おまけに凄まじく敏捷で強靭である。
 成獣が相手の場合、シャルの剣技では歯が立たない。呪力で対抗し、キリムにとどめをさしてもらうより手段はない。
 シャルは腕を払い、風を巻き起こした。少しでもジグマの動きをとめねば、いかなキリムでも手が出せぬ。
 キリムの武器は退魔の剣である。邪眼を潰すか、心臓を貫くか。身体を真っ二つに切断しても、ジグマは動く。
 ふっと空気の流れと共にキリムが跳躍し、ジグマとの距離を一気につめた。羽を広げ飛翔しかけるジグマを、シャルの風が封じにかかる。
 まずは一閃。キリムがひらめかせた剣の切っ先が、ジグマの眼を一つ抉る。
 風と共に、周囲の砂が激しく舞い上がった。霧のように大気を覆う白い砂が、ジグマの輪郭を曖昧にした。
「キリム!」
 いけない。懐に深く入りすぎている。
 魔の吐息は、障気の塊なのだ。浴びれば肉を溶かす。
 退魔の剣でも、完全にはなぎ払えぬ。シャルは風に祈った。生まれた風が羽根のようにキリムの身体を取り込み、障気の渦から引きずり出す。
 風の御手から転がり落ちるキリムに駆け寄る余裕はなかった。邪悪な魔の瞳が、狙い違わずシャルを捉えたのだ。
 身が震えるほどの絶望的な威圧感。奇跡でも起こらぬ限り二人だけでは到底狩れぬ。
 ジグマは驚嘆するほど優れた治癒能力も有している。瞬く間に潰れた眼が癒され、形勢はこちらにとって益々不利なものとなった。シャルは身に宿す呪力のお陰で、ジグマの邪眼に惑わされることはないものの、明白な力量の差を覆すことはできない。
 これは死ぬな、と躊躇もなくシャルは悟った。
 だが、ジグマは、なぜかシャル達を得意の火炎で焼き払おうとはしなかった。
 シャルはふと、一つの無謀な作戦を考えつく。
 ジグマの中には、理性を宿すものもあるという。
 シャルは長剣を抜き、風をもって、刃物の先端をイスティーの腹に向けた。
「どうする、魔よ。お前の炎が私を焼くか。それとも私の剣が、女を裂くのが先か」
 目の端に映るキリムは、出血がひどそうだった。まともに障気を浴びたため、肌が破れて血が噴き出しているのだ。
「私の風は、我が身が滅されたあとも命に従う。私は風と契約する。お前が消えぬ限り、私の風は女と子を切り裂くだろう」
 さて、魔物に情が通じるか。
 そのような都合のよい話は聞いた事がない。
 大体、シャルの脅迫は出鱈目にすぎぬ。死したあとにまで、風を制御できるはずがない。
 しかも、どう考えても、はったりは魔物に看破されているようだった。次の手など考えつかず、万事休すだった。
 やはり死ぬのか、と内心諦観を抱いた。魔に寄生されるのだけは遠慮したかった。卵を抱くのは更に拒否したかった。
「去るがいい、魔よ。お前が去ねば、私はお前の子を救おう」
 瞬間、凄まじい砂嵐が頭の中を襲う感覚に苛まれた。
 ――面白い、という思念が、シャルの頭に侵入してきたのだ。
 魔の言葉が、シャルに注がれているのである。
 ――我が子を人があやすというか。
 という意味合いの思念が、愉悦を交えて送られる。
「去ればな」
 今すぐにでも去ってほしかったので、シャルは激しい頭痛を堪えつつ適当に答えた。
 それにしても、このジグマは魔の中でも卓越した力を有しているだろう。知性を持つ魔物は希少なのだ。
 魔が嘲笑している。それは当然、愉快でならぬだろう。非力な人間が強大な魔を相手に取引を持ちかけているのだ。
 だが――。
 よいだろう、と魔は答えた。
 ――子など惜しくはない。なれどお前は興味深い。ジグマはそう嗤って、三枚羽を広げ、飛び立ったのだ。
 ついでに余計な誓約まで押し付けて。
 ジグマが空中から、魔力の塊を吐き出した。閃光のように魔力は大気をひた走り、シャルの胸の中央を貫いた。その衝撃で、シャルは軽く弾き飛ばされた。一瞬、思考も意識も、何もかもが途絶えた。
 ――お前と我が子の命を繋げよう。我が子が滅べば、お前も滅ぶ。また、お前が滅べば、我が子も滅ぶ。
 人間が相手ならば、渾身の力で怒鳴りつけたいところだった。
 勝手な戯れ言を残して、ジグマはさっさと消えてしまったが――。
 
●●●●●
 
 大変なことになった……とシャルは嘆いた。
 半ば呆然としながらも、気を失っているキリムに応急処置を施したあと、シャルは度々、己の胸元を覗き込んだ。
 くっきりはっきりと胸の中心に押し付けられた魔の刻印。これが現実だとは思いたくもないし信じたくもない。
「我が子」って……一体、何百体存在するのだ!?
 普通、ジグマの卵は数百から数千単位で孵化するのだ。シャルはつい生々しい想像を巡らせて、戦慄した。
 即刻イスティーを始末するべきか。卵が孵る前に母体を壊せば、刻印は効力を失うのではないだろうか?
 悪いが、他人の命より自分の命を優先させたい。
 シャルは指笛で、オアシスの入り口に待機している従寄達を呼んだ。
 ほどなくして現れたキリムの従寄を屈ませる。シャルは苦心しながら重いキリムの身体を持ち上げ、従寄の背に乗せた。一刻も早く手当をせねば障気が全身に回り命を落とす危険があるので、町へ戻すために従寄を呼んだのだが、正直、今のシャルにとってはここでキリムに目を覚まされては大変困るのである。キリムはなぜジグマが去ったのか、事情を必ず訊ねるだろう。シャルは事実を伝えられぬ。何があったか知られれば、シャルまで仲間達に始末されかねない。
 くそ、と悪態をつきつつ、キリムを乗せた従寄の背を叩いて走らせた。利口なキリムの従寄はシャルの先導がなくとも、町へ戻れるだろう。
 シャルの従寄は、泉の側で休ませる。
 離れた場所に座り込んでいたイスティーに近づき、シャルは顔を歪めた。人生最悪の出来事だった。なぜゆえ自分が魔と命を分かち合わねばならないのか。
 この女をさっさと始末しておけばよかったと思うが、所詮後の祭りだった。
 シャルは頭を抱えて、放心しているイスティーの前に座り込んだ。
 大地を焦がす太陽が、煩悶するシャルを厳かに見下ろしていた。


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