の朝[3]

 半刻もすぎぬ内に、イスティーが腹部を押さえて苦しみ始めた。
 このようなおぞましい出産になど絶対に立ち会いたくなかった。強制的に魔を抱かされたイスティーに同情する気持ちもあるにはあるが、どちらかといえば、自分までもが厄介事に巻き込まれてしまったという恨みの方が強い。
 苦しむならば勝手に苦しみ産み落とせ、という半ば投げ遣りな心境だった。
 だが、イスティーは苦痛にのたうち涙を流しながらも、しきりにシャルへ感謝を示すのだった。
「ありがとう。あたしの子、助けてくれて。ありがとう」
 この女、狂っているのではないか、とシャルは腹を立てた。
 魔を産み落とすのがそれほど嬉しいのか。
 大地を這いずり回って血を吐く凄絶な女の姿など、正視できるはずもない。
 シャルは舌打ちして、女へ背を向け、泉へと近づいた。乱れた精神を宥めるために冷たい水で顔を洗い、震える吐息を落とした時、一際高い女の絶叫を聞いた。
 
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 シャルは束の間、絶句した。
 女の白い腹を裂いて出現したのは――薄い膜に覆われた蛹だった。それだけでも十分衝撃的だったが、シャルにとっては歓喜の表情を浮かべたまま息絶えるイスティーの方が何より恐ろしく思えた。
 美貌を誇り男達を虜にした歌姫の末路が、祝福されぬ魔の出産である。
 ――大体、この気色悪い蛹をどうしろと!?
 シャルはゆっくりと瞬きしたあと、天を仰いだ。雲一つなく清々しく晴れ渡る朝には全くそぐわぬ不気味な光景が、目前に広がっているのだ。たまらない。
 自分の不運さに吐き気がするほどだ。よりによって、あの蛹と命が繋がれている。
 ――蛹?
 シャルは目を見開き、もう一度イスティーの腹に視線を向けた。
 卵ではない。いや、数百の魔を産卵されても嫌だが、蛹とは……。
 あまり直視したくはない醜い蛹だった。薄い膜の蛹はほのかに百緑の色を持っており、しかも赤子ほど大きさがある。血と体液に塗れてぬらぬらと光る様は、化け物という言葉で表現するのがもっとも相応しく思えた。一体どれほど醜悪な魔が蛹の膜を破って現れるのか、想像するだけでも胸が悪くなる。
 もしや蛹の中にびっしりと卵が溢れているのか? いやそれとも、巨大毛虫のような幼獣が蠢いているのか。
 シャルの全身に鳥肌が立った。
 もう二度と明るい日の下は歩けぬ暗い気分にさせてくれる。
 クルトの徒であるため魔物の死骸は見慣れていたが、これはない、とシャルは内心で泣き言を漏らした。蛹に絡み付く赤い肉の糸。白い脂肪。異臭。血。蛹は時折ぴくぴくと痙攣するのである。なぜ死産じゃないのだ! と神に本気で問いかけたいところだった。
 駄目だ、今すぐ殺そう。
 シャルの精神は限界だった。目にするだけでもおぞましい。たとえ自分の命が同時に断ち切られる結果となっても、この醜い魔の子を生かすよりはましだ。そうだ、生かしておけば、この先どれほど甚大な被害を周囲の人々に及ぼすか分からない。
 どちらにせよ、殺めるべきなのだ。
 悲壮な覚悟でシャルは剣を抜いた。直視したくはないので目の端にぼんやりと蛹を映した。
 おや、とシャルは渋々だが、蛹を見下ろした。
 なぜか、蛹が息をひそめてシャルの行動を窺っているように思えた。それでいて何も抵抗しようとせぬのだ。まあ蛹ゆえ、抵抗しようがないのだろうが。
 親が知性を持つため、子にも受け継がれたのか。
 ああ嫌なことだ、とシャルは項垂れた。
 参った、全く本当に――シャルは一生分の罵り言葉を胸中で吐き散らしつつ、ついでに神も呪いつつ、決意と共に剣を振り下ろした――。
 
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 が、魔物の子はやはり魔物。
 一筋縄ではいかなかった。
 斬れぬのである! 脆く薄い膜にしか見えぬのに、まるで頑丈な鉄の壁のごとく固い。
 つまり何か? 蛹の膜が割れるまで、待てと?
 シャルはとうとう絶叫した。自分でも言葉として聞き取れぬ不明瞭な叫びだった。砂を蹴散らし、盛大に喚き、その場に屈み込む。
 嘘だ。誰か嘘だと言ってほしい。
 なぜシャルなのか。弟も死に母も死に、父は行方不明。ほぼ天涯孤独といってもよく、その上自分は女の身だ。憐れみの対象に、普通ならないか?
 それがどうして魔物の子と、一生を添い遂げねばならないのか。
 ふざけている。世界の無慈悲さが痛いほど身にしみる。
 涙が浮かびそうになった時、奇妙に湿った音を立てて蛹が蠢いた。
 シャルは振り向き、硬直して、蛹を凝視した。
 蛹の膜が、ぴりりと小気味よい音を立てて破られたのだ。
 どれほど穢れた魔の子が飛び出すのか、戦々恐々としながら成り行きを見守った。
 無意識に、剣の柄を握る手に、力がこもる。いつでも叩き斬れるようにと、本能が警戒を伝えるのだ。
 だが――。
 蛹の膜を破り、目映い光へと伸ばされたのは、小さな白い、人間の赤子の手だった。
 
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 咄嗟に、シャルは駆け寄った。
 薄い膜が大きく裂かれ、羊水に塗れながら外へと押し出された生き物。とても、とても小さな――人の姿を持つ赤子だったのだ。
 いや、赤子よりも小さいくせに、見た目は三、四歳に見えた。この時点で普通の子ではないと分かる。
 子猫のような甘い鳴き声を上げる赤子を目にして、シャルは腰が抜けた。
 イスティーが、アヴラルと名付けた魔の子。
 その子はシャルの弟と同じ、奇麗な緑色の目を持っていた。
 
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 美しい子だ、とシャルは認めざるを得なかった。
 幼児であるくせに、際立つ美貌は母譲りなのか。抜き出て肌が白く、繊細な顔立ちをしている。柔らかな髪は、透けるような淡い淡い緑色。瞳の色に、透明な水をふんだんに注いで薄めたような奇麗な髪だった。
 羊水に塗れているので、顔も身体も陽光を弾き目映く輝いている。頬を伝う液体がまるで涙のようだった。
 いや、実際に魔の子は泣いているのだった。
 シャルは腰を大地に落とした体勢のまま、剣を無意識にかざした。
 殺さねばならない。どれほど容貌が可憐であっても、魔は魔にすぎぬ。
 ところが、だ。
 シャルの殺意を理解したのか、魔の子は蛹の膜から転がり落ちたあと、額を砂の大地に押し付けた。
 深く深く、謝罪しているようにしか、見えぬ光景だった。
 片手で簡単に抱き上げられそうなほどの華奢な幼児が、砂だらけになり打ちひしがれた様子でシャルに頭を下げているのである。
 ああ参った。何なのだこの展開は!
 これが、魔なのか?
 あの醜悪な魔物の血を受け継いでいるというのか。
 とんでもない災難に、シャルは目眩を起こした。畜生、と思わず罵ってしまう。すると魔の子は罵声の意味を解したのか、びくりと震える。
 魔の子ならば魔らしく、堂々と悪の象徴として立ちはだかったらどうなのだ。
 これではシャルが、か弱い幼児を虐待しているようではないか。
 不本意すぎる!
 シャルは力任せに剣を振り下ろした。ひくっと魔の子が硬直して息を飲む様子が映った。シャルの放った剣先は凝固している魔の子の顔をかすめて、大地に叩き付けられていた。
 激しく怯えて身を震わせながら、魔の子が顔を上げる。あどけなくも端正な顔が、恐る恐るといった雰囲気でシャルに向けられた。大きな瞳から溢れ落ちる涙の粒が、いくつもいくつも頬を伝っていた。挙げ句、うっうっと声を上げて嗚咽を漏らし始める。
 シャルは絶望して剣を投げ出し、ばたりとそのまま後ろに倒れた。正直、ただ悪夢を見ているだけでこれは現実ではないのだと、できるものならそう思い込みたかった。よりによってなぜ稚い容姿を持って誕生するのか。身の毛がよだつほど醜怪な容貌であれば、躊躇いなく殺せたというのに。
 しかも、弟と同じ瞳の色だ。神の嫌がらせとしか思えぬ。
 もう嫌だこんな人生、とシャルは虚ろな目をした。
 眠ってやる、とやけになって目を閉じた。
 
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 ふと目を開けると、シャルのすぐ横で魔の子がまだ泣いていた。
 涙を零しながらもシャルを気遣っているようにすら見える瞳に、突如制御できないほどの猛烈な怒りが湧く。
 言葉はまだ操れぬらしく、不明瞭な発音で、シャルに何事かを伝えようとしていたのだ。
「うるさいっ!」
 シャルは怒りに任せて魔の子を叩いた。これで魔の子が本性を現し、襲いかかってくれば反撃もできる。
 だが、魔の子は殴られるまま儚く大地に倒れて、嗚咽を堪えながら一層悲しげに泣いていた。シャルは顔を覆っていた布を取り外し髪を掻きむしったあと、あぐあぐと泣く魔の子を殆ど諦めの境地で見下ろした。
 魔の子はシャルと視線を合わせなかったが、どうも詫びているらしかった。
「ああ、もうねえ……」
 なんともいえぬ虚ろな独白を落としたあと、シャルは――魔の子を抱き上げた。
 魔の子がぎょっと目を見開き、その後おどおどとシャルを見返す。
 ――これは斬れない。弟と同じ目の者を。
 ほだされたのか何なのか。
 シャル自身もよく分からぬまま、顔を覆っていた布で魔の子の身体を包み膝に乗せた。
 びっくりしている魔の子の目から、最後の涙がぽろりと一つ。
 仕方ないのかこの人生……と悟りの境地で、シャルは魔の子を見つめた。
「――アヴラル。お前の名は、アヴラル」
 アヴラルは、ひしっとシャルにしがみつき、一際激しく泣き出した。
 
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 アヴラルを連れては、町へ戻れぬ。
 かといって、このオアシスに放置してもおけぬ。
 ゆえにシャルは町へ帰還せず、このまま行方をくらますことに決めた。生まれ育った町に対しての執着や未練などはない。父が家族を置き去りにし、あっさり捨てた町なのだ。何の愛惜がそこにあろうか。
 唯一の気がかりはキリムの容態だったが、恐らく死ぬことはないだろうと自分を納得させる。
 まずはイスティーの亡骸を葬ることが先決だった。シャルが遺体を弔うに適した場所を探す間に、アヴラルには泉で身体を洗うよう命ずる。容姿は幼いものの恐ろしく知能が高いらしく、言葉を正確に理解して素直にシャルの言うことを聞く。
 まさか母親だと思われていないだろうな、と実に情けない気分になった。
 風を操り、砂でイスティーの亡骸を包み隠したあと、シャルは泉から上がったアヴラルの身体を布で拭った。一応、幼い容貌であっても性別は男であるためか、非常に恥ずかしそうだったが、反面、身体を拭いてもらえて嬉しそうな表情でもあった。シャルが機嫌を損ねると理解しているようで、必死に表情を隠そうとしていたが、丸分かりである。
「小賢しい」
 思わずきつい言葉が漏れる。途端にアヴラルは、世にも悲しげな顔をして涙を滲ませる。
 ……これは本当に魔の子なのか?
 溜息を零しつつ、淡い緑色の髪を乱暴に撫でた。なぜか、母親というより父親のように尊大な接し方をしてしまうのは、あんまりアヴラルが頼りない顔を見せるためなのか。
「子供のくせに、人の顔色を窺ってはいけない」
 いや魔物の子を人間の子供扱いしていいのか迷うが。
 というよりもまず、この子は己を何だと思っているのか?
 シャルは自分の身を包んでいた長衣を脱ぎ、アヴラルにかぶせた。
「お前、自分が魔の子だというのは理解している?」
「……」
 またしても死にそうな顔で目を潤ませ、こくこくと頷かれた。
 一応、理解はしているのか……。
 シャルは、もの凄く口にしたくなかったが、一番肝心なことを訊ねてみた。
「お前の命と、私の命、繋がっていることは?」
 ぴくっとアヴラルが肩を震わせ、縋るような目を向けてきた。
 どうやらこれも理解しているらしい。
「忠告をしておく。たとえ命が重なっていても、お前が私に殺気を向けた時、私はお前を躊躇いなく殺すよ。その上で、私を襲いたくば襲えばいい」
 と言ってはみたが、よく考えるまでもなく、見た目幼児でも力はアヴラルの方が上に違いない。
 アヴラルはいよいよ涙をぽろぽろと零しつつ、必死に首を振っていた。
「あーはいはい。分かった、分かったからっ」
 シャルは苦虫を噛み潰した表情を浮かべながらも、なぜか魔の子をあやす羽目になった。
 
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 シャルは泉に浮いていた花を取り、一つをアヴラルに持たせて、イスティーの亡骸を葬った場所へといざなった。
「お前の母親は自らの命と引き換えに、お前を産んだ。魔といえども、親はないがしろにすべきではない」
 などと一人前に格好いいことをいうシャルだったが、自分は全く父親を敬った試しがない。
 空々しすぎて身体が痒くなるような台詞を口にしたのは勿論、姑息な理由あってのことだった。
 アヴラルをどうにか手なずけて、人間らしく育ててみようという魂胆である。
 幼いとはいえ、魔の本性がいつ何時発揮されるか知れたものではない。今現在の、普通の人間よりも大人しく殊勝な表情や言動はとても演技とは思えぬが、それでもやはり気は抜けぬ。
 ああ、だが、たとえアヴラルが残忍な性に目覚めたとしても、恐らくシャルの身の安全は保証されるだろう。シャルが命を落とせば、アヴラルも道連れの運命を辿るのだ。
「私は、あー、お前の母親にも頼まれたことだし、まあ父親にも頼まれ……といっていいのか不明だけれど、まあ、そんな感じで……、だから、お前の世話は、するから。私の言う事は必ず聞くこと」
 これぞ刷り込み現象というものか。
 じっと目を見て言い聞かせると、アヴラルは神妙な顔でこくりと頷いた。よし。
「ほら、お前の母親が天門に迎えられるよう、祈りを捧げなければ」
 そうせっつくと、アヴラルは慌てながらシャルの動作を真似て目を閉じ、手を組み合わせた。
「火の精霊、水の精霊、風の天使、森の天使、東の神々、西の神々、眠る愛し子を今その御手にお返しします――」
 うろ覚えの言葉を適当に組み合わせて、シャルはイスティーの冥福を祈る。
 大した女性だったとは、思う。我が子に対する掛け値なしの、無償の愛。母となれば、シャルもいずれ分かるのだろうか。
 ――強い者は、嫌いではないのだ。
 半ば成り行きで引き取ることになった、魔と人の血を継ぐ子。
 どうにも気性が穏和すぎるというか、気弱な感じがしなくもないが……傲慢で誕生早々殺戮を求める過激な性格ではない分、かなりましであろう。
「さあ、行くよ」
 何やら切なげな表情で、イスティーの弔い場所を眺める子供を促すと、ぎゅっと縋られた。
 今にも泣き出しそうな、寂しげな眼差しに、シャルはうっと息をつめる。
 いいのだろうか、あの恐ろしい魔物の子がこれほど従順かつか弱くて……。
 シャルは深々と何度目か分からぬ溜息を落とし、睫毛を震わせて泣くのを堪える子供を抱き上げた。
 温かく柔らかな身体にひたっとしがみつかれて、シャルはえらく複雑な感情を抱いた。
 もういいけれどさ……、と遠くを眺めつつ、シャルは旅立つ準備にかかる。
 
 
 ――こうして運命を共にすることとなった二人の奇妙な旅が、始まった。

●第一章・砂の朝END●

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