砂の蝶[1]
アヴラルは恐る恐る、少し前を歩くシャルを見つめた。
砂除けの古びた闇色の衣で身を包むシャル。凛然とした後ろ姿が目映いと、アヴラルは思う。
シャルとは身長差もあるし歩幅も大きく違うので、気をつけないと、いつもアヴラルは遅れがちになる。その上、白い砂漠の砂は粒が細かいため、余計に足を取られるのだ。前を行くシャルはどこか人を寄せ付けない気配を漂わせていて、頻繁にアヴラルが遅れても、あくまで自分の調子を変えず歩調を緩めることもない。
シャルの後ろ姿を一度でも見失えばもう永久に追いつけない気がして、アヴラルは堪え難い疲労感を誤摩化し、必死に歩を進めていた。きっとアヴラルが倒れても、シャルは足をとめるどころか振り向いてさえくれないだろう。
足の痛みや全身に広がる疲労感よりも凛とした後ろ姿を見失うことの方が、アヴラルにとっては余程深刻な問題だった。
シャルが目につきやすい黒衣をまとっていてくれてよかったと思う。これがもし白衣などであった場合、白砂漠の砂と同化して、すぐに見失っていただろう。
ああそうか、とアヴラルは疲労で霞み始めた意識の中、ぼんやりと思う。
白砂漠にひるがえる黒衣は緊急事態時の目印となるのだ。万が一、砂漠の中で遭難した時、そこを横断する旅団などに救助してもらえるよう、目立つ色の衣を着て存在の在処を主張する。
はあ、とアヴラルは無意識に乾いた吐息を漏らした。ひどく喉が渇いていた。だが、喉の渇きはシャルだって同じはずなのだ。自分が泣き言を言える立場ではないことも、よく分かっている。
シャルは……ジグマに与えられた刻印さえなければ、アヴラルを何の感慨もなく始末していただろう。
自分は、シャルの胸に刻まれた魔の印により、生かされている。
シャルは憎んでいることだろう。
アヴラルのことも。
魔のことも。
重々理解しているはずなのに、考える度に悲しみが増して目元が熱くなる。
生まれ落ちた時、初めて名を呼んでくれたシャル。
けれども――あれから数ヶ月経過したというのに、シャルは二度と名を口にしてはくれなかった。
散々迷惑をかけたから――。
シャルは、半ば強制的な事情によりアヴラルと命を共有したため、自分の意思とは無関係に故郷を捨てねばならなくなった。余儀ない選択に、さぞ辛くやるせない思いを抱いていると思う。
おまけに自分は魔の血を受け継いでいるため、幼体時の特性として、ある程度動けるようになるまで何度も深い眠りを必要としたのだ。
魔と人間の成長の速度には大きな差異が見受けられる。魔は、人よりも早く、本当に早く成長する。
本来なら誕生より数ヶ月過ぎた今、アヴラルの身はとうに成熟の期を迎えているはずだった。だが、四六時中、人型を保っているために発育の枷となり、身体はまだ六歳程度にしか成長していない。
アヴラルは人の姿の他にもう一つ、魔の姿を隠し持っている。シャルには決して言えぬことだ。彼女は魔の存在に強い憎悪を抱いている。
ゆえに、たとえ成長の妨げになろうともシャルの憎悪が薄まるのであれば、全身全霊で人型を維持するべきだとアヴラルは強く思っている。
魔の姿に戻れば……このような疲労感や痛みはほんの一瞬で拭えるだろう。脆弱な人の姿をかたくなに保つ自分はあまりに無力で、命の危険も絶えずつきまとう。どうやら人間の身体でいる時は、魔としての能力が殆ど封じられるらしかった。
それでもシャルに嫌われるよりは、ずっといい。
アヴラルは軽く咳き込んだ。口元や髪をしっかりと覆っていても砂はいつの間にか布の隙間に侵入し、傷つきやすい皮膚をざらざらと擦る。呼吸の時でさえ注意しなければ、喉や鼻を潰されてしまうのだ。
砂漠を越えるために連れてきたシャルの従寄は、もういない。
それもまた、アヴラルが原因なのだった。
眠りを必要としたアヴラルのために度々宿を取らねばならなくなり、僅かな路銀はすぐに使い果たしてしまった。当初のシャルは旅の途中で魔物を狩り路銀を稼ぐつもりだったらしいが、必ずしも安全とはいえぬ宿に無防備な状態で眠りにつくアヴラルを一人置いて外出するわけにはいかないと、考えを改めたようだ。危険の程度は砂漠も町も同じ。自己防衛を怠れば狡賢い盗人などにつけこまれ、あっという間に身ぐるみを剥がされる。
シャルがアヴラルの身の安全を考慮するのは、ひとえに自分の命と直結しているためだと、痛いほど分かっている。ゆえにシャルは苦渋の選択の末、大切な従寄を売り払い旅費を工面したのだった。従寄は商人達の間で、高値取引の対象となる。それも、人によく慣れた従順な従寄は繰り返しの調教を必要とせぬ分、とくに重宝されるらしかった。可愛がっていた従寄を手放す際に、シャルが一瞬浮かべた切ない表情が、はっきりと目に焼き付いている。
魔の力を自在に行使できぬ今、自分はどうあっても厄介な足手まといでしかない。
理不尽な制約が一つ、また一つと積み重なると、シャルは次第に不機嫌な顔を隠そうとはしなくなった。最初の内は、容貌が幼くとも魔物の子には違いないとアヴラルを警戒していたようだが、すぐに恐れるに足りぬ小物と結論を出したらしく、舌打ちの回数も増えている。アヴラルとしては、シャルが警戒をしてもしなくても、彼女を襲う気など一切なかった。
全ての権限はシャルが握って当然なのだ。生死も、未来も、感情の行方も。
そうは思う反面、一度でいいから、名前を呼んで微笑んでほしいと切に望んでしまう。
……次の町に辿り着くまで、自分は無事に歩き通せるだろうか?
ただ足を動かして歩く、という簡単な動作さえ満足にできない自分がひどく無能に思えて、泣きたくなった。今ここで倒れてしまえば、益々シャルの苛立ちを募らせるに違いない。嫌われたくないとこれほど必死に思うのに、現実はいつも裏返しになる。
でも、……でも。
もう駄目だった。喉の奥から足の先まで、鈍重な痛みが間断なく走る。砂除けのため全身に被せている布が暑くてたまらなかった。砂漠の砂は遮るものなく降り注ぐ強烈な太陽の光をまともに反射して、実際の気温よりも更に大気の温度を上昇させている。水分を補給していないため、もう発汗さえすることがなく、それは余計にアヴラルの体力を奪った。汗で体温を下げることができない。
身体を包む布を全て脱ぎ捨ててしまえば、束の間だけは楽になるだろうが、そのあとは更なる苦痛に苛まれる。肌を直接焦がす激しい陽光に耐えられなくなるだろう。光は炎。実際に燃えて見えるわけではないが、確実に肌を焼き焦がす。
シャル。お願いです。
心の中で数えきれないくらい、彼女の名前を呼んでいる。
現実に口にするとシャルが厳しい目で睨むから、心の中でしかちゃんと呼んだことがない。名を声に出すのでさえ許されないことではないかという思いがあり、淡い罪悪感がつきまとう。
舞い上がる白い砂塵。熱風が砂丘の表面を叩き、天へと駆け抜ける。霞んでいく、白い砂の向こうに映る黒衣の人が。
一瞬でいいから、立ち止まって――。
そう祈った時、アヴラルの意識は闇に落ち、絶えた。
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ふと清涼な風を感じて、アヴラルはぼんやりと薄く目を開けた。
ゆらゆらと何かに優しく揺られているような、心地よい感覚だった。イスティーという名を持つ母の体内で眠っていた時と同じ、柔らかな静けさがあった。
霞むアヴラルの目に映ったのは、温度を感じさせない紫色の瞳だった。前を見据えたまま、時々ゆっくりと瞬く奇麗な瞳。美しい女性のことを、砂漠の花、と賛美するのだと宿で見かけた男達が口にしていた。風に儚く身を揺らす花にたとえられるほど、シャルはか弱く可憐な空気をまとっていない。硬質で冷ややかで、澄み切った宝石のよう。
そこでアヴラルは、自分がようやくシャルに抱きかかえられていることを悟り、仰天した。
身を包むようにして抱き上げられることは、ここしばらくなかったのだ。
どうして、どうしてと動揺する間に、そういえば自分は先程気絶したのだと思い出し、激しい自己嫌悪に苛まれた。またシャルの荷物になっている。
でも――シャルは、自分を見捨てなかった。
たとえ魔の刻印に縛られているだけだとしても。
予想外の現実に驚きながらも、そっと喜びを噛み締める。シャルにすればおよそ勘違いもこれ極まれりという思いであるのは、分かっている。それでも嬉しいものは仕方がない。
アヴラルは涙が出そうになって、困った。汗は出ないのに、なぜか涙だけはとめどなく流れる。
あまりに幸せだと、逆に悲しくなるのだろうか?
「――起きたのか?」
シャルがふと視線をアヴラルに向けて足を止めた。
思わず身をすくめて見上げた瞬間、堪えきれなかった涙が落ちて、アヴラルは狼狽した。
ああ、ほら。
シャルがうんざりした顔をする。
「ご、ごめんなさい」
「謝る前に、いちいち泣くな。倒れる前に、なぜ声をかけない」
「ごめんなさ……」
「疎ましい」
シャルは露骨に嫌そうな顔をして、視線を前方へ戻してしまう。白けたようなシャルの表情が、胸に痛い。
日はまだ中天にあり、白い砂漠を熱気で揺らめかせていた。そういった中、シャルは荷物とアヴラルを抱え、徒歩で移動しているのだ。
どうしようどうしよう。アヴラルは必死で嗚咽を堪えつつ、混乱した意識の中で考える。謝罪すればするほどシャルは苛立ちを滲ませるのだ。でも、他に言葉が見つからない。
ふっとシャルが溜息を落とす気配を感じて、アヴラルはぎゅっと目を瞑った。
きこえよがしなわざとらしい溜息ではなく、本当に面倒だと感じて自然に落とされた溜息だというのが分かり、たとえようもなく辛くなった。こんなに迷惑をかけている。申し訳なく思うのに、謝ればまたシャルを疲れさせてしまう。
「休憩を取る」
シャルは独白めいた口調で言い、ぽつりと立つ妙にくねった枯れ木の根元に腰を降ろした。アヴラルは慌ててシャルから離れようとしたが、それはなぜか、強引ではあるが決して乱暴ではない手でとめられた。
驚愕してちらりと恐る恐るシャルを窺うと、彼女は無表情のままアヴラルを膝に乗せ、身にまとっていた黒衣で深く包んだ。
「熱を冷ます」
慌てていたので気づかなかったが、そういえば、シャルに触れていると風が驚くほど清浄に感じられる。
ああそうだ、シャルは風を操るのだ。砂漠の熱気に負けて動けぬアヴラルのために、呪力で風を涼ませている。
余計な力を使わせていると知り、アヴラルはまた落ち込んだ。シャルの体力をいたずらに削ぐばかりで、自分は何の役にも立てていない。
砂漠の旅に慣れていようが、呪力をもって風を自在に操れようが、シャルはれっきとした女性なのだ。本来ならばシャルこそが庇われるべき身であるのに、逆の立場に回り全ての苦労を背負っている。
「ごめんなさい」
そう思うと居たたまれなくなり、無意識に謝罪の言葉が飛び出した。
シャルは何も答えず、疲労を微かに漂わせながら細い溜息を落とした。
涙で視界が曇った時、口元に冷たいものがあてがわれた。水だ。
ひからびるのではと危惧するほど乾いていたので、差し出されるまま水を飲んでしまった。それがシャルの分の水で、彼女自身はただ唇を湿らす程度で我慢していると気づいた時、再びアヴラルは泣いた。
「――苛つかせるな。泣くなら置いて行く」
「ごめんなさ……」
「黙れ」
うっとアヴラルは声を殺した。けれども嗚咽を漏らしそうになる度、身体が震えてしまう。
「魔物のくせに、同情を求めるな」
心を裂くような冷たい声。嫌われて当然なのだ。
憎悪の対象でしかない魔の子を、否応なく庇護下に置かねばならないシャル。どれほど嫌悪し、恨みに思っていることだろう。
しかしアヴラルは責任を取って死ぬこともできない。この命は、シャルと繋がっているのだ。
申し訳ないと思う気持ちの中には隠せない暗い喜びも確かにあり、そういう醜い感情を抱える卑怯な自分に嫌気がさした。
シャルは一度も微笑んでくれない。これほど奇麗な、奇麗な人なのに、アヴラルの存在が、笑顔を奪っている。
胸が痛くて痛くて、どうしようもない。