砂の蝶[2]
「――ここで大人しくしていなさい」
泣き疲れてうとうとしていた時、ふとシャルが囁いて脇に置いていた剣へ手を伸ばした。
「あの……?」
「静かに」
シャルは人差し指を口に当てて、戸惑うアヴラルから身を離した。遠くを見据えている彼女の瞳は、湖面のような静けさをたたえていた。
――あ。
魔の気配が。
「声を出すな。決して動くな。いいね?」
一度だけシャルは強い眼差しをアヴラルに向けた。緊張と高揚感、その両方に彩られたシャルの表情が美しい。
返事を忘れて見入っている間にシャルはさっと身を翻して、彼女の盟友たる風を呼んだ。片手で器用に剣を抜きつつ、もう一方の腕で暴れる風を支配下に置く。シャルが呼んだ風は、まるで透明な姿をした気性の荒い鷹のように鋭く唸っていた。
シャルは呼び覚ました風の鳥を、前方の大地に叩き付けた。竜巻のような勢いを持つ風に押されて、大地を覆っていた砂が飛散すると同時に、地中からこちらに忍び寄っていた灰褐色の魔が飛び出した。
これほど至近距離にまで、魔が接近していたなんて。
人の姿を保っているために魔力の殆どを発揮できないアヴラルは、危険な魔の気配を辛うじて感知するくらいが限度で、居場所までは正確に掴めない。
――シャルは一人で魔を狩るつもりだ。
アヴラルは青ざめた。普通、人間が魔を狩る時は助けとなる味方を揃えて挑むものだ。いくらシャルが稀な呪力を体内に秘めていても、単独での狩りは無謀すぎる。
砂の底から出現した魔は力量でいえば下位に相当するが、人が持つ僅かな能力とは桁が違い、同じ秤で比較できるものではない。
この灰褐色の胴体を持つ大蛇に酷似した魔を、タレスという。猛毒をその牙に持ち、長い尾は鞭のごとく鋭利にしなる。また肉食獣のように獰猛な手足が生えており、地中だけでなく大地の上も俊敏に疾駆することが可能だった。
弱点は、一つしかない目と固い鱗で覆われた心臓である。手足を切断してもまだタレスは激しく攻撃を仕掛けてくるだろう。ただ、動きは迅速であっても視野が狭いので、うまくかく乱すれば狩れぬことはない――シャルを援護してくれる者が側にいるならば、だ。
どうすればいいのか。シャルは、動くな、と言った。
彼女が不利な戦いを回避せず積極的に魔物を狩る姿勢を見せたのは、結局のところ自分に原因があるためではないだろうか、とアヴラルは苦悶した。
魔物の目は、宝石以上の価値をもたらすのだ。呪術師が魔の目を加工すれば己の呪力を高める貴重な道具となるし、薬師が扱えば万病の薬と変わる。また、石貴と呼ばれる細工職人ならば、魔の目を美しい宝飾品に作りかえることができるだろう。
旅を続けるならば、路銀は絶対に必要だ。ここで魔の目を奪えれば、一度は手放した従寄を買い戻せるし、当分路銀について頭を悩ませなくてすむ。
だから、シャルは。
アヴラルは息を呑み、たった一人で魔に挑もうとするシャルの背を凝視した。
タレスが振るった鋭利な長い尾を、シャルは身をよじって紙一重のところでかわし、振り向き様に剣で串刺しにした。剣先は尾の一部を大地に縫い付けていたが、砂の地面はまるで綿の上を歩いているのかと錯覚するほど柔らかいためタレスに対して効果的な攻撃とはならず、僅かな動作のみで容易く弾き飛ばされてしまう。結局は致命傷を与えられぬまま後退して体勢を整えるしかない。
次の手として、シャルは大きな風を呼んで障壁を作ったが、タレスに二度ほど体当たりされただけで呆気なく霧散してしまう。大気を唸らせる尾と頑丈な爪を持つ手足はシャルの素早さを凌ぎ、あっという間に回り込んで退路を塞いでしまった。
いけない!
振り上げられた爪を避けるために、シャルは地面へ仰向けに転がってしまった。覆い被さるようにしてタレスが一気に間合いをつめる。
駄目!!
シャルが負傷する場面など、絶対に見たくなかった。命が繋がっているとか、運命を共にしているとか、そういった雑念はこの時のアヴラルにはなかった。ただ、シャルが血を流して苦痛に喘ぐといった未来を、決して招いてはいけないと必死だったのだ。
アヴラルはシャルの言いつけを破った。
休憩場所にしていた枯れ木の根元から飛び出して、ほんの少しだけ――自分の中に眠る魔の気配を解き放つ。この程度しか、昼夜人型を維持するアヴラルは魔力を扱えない。
それでも邪悪なジグマの血を継承していることには変わりがないのだ。
醜悪な灰褐色の魔物はアヴラルが放った気配を察してシャルへとどめを刺す前に飛び退き、頭を深く垂らしながら周囲の様子を窺った。ジグマの魔力を感じ取ったタレスは明らかに警戒している。
同種族間でも個々に力量の差はあるが、ジグマは本来巨大な魔なのだ。タレスごときの魔物などに後れを取るはずがなかった。アヴラルが幼体ではなく、また人型をとっていなければの話だが。
新たな敵の気配に興奮するタレスと、老木からよろめき出たアヴラルの姿を見て、シャルは愕然としていた。その表情が一転して激しい苛立ちに染まる。
「馬鹿!」
失望を滲ませたシャルの罵り声に、アヴラルは視線を泳がせた。
気がついてしまった。
シャルは、意図的に地面へ転がっていたのだ。
アヴラルは自分が余計な真似をしてしまったと分かり、身を強張らせた。シャルは間違いなく、タレスを一撃で狩り取るつもりだったのだ。
覆い被さってきたタレスの胴を、下から呪力で生み出した風の刃で真っ二つに切り裂く計画を立てていたのだろう。危険な方法だが、心臓部分に狙いを定めてうまく切断すれば確実に仕留められる方法でもある。動作の機敏なタレスには有効な攻撃だったのだ。
しかし、もう遅い。アヴラルが放った力の片鱗を感知したタレスは、シャルから十分すぎるほどの距離を取ってしまった。
自分の失態を深く悟り、アヴラルは身動きできなくなった。
「何してる!」
シャルの厳しい呼びかけに、アヴラルは我に返った。気を緩めた瞬間、それを怯懦と受け止めた魔物が飛びかかってきたのだった。
アヴラルは瞠目したまま、自分に躍りかかる醜悪な魔を見ていた。悪夢のような現実だった。
焦点が合わなくなるほど魔物の牙が間近に迫った時――
「――えっ!?」
突然、アヴラルの身は聖なる風に吹き飛ばされた。
シャルの風だ。
瞬き一つ分、シャルの風が遅れていれば、アヴラルは魔物の牙に引き裂かれていただろう。
風を放つ間にシャルは一息に距離をつめて、空中でアヴラルを受け止めた。獲物を奪われたタレスが獰猛な唸り声を響かせて、こちらへ突っ込んでくる。
シャルは一瞬瞳を閉ざし、息を体内に溜めた。
「シャルっ」
シャルのまとう風が、一気に圧力を増した。刹那のあと、慌てるアヴラルを抱きかかえたままのシャルの身が、矢のような速さで宙に駆け上がる。
飛翔の術!
呪術を操る者の中でも、飛翔を可能とするだけの呪力を持つのはそういない。人は空を駆けるだけの力を本来は持ち合わせていないのだ。その理を覆す術――膨大な呪力を消費するはずだった。
おまけに、自分一人だけではなくアヴラルを抱えているのだ。
「シャル!」
「黙りなさい!」
発言を許さぬ厳しい叱咤に、アヴラルは身をすくませた。シャルの集中力を途切れさせてはいけない。
飛翔してからまだ幾らも経過していないのに、シャルの額には大粒の汗が浮かび始めた。もともと疲労していたところに魔との対決を余儀なくされ、挙げ句の果てには望まざる結果を迎えている。
残されていた呪力を限界まで絞り出すという行為は精神をどれほど酷使するのだろう、と思ってアヴラルは胸が苦しくなった。
タレスは、シャルが力尽きて落下するまで、気長に地面の上を這い回って待機する様子を見せた。
いけない。
このままではシャルの体力が無駄に消費されるだけだ。その後は、なす術もなく魔物に嬲り殺されるだけとなる。
虚空に留まるシャルの全身が汗ばんでいた。一秒ごとに削り取られる呪力が、あとどれほどもつのか。
自分のせいだ――!
目の前が暗くなった時、はっとシャルが目を凝らした。
遠くにぽつりと、黒い染みが見えたのだ。
――いや、染みではなく、あれは町を目指す旅団の影だろう。
タレスもこちらへ近づく新たな気配を察し、落ち着かない様子でぐるぐると大地の上を徘徊していた。
護衛を引き連れた旅団が魔の存在を目にとめたのだろう、一直線に従寄を駆り、こちらへ接近してくる。
――結局、魔物は旅団の護衛達に、狩られることとなった。
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アヴラル達は、魔物を狩った旅団の者達に頼み込み、町まで同行させてもらった。
呪力を大量に消費したシャルは、しばらく休養せねばならないほど疲れきっているはずだったが、興味深げに会話を求めてくる旅人達の相手を忍耐強くしていた。安全を確保するため同行を願い出た手前、非礼な態度は取れぬと無理を重ねているのだろう。
ここでもし彼等の機嫌を損ねて放り出されてしまったら、無事に町まで到着できるか分からない。
旅人の中にはシャルと同年齢の男性もいて、妙に親しげな様子で次々と他愛無い話を持ちかけてくる。シャルは微笑を浮かべて応対していたが、本当は静かに休みたいところだろう。
旅団の中に含まれている女性達のようなたおやかさには欠けているが、シャルには凛然とした独特の美しさが見られる。呪術師の特徴なのか、日差しの強烈な砂漠を旅していても全体の色素が薄く、不思議な透明感を醸し出しているのだ。若い男性の気をひきつけるだけの容貌ではある。
けれども、シャルは皆の視線が外れた時に、実に疎ましそうな重い溜息を落としていた。男性嫌いというわけではないだろうが、疲労困憊している時にまで異性に愛嬌を振りまけるほどシャルは博愛主義者ではなかったし、また自分の性別をそれほど意識していないように見えた。
シャルは自分からは会話を求めず、話しかけてくる者には不躾にならない程度の愛想を見せて、誰に対しても公平な態度を貫いた。男の中には積極的に誘いをかけてくる者がいて、あまり気安い態度を取ると、その気があると勘違いされてしまう。
――嫌、です。
自分のせいで、このような羽目になっている。
それでも、シャルが見知らぬ異性に触れられるのは、不快に感じる自分がいる。
アヴラルは思わず、ぎゅっとシャルの手を握りしめた。
別の状況下であればすぐさま邪険な態度で振り払われただろうが――シャルは何かを思いついたという顔で、アヴラルを抱き上げた。
なんとシャルはアヴラルのことを、実は自分の子だと皆に紹介したのだ。
その予想もしない一言で半分以上の男が落胆し、シャルを諦めたようだった。シャルは、よしよし、と隠しきれない企み顔を覗かせていた。
我が子と呼ばれて勿論嬉しく思う気持ちもあるのだが……なぜか言葉にはならぬ複雑な感情も芽生える。
皆の視線の手前、町に到着するまでシャルはそれこそ本物の我が子のごとくアヴラルを大事にしてくれた。
優しく微笑み、頭を撫で、柔らかな口調で体調を気遣ってくれる。
嬉しいのに、悲しい。
いつものシャルでいいのだ。偽りの優しさは辛い。
「疲れた?」
途中から徒歩では先に進めぬほど隆起した砂丘地帯に入ったため、借りた従寄にシャルと二人乗りすることになったが、騎乗後でもアヴラルが俯いたり落ち込んだりすると、すぐに声をかけてくれる。普段では見られない労りの表情を仰ぐ度、なぜかいつもよりも一層孤独を意識してしまう。
「眠いのかな」
確かに、先程から抗い難い眠気を感じていた。アヴラルの身はまだまだ幼く、魔の性として繰り返しの深い睡眠を必要としている。だが、何もしていないアヴラルと、体力、呪力を酷使し続けていたシャルでは、遥かに彼女の方が疲労の度合いが強いはずだった。自分だけが楽をしているという事実に、アヴラルは激しい自己嫌悪を感じていた。
「眠いのでしょう。休みなさい」
穏やかにぽんぽんと肩を叩いてくれる。
違う、シャルはがさつで時々乱暴だけれど――このように自分を偽ったりしないのに。
「それにしても、端正な子だな」
シャルにしきりと話題を持ちかけていた目つきの悪い男が、感心した様子でアヴラルを眺めた。褒めてくれているのだろうが、なぜかアヴラルは、物のように値踏みされている気がした。
この人、嫌だな……。
押し寄せる眠気と必死に戦いながら、アヴラルは僅かな嫌悪感を抱く。先入観で人を判断するのはいけないことだけれど、やっぱり好意を抱けそうにはない。
シャルに近づきすぎるから――。
女性の呪術師はとても珍しいと何度も繰り返しては、根掘り葉掘り質問してくるのだ。
「あんたの、実の子なんだろう?」
その質問も、もう四度目だった。
「そう、そうですよ。私の子です」
「ふうん。よく懐いているものなあ」
従寄から身を乗り出してわざわざアヴラルと視線を合わせ、歯を剥き出しにして笑う男。容姿も好きにはなれない。多少の罪悪感を抱きつつ、早く離れてくれないかな、とアヴラルは思った。無意識にシャルにしがみつくと、男に思い切り笑われてしまった。
「よっぽどあんたが好きなんだねえ」
その台詞は――アヴラルがシャルの実子だとは本心から信じていない証拠ではないだろうか。
「ええ、当然ですね」
シャルも気づいただろうが、滅多に見せない柔らかな笑みを浮かべて軽くかわしている。
何か、シャルの助けになるようなことを言わなくてはと思うのに、眠くて仕方がない。
「僕……」
ああ、思考がうまく働かないのだ。
「好きです……とても、たくさん、好き」
本音がぽろりと溢れる。ずり落ちそうな身体を支えてくれるシャルの腕が一瞬、ぴくりと動いたが、それだけだった。
「優しくて、好き、です……」
そう、どれほど酷い言葉を口にしても、シャルはこうして清涼な風を呼びアヴラルを包んでくれるのだから。
アヴラルは急速に眠りの中へ引きずり込まれた。