の蝶[9]

 蝶の群れが裁きの魔達を食い尽くすのに、それほど時間を必要としなかった。
 片手で容易く握り潰せそうな儚い蝶が、何十倍も巨大で凶悪な魔に打ち勝つ。信じられないと驚嘆するよりも、畏怖の念が先に立った。
 毒で皮膚を溶かされ、肉を啄まれ、臓腑を荒らされた魔は、長く尾を引く悲鳴を上げながら、やがて消滅した。魔の核である命石――人々の間では俗に魔石と呼ばれる三石の一つ――が、からりと音を立てて地面に転がった。魔石は貴婦人が好む宝石と同様に、不純物が混入しておらず、大粒で形が整っているものほど重宝される。裁きの魔が落とした魔石は純度も高く、木の実よりも大きい。一粒だけでもそれなりの価値があり、従寄もなんなく買い戻せるだろう。
 しかし、今はそういったことよりも。
「し、シャル」
 アヴラルは震えた。
 取り囲まれているのである。
 蝶の群れに。
「……風で吹き飛ばすか?」
 無理です。この数が相手では。
 アヴラルは心の中で返答しつつ、シャルの腰を掴む手に力を込めた。
 戦々恐々と地面や丈の長い野草、樹木の至る所に舞い降りる蝶達を眺め回す。一匹だけならば微笑ましく可憐だが、こうも数が多いと圧巻を通り越して不気味ですらあった。
 あれ? とアヴラルは、一つ疑念を抱いた。
 どの蝶も羽根が銀一色である。宿で目にした紫色の模様が、ない。
「あの蝶は……」
 シャルが一点を凝視しながら独白した。
 アヴラルはわたわたと、シャルの視線を追った。
「あっ」
 一匹だけ、他の蝶とは異なる艶麗な紫色の模様を羽根に持つ蝶。
 ――アヴラルの指を刺した、あの蝶だ。
 アヴラルはまじまじと紫色の模様を持つ蝶を見つめた。強い視線に気がついたのか、その蝶はふわふわと羽根をひらめかせて、硬直しているアヴラルに接近した。
「わ、わ、わ」
 アヴラルは混乱と恐怖に襲われ、助けを求めてシャルにぴたりとしがみついた。
「これは……もしかして」
 シャルの呟きをよそに、紫色の模様を持つ蝶はアヴラルの頭の上に、ほとり、と降り立ち、羽根を休めた。
 刺されます、どうしよう、シャル。
 また全身麻痺の状態に陥るのかと内心で怯え、シャルの身体に顔を埋めた。
「……懐かれている」
 と、シャルが虚脱感溢れるしみじみとした声音で言った。
「え? 懐かれ……」
 おどおどと上目遣いでシャルを窺う。蝶はまだアヴラルの頭に陣取っているのだろうか。
「そうか」
 シャルは一人で納得し、神妙な顔をした。
「お前を刺したこの蝶は、群れの『導き手』――まさしく、王、だ」
「お、王?」
 意味が分からなかった。砂漠の王と呼ばれる蝶達。その蝶達を率いる、王?
「成る程――血のせいか」
「シャル……?」
「お前、この蝶に血を吸われただろう?」
 アヴラルは小首を傾げてシャルの言葉を聞いていた。
「純粋な魔は自分よりも力量を上回る者を見定め、服従する。また、絶対的な戒めとして契約に縛られる。……つまりアヴラル、お前が血を与え、尚かつ力量を認められたことで……とても信じられないが、なし崩し的に、砂漠の王と契約が成立したと」
「……?」
「要するに、従属させた。お前を主と決めたらしいね」
「主……?」
 アヴラルは仰天した。そんな恐れ多い! というか、はっきり言って怖い。恐縮ではなく、萎縮してしまう。
「強運といっていいのか、不運と言っていいか……」
 シャルは呆れた顔をしていた。
「そ、そんな、とんでもありません」
「……お前は、本当に魔物の子か?」
 その謙虚さは誰の血だ? とシャルは脱力した様子で呟いた。
「う、うわ、あ、ああ」
 いつの間にか、アヴラルの頭に次々と蝶達が舞い降りてくる。更に、シャルの肩や髪にまで。
「……助かったんだからいいんだけれどね、別に……」
 シャルはどこか遠い目で言った。
 そうなのか。この蝶達はアヴラルの危機を察し、援軍として駆けつけてくれたらしい。
「まあ、とりあえずは当面の旅費もなんとかなりそうだし」
 シャルは物欲しそうな顔をして、地面に転がっている魔石を見つめていた。
「災い転じてなんとやら」
 よく分からないが、自分はシャルの役に立てたのだろうか?
 ……いや、役に立ったのは蝶達なのだが……。
「あ、ありがとうございます」
 アヴラルは一応、蝶達にお礼を言った。助けてくれたのは嬉しいが、何もお返しができないので心苦しい。
 更にシャルの虚脱感が深まっていたが、なぜだろう?
「あの、助かりました、ありがとう、です」
 アヴラルは怖々と蝶の大群を眺め回しつつ、丁寧に感謝を伝える。数が多すぎるので、一匹一匹にはお礼を言えない。しかし、この蝶達は身をもってアヴラル達を助けてくれたのだ。数で攻めるという作戦は功を奏したが、全く被害がなかったわけではない。何匹も犠牲を出しての痛ましい勝利なのである。果敢に戦い命を散らした蝶達に、とても申し訳なく思った。
 きっと蝶達も仲間が減ってしまってひどく悲しんでいることだろう、とアヴラルは胸を痛めた。
「わ」
 ふわっと蝶達が一斉に虚空へ舞い上がった。銀色の花々が、宙に咲き誇ったかのようだった。
「あ……」
 蝶達は夜の大気の中をひらひら舞ったあと、四方八方に散っていった。帰ってしまうのだろうか。
「お礼をしてな……」
「アヴラル、それはいいから」
 シャルに小声で突っ込まれた。お礼をしなくてもいいらしい。
「呼べばいつでも来るだろう」
「でも、お名前を、知らなくて……」
「つければいいじゃない」
 ふと、アヴラルは瞬いた。虚空から紫色の模様を持つ美麗な蝶が、アヴラルを見下ろしていた。
「ええ、と、ええと」
「……そこまで悩むか」
「イース。……イースさん、でいいでしょうか」
「……いいんじゃないかな」
 母親であるイスティーの名前から取ったのだが、構わないだろうか。
 アヴラルが困惑しながら見上げると、紫色の蝶は一度羽根をゆっくり動かしたあと、ぱっと飛んでいってしまった。鱗粉がきらきらと星屑のように散って、すぐに消えた。
 アヴラルとシャルはしばらくの間、イースが飛び去った虚空を見つめた。
 
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 さて、これでようやく宿に戻り、ゆっくり休めるはずだったのだが……。
 なぜか、アヴラル達は荷物をまとめて、街を出ねばならない切羽詰まった状況に追い込まれていた。
「アヴラル?」
 にこやかな顔でシャルが呼ぶ。一見聖母的な笑みだが、アヴラルはびくっと怯えた。笑顔と心情に激しい落差がある予感がしたのだ。
「お前ね、宿の親父達に何を言ったのかな?」
 シャルの笑みはよく見れば引きつっていた。しかも目が据わっていた。
「ええと……」
 怒っている。シャルは疑いようがないほど怒り心頭の様子である。
 アヴラルは必死に頭を働かせ、記憶を辿った。何だろう? 宿の主人や泊まり客と確かに会話をしたが、皆、いい人達だったと思う。
 ちなみに現在、アヴラルはシャルに抱えられて移動している。荷物を担ぐようにだが……。
 従寄を購う時間がなかった、というか、夜更けに商人の家を訪れるわけにはいかない。
 そのため、シャルは疲労をおして、徒歩で街からの脱走を図っていた。
「……アヴラル」
「は、はい」
「何で、あんなに馬鹿男達が、私の部屋に訪れたのかな」
 なぜだろうとアヴラルも悩んだ。
 どうしてか、泊まり客が次々とシャルの部屋に押し入ろうとしたのだ。ゆえにこうして、宿を出る羽目になったのだが。
「お前っ! 意味も分からずに、野郎共をその気にさせるようなことを言うんじゃない! お陰で、私まで娼婦扱いを……っ!!」
 シャルの絶叫が、夜のしじまに響いた。
 もの凄い呪詛をまき散らすシャルと、訳が分からないまま涙を浮かべて謝罪するアヴラルを、こっそり追う美麗な羽根の蝶の王。
 
 
 こんな二人と、一匹(が従える大群)に、果たして安住の地は見つかるのか、それはまだ謎のまま。

●第二章・砂の蝶END●

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