砂の蝶[8]
何ともシャルらしい、というか無鉄砲極まりない先制攻撃だった。
大量の火薬を爆発させるのと同じ要領で、シャルは破壊力のある風の塊を裁きの魔達に衝突させたのだった。嵐よりも凶暴な風の攻撃である。
強靭な身体を持つ魔達でもさすがにこれは効いたのか、後方へとよろめいている。体勢を崩す魔の群れの中に、シャルは迷わず飛び込んで、鞭を鮮やかに振るった。夜空を駆ける流星が光の軌跡を残すように、シャルの鞭は弧を描いて魔の巨大な羽根や手足を切り裂いた。
恐らくシャルは呪術師としてだけではなく、戦士としても優秀な能力を持っているだろう。力では男性にかなわなくとも俊敏な動作で腕力のなさを補い、勝負を互角に持ち込むに違いない。
敵が人間であったなら――救われたのに。
魔というのは、強い人間を狩る愉悦に浸るものなのだ。
強い魂に惹かれるのは魔の本能。弱き者をいたぶるよりも、精神力の強靭な人間を堕落させる方が悦びも長引く。涙をすすり、肉を食むのが魔の望み。シャルは美しく、強く、そして柔らかい肉体を持つ女性だった。魔の興をひく要素を持ちすぎている。
小山のような巨躯を誇る魔に囲まれたシャルの背が、切ないほど華奢に見えた。成功したのは意表をついた最初の攻撃だけで、それ以降は防戦すらかなわぬ苦しい状況に追いつめられている。
ああ、とアヴラルはようやく気づいた。
シャルは愚かではない。何度も魔を狩った経験のある彼女が、戦いの場で敵を軽視し自分の力を過信するはずがない。
初めから、裁きの魔を始末できるなどとは考えていなかったのだ。
アヴラルを逃がすために、あえて囮の役を。
どちらにせよ、魔の手から逃れる術はない。ただでさえ圧倒的に不利な状況だというのに、戦力とはならぬアヴラルを庇いつつ魔と対戦するのは、命を無駄に投げ捨てることと殆ど変わりはない。せめてアヴラルを安全な場所へ逃がし、背後を気にすることなく戦うといった手段しか残されていなかったのだ。
どうしよう――。
アヴラルは目の前が真っ暗になった。
守りたい人を、守るにはどうすればよいのだろうか。
……自分が魔の姿に戻って、逆にシャルを逃がしてやればいいのか。
「シャル」
アヴラルは小さく名を呼んだ。
裁きの魔が爪の先でシャルの背を軽く裂いた。最早シャルは鞭を投げ捨てて呪力のみを頼りとし、防戦一方に回ることしかできずにいる。身を守るはずの風の盾は、魔の攻撃を受けて火花のように散りながら次々と呆気なく破壊されていく。嬲り殺されるのは時間の問題だった。奇麗な髪も、目も、一瞬後に、真っ赤な血で覆われてしまうだろう――
「シャル!」
魔の力を受け入れるしかないと、アヴラルがようやく覚悟を決めた時だった。
一体の魔がシャルの足首を掴み、無造作に高く持ち上げたのだ。
逆さに持ち上げられたシャルは呻き声を漏らしつつ、激しく暴れていた。腐敗した色の長い舌を伸ばした魔はシャルの首から顎を舐め、汗の味を堪能しているらしかった。粘り気のある不透明な唾液がシャルの首を穢している。
その不埒な光景を目にした瞬間、アヴラルは咄嗟に駆け出していた。許せないと憤る前に、もがきたくなるほど嫌だと強い嫌悪を感じた。そんなふうに、シャルに触れてほしくない!
「嫌ですっ!!」
アヴラルの身体の小ささが、この時は幸いしたのか……するっと魔達の合間を駆け抜けて、逆さまに持ち上げられているシャルの元へ近づくことができた。限界まで腕を伸ばしてシャルに触れようとしたが、届かない。
「馬鹿!!」
シャルは苦痛と恥辱に歪ませていた顔を、一瞬ぽかんとさせたあと、きりっと眦をつり上げて怒鳴った。
「ご、ごめんなさ……!」
条件反射でアヴラルもびくっと身を縮め、謝罪してしまう。
「何で、来るんだ!!」
もっともな怒りを受けて、アヴラルは息をつめた。
魔が、小さな侵入者に興味を示し、輪を作るようにして取り囲む。今のアヴラルは力の気配を放つことすらすっかり忘れていたため、魔達は先程までとの差異を奇妙に感じているようだった。
「だって……!」
ぐるぐると複雑な感情がアヴラルの中で入り乱れて、何を言うべきなのか分からなくなった。
「嫌です、嫌ですっ、お願いですから――」
アヴラルは混乱の極地にいた。何を口走っているのかも、分からなくなりつつあった。こちらへ太い腕を伸ばしてくる魔。アヴラルは、ぱしぱしっとその腕を叩いた。
「お願い、シャルに――触らないで!!」
涙ながらに本気で訴えた。
一瞬の間のあと、馬鹿ー!! と叩き付けるようなシャルの絶叫が響いた。
僕は本当に馬鹿だ。
ひょいっとアヴラルの身体が宙に浮く。
魔が鋭利な爪をアヴラルの襟に引っ掛けて、持ち上げたのだ。
泣き喚きながら、アヴラルは胸が壊れるほど願った。
力が欲しい。
シャルを助けるためというよりも、守る力が。
彼女を傷つけないように。
「触らないで!」
祈りを込めて叫んだ時、不意に、星の欠片が降ってきた。
この輝きは――。
光の粉。
銀の粉。
アヴラルも、シャルも、目を見張った。
いつの間にか、アヴラル達の周囲に――。
砂漠の王が。
「……あ」
蝶の群れ!
凄まじい数の、銀色の羽根を持つ蝶が周囲に溢れていた。まるで地上に星が満ちたよう。
砂漠の王と称される、美しい蝶達。
アヴラルは驚愕した。
闇を蹴散らすほどのきらめきを放って、蝶の群れが一斉に裁きの魔を襲撃したのだ。
小さな蝶は蹴散らされても焼き焦がされても次から次へと出現し、裁きの魔に食らいついて毒を注いでいた。
大群で攻める蝶達を全て滅ぼすことなどできない。裁きの魔の巨大な体躯は、すぐさま銀色の輝きで覆われた。
壮絶な苦悶の悲鳴を迸らせながら、裁きの魔が食われていく。無数に湧いて出現する砂漠の王に。
自分の身体も食い尽くされるに違いないとアヴラルは慄然としていたが、なぜか砂漠の王たる蝶はこちらへ近寄ってこなかった。小さな覇者が貪欲に食いつくのは、裁きの魔達に限っていた。
シャルを掴んでいた魔は身体にたかる襲撃者にたまらなくなったのか、足首から手を離してもがき始めた。
地面に放り出されたシャルに、これまた同じく自由の身となったアヴラルは慌てて駆け寄った。
「シャルっ!」
正直言って、恐ろしかった。小さな美しい砂漠の王が。
シャルは辛そうに腰をさすっていたが、転がるようにして駆け寄るアヴラルに気づくと、素早く腕を伸ばして抱きとってくれた。シャルの鼓動を感じ、僅かな安堵感に包まれる。
「……お前が呼んだのか?」
シャルの少し放心したような声に、ほうっと脱力しかけていたアヴラルは勢い良く首を振って否定した。蝶を招いた覚えは全くなかった。アヴラルにも何が何だかさっぱり分からない。
蝶達は数にものを言わせて、裁きの魔達を食い荒らした。おぞましいというより、寒々しいほど凄絶な光景だった。
「どうするんだ、この群れ……」
シャルが絶望的な表情で独白した。アヴラルも全く同感だった。
ある意味、裁きの魔より、たちが悪かった。