の町[1]

 紆余曲折の末、シャルとアヴラルがモルハイに到着したのは、生まれ育った町を離れてからおよそ半年が過ぎた頃だった。
 
 
 モルハイは、交易都市として機能している。
 波のようにうねりどこまでも続く広大な砂漠世界で生きる商人等が、数々の脅威をもたらす砂の航海から身を守るため、また命の糧である荷を無事運搬するために部隊を雇って交易路を行き来する姿は、今も昔も変わらず頻繁に見られる。だが、多くの商人達は航路縦断の際に伴う危険や雇った部隊の裏切り――護衛団が旅の途中で盗賊へと変貌し荷を強奪するという物騒な事件が多発していたのだ――などに絶えず悩まされていた。特に白苑が最も経済的に行き詰まり荒廃していた負の時代、凶賊による略奪行為が頻発したことで商隊の被る損害も増加したため、災いを恐れて貿易商から足を洗う者が続出し、国力の更なる衰微を招く結果となった。
 貿易界を脅かすそれらの深刻な問題を僅かなりとも回避するため、税所の役割をも兼ねている易商財政貴庁を援助していた当時の裕福層の商人達が結託して交易路の要所に砦や強固な壁門を築き、長い月日を費やして、現在の活気溢れる都市にまで発展させたのである。
 ゆえにモルハイは交易の本拠地の一つとして遠方の町々にまで広く知られている。茫洋とした果てなき砂漠の海にて、木の枝のごとく複雑に張り巡らされた交易路の中心部に位置するモルハイは、独自の路を持たぬ隊商、あるいは単独で旅を続ける者達にとって重要な中継点であり、利益をもたらす最大の取引の場でもあった。この物資豊かな町では商人達が別地より命懸けで仕入れた様々な宝や珍品が飛び交い、また多数の人種が集まることから代価を払えば外界の貴重な情報も入手可能だった。
 利得を求めるという点では最適の場である活発な都市だが、華やかである分濃い影も落とされる。モルハイはめずらかな物品を取り扱う一方で、未許可の不当な奴隷売買もまた盛んなのだ。
 売買される商品が玉石混淆であるように――町の発展には不正がつきもの、とはある意味において自明の理である。
 
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 シャルは従寄の手綱を取りつつ、自分の前に座るアヴラルを見下ろした。
 随分成長したなと、ふと感慨を抱く。
 誕生からおよそ半年で、アヴラルの容姿は人間でいう十歳程度の子供と殆ど変わりないくらいに成長していた。見た目こそ人間と全く同じであったが、異常な成長の速度はやはり魔たる証なのだと強く認識させられる。
 ただ、相変わらずアヴラルの気性は、本来魔が備える残忍な性質とは見事に対極であると断言したくなるほど穏和だったが。
 人の形をかたどりながらも、道端で遊び回る子供達とは比較にならぬほど、飛び抜けて美しい顔貌をしている。肉体的にはまだまだ未成熟でありながら、これほど明瞭に現れる美は珍しい。ほんの二ヶ月程前までは、アヴラルの実母であるイスティーの面差しをどこかに残していたはずが、今は殻を一枚剥ぎ取ったかのように透き通った美貌を覗かせている。魔の醜悪さ、歪みなどが人の血と交わったことにより逆の作用を及ぼし、良い方へ向かったのではないかと密かにシャルは考えていた。成人した時、一体どれほど凄艶な顔立ちとなるのか、想像するだけで空恐ろしくなる。
 シャルは微かに顔をしかめた。
 世の理と平穏を乱す強大な魔の子であるくせに、女の自分よりも慎ましくしとやかで素直な上、容姿も優れているというのはどういうことかと、いささか八つ当たりしたくなる。
 シャルが漂わせる剣呑な気配を察知したのか、アヴラルがふと振り向き、少し怯えた眼差しを寄越した。シャルは無言でアヴラルの頭をつついたあと、頭を覆う布のずれを直してやった。
 アヴラルが持つ美妙な緑色の髪は珍しいために、無防備にさらしているとひどく目立つ。くわえて外貌が異様に端正なため、布で隠さぬと好奇心を露にした衆人にいちいち顔を覗き込まれて煩わしいのだ。あまり人目につきたくないシャルとしては、不本意な状況を招くのはご免だったので、アヴラルに布で顔と髪を隠すよう命じたのだった。
 アヴラルは逆らうことなく従順に受け入れた。シャルの言葉なら、たとえ理不尽な命令であっても大人しく受諾するのだ。無遠慮な視線を投げ掛けてくる通行人達を一睨みで撃退できるほどアヴラルが剛胆であれば、シャルもこれほど口煩く世話を焼いたりなどしないのだが……どうにも頼りなく無垢なのである、魔の子は。
 おまけに流血沙汰や喧嘩が大の苦手で、ほわんと日光浴しつつ小鳥や花を眺める方が余程素敵、という幸せな考えを持っている。更にあげつらえば運動神経も皆無だ。危険に対する警戒心も乏しく、勿論、闘争心、競争心などにも無縁である。他人を疑うことすらせぬ。尋常じゃない、とシャルは遠い目をしてたそがれたくなる。
 外貌だけが秀でた平和の産物的な子供を野放しにしておくなど、いくらシャルが冷淡な人間であってもできようはずがなかった。
 微妙に皮肉屋である自分と行動を共にしているというのに、一体何をどうすればこのように純真、純朴な子が育つのか、心底不思議に思う。これぞ神秘の結晶というべきか。
「シャル……?」
 子供特有の舌ったらずな柔らかい声音で、アヴラルがそっと名を呼んできた。
「うるさい。考え事の最中なの」
 冷ややかに一蹴すると、しゅんとアヴラルが落ち込んだ。普通の子供ならば、不貞腐れたり泣き喚いたりと手間がかかるものだが、一切反抗的な態度は見せない。見せられても困るが。
 あぁ流されているなあ私は、とシャルは嘆息しながらも、アヴラルの頭を布越しに軽く撫でた。こうしないといつまでもいつまでも落胆し続け、しまいには突拍子もない方向へ自分を責めてほろほろと一人静かに落涙するのだ。別の意味で厄介な子供である。
 そういうつもりはないが傍から見れば甘やかしているようにしか思えないだろう、とシャルは乾いた笑いを漏らした。
 アヴラルは頭を撫でられて嬉しかったらしく、手綱を握るシャルの手を恐る恐るきゅうっと掴んだ。
 何だかな……、とシャルは内心で独白した。なぜ掛け値なしに懐かれてしまったのか、全くもって謎だった。
 シャルは従寄を促して、奇壁を利用したモルハイの壁門へと急いだ。堅固な壁に囲まれたモルハイの内部へ潜り込むには、複数の見張り番が立つ通行所で許可を得ねばならない。通行所は入り口と出口の二カ所しか設置されていないため、いつも混雑していて順番を待つ人々が長蛇の列を作っている。ただ町へ入るだけであったが、各地から様々な事情を抱えた人種が寄り集まるために随分物々しい検査を必要とするのだった。
「アヴラル、お前は喋らなくていいからね」
 長い列の最後尾に従寄を寄せたあと、念のためにそう忠告すると、アヴラルは少し振り向いて真剣な表情を浮かべ、こくんと頷いた。
「順番が来たら、私に寄りかかって眠った振りをしなさい」
 その方法が一番良い。子供連れの女、というのは最も警戒されぬ安全な存在である。まあ、逆に非力な女子供だけで旅をしているのかと疑われる場合もあるにはあるが。
 アヴラルを従寄に同乗させて正解だったようだ。本当は、別の従寄をアヴラルにもあてがう算段だったのだが、何しろこの子供は動作が極端に鈍く、とても一人では危うすぎて騎乗させられなかったのだ。気性の穏やかな従寄にさえ侮られ、遊ばれているのだから、もう言葉が出ないというものだった。
 順番が近づいてきた頃合いを見計らって、アヴラルの頭を自分の方へと引き寄せた。アヴラルが微かに緊張した顔をしつつもどこか幸福そうな様子で素直にシャルへもたれかかった。
 これが普通の人間の子ならば偏見も何もなく可愛がれるのに、とシャルは少しだけ失望する。
 実際、ここまで大人しく従順な子供は珍しい。運動能力と性格に問題はあるが基本的には聡明な子だ。恐らく。
 シャルは外套代わりの長衣を広げ、遠慮がちに寄りかかっているアヴラルの身を懐に包む。アヴラルはぎゅっと目を瞑っていたが、薄く頬の辺りが上気していた。実に分かりやすい反応だ、とシャルは苦笑する。
 どうにもいけない。最近、アヴラルは華やかな外貌に反して純朴さ、素直さを益々発揮している。魔物に反抗期というものは存在しないのだろうか。子供だとはいえ自分の美貌くらいは理解するだろう。己の美を鼻にかけて驕慢な態度を見せても何ら不自然なことではないのに、神殿の奥でひっそりと祈りを捧げる老いた巫女と匹敵するほど実に思いやりに溢れ、慎ましい。むしろ驚異だ、非現実的だ、とシャルは胸中でくだらないことを考えた。
 お陰で感情のままに嫌悪できない。ともすれば、切ない感情が湧き上がる。魔と人は相容れぬという自戒の念を、時々腹立たしくさえ思う時が、ある。
 なぜ自分がこれほど意固地にアヴラルを拒絶しようとするのか、シャルは悩む。家族を食い散らかして無惨に殺害したのは魔であるが、アヴラル本人ではない。だが、魔を憎むということは、アヴラルの存在を否定することへと繋がる。その葛藤がシャルの負担となっているようだ。
 シャルは溜息を押し殺し、こちらにもたれるアヴラルを見下ろした。安心しきった無邪気な表情で目を瞑っている。
 温かい体温。参ったなあ、とシャルはやはり苦悩する。
 この子は絶対の信頼を私に寄せているんだよなあ、いや、育て親だと思っているのだろうな。
 非力なくせに、シャルの身に危険が迫った時、我が身を顧みず駆け寄ってくるのだ。よろけつつだが。
 ――だが、いつか裏切るのだろうか。
 魔の本性が覚醒した時。人間の皮を捨て、無情の存在としてシャルの前に傲然と君臨するのだろうか。
 その瞬間が到来した時――シャルは、当然のこと、と冷静に受け止められるか否か。
 馬鹿だな、と思う。
 裏切られると感じるのは、多少であっても心を許した証拠なのだ。
 流されたくないと、シャルは内心で舌打ちした。
 魔を憎む自分が、心を奪われてどうするのだ。
 
 
「――あんた、聞いているか?」
 シャルは、はっと我に返り、顔を上げた。
 考え込む内に騎乗したまま微睡んでいたらしく、いつの間にか最前列にまで来ていたのだ。
「その子供は、あんたの弟か?」
 通行所を管理する兵士が少し訝しげな表情を浮かべながら、アヴラルの顔を覗き込んだ。町へ入るには門番に顔を見せる必要があるため、アヴラルの頭部を覆っていた布を一度外した。
「随分、奇麗な子だ」
 五十がらみの隆々とした体躯の兵士は、一瞬卑俗な色を瞳に浮かべ、感嘆した。狡猾さが見え隠れする兵士の濁った視線が鬱陶しくなったシャルは微笑を消してアヴラルの頭に手をやった。撫でる振りをして、門番の不粋な視線からアヴラルを庇ったのだ。
 たかが兵士、とは侮れない。逞しい商魂を発揮する交易都市に住み着く者は大抵悪擦れしていて奸才に長けている。
 商人都市に赴くならば、出会う者全て狡獪な業師と思え、と囁かれるのは決して単なる皮肉などではないのだ。
 町全体が謀計を巡らせて、間抜けな旅人の身包みを剥ごうとしているといっても過言ではない。
 商人の奸計を見破れずまんまと騙される方が、暗愚なだけである。身の安全は、自分の知略と勘でもって守る以外に方法はない。
「ええ、私の弟です」
 十歳程度にまでアヴラルが成長した今となっては、さすがに我が子というのは外見年齢的に無理があるので、弟と主張するより他にない。
 兵士は手元の台帳と、シャル達の顔を不自然なほど時間をかけて交互に見つめた。兵士が手にしている薄汚れた台帳には、国の都城より手配された犯罪人の似顔絵が描かれている。旅人の顔と逃亡中の犯罪人が一致しないか確認しているのだ。
 シャルは勿論、犯罪人などではないし、アヴラルの正体も誰にも知られていない。
 兵士だとてシャル達が罪人ではないと分かりきっているだろうに、随分長々と凝視していた。全く煩わしいことだ。
「行っていいのですか」
 業を煮やしたシャルは、ややきつい口調で訊ねた。
 背後から順番を待つ者達の苛々とした催促の声が聞こえる。
 兵士は粘つくような視線でシャルと狸寝入りするアヴラルを丹念に眺めたあと、ようやく通行許可を出した。
 やれやれ、とシャルは吐息を落としたあと、従寄を促した。
 ――目をつけられたかな。
 賑わう町の様子を眺めるシャルの心に暗雲が立ちこめた。



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