の町[2]

 季節は、実りの秋。
 魔物が多く出没する災厄の時期でもある。
 
 
 比較的安全と思われる宿で部屋を押さえたあと、シャルはアヴラルを伴って、モルハイ内をうろつくことにした。
 従寄は宿の厩に繋ぎ、徒歩での散策である。本当はアヴラルも宿に置いていきたかったのだが、それはそれで大いに不安というか精神衛生上よろしくない問題が起きそうだった。揉め事を厭うているのにいつの間にか災難の渦中にいる子なのだ。
 更に、アヴラルは「置いていくの?」と言いたげな、不安と寂しさと悲しみが明らかに浮かんでいる目でじいっと見上げ涙を滲ませる。勿論、駄々をこねて煩わせるような素振りは見せない。が、目は言葉よりも雄弁、というやつだ。
 色々な意味で屈服したシャルは、仕方なくアヴラルを同行させ町へと繰り出したのだった。恐らく自分のことを情の薄い冷酷な人間だと思っているだろうが……いや、無条件でこれだけ慕ってくるところを見ると、まさかと思いたいが、慈愛溢れる人間だと誤解されている可能性がありそうだ。
 どう思われていたとしても、アヴラルの透明な瞳はなかなか切なく迫るものがあり、自分が吐き出す冷めた言葉ほど無下にはできていないというのが、実状なのだ。この子は分かっているのだろうか。
 今もこうして小さな細い手をシャルの指に絡め、幸せそうな顔を見せる。憎むべき魔の子であるのに、なぜかその手をシャルは振りほどけずにいる。
 本当に、どうして普通の人間ではないのだろう。
 シャルは内心で溜息を零した。シャルの様子を絶えず窺うところがあるアヴラルが、機敏に何かを察して怖々と見上げてくる。
 正直、この潤んだ優しげな瞳に弱い。
 今は亡き弟と、同じ緑色の清らかな目。
 シャルは胸に迫る曖昧な感情を封じるため、視線を周囲の景色へと移した。
 宿屋が並ぶ通りを抜けると、突然目の前で幕が上がったかのように喧噪が押し寄せ、活気に満ちた市の景色が広がった。雑然とした、それでいて鮮やかな市の様子を前にしたアヴラルの目が、驚きで見開かれていた。人の多さに怯えつつも、隠しきれない好奇心を覗かせて熱心に周囲を見回している。
 きょろきょろと忙しなく辺りを眺めては遅れがちになるアヴラルがはぐれぬよう、シャルはなるべく歩く速度を遅くして、繋いだ指先に軽く力をこめた。手を離せば一瞬で迷子になるだろう。
 初めてモルハイの市を目にした者は皆、大抵今のアヴラルと似たような反応を示すのだ。
 祭りの時期でもないというのに、モルハイの市は熱気が満ちるほど混雑している。広い道には砂を覆うようにして煤けた赤銅色の石板が敷きつめられており、大変歩きやすい。大量の荷を運搬する時、従寄が柔らかな粒子の砂に足を取られぬようにという配慮から、石板が市通りに敷かれているのである。こういった細かなところにまで気が配られているということは、それだけモルハイが豊かであり、余裕がある証拠だった。
 道の両側には露店が隙間なく並んでおり、高さも大きさもそれぞれ異なる様式を見せている。鮮やかな天幕を広げて、柱にきらびやかな布を幾重にも垂らす織物の店。その隣には籠に山ほど珍味を乗せた乾物の店がある。また靴を売る露店、酒や水を売る露店、石細工の髪飾りを展示している路上売り、串焼きの店、薬草を取り扱う店、金物を陳列している露店など、途切れることなくどこまでもずらりと多様な市が開かれ、行き交う人々が思い思いに足を止めては店主の説明に耳を傾け、品定めを繰り返していた。
 怒声や歓声、歌声、威勢よく客引きをする商人のかけ声が、まるで一つの奇想曲めいて聞こえる。忙しない空気、ざわめき、舞い上がる砂埃までもが渾然と融和して不思議なうねりを見せ、独特の調和をもたらしていた。
 様々な人種が入り乱れる町。軽装の者、鎧をまとっている者、娼婦、商人、兵士、旅人、子供、豪族らしき身なりの派手な者。髪の色も目の色も、千差万別だ。金色、銀色、赤、茶、黒、白。
 アヴラルが持つ髪の色は、全く見かけない。瞳の色を澄んだ水で薄めたかのような髪は、魔物の力を反映しているのかもしれない。
 普段は全力でシャルの言動を気にするアヴラルもさすがに市の盛況と騒々しさに心を奪われ、ぽかんと口を開いている。すっかり辺りの賑わいに気を取られて、放心状態だ。
 やれやれ、とシャルは思う。
 雑多な市を冷やかすのはシャルだとて嫌いではない。ゆっくりと珍しい品々を見て回るのもいいが、一応は目的があって町の様子を探りにきたのである。まずは用事を先に足さねばならない。
 シャルが目指しているのは市を抜けた裏通りにある孔衛団の館なのだ。
 モルハイは、町の中心部に裕福な商人達の館や各主要施設などがあり、そこを取り巻くようにして中層階級の人々が住み着いている。更にその外側には旅人達が宿泊する宿屋や娼館などの娯楽施設がひしめき、人の流れに沿う形で市が開かれている。
 孔衛団とは何の事はない、町で雇われた兵士達で結成された独自の私軍に他ならない。彼らの住居は、警備を兼ねているため市を囲むようにしてある――つまり、中心部から最も遠く、通行所から最も近い。
 なぜシャルが兵士達の館を訪問するのかといえば、理由は明白だ。
 収穫の時期を迎えたこの季節は、魔物が至る所で出没するため、護衛の手がいくらあっても多すぎるということはない。ゆえに臨時で腕の良い流れ者の傭兵を雇うことがあるのだ。
 少数ではあるが、女性の雇用がないわけではない。それにシャルは呪術を操る。
 うまく孔衛団に取り入って奇獣狩りに参戦し、旅に必要な路銀を稼ごうという魂胆である。
 以前、裁きの魔を駆逐した(いや、始末したのはアヴラルを主と定めた砂漠の王たる蝶達なのだが)時に入手した路銀は、従寄やその他の必要な物などを購ったために、少し心もとなくなってきていたのだ。稼げる内に稼いでおきたいのである。
 こういった事情により、アヴラルを宿に置いていきたかったのだが。
 シャルが危険の中に赴くと知れば、この世の終わりのごとき悲愴感漂う反応を示されそうで恐ろしい。
 ――と詮無い思考に苦笑いが漏れた時、アヴラルに軽く引き止められた。
 いや、アヴラルが通行人にぶつかり、足を止めたので、腕を引っ張られたのだ。
「わ、あ、うあ、ごめんなさ……」
 アヴラルは意味不明に弱々しく吃りつつ、ぶつかった相手にぺこりと頭を下げていた。
 どう見てもぶつかってきたのは向こうで、その上吹っ飛ばされそうになったのはお前だぞ、とシャルは内心で呆れた。
 何でこう次々と問題を起こすかな。
 シャルは舌打ちしたいのを堪えて、狼狽えるアヴラルを自分の方へ引き寄せたあと、ぶつかった相手を密かに見定めた。
 相手は傭兵稼業で生計を立てていそうな、屈強な体つきの男だった。
 ああ馬鹿一直線という感じの厄介な相手だ、とシャルは内心で暴言を吐きつつ、男の厳めしく四角い顔を凝視した。こう言っては失礼だが、石版を連想させる角ばった顔つきだ。おまけに針山のようなつんつんと尖った短い髪をしている。
 理屈が通用しなさそうな相手に、こちらに非はないと主張するのも馬鹿らしいので、シャルは軽く頭を下げ、脇を通り抜けようとした。これだけ通りが混雑しているのだ。ぶつかる度に謝罪していてはたまらない。
 が、シャルの行く手が、別の男によって阻まれた。
 何だ?
 シャルは嫌な予感がして、眉を軽くひそめた。
「待てよ」
 目前に立ちはだかった男を見上げながら、シャルはさりげなくアヴラルを己の長衣に包んだ。
 これはどうも、暇潰しなどといったくだらぬ理由で因縁をつけられたのではないようだった。熱気で大気が陽炎のごとく揺らめくほど人が溢れているというのに、その中からシャル達が標的として選ばれたのは偶然ではありえない。シャルもアヴラルも、髪と顔半分をしっかりと布で隠しているし、売り飛ばせば大金に化ける高価な荷を抱えているわけでもない。一見したところでは貧しい旅人にしか思えぬはずなのだ。外貌からでは襲われる理由など見出せない。行き交う者の中には、シャル達よりも身なりのよい者、無防備な者、見目麗しい者もいる。単なる物取りや女目当ての軽薄な男ならば、まず子連れのシャルには声などかけぬだろう。
 面倒だな、とシャルは思った。
「そこの餓鬼、今、そいつの懐から銀貨を抜いただろ」
 行く手を遮った男が、声高に詰問した。
 えっ? とアヴラルがシャルの腕の中で飛び上がった。
 シャルは脱力した。
 ありえない。
 道端にぽつりと転がる石ころにすら憐憫の情を抱くお子様が、他人の物をどうして盗んだりできるというのか。
 命をかけて断言してもいい。絶対に無理だ、と。
 むしろ本当にアヴラルが盗みを働いたのなら、シャルは逆に、そうか意外に剛胆なところもあるじゃないかと本気で喜ぶだろう。
 このくらい現実にはありえない疑いをかけられている、ということだ。
 耳を貸すのも疲れるほどの嘘臭い因縁をつけられたものだった。
 シャルは不快になった。
「え、そ、そんな……僕、そんなこと……っ」
 アヴラルが泣き出しそうな顔でシャルを見上げ、必死に首を振った。
 狼狽えてどうする。というより、馬鹿の言葉を真に受けてどうする。
「違……、僕、本当に……!」
「お黙り」
「う」
 シャルは冷たい声で、アヴラルの言葉を一蹴した。
「餓鬼に金を盗らせるとは、いい度胸だ」
 シャルの前に立ちはだかる男が腕を組み、唇を歪めてそう吐き捨てた。己の力を誇示するためなのか、鞘のない大剣を背負っている。どこにでもこういった暗愚で野蛮な者が棲息しているものだな、とシャルは目の前の男を内心で遠慮なくこき下ろした。
「おい、どういうことだ」
 アヴラルとぶつかった男がわざとらしく声を張り上げて、大仰に顔を歪め、詰め寄ってきた。
「あんた、懐を確かめてみな」
「――本当だ、金がねえ」
 打ち合わせでもしていたかのように、男達がシャルとアヴラルへ視線を向けた。
「言いがかりはやめて欲しい」
 ついシャルは、斬り捨てるような口調で答えてしまった。
「何だと!?」
 被害者面を装った男が、眉を吊り上げた。
「とぼけるなよ、餓鬼にすらせたんだろ」
 大剣を背負った男が卑しく笑った。どうでもいいが、こちらも馬面で醜男だ。しかも手の甲にまで縮れた体毛がびっしりと生えている。ああ嫌だ、とシャルはうんざりした。アヴラルのような美麗なお子様を身近に置いているせいか、どうも最近の自分は審美眼が以前より磨かれてしまったらしい。
「嘘じゃねえ。俺は見たんだ。その餓鬼が懐に手を入れた瞬間を。嘘だと思うなら、その餓鬼の懐を確かめてみな」
 ――そういうことか。
 シャルは角張った顔の男を睨んだ。
 この男達はあらかじめ口裏を合わせていたのだ。四角顔の男が、ぶつかると同時に素早く自分の路銀をアヴラルの懐へ差し込む。その直後、行く手を阻んだ馬面の男が目撃者を装って騒ぎ立てる。
 ――なぜそんな真似を?
 シャルが考え込んだ時、慌てて自分の懐を探っていたアヴラルが驚愕の悲鳴を上げた。汚い小袋がアヴラルの懐に入っていたらしい。
「……!……っ!?」
 アヴラルは混乱と恐怖で声が出せないらしく、真っ青な顔をして自分の懐から出てきた小袋を凝視していた。男達にはめられたのだとは思いもしないようで、愕然としている。
 さあて、誰が仕掛けた罠か。
 シャルは内心で冷笑しつつ、硬直するアヴラルの手から薄汚れた小袋を奪い取り、無言で男の方へ放った。
 いつの間にかシャル達の周囲には空間が出来ており、何事かと足を止める者も出始めている。
「そら見ろ! やはりその餓鬼が盗ったんじゃねえか!」
 馬面の男がこちらに指を向け、大声で勝ち誇ったように宣言した。
 蒼白になっているアヴラルが絶望的な瞳でシャルを見上げる。お前が盗んだのではないことくらい承知しているというのに、何だその顔は。
「お前ら、金を返したからって見逃したりしねえぞ。こっちへ来るんだ」
 馬面の男が勢い込んで言い、シャルへと腕を伸ばした。
 シャルはさっと手を上げ、据わった目で男を見つめた。
「――それで、私達をどこへ連行するのだろう? 通行所の兵士の所か?」
 思い切り侮蔑した口調になってしまうのは仕方がないだろう。
 見え見えで、腹を立てる気にもなれない。
 通行所で兵士にあれだけじろじろと不躾に品定めされたのだ。どうせあの男が、ひ弱そうな女子供を罠にかけて売り飛ばそうといったくだらぬ策略を巡らせ、仲間に連絡でもしたのだろう。
 モルハイは、こういった所だ。
 気を抜けば、自分の身もまた商品として売られる。
 ――だが、目をつける相手が悪いな。
 シャルは薄らと笑った。
 男達はいささか怯んだ表情を浮かべたが、すぐに強気な態度を取り戻した。
「御託はいい、来るんだ」
 人目のある所で騒ぎなど起こしたくはなかったのだが。
 まあいい、とシャルは雑念を振り払ったあと、男達に気づかれぬよう小さく指先を閃かせ、ぴん、と弾いた。殺傷能力があるまでには至らないが風圧だけはある風を生み、男達を転倒させるつもりだった。
 観衆の目には、突然男達がひっくり返ったように見えただろう。
 ――呪術師に喧嘩を売るなど百年早い。
 こう見えてもシャルは狩りの経験を積んだクルトの徒であり、それなりに能力の高い呪術師である。女子供を騙し我欲に走るしか能のない下劣な男にかどわかされるほど脆弱ではなかった。
 驚愕しつつも慌てて立ち上がろうとする男二人をシャルは冷ややかに見下ろしたあと、更に風を作って再度転倒させる。
 ――しばらく地面に寝転がってな。
 混乱の最中にいる男達の身を風縛したあと、シャルは何食わぬ顔でアヴラルを抱き上げ、唖然としている人々の間を素早くすり抜けた。己の身を薄く風で包み、するりと流れるように人々の合間を駆け抜ける。
「シャルっ!?」
 アヴラルが奇声を上げつつ、シャルの首にしがみついた。
「うるさい」
 以前よりも成長したアヴラルの身を担ぐようにして抱え直し、男達の怯えを含んだ怒声が届かぬ所まで一気に突っ切る。
 ――この辺まで離れれば、いいか。
 シャルは市の裏側まで駆け抜けたあと、一つ溜息を落として、アヴラルを地面に降ろした。
 恐慌状態に陥っているらしいアヴラルがよろっと足元をふらつかせたので、咄嗟に腕を伸ばし抱きとめる。
「わ、あぁ、ご、ごめんなさい……! あ、僕、重かった、ですね、あ、わわ」
 アヴラルは頬を紅潮させ、忙しなく瞬きを繰り返しながら、謝罪したり動揺の声を上げた。更には喉を詰まらせ、咳き込み始めた。
 落ち着け、と思わず言いたくなる。
 シャルは呆れつつも乱れたアヴラルの衣を直してやり、口元を覆っていた布を外して呼吸を整えさせたあと、ぴしっと頭を軽くつついた。
「馬鹿。私は風を操る。重さは関係ない」
 というか、なぜ自分もわざわざ説明しているのだろう、と乾いた笑みが漏れる。
 いや、説明しないでいると、一見単純そうなこのお子様はどこまでも果てしなくずぶずぶと落ち込むのだ。シャルには理解できぬ複雑怪奇な思考回路を持っている。
「そ、そうですか、風さんは、凄いですね」
 アヴラルはほわっと微笑を浮かべ、きらきらと尊敬の眼差しで納得していた。
 風に、さん付けしてどうする……とシャルは項垂れた。分からない、子供の考えって。
「行くよ」
 とにかく、アヴラルとの会話は疲れる。シャルはそう結論を下して、さっと身を翻した。アヴラルが慌ててシャルの手にしがみつき、そんな咄嗟の自分の行動に動揺するという何とも奇妙な反応を見せた。
 掴んだ手を放すに放せず、しかしシャルに嫌がられたらどうしよう……という心の声が聞こえる目で怖々と見上げられる。
 構うなと声に出すのも億劫なので、シャルは促すようにアヴラルの手を引き歩き出した。嬉しそうな気配がしずしずと伝わる。
 ――と、アヴラルの非常に奇妙な雰囲気に巻き込まれかけた時。
 視線を感じて、シャルは足を止めた。



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