砂の夜[1]


 離れるのが、怖かった。
 視界からシャルの姿が消えてしまうと、まるでこの世の果てにただ一人、取り残されたかのような強い心細さに襲われて、息が苦しくなってくる。
 怪我はしない、必ず帰ってくる、顔を見せに来てくれるとシャルは約束してくれた。アヴラルが決死の思いで腕を伸ばすと、困惑した表情を浮かべつつもきちんと意を汲んで抱き上げてくれた。優しい腕、優しい人。
 ユージュという名の女性がひどく難儀しているように見えたため、つい助けてあげてほしくなり、深く考えもせずシャルに頼ってしまった。自分は幼くとも一応男で、本来ならばシャルに負担をかけるだけではいけないのに、言葉とは裏腹な柔らかい気配に包まれると無意識に甘えてしまいたくなる。
 あぁシャルに責任ばかりを押し付けている。がさつそうな振る舞いが目立つが、本当はとても繊細で他人の心理に鋭い人だと分かっているので、余程道理に外れた頼みではない限り、強く懇願すれば渋々ながらも受け入れてくれるのだ。そもそも臨時の狩りに参戦するのだって、魔の駆逐が好きなのではなく、今後の旅費を稼ぐためという現実的な事情によるものなのだから、状況的には他人に手を貸している場合ではなかったはずだ。無理だけを重ねて、けれども、自分を殺し、泣き止むまであやしてくれる。そういう人を好きになった自分は今、身体の大きさを超えるほどの不安を抱いている。結構無茶をする人だから、本当に無事に帰ってきてくれるのか、心配でたまらない。
 シャルの身を案じる一方で、見知らぬ人間としばしの間暮らさねばならないといった未知の体験に対する不安もあり、正直、苦痛だった。自分にも人間の血が半分流れているというのに、他者の中に混じるのは怖いと思う。こちらを見る目が、シャルとは違うためだ。シャルは期待をこめた幻想をアヴラルに重ねて判断したりしない。鈍臭いとか呆れたとか、頼りなさを嘆いている目で見られることが殆どだが、それが一番楽だった。ありのままで許されているような気がしたのだ。ところが、他の人達は、何か自分にはよく分からぬ期待を宿してアヴラルを眺める。容姿を賞賛されても、その裏で全く別の何かを求めているのではないかという穿った考えがまず先にきてしまい、ろくに応えられぬ非力な自分を知っているだけに、ひどく恐ろしい気持ちが膨らんでいく。
「ねえ、あなた、アヴラルっていうのね?」
 自分より少し年上に見える奇麗な少女が好奇心を覗かせ、小首を傾げて笑いかけてきた。同年代の少女と会話するのは初めてのことだったため、慌てて頷くのが精一杯で声がぱっと出ない。
「ね、髪、触っていい?」
「え?」
 ちゃんと返答する前に髪を触られて、アヴラルは緊張のあまり凝固した。シャルなどはこちらに許可を取ることなく無造作に触れてくるが、それとはまた違うような気がした。
「凄く奇麗ね。こんな髪、見たことない。絹みたいな手触り。いいなあ」
 うっとりと呟くリタルという名の少女の顔が近くて、急に心臓がおかしくなった。やっぱり他人は苦手だ。
「二階が私の部屋なの。姉さんの寝台、貸してあげる」
 断りもなく手を取られ、あわあわと狼狽える間にリタルが生活しているという部屋へ引っ張られた。
 旅の途中で泊まった宿よりも随分小狭く、侘しい印象を受けたが、それでも帰る場所があるのだという事実に僅かな憧れを抱く。
「こっち。夕食までにはまだ時間があるから、お話ししよう?」
 リタルは二つ並んでいる寝台の片方に軽く腰掛け、隣を叩いて、呆然と立ち尽くしているアヴラルを呼んだ。我に返って、恐る恐るそちらへ近づき、リタルと少し距離を置いた場所に座る。
 リタルの存在を強く意識しつつも、アヴラルは部屋の観察につとめた。表面がはげ落ちている壁にはいくつも小さな取っ手があり、そこに衣服がかけられている。色褪せた棚や、木箱。小型の文机が一つ、窓際に置かれていた。
「アヴラルはどこから来たの?」
 問われて、返答に困った。逃げるようにしてここまで旅を続けたのだ。生まれ落ちた場所の名を容易く他人に告げていいのか、判断できない。
「無口なのね。それとも緊張してる?」
「あの、あまり……人と話したことがなくて」
 おずおずと、つっかえながらようやくそれだけを口にした。
「どうして? あなたのお姉さんが駄目っていうの?」
 間を置かずにぽんぽんと質問され、他者とまともな会話をかわした経験がないアヴラルはひたすら圧倒されてしまう。それに、シャルを自分の姉と言っていいのかも分からない。
「いえ、ええと、駄目じゃない、と思うんですけど、僕が、あまり……」
 自分でも要領の得ない返答だと分かっていたので、尚更焦りが募った。助けを求めたくとも、頼りになるシャルは側にいない。もう会いたくなっている自分がいる。嫌われてもいいから、無理矢理にでもついていけばよかったと心底後悔した。
「ふふっ、アヴラルは恥ずかしがりやさんなんだ」
 からかいの色を含んだ大きな目を細めてリタルが歌うように言い、明るく笑った。途端にこれまで感じたことのない羞恥心が生まれ、いたたまれずに俯いてしまう。身体を巡る血の流れが速くて、のぼせそうになった。
「でもアヴラル、一番奇麗だし、大人しいから、好きよ」
 仰天して、リタルの顔をまじまじと見つめてしまった。
 人に好意をもらったのは初めてで、急激に思考が絡まり、息がとまりそうになった。さわさわと肌の表面全てが波立ち、胸の鼓動も激しくなって、目眩を引き起こす。
 分からない。シャルの不在に、こういう大きな変化は、怖い。
 何もできぬ脆弱な自分を、好きになってくれる人など、本当にいるのだろうか。
「ねえ、アヴラルはあたしのこと、好き?」
 身を寄せられて、本当に卒倒しそうになった。初めて近くで見た少女は朗らかで甘い声音を持ち、どこかくらりとするような匂いを漂わせている。儚げで細く柔らかい身体の線を見るのはとても後ろめたく感じたが、きらきらと輝く目に意識を奪われそうになる。
「近所の子、皆意地悪だし、うるさいし。大人は嫌な目で見るし。でもアヴラルはすごく育ちがよさそう」
 あぁそういう理由で好きと言われたのかと、大きく安堵した。しかし、別段、自分は育ちがよくないと思う。いや、育ちも何もずっと旅を続けていたので、その辺はどう判断していいか迷うのだ。
 ただ、この質素な部屋の様子を見て、もしかするとシャルは今まで上等な部類の宿を選んでいてくれたのではないかと気づく。贅沢とまではいかないが、造りがしっかりとしていて、比較的安全な宿が多かったように思う。
 だとすると自分は育ちがいいということになるのだろうか、とアヴラルは煩悶の中に落ちていった。
「あのお姉さんに、とても可愛がられているわよね」
「あ、はい」
 それには素直に頷いた。事実かどうかが問題ではなく、そうであったらいいという願望が行動に出たのだ。
「でもあたし、アヴラルのお姉さん、ちょっと怖いなあ。何かぶっきらぼうで」
「優しいです、とても。少し乱暴に見えるけれど、でも、とても優しい」
「なんだぁ、お姉さんが一番好きなの?」
 心の核を真正面から貫かれた気がして、アヴラルは弁明できずに赤面した。身体中の熱が全部顔に集まってしまったかのようだ。
 好きだと切に思う。これ以上はない。
「あたしもね、姉さんが好き」
 リタルの言葉を聞いて、アヴラルは嬉しくなった。ユージュはとてもリタルを可愛がっているように見えたので、お互いに想い合っていると分かり気持ちが柔らかくほどけていく。共通点を見出せたことで、リタルに対する警戒心も薄れた。
「でもね、同じくらい嫌いなの」
 いきなり突き落とされた気分になって、アヴラルはうっと息を詰めた。好きで、嫌い? 分からない。一つの心の中では両立せぬ感情のように思えるが、一体どういう意味なのだろう。
「あたしのために色々と苦労しているの、知っているわ。それで……それで、あんな嫌なこととかも、しているんだって分かるけれど。でもあたしを言い訳にしないでほしいの。だって、あたしのために、ってそこに全部の責任を置かれたら、もう何も言えなくなるでしょう?」
 ごめんなさい、話の内容がよく理解できないです、とアヴラルは胸中で深く詫びた。あんな嫌なこと、というのがまず分からない。ユージュは、リタルを養うために、意に反する嫌な仕事もあえて引き受けているということだろうか。
「アヴラルのお姉さんも、そうなの?」
「ええ…っと、何が、でしょう」
「だから、男の人とか、呼んだり」
「男の人ですか?」
 何を示唆しているのか理解できず、動揺しつつ問い返すと、リタルは僅かに頬を赤くした後、呆れた表情を浮かべた。
「アヴラルって、子供!」
 厳しく言われ、機嫌を損ねてしまったのかと項垂れたくなった。
「やだぁ、怒ったわけじゃないの。いいわ、あたしの方が年上みたいだし、色々と教えてあげるね」
 確かにリタルは物知りな気がしたので、アヴラルはこくりと大人しく頷いた。
 リタルは嬉しそうな笑顔を見せた。
 
 
 慣れてみると、リタルと会話をするのはとても新鮮で、面白かった。
 自分が知らない知識をたくさん持っていて、それを時に勿体ぶり、時に優しく教えてくれる。もし姉という存在が自分にいたら、こういう感じなのだろうかとふとくすぐったい気持ちを抱いた。
 とにかくリタルは陽気で、めまぐるしく動き、豊かに感情を表す。静けさを好むシャルとは正反対で、同じ女性であっても人によってはこれほど差があるのかと驚くことがしばしばあった。
 リタルの積極的なところや物怖じせず言いたいことをきちんと伝えられる聡明さは、自分に自信を抱けぬアヴラルにとってはひどく羨ましいものとして映った。意地悪な近所の子供達、という存在にも遭遇したが、なぜか彼らは遠巻きにこちらを眺めるのみで近づいては来なかった。どこか誇らしげな顔をしたリタルが「皆、アヴラルが奇麗だから怖じ気ついているのよ」と言ったが、自分はそれほど恐ろしく見えるのかと少し悲しくなった。
 数日の間は、何もかもが目新しかったし、同居人の女性もリタルも楽しい話し相手だったので退屈はしなかったが、次第に心の穴が大きくなっていくのを感じた。
 シャルはどうしているだろうかと、文机を前にして椅子に座り、ぼんやりと夜空に浮かぶ月を見上げることが多くなった。
 顔を見せにきてくれると約束したのに、まだ一度も果たされていなくて、もしかしてこのまま置き去りにされるのではないかと血の気が引く。凄く、凄く会いたい。怪我をしていないだろうか。いつも危険に晒されているのだろうかと、泣きたい気持ちが膨らみ、目の前が霞んでいく。
 褒めてくれなくてもいいし、好きといってくれなくてもいい。いや、好かれたいとは思うが、側にいてくれるだけでもうかまわない。澄んだ風の気配、何より凛とした紫色の目を近くで見たいと苦しいほどに願う。
 リタルはことあるごとにアヴラルの容姿を賞賛するけれど、シャルがまとう静寂の方が、もっと奇麗で神聖だ。
 さらさらとした髪が好き。艶めいた薄い唇に表情が浮かぶのが嬉しい。寝起きの時にゆっくりと瞬くその仕草に鼓動がはねる。背を伸ばして毅然と風を受ける姿が凛々しい。硬質な眼差しはいつだって、偽りがない。
 乱暴だが決して痛くはない手つきで抱き上げ、困った目を向けてくる。こんなに複雑で奇麗な人はいない。
 会いたい。本当に会いたい。
 もう楽しい時間も目新しい世界もいらないし、誰一人いなくなってもかまわないのだ。シャルが振り向いてくれたら、それで満たされる。
「アヴラル?」
 一階の居間に当たる場所で内職をしていたらしいリタルがいつの間にか部屋の入り口に立っていて、不思議そうにこちらを見ていた。アヴラルは慌てて椅子から降り、微笑を作った。
「湯浴み、どうぞってコロノさんが」
 コロノとは、同居人の女性の名だった。湯浴みと聞いて、僅かにアヴラルは顔を曇らせた。コロノはおおらかでいい人だ。しかし、この湯浴み時は苦手だという思いが真っ先に浮かび、躊躇いが生じる。
 そもそも湯浴みは普通、滅多にできるものではない。砂漠の町では当然水はとても貴重で、公衆浴場の施設はあるものの、大抵は裕福な商人や小金を持つ旅人たちが利用する。場所は分からぬものの、モルハイの近くには小さなオアシスがあるらしく、そこから水をひいていると聞いた。だが、町の中を通る小水路は、この区域まで届いていないのだ。ゆえに、まずは飲み水を確保するのが先決となる。
 なのになぜ、これほど頻繁に身体を洗わせてくれるのか。
「ほらほら、早く」
 リタルに急かされて、内心重い感情を持て余しながら、湯浴みの用意がされている仕切り場へ向かう。
「あの……」
 大きな盥に湯をはった仕切り場にはやはりコロノがいて、逃げ出したくなる気持ちを抑え切れなくなった。
 断りたいと思う。
「あら、早く脱ぎなさいね」
 アヴラルは閉口した。一人で湯浴みはできると言っても、コロノはきかないのだ。これが単純にアヴラルの鈍さや迂闊さを心配して側についてくれているというのならば、年齢が離れていることもあるし、多少の気恥ずかしさを抱くだけですんだかもしれないが、何かがずれていると思わざるをえない暗い部分がほの見える。それは恐らく、コロノの眼差しにある。まるで全身を検分されているような――もっと厳しくいえば、貪欲なまでに身体を舐め上げられているかのような、ひどく落ち着かない嫌な感情が芽生えるのだ。時々、コロノは快活な笑みを浮かべながらも、リタルにまでそういった視線を投げかけることがある。大人が嫌いだと零したリタルの心情が、やけに生々しく理解できて、全身が粟立つ。
「ごめんなさい、今日、少し、疲れて、休みたいです」
 執拗に湯浴みを勧められたが、何度か押し問答を繰り返し、必死に切り抜けた。急いで部屋に戻り、固い寝台に横たわって、溜息をつく。大人は恐ろしい。アヴラルもそれを強く理解した。



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